メンタルヘルスに関する話題には、しばしば“受容と共感”という言葉が登場する。例えば「大災害の後の子どもの心のケアには“受容と共感”が大切」といった具合に。実際、精神科での診療面接や、心理療法の場面では、“受容と共感”は重要な技法に違いない。
ただ、“受容と共感”がメンタルヘルスの万能薬のように誤解され、猫も杓子も“受容と共感”になってしまうのは、ちょっとまずいように思える。
“受容と共感”しても良い時、良くない時
そもそも、クライアントの話す内容を、何でもかんでも“受容と共感”して良いものだろうか?
大事故の体験をようやく語ることのできたクライアント・なかなか話せなかった家庭内の葛藤をボソボソ話し始めるクライアント、などに対しては、“受容と共感”はさぞかし重要で、必要なことだろう。では、以下のような場合はどうか。
「私はその時、イライラしてしようがなかった。だからスーパーで万引きして憂さを晴らしたんです」
「イライラして辛かったんですね」と言葉をかけるのは、いいかもしれない。
ここまでは、“受容と共感”もアリだろう。
しかし「万引きしたのも、無理の無いことです」
と相槌を打って良いものだろうか?
もし、そんな事を言ってしまったら、クライアントの万引きという大問題の行動を肯定し、むしろこれからの万引きを正当化し、後押ししてしまうかもしれない。この場合、過剰な“受容と共感”は、刹那的な癒しの代償として、クライアントの問題行動をエスカレートさせてしまう可能性を含んでいる。もし、こんな“受容と共感”を安売りするカウンセラーや精神科医のもとに通い詰めたら、なんでもかんでも“受容と共感”で気持ち良く迎えてくれるかわりに、心が虫歯だらけになってしまいそうだ*1。
現実的には、「イライラして辛かったのは大変だったでしょう。しかし、万引きはいけませんから、他のやり方を身につけないと。」といった具合に、“受容と共感”して良いところと、してはいけないところを分けた対応をしたほうがマシだろう。
尤も、クライアントの生活上・心理上の悩みや問題を解決するための診療面接・心理療法ではなく、クライアントのご機嫌を取るための診療面接・心理療法だというなら、話は違うのかもしれない。そんなご機嫌取りが目的化したシロモノを、診療面接・心理療法と呼んで良いのかは疑問だが。
“受容と共感”しやすい時、しにくい時
そして世の中には共感しやすい話もあれば共感しにくい話題もある。
「二週間ほとんど眠れませんでした」とか「五年間、親の介護ばかりで自分の時間が持てませんでした」などという話には「それはつらかったでしょう」「しんどかったですね」と応じるのは割と容易だろう。これらのような場合、意識しなくても自然に“受容と共感”が起こりやすい。
しかし例えば、「ナンパしてもナンパしても上手くいかなくて鬱っぽい」とか「幾ら待っていても白馬の王子様がやってこない」という話に、誰もが共感できるだろうか?こうした場合、精神科医やカウンセラーごとに、身を乗り出して共感したくなる人もいれば、ちょっと共感しにくい人もあるだろう。もちろん、出来るだけ広範囲の話に“受容と共感”ができるに越したことはないし、レンジを広げるための修練を積むべきだろうとは思うけれど、精神科医やカウンセラーも人の子である以上、得手不得手はかならず発生するし、価値観や人生経験が“受容と共感”の障壁になることは十分にあり得る。
では、本当は“受容も共感”も出来ていない場面で、精神科医やカウンセラーは“受容と共感のフリ”をしたほうが良いのだろうか?
時にはそうかもしれない。
しかし“受容も共感”が、単なる真似事に過ぎなかったと気付いたクライアントは、がっかりしてしまうのではないだろうか(そして大抵のクライアントは、“受容と共感”と“受容と共感のフリ”の区別がつくぐらいには敏感ではないだろうか)。個人的には、“私の人生経験の範囲では、あなたの話がうまく捉えきれていないのではないかと思う”と返答したほうが、まだしも良い場合もある気がする。“受容と共感”とは言うけれど、「受容してます・共感してます」とワンパターンにジェスチャーを返せばそれで良いというものではなく、「受容しようとしてます・共感しようとしてます(が、うまくいってない気がします)」と意志表示したほうがベターなケースもあるように思える。
少なくとも、何も考えずにただ頷いていれば良いというほど“受容も共感”は単純ではあるまい。
“受容と共感”より、錠剤や注射が必要な時
さらに、より重い精神疾患のなかには、“受容と共感”よりも、定期的な服薬や一本の注射が決定的な役割を果たす分野が存在することも忘れてはならない。
幻覚や妄想が最も激しい統合失調症・躁状態の双極性障害・重症のうつ病の治療においては、“受容と共感”よりも薬物療法のほうが決定的な役割を果たすことが多いし、薬物療法抜きでの治療は考えにくい。もちろん“受容と共感”を無視して良いわけではない*2けれども、“受容と共感”より薬物療法が必要不可欠という状態はかなり多い。
ワンパターンな“受容と共感”は要らない
ここまで振り返ると、通り一辺倒な“受容と共感”は必ずしも良い結果をもたらすとは限らないし、“受容と共感”をメンタルヘルスの万能薬のように崇拝するのもいただけない、といわざるを得ない。大事な姿勢には違いないけれど、「メンタルヘルスの分野なら、とにかく“受容と共感”さえやっとけば大丈夫っしょ」みたいな安易な捉え方は、危ないんじゃないかと私は思う。
むしろ、ワンパターンで無思考な“受容と共感”なんて、ロクなものじゃないんじゃないか。
ちょうど、ワンパターンで無思考な“説教”がロクな結果をもたらさないのと同じように。
この“受容と共感”をはじめ、診療面接や心理療法の類においては、ワンパターンで無思考なジェスチャーの繰り返しはたいてい危なっかしいと私は思う。個々のクライアントの特徴・これまでの流れ・その日の状態などを度外視し、疾患ごとにパターン化した応対を繰り返せばそりゃラクかもしれない*3。しかし、同じカテゴリの精神疾患を患っている人でさえ、症状は似ていても背景として抱えている事情は十人十色なのがメンタルヘルスの世界なのだから、クライアントごとの違いに対する意識を欠いたテンプレート的な対応ばかりでは、“受容と共感”の効能など望むべくもない、と思われる。
*1:もちろん、一時的にこのような無茶な“受容と共感”を引き受けなければならないケースは、時としてあり得る。しかしそのような無茶を引き受けた場合の対価が非常に高くつくものであることを、一般的な臨床心理士や精神科医は知悉している、と、思う。
*2:例えば幻覚や妄想のひどい状態のために怖がっている患者さんに、「とても怖い思いをなさったですね。でももう大丈夫です」と声をかけるのと、無言で対応するのでは、後日、思い出した時の印象は違ったものとなるかもしれない。
*3:し、一日に100人近くと面接しなければならない精神科医などには他にやりようがないかもしれない。精神疾患の治療ニーズの急速拡大を考えに入れるなら、このことを頭ごなしに否定すれば良いというほど単純には構えられないものがある。もし、そういった忙しいメンタルクリニックをいきなり全部潰してしまったら、精神医療の需要と供給のバランスは崩壊してしまうだろう。「忙しすぎるメンタルクリニック」の問題解決には相当の手間隙がかかると思われる。