書店やインターネットでは、“気持ちの良い言葉”“癒しの言葉”をつらねた文集のようなものを頻繁に見かける。頻繁に見かけるということは、それなりに需要もあるのだろう。耳に心地よい言葉を聞いて、その瞬間ハッピーな気分を味わいたい人には、ちょうど良いヒーリングアイテムなのかもしれない。
ところで、マトモな意味での心理療法*1は、その手のヒーリング文集とはかなり違っている。心理療法は、“いい言葉”“癒しの言葉”の洪水でハッピーな気分になるためのものではないし、“いわゆる治療効果”も、根本的に違っていると思う。
治療者-患者関係の歴史のなかに「いい言葉」が埋め込まれている
確かに、心理療法の色々な場面で“気持ちの良い言葉”や“癒しの言葉”が出てくることはあるし、それがクライアントにとって忘れがたい言葉として記憶されることも珍しくない。ならば、心理療法のすべてのシーンが砂糖菓子のように心地よいかというと、そんなことはない。やりとりのかなりの部分は、事務的な情報交換や状態確認で占められているし、ときには話題にしたくないような話題を扱わなければなければならないこともある。それどころか、治療者-患者関係のなかで、半ば喧嘩別れになってしまうような日さえあるかもしれない。
では、「話題にしたくないような所を突っつく」心理療法や、「半ば喧嘩別れになってしまうような日さえある」心理療法は、すべてを砂糖で埋め尽くされた心理療法に比べてダメだろうか?無論、クライアントが話題にしたくない話題ばかりだったり、毎回喧嘩していたりするようならダメに違いない。しかし逆に、緊張したエモーションや気分の良くない話題をまったく共有場面しない、そんな砂糖漬けのような心理療法というのも、きわめて不自然である。多くの人が誤解しているかもしれないが、やたらと「気持ちの良い言葉」「癒しの言葉」で埋め尽くされた心理療法・埋め尽くさざるを得ない心理療法は、いつも怒ってばかりの心理療法や、陰気な話ばかりの心理療法と同じぐらい、わけがわからない。そもそも、嫌な話題をディスカッションできない心理療法や、ちょっとぐらいの喧嘩で後日に会えないような治療者-患者関係に、一体どのような値打ちがあるだろうか?
むしろ「気持ちの良い話の日もあれば、お互いにしんどい話の日もある、それでも互いの関係が途切れることなく続いていく」なかで、クライアントの無意識のクセや、認知上の落とし穴について理解や対処を深めていくのが、うまくいっている心理療法ではないか:そんな風に私は考える。
だから心理療法は、治療者-患者関係の歴史のなかに様々な言葉が含まれているのが自然で、“気持ちの良い言葉”や“癒しの言葉”はその一部分として埋もれているに過ぎない。けれども――いやだからこそ――ひとつひとつの言葉は、それぞれの治療関係の文脈のなかだけの、特別な意味を帯びることになる。リラックスできる言葉が最高のこともあれば、緊張を孕んだやりとりこそが後になって重要だった事に気付くこともあるだろう。しかしいずれの場合も、文脈の外に置いてしまえば固有の意味を失ってしまう。
心理療法のなかの“気持ちの良い言葉”は、例えるなら、織物や編み物のなかの模様の一部のようなもので、その断片のみを切り取ってみても値打ちはわからないのだろう。
対照的に、冒頭で触れた“気持ちの良い言葉”“癒しの言葉”をダイジェスト的に集めた文集の類は、いわばモザイクやコラージュのようなものだ。どれほどの美辞麗句をかき集めようとも、それらの言葉はクライアント一人一人が積み重ねた体験・文脈を欠いている。心理療法と同じような効果は期待するべくもない。
“織物”が織れない人にとっての心理療法
ところが、こうした“織物”的な心理療法を継続すること自体が困難な人達をしばしば見かける。“気持ちの良い言葉”“癒しの言葉”だけを心理療法に期待している人達や、心理療法の場面にネガティブな感情が含まれることを許せないような人達などは、その最たるものだろう。
人間同士のやりとりである以上、雨の日もあれば雪の日もあるのは当然のこと。まして、クライアントの無意識のクセや苦手意識を取り扱う傾向が強い心理療法ほど、それらは避けて通れないプロセスの筈である。しかし、それに耐えきれない人の場合、治療者-患者関係は簡単に途絶えてしまう。そして終わることのないドクターショッピングに陥ってしまいがちだ。
しかし、ドクターショッピングを続けてしまいがちな人達に心理療法的の余地が無いかというと、そうでもない。
こうした人達の場合、治療者-患者関係が続くということ自体が滅多にあり得ない、驚くべきことなわけで、治療者-患者関係が続いていくこと自体に、意味がある。心理療法が長く続かない人達は、えてして人間関係自体も長続きしない。そんな、一回きりのネガティブな感情・ちょっとした失望で人間関係が断絶してしまうような人が、もし心理療法のなかで起こったネガティブな感情やちょっとした失望をどうにか凌いで、治療者-患者関係が持続するとしたら……これ自体が、クライアントに新しい何かを提供していることにならないだろうか。他人に対して*2高い理想を求め、いつも失望しては人間関係を潰してしまうようなクライアントに、いつもとは異なったパターンを体験してもらえたら、それは有意味なことだと思う。
勿論これは簡単なことではなく、「運や相性が味方しなければ、なかなか上手くいかない」だろう。しかし、もしドクターショッピングが続いていた人が、今までになく長期間にわたって精神科医や臨床心理士と治療関係が続くようなら――特に、揉めたり緊張したりする場面があっても、どうにか続いているとしたら――なかなか意味深い治療関係である可能性が高い。むやみにドクターショッピングせず、大切にしてみる価値があるかもしれない。
“織物”が織れるのは診察室の中だけじゃない
なお、この話は、心理療法に限った話ではない。
人間関係全般が“織物”とみなすにふさわしく、一期一会ではない人間関係のなかには、多かれ少なかれ固有の歴史・文脈が存在している。そしてひとつひとつの言葉はその歴史・文脈のなかでこそ固有の意味を帯びる。そのような歴史・文脈を紡げる人/紡げない人では、人間関係のニュアンスは全く異なるだろう。
一度の失望や緊張で人間関係がすぐ途切れてしまうような人が、いつになく長続きする人間関係を維持できている場合、前述の心理療法と同じく、それは特別な関係だと言えそうだ。人間関係という名の“織物”をなかなか織れない人が、“織物”を曲がりなりにも織れている、という事なんだから。たとえ蚕の糸のように細い関係であっても、それを編んでいくこと・繋げていくことには意味があると思うし、将来の人間関係にも影響を与えるだろうとも思う。普段、人間関係がブツ切れになりやすい人こそ、長続きしている人間関係を大切にする価値がある*3。