シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

5/24北極ネトラジの要約

 
 
 
 以下に、先日5/24の北極ネトラジ04:[エヴァンゲリオンを通して視る、オタクと萌えとコミュニケーション] のおしらせ - シロクマの屑籠で放送した内容の大筋と、質疑応答の要約を用意しました。放送を振り返りたい方は、以下をご覧ください。
 
 
 
 
 
 



 
 【前半】EOEを退けたオタク達が至ったメディアの地平----補完無きセカイに適応するための処世術
 

  • 個人的には、1995〜97年エヴァで庵野監督送ったメッセージは、「痛みや齟齬を含んだ他者と向き合え」だったと思う。シンジがアスカと共に共に地上に再び降り立ったというのは、主人公に、痛みを伴った他者と生きる道を選ばせた、ということ。シンジは自己否定されるぐらいなら、首を絞めてコミュニケーションを回避するぐらいチキン。再生したアスカもアスカで、再生するや「気持ち悪い」。彼らの態度はかなりひどいものだが、他者の色々な側面を今までずっと否定したり回避したりしてごまかしてきた人達が、初めて他者の多様な側面に向き合おうと思った時には、わき起こってもおかしくない態度だとは思う。

 

  • じゃあ、エヴァにフィーバーしていた人が 、庵野監督のメッセージを受けて「他者に接近しよう」「シンジやアスカの、でこぼこした姿を凝視しよう」とか思ったか?→正反対。オタク達は、シンジやアスカ等のキャラクターから、自分にとって都合の良い属性や記号を切り取って、それを駆使して同人誌や二次創作作品を生産する、あるいは脳内補完する、という道を選んだ。EOEに出てくる人物の凸凹をそっくり模写したものを引き受けるんじゃなく、キャラクター達の記号と属性が消費された*1。本編EOEの、顔を歪めたアスカや無様なシンジの面倒臭さやグロテスクさを適度に脱臭した、そういったキャラクター・二次創作・グッズがはびこることになった。

 

  • そして2008年。ハルヒ、らき☆すた、シャナ、月姫、どこに他者は存在する?キャラクターはどんどん属性化していって、凸凹や剰余は脱臭された。例えば最近のツンデレときたら、実に萌えるに都合よい。見事に記号化していて、仮に凸凹や剰余があるとしても、削り取りやすい形式に加工されていたり、むしろ想像力や願望のフックになるようなガジェットばかりがゴテゴテと張り付いていたりする。ハルヒをみるにしても、勿論そこには物語が存在しているし、キャラクターを介して作者さんの意図が見え隠れしてはいるが、その気になれば、そんなもの全部無視してキャラクターだけ都合よく消費できる(例:ニコニコの二次創作flash作品や、路上ハルヒダンス)。

 

  • このようなキャラクター消費の現状をみる限り、オタクは他者に接近するというより、自分にとって便利な属性を揃えたキャラクターを消費することを選んだ、と言えると思う。エヴァンゲリオン以降、アニメコンテンツやゲームコンテンツにおいて主として求められているのは、精緻に描かれた、生々しい、グロテスクさや恐ろしさを含んだ他者ではない。そういう意味では、1997年のあの時の庵野監督のメッセージとは正反対の方向にオタク達は流れたと言える。

 

  • いや、オタク達、という限定はもはや不要か。携帯小説とかも、高度に記号化したメディアだと僕は思う。庵野監督のメッセージと正反対の、他者の凹凸からの逃走と、キャラクターの消費という現象は、いわゆる旧来からオタク文化圏として認知されてきた空間だけで起こっている問題ではない。そういう意味では、庵野監督の問いかけから逃走したのはオタクだけではなく、日本の皆さん全体が逃走している、と表現するのがおそらく正しい。

 

  • 個人的には、他者の凹凸への接近は必要だと思っているし、配偶関係や子育てでは無視出来ない所だとは思う。しかし、家庭や結婚を度外視して、都市空間で暮らす場合にはどうか?かつて僕は、「キャラ萌え」ってのはただの現実逃避だと思っていた頃はあったし、実際、他者との接触という点からみれば、ちっとも接触していないわけだけど、じゃあ、他者との接触って、どこまで必要なのか?どこまで可能なのか?例えば都内のオタクがネットとオタク仲間とコミケの内側で話題を共有している限り、「他者との遭遇」「他者の凸凹」への気づきはどこまで求められるのか。コンビニ店員とのやりとりや、職場の文脈の内側だけの人間関係とかで、そういう気づきが必要なのか。しかも、そういう接近は精神力を消耗する営為なので、むしろ、わざわざ他者性に触れる行為をカットしたほうが便利な場合さえ、あるのではないか?

 
 

  • 念のため言っておくが、「現実に男女交際しているなら他者性に接触しているんじゃないか」というと、そうは問屋が卸さない。男女交際自体があっても、男が女に自分の理想をみて、女が男に自分の願望を投げかけて、幻滅するまでオーガズム、という男女関係は昨今少なくない。彼氏と彼女、という関係すら、お互いの凸凹や摩擦を含もうというより、遠ざけ、視て視ぬふりをして、視たいものだけをみるのが、今日日の男女や親子、というものなのではないか。他者と何らかの橋渡しを持っているとか、趣味仲間がいるからと言って、他者の他者たる凹凸に触れているという証拠にはならない。他人だって、「キャラクターの如く」消費するようなコミュニケーションも、しばしば起こっている。

 

  • 都市空間の生活者が、(萌えや冬ソナや携帯小説のような)コンテンツ消費に終始し、対人関係のなかでさえ、どこまでも他者に接近するということなしで過ごしているというのは、それ自体はある程度適応的なのではないか(長期的には、不明だが)。そして、他者の凹凸に接触することを迂回しているのはオタクだけではなく、しかも都市空間で出会う個々人の他者の凹凸をいちいち気にしていたら、神経が参ってしまうんじゃないか。ただ、それが適応的な意義を持つとしても、エヴァの登場人物が示しているように、その処世術には固有の飢えや苦しみがあるだろう。

 
 

前半質疑応答

 
 ・日本人全体が価値観の違う相手にアプローチしていないというのは同意する。俗流若者論と団塊批判とか、エロゲー規制法案とそれに対する炎上など。
 →私もそう思います。自分には理解できない相手・自分が接近したくない相手には、自分の願望と想像力の及ぶ形で相手を決めつけ、消費する、というスタンスが交叉する状況が、日本のあちこちでみられるようになっていると思います。
 
 ・他者と出会おうと自分を省みたり色々するよりも、理屈や思想で武装して批判を受けないようにして身内と同族のセカイに籠もる。いわゆるヤンキーやゾッキーと同じところに行き着いたような。
 →オタク達が行き着いた地平は、基本的にはヤンキーなどとさして変わらないと思います。腕力や恐喝に関連した手段はオタク達は少ないかもしれませんが、それは無いからやっていないだけなのかもしれません。いずれにせよ、他者を顧みることなく内側に籠もるという構図は全く変わりません。
 
 ・「他者と真摯に向き合え」というのはオタク論壇のアングルでは?そんなことしている人なんていないですよ今日日。
 →ですから、そんなことしていないのはオタクだけじゃないでしょう。オタクもヤンキーもディズニーファンも皆同じく、他者への接近を放擲して、もっと気持ちよいことに耽っているんじゃないでしょうか。もう、こういった問題をオタク固有の問題として取り扱うのは、不十分な態度だと思います。
 
 
 
 



 
 【後半】碇シンジ、惣流アスカが必要としていたのは何だったのか?----EOEを突きつけられたオタク達とも共通する「補完されるべき何か」
 
 
 

  • 碇シンジと惣流アスカは、表向き正反対の処世術のようにみえて、実は非常によく似たパーソナリティを持っている。他者の他者たる凸凹に接触することよりも、そうしないで済ませる形式をとっているという点で、両者はよく似ている。そして二人の姿は、オタク達の似姿でもある。

 

  • シンジ型は、他者に下手に深くコミットすることで、自分の期待や願望が裏切られて自分の心が痛むのを極力回避する。シンジは本当はコミュニケーションや承認を欲しがっているが、裏切られて自分の心が痛むぐらいなら諦めるし、いざ期待しちゃって約束を裏切られたと感じると、逆上したり烈しく傷ついたりする局面を恐れもするし、遭遇してしまった時は我を忘れて行動する。。自分の理想や期待にそぐわない他人の行動や凹凸に、シンジタイプは実は我慢がきかないし、そういう場面では深く傷つくか裏切られたと感じるか、今度こそ他人に深くコミットしないでおこう、と思う。

 

  • アスカ型は逆に、他者に必ず褒められる凄い自分を創りあげ、それに乗らない人間はアホだとこき下ろすことによって、自分の願望や承認欲求にそぐわない相手を心象風景から排除する。上手くいっている時のアスカの心象風景には、自分を評価し褒めてくれる人と、自分の価値に気づかないバカの両極端しか存在しない。私を評価してくれる相手にあらずんば、バカで愚かな奴、という心象風景を構成出来ている限り、アスカはシンジよりも様々な機会を掴みつつも、他者の凸凹で自分がひっかき傷を負うことを迂回することが出来る。尤も、そんな無茶を通すには常に能力的担保を求められるので、アスカ型は過剰適応しまくってパンクしやすい。

 

  • ではこの処世術で万事上手くいっているかというと、シンジとアスカをみての通り、満足にはほど遠い所で飢えまくっている。シンジは誰かに期待しちゃってそれが裏切られたと感じれば苦しくなるし、アスカも、自分より優れた成績に出会うたびに、自分を褒めてもらえなくなるたびに、怒ったり苛立ったりしていた。しかも、シンジの真似をすれば他人と接触して色々な機会を持つ可能性がかなり低くなるし、アスカのまねをすれば、恒常的に褒めてもらう為に死ぬほどの努力や才能を要求される。オタクはどちらかといえばシンジタイプが多いようで、実際は、シンジとアスカのスイッチングタイプが多い。非モテ・非コミュも、純粋シンジタイプというよりは、微かに残った自分の得意分野なんかでは、案外アスカ化するし、その分野を守るために死にものぐるいになることもある。どうあれ、シンジ型でもアスカ型でも、制限やリスクなりはそれなりに含んでいるし、飢えはあんまりなくならなそう。エヴァに出てきた大人達も、シンジやアスカに似たり寄ったりだったとも思う。

 

  • じゃあ、彼らを満たすにはどうすればいいのか→その場限りなら、承認欲求や所属欲求をくれてやれば、微笑ませるか、ツンデレさせるのは可能だと思う。でもそれだけじゃ駄目。例えば非コミュbloggerが、はてなブックマークを一、二回かき集めても空洞は埋まらない。blogを承認の場にしている人ならご存じだろうけど、海水を飲むようにもっと飢え渇くことはあっても、絶対にそれだけでは満たされない。絶えずゴクゴクと承認を吸い集めなければアウト。

 

  • 「恋愛、セックスはどうか」→けれど、前半でも言ったような、お互いに風船みたいに膨らんだ理想を投げ掛け合う男女交際じゃ、多分アウト。じきに幻滅して「裏切ったな!」と思うのが関の山。勿論他者としての凸凹には遭遇しないまま。こんなの、「萌え」とさほど変わらない構造だと思うし、仮に無能なオタクの王様がいたとして、ハーレムを持ったとしても、幾ら美女を食いまくっても、彼はどこか空虚なんじゃないだろうか。

 

  • どうすればいいんだよ!→単に褒めて貰っても駄目だし、一時的に自分のblogがアクセス爆発したぐらいでは×。恋愛やセックスや「萌え」に逃亡するのも多分駄目。なかなか難しいところだけれど、今、考えているhow toの望ましい条件を幾つか。以下の全部が必要かどうかは不明だし、全部があっても駄目な可能性も、ある。
    • 1.継続的に、お互いをある程度までは認めあえる関係。しかも理想を強く追求してしまわずに済む関係。シンジは鈴原トウジや相田ケンスケと、アスカは洞木ヒカリと仲良くしていればokのように思える。エヴァは、それらの継続的な同性との友人関係の種を中盤以降ぶちこわしたという意味でも、むごかったと思う。
    • 2.その関係は、完全にとは言わないにしても、お互いの色々な面がみえてくるような関係が望ましいと思われる。例えば、性的関係だけで繋がっている男女関係とか、アニメの話しかしない人間関係、特定の契約関係だけで繋がったでは、その場の満足や承認気分は得られても、飢えるのも早そう。逆に、色々な面での不満足や衝突や喧嘩を含みつつも、お互いに「あいつには一目置いている」という関係が構築されていくほうが、ずっしり残りやすく飢えにくいんじゃないか。ただ、それは言うほど簡単なものではないし、例えば特定のコンテンツについてのスレッドやオフ会を橋頭堡にすぐに得られる関係でもないように思える。この点でも、男女関係よりも、同性の友人関係などのほうが有利のように思える。
    • 3.ある程度まで不安定でない生活環境。被保護者の場合は保護義務者がやたらと搾取したり予測不能な不安を与えたりしない環境。例えば非モテ・非コミュの話を聞いていると、これが小さい頃にこれが達成できていない場合や、現在さえ達成出来ていない場合が、しばしばあるようだ。
    • 4.自分が食えるだけの、何らかの、経済的バックボーンの維持能力。またはその将来の可能性。これ無しでも他の条件が十分なら何とかなるかもしれないが、無いよりはあったほうが良さそうではある。

 

  • 正味のところ、やたらと理想の投げ掛け合いになりがちな男女交際より、地に足のついた同性同士の友人関係のほうが余程スタート地点としては穏当のような気がする。エリクソンの発達段階の話に相通じる部分のある話だけど、同性の友人関係を通してある程度の凸凹を許容出来るようになった後の男女交際のほうが、危なっかしくないのではないか、とも思う。友人関係も、単なるコンテンツ繋がり、というレベルから、少しづつ踏み出せるような繰り返し性なりがあったほうが良いのではない、とも思う。この点では、ネット由来のオフ会繋がりも、長期的な繰り返しを醸成出来るなら、良い効果が期待できるかもしれない。繰り返しと継続性のある、コンテンツ繋がりとは限らない付き合いが続けられ、時には違和感を表明しあいながらも、緩やかな交流が続けられる限りでは、という話になる。
    • ただ、こういう話をするからには、「オフ会のコミュニケーション不平等問題」や「交流が続けられない水準の人達はどうなるんだ」と問う人がいるだろう。正味、そういう人はどうすれば良いのかまだ分からない。

 
 

後半質疑応答

 
 ・当時のエヴァ二次創作作品の、シンジ×アスカ物のなかには、お互いの凹凸は凹凸として認めた上で、アスカの雄型とシンジの雌型を結構うまいこと組み合わせようと、けっこうみなさんがんばっていたようにも思えますが如何。
 →当時の作品群を回想すると、ただ理想の投げ掛け合いでは駄目だということに自覚的だった二次創作者が沢山いたと思います。巧拙こそ様々にせよ、理想を投げ合って幻滅する男女関係という罠に落ちないように最善を尽くす人達が沢山いて、そのなかでシンジとアスカというカップリング(または他のカップリング)があったと思います。ちなみに、現実の非モテ非コミュな人でこれをやるなら、同性経由異性行き、が一番地に足がついているような気がします。まずは同性の仲間との付き合いを経由して、そのうえで異性との遭遇があるというほうが、危なくないような気がします。
 
 
 



 
 ちょっと長めですが、こういった話をしていたと記憶しています。第五回放送は6月下旬〜7月上旬ごろを計画しています。ここまで、割とガチな一人話ばかりだったので、次回あたりは趣向を変えてみる、かも、しれません。ご静聴ありがとうございました。
 

*1:商売屋さんもそれに乗った