シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

“空気”に依存してませんか?

 
 
 あなたは“空気”に依存してませんか?
 
 もちろんここで言う“空気”は、「空気読め」「KY」などと言われる、アレである。複数の人間が集まった時に自然と作り出され、あたかも場にいる人達の総意のように振る舞い、逆らうことに一定の抵抗感を覚えるような、あの雰囲気のことだ。
 
 
 
 「逆らい難い空気だった。」
 「空気がそうだったんだから、従うしかなかった。」
 
 自分にとって望ましくない選択を不承不承選ぶ時や、何かを我慢せざるを得ない時には、あなたは「空気」を悪し様に呪う。自分は悪くないが空気を読むしかなかった、と。しかし、誰かに望ましくない選択を押し付けるときや、何かを禁止する時には、こうも思うのだ。
 
 「お前、空気読めよ。」
 「あいつ、空気読めないやつだな。」
 
 しかし、空気を呪う場合であれ、空気を押し付けるのであれ、空気ってのは便利だ。何でもかんでも空気のせいに出来るからだ。悪いのは常に空気で、責任があるのも常に空気で、失敗するのも常に空気だ。俺もお前も悪くなくて、空気がそうだから仕方なかったのだ。何かの決定や強制を空気の仕業にする瞬間、あなたは自分の主体性も責任も意志も放擲することが出来る。少なくとも気分としてはそれらを忘れることが出来る。
 
 自己主張のリスク・責任・しがらみを負いたくはないけれども何かを強制したい時にも、空気は有効だ。「俺の意志に従え」ではなく「空気に従え」と主張する人は、自分の発言に責任もリスクも負わぬままに相手に強制力を被せることが出来るし、空気を過剰に読む人の多い空間では、じじつ有効な強制手段となり得る。
 
 逆に、自分が嫌な決定を選ばざるを得なかった時の方便として空気を用いる人もいる。嫌なことを提案されてNOと言いきれなかった時も、「空気」のせいにすれば、自分自身の主体性を問う必要もなくなるし、何かトラブった後で「嫌とは言えない空気だったから仕方なくやった」と駄々をこねることもできる。面と向かってNOと断れないけれども、後々に責任転嫁はしておきたい人にとって、「空気に従わざるを得なかった」というのはなかなか便利な言い回しと言える。
 
 

空気依存の人達と主体性

 
 総じて、こういった「空気」という単語を発する瞬間、その人は、自分自身が発言の主体性を担うことや責任を負うことを回避していることが多い。主体性や責任を放擲しつつも他者への影響だけを与えたい時や、自分自身の主体性を問われる状況を誰か*1の主体性の問題に置き換えたい時に、私達は「空気」にご登場いただくことになる。そして、無責任で誰が主体者なのかをボカした「空気読め」「空気を読んだ」という言葉を発するのだ。何事も「空気」のせいということなら、それがどのような結末を迎えるのであれ、自分自身の主体性や責任、さらには罪悪感といったものを省みなくても済むようになる。「空気」のなかでだけ生きていくなら、主体性も責任も「空気」におまかせだ。
 
 このように、主体性や責任に慣れていない人や、背負い込むことに恐さを感じる人には、「空気」というのは随分と便利なシステムだし、私のみる限り、この「空気」に依存する形で主体的決定や責任の所在を回避している人は少なくないように思える。勿論、日本人では殆ど逆らうことが困難な濃厚な「空気」というものもあるかもしれない。なので、「空気」をまるきり無視して自分一人だけで意志決定するというのは難しい部分もあるが、何もかも「空気」任せでは色々と困ることもあるだろう。例えば「空気」という独裁者に総てを委ねる人は、「空気」という独裁者のスケープゴートに選ばれた時、どうするのだろうか。「俺は悪くない。けど空気が悪い」と自分に言い聞かせ、罪の意識を全面転嫁したまま生贄として散っていけるのが、ささやかな慰めぐらいにはなるかもしれないが。
  
 「空気」を読むことは時に必要で、それはそれで有用なコミュニケーションの技法だとは思うが、「空気」に依存しすぎの人や「空気」に全部おまかせにしている人は、ある日「空気」に生贄になれといわれたら、唯々諾々と生贄になるというのだろうか。そうかもしれない。しかし現代はそういう時代でもないし、そういう「空気の奴隷」が求められている時代でもないと思う。にも関わらず、ネット空間でもリアル空間でも「空気読めよ」という言葉はあいも変わらず飛び交っている。そして若い世代のうちにも、ほとんど空気依存と言って良いような人はかなりの頻度で見受けられるようにみえる*2
 
 

*1:または集団全体

*2:例えば、このはてな界隈においても