シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自分の物語でなく、東京という物語を生きることの功罪

 
「東京をやっていこうとしている」人たちの一喜一憂 | Books&Apps
 
昨日、books&appsさんに「東京をやっていこうとしている」人たちについての文章を寄稿した。「東京をやっていく」という表現は不自然かもだが、東京のイメージに沿って生きようとしている人、東京からイメージされるライフスタイルを追いかける人ってのは実際存在している。そうした人たちを「東京をやっていこうとしている」人たちと呼ぶのはそんなに的外れでもないだろう。
 
と同時に、「東京をやっていこうとしている」こと自体は悪いことではない、はずだ。
 
リンク先でも書いたように、東京をやっていこうとしていること自体はプラスにもマイナスにも働き得る。ツイッターでぶんぶん唸り声をあげているタワマン文学的・東京カレンダー的文章に感化されると、つい、それが執着無間地獄への片道切符のようにみえるかもしれないが、タワマンに住む人が皆そうなるわけでも、上京する人が皆そうなるわけでもない。東京をやっていこうとしていて、まんざらでもない人生を歩む人もそれなりいる。
 
ただ、そういう人はツイッターでぶんぶん唸り声をあげているような、いわばタワマンの上層階を見上げて首が痛くなってしまうようなライフスタイルと自意識を持っていないだけのことだ。
 
もちろん東京という街は、住まいもファッションもホビーもなにもかもヒエラルキーづける・差異化づけられる街で、ぎょろぎょろと見ている人は見ているだろう。しかしこれだって程度問題だ。タワマンの上層階を見上げて心が頚椎症のようになってしまう人もいれば、ときどき意識して、ほんのり羨ましいと思って、でもその程度で済んでしまう人もいる。羨ましいと意識にのぼることがほとんどない人だっているだろう。
 
ファッションや趣味についてもそうだ。東京では、ヒエラルキーや差異化の視点でみるなら、上を見ても下を見てもきりがない。そうしたなか、首がもげそうなほど他人を見上げたり見下したりしていれば、どうあれ、まともな精神でいられるとは思えない。
 
実のところ、本当に肝心なのは「東京をやっていこうとしている」か否かではない。その、上を見ても下を見てもきりがない環境のなかで、タワマンの上層を見上げたり下層を見下げたりして心の頚椎症になってしまうようなメンタリティ、あるいはそれに関連した自分自身のありようこそ、肝心なのだろう。
 
 

自分の物語が見えてこない状態

 
では、心の頚椎症になってしまうメンタリティと、それに関連した自分自身のありようとはどういったものか。
 
一言にまとめるなら、「自分の人生を生きているのでなく、『東京』という物語を生きている人」という表現になるだろうか。もとより、これで言い切れたわけではない。けれども「東京をやっていこうとしている」人が執着無間地獄に落ちてしまうストーリーに触れる時、自分の人生を生きているというより、東京という物語を生きようとしていたり、東京という物語に生かされようとしていたりするさまを連想せずにいられなくなる。
 
ここでもう一度、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』から引用してみよう。
 

 

 多少お金があると、人は文化と子育てにお金を使うようになるんです。僕にはそれがセットで来ました。お絵描き教室に通わされたり、市民ホールで興味のない歌舞伎を観させられたり、わざわざ車を出して隣の県の美術館に連れて行かれたり。特に母は、僕が美大にでも進むことを期待しているようでした。
 うつくしいものを注がれ、うつくしくないものは取り去られました。けろけろけろっぴのマグカップ。みんなと同じイオンのランドセル。仮面ライダーの変身ベルト。欲しかったけど買ってもらえなかったものたち。母は僕の持ち物だけでなく、まだ子どもで、友達と同じものばかり欲しがる僕の感性も完全にコントロールしようとしていました。
『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』所収、「うつくしい家」より

 
この短編集の短編それぞれの主人公たちは、「東京をやっていこうとしている」という言葉があてはまるだけではない。彼/彼女らは東京という物語を生きようとし、それが上手くいっていない。そして自分の物語を生きているという感覚がどこか薄い。
 
引用の人物などは、当人の人生に親の願いが覆いかぶさり、それが人生に染みついていてとれなくなっている。しかし同短編集で描かれているのは親の願いばかりではない。生まれた土地や継承した遺伝的形質、そういったものも自分の人生を生きることを困難にしているようにみえる。それとも、自分にはないものを持った他者を羨むあの目線。誰かをロールモデルとし、そのロールモデルに沿った価値観を内面化すること自体は構わない。しかし自分が幸福になれっこないような誰かをロールモデルとし、そのロールモデルを羨望したり嫉視したりして生きるのはいったい誰のための人生なのだろう。
 
そうしたわけで『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』には、自分の物語を生きている主人公がいないようにもみえる。主人公たちは、他人のことをよく見ていて、他人を見上げたり見下したりしている。自分自身のことも冷ややかに見ている……ようにみえるが、実際のところ、この登場人物たちは自分自身が本当に欲しいものがなんなのか、目星がつけられていないようにもみえる。「東京」をやっていく能力や背景が足りなかったのが表向きの躓きにみえて、実のところ、自分の物語、自分の執着についてこの人たちは把握できていないのではないだろうか。その結果として、東京という物語に人生を乗っ取られたマリオネットのように欲しがり、行動してしまう。
 
他人をじろじろ見るばかりで、「東京」という物語に人生を乗っ取られたかのような人物は、現実にも案外存在する。もちろん『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の登場人物たちほど甚だしいことは稀だが、自分の物語がみえなくなって東京という物語に乗っ取られたような、それか東京という物語に依存しているような状況は珍しくない。そうした人々のすがる東京という物語にもさまざまなバリエーションがある。港区だけがその舞台なわけでもない。中央線沿線、小田急沿線でもそれは起こり得る。
 
 

自分の物語をどうやって確保すればいいのか

 
人間は社会的生物だから、ある程度までは社会や世間の物語を、他人の物語を生きてみたってかまわない、と私は思う。タワマンに夢を託したり、東京ならではの活動にアイデンティティの置きどころを見出したりするのも人生だ。それで自分の人生の物語を上手につくっている人などごまんといる。
 
しかし自分の物語ががらんどうのまま、東京という大きすぎる物語を生きる時、人という器は壊れてしまいやすいのだろうとも私は思う。人によっては「人という器が先に壊れていたのでしかない」と指摘するだろうし、そういう事例もあるだろうけど、皆が皆、そうというわけでもあるまい。なぜなら大学進学や就職あたりまでの時期は、自分の物語が自分でもわからなくなりやすく、社会や世間や他人の物語をレンタルせずにいられない時期でもあるからだ。
 
もし、そうした多感で曖昧な時期を東京で過ごすとして、東京の物語のマリオネットにならないためには何が必要なのだろう?
 
強いエゴパワーがあればいいのかもしれない。自分がどう生きたいのか見えていたらいいのかもしれない。もっと間近で尊敬に値する人生のロールモデルとの縁があればいいのかもしれない。それとも友達関係こそ、東京という物語を直視しすぎないために必要な秘訣だろうか。
 
わからない。
しかし間違いなく言えるのは、東京というあまりにも大きい街の、あまりにも大きすぎる物語に真正面から対峙するのはなかなか大変だということだ。東京という物語に過剰適応し、自分という物語を見失ってはならない。東京という物語に飲み込まれないまま東京に住んでいる人たちにとって、それは呼吸するのと同じぐらい簡単なことと思えるかもしれない。が、そうでない人にはまったく難しいことなのだろう。
 

命を管理する社会の行きつく先として『PLAN75』を見た

 
疲れ切った身体でブログを書こうとしている。約17年前、ブログを書き始めた頃には何時間でもキーボードを打てたが、当時の私はもういない。午後9時には休みたいと主張するこの身体には老の影が忍び寄っている。しかし70代80代ともなればこんなものではないはずだ。それでも生きている高齢者は実はとてもすごいと思う。現在の私より疲れやすい身体と神経で生きているのもすごいし、現在の私より疲れにくい身体と神経で生きているのもすごい。長く生き、老いても生きることの途方も無さ。そうしたことを思っている折、映画『PLAN75』がアマゾンプライムに来ているのを発見して見てしまった──。
 
 
 

PLAN75

PLAN75

  • 倍賞千恵子
Amazon
 
『PLAN75』は、75歳を迎えた高齢者が自分で生死を決定できる制度が国会で可決された近未来? を描いた作品だ。作品世界では"プラン75"という高齢者が自主的に安楽死を選べる制度を巡って、いくつかの物語が展開される。ドキュメンタリーっぽいというべきか、上品な作品というべきか、登場人物たちが露骨な感情を示したり、劇的な展開が待っていたりはしない。くっきりとした結末が示されることも、ゴリゴリと主義主張が押し付けられることもない。題材から言って当然かもだが、エンタメとしてこの作品を観ようとしても大きな成果は得られないだろう。
 
また、SFというわけでもない。日本で高齢者の安楽死が制度化されるとしたら今から10年以上先、そうですね、就職氷河期世代に自主的安楽死を勧める20年ほど先ではないかと私なら推測する。その間に技術がそれなり進むはずで、それは自動運転車のかたちをとったりIoT化した高齢者介護のかたちをとったりしていそうである。また、その頃の日本には外国人就労者や移民はめっきり減っているかもしれない。このような制度ができあがり、運用され続けているほどの未来なら、高齢者に対する若年世代の態度も、道徳も、死生観も、現代のソレとは必ずズレているはずで、現代の視聴者がドン引きするようなことや、非常識と思うような考えが定着しているはずである。たとえば現代社会に比べて、人はもっと長生きしようとあくせくしてなくて、今日では長寿の邪魔になるとして忌避されがちな諸々をもっと楽しんでいそうなものである。死というものに対する感性だって変わっているのではないか? そうしたわけで、『PLAN75』をSFとして視聴するのもたぶんあまり面白くない。
 
では、どう見れば面白いのか。逆にこれは、現代社会の価値観のもとで高齢者安楽死が起こったらというifを覗き見る作品で、その覗き見をとおして現代社会を振り返り、私たちの心のなかに根を広げようとしている『PLAN75』的な着想をかえりみる、そういう作品じゃないかと思った。
 
あるいは、生き届いた医療と福祉の制度がほんのちょっとだけ発展したら、案外、人の死はこのように変わっていくかもしれませんよと心配しておくのに良い作品なのかもしれない。
 
『PLAN75』の世界では、高齢者は不安や失業の心配を抱え、生にしがみついているという肩身の狭さを感じながら生きているよう描かれている。さしあたり働ける高齢者・自立した高齢者はなおも生き続けられるのだろう。けれども高齢者の健診の会場には"プラン75"ののぼり旗が並び、待合室では"プラン75"を勧める映像が流され続けている。高齢者のなかには制度に反抗する者もいるが、反抗は個別の小さな怒りの発露に過ぎず、デモやストライキや暴動を起こすようなものではない。現代の日本人と同じく、おそらくデモやストライキや暴動は本作品の世界の高齢者たちは起こしようがなくなっているのだろう。登場人物のなかには自殺する高齢者の姿もあった。"プラン75"によらない自殺である以上、本作品世界でも自殺は制度からの逸脱なのだろう。が、死にゆく人にとってそれはどれぐらい重要なことなのか。
 
"プラン75"は高齢者の自主性に基づいた安楽死制度ということになっているし、その説明をする職員たちは丁寧で、手続きも正当なものとして描かれている。しかし制度が正当なものとはいえ、その制度が高齢者に自死を勧めているようにみえるし、この世界の高齢者たちはどうにも肩身の狭い思いをしている。"プラン75"関連の仕事をしている役人たちの真横では、人が横たわれないよう、ベンチを改造している様子も映されていた。『PLAN75』の世界(と私たちの社会)において環境管理型権力や(ミシェル・フーコーでいう)生権力が働いているさまの直喩だと思いたくなる。"プラン75"が高齢者の自由意志を尊重しているとはいっても、高齢者たちの自由意志はアーキテクチャや制度によって囲い込まれていて、それらの強い影響下に晒され、マイルドで優しげではあってもコントロールの対象になっていると私は連想した。と同時に、そのマイルドで優しげなコントロールは独裁者の強権によるのでない。民意を反映した、ボトムアップな出自を持ったコントロールなのだろう。ここにはわかりやすい悪役の独裁者はいない。
 
しいて悪役っぽいかもと思えたのは、"プラン75"を進めている役場の、課長か部長とおぼしき人だ。この人自身、高齢者なのに高齢者に安楽死をすすめる制度を仕切っているさまは、高齢者に自主的な安楽死をすすめる制度ができあがるとしたら、それらを仕切るのも高齢者だろうということを私に連想させた。が、この人はこの人で制度の蚊帳の内側の小市民的役人に過ぎない。もちろん、この小市民的役人をも凡庸な悪と言ってしまうことは可能だ。
 
高齢者に"プラン75"を提供する若者たちも、到底、これを悪役ということはできない。少なくとも本作品において、若い世代が悪役然として描かれている感じはしない。準主人公のようにみえる若い男性やコールセンターの女性も、"プラン75"に直面した時には大きく動揺していた。自主的な死とはいえ、人をその方向に導くこと・付き合うことは簡単ではない。もちろん、自主的な死がスプレッドシート上の数字でしかないなら人間はいくらでも酷薄になれるだろう。しかし自主的な死に向かっていく高齢者と知り合い、知り合ったうえでプラン75のような安楽死制度に付き添っていくならそうはいかない。コールセンターの女性のやっていることは重労働だった。感情労働というべきか、良心労働というべきか。あのような仕事を長く続けるとしたら、心を堅く閉ざすか、心を鬼にするか、どうあれ素のままではいられない。
 
制度によって正当化されているといっても、人を死へと導くのはとても苦しく、容易なことではないと本作品は示している。実際、そうなのだろうとも思う。しかし制度ができあがる時にはできあがるものだし、その制度も含め、社会というのは顕名の悪役不在で変わっていくことも多い。現場も変わっていく。そして変わっていく社会や現場の前では、個別の人間のひとつひとつの思いはいつも木端微塵だ。
 
 

十分ありえる社会だし、正しく現代社会の向こう側ではないか

 
人間世界では、自ら死ぬことを自殺と呼び、これを忌避してきた。人間は、もともと自ら死ねるようにはできていないし、産卵後の鮭のように特定の年齢で速やかに死んでいくようにもできていない。人間が生きたいと願い生きようとしてきた従来のありようは生物としては自然だったし、人間を取り巻く環境はよくも悪くも人間を中途で殺してきた。
 
私たちは忘れてしまっている──生きるとは、いつでもどこでも死の可能性と背中合わせだったはずだ。今日では出産のリスクが突出して大きくみえるが、かつては子ども時代だってリスクだったし、青年時代だってリスクだったし、職場で働くのも、盛り場で飲むのもリスクだった。そういった大抵のリスクが管理の対象となった結果、出産のリスクが飛びぬけて大きくみえるようになったに過ぎない。長寿は、祝われるに値するほどめでたい出来事だった。人は、長寿がめでたいぐらいにはよく死ぬ存在で、死と隣り合わせに生きていたはずだった。
 
ところが、そうしたリスクの大半が管理の対象となり、命が長くなった結果として人は自動的に長寿にたどり着くようになった。なかには長寿に辿りつかない人もいるが、そのような人は異常だとか、早死にだとか、不幸だとかみなされるようになっている。これは人類史のなかは特異な現象だが、ともかく、命を管理してやまない現代社会とその制度や行政機構が、その命の管理の行きつく先として死=命のゴールにまで管理の手を伸ばしてくるという未来予想は、私にはとても想像しやすい。その道徳的な是非はさておいて、命を管理する、命をより良くあるようにサポートしようとするシステムが、どうしてその命のピリオドだけをほったらかしにしておくものだろうか? もちろん2023年を生きている私には、命のピリオドを社会や制度や行政機構が管理するのはいかがなものか、と思えてならない。だが、命を管理し、命をより良くあるようサポートしてきた機構の向かう先が命のピリオドであることは、自然な帰結であるようにうつる。
 
少なくとも命のスタートを管理するぐらいの社会や制度や行政機構なら、命のピリオドを管理しても不思議ではないはずである。今、そうした事態を防いでいるのは既存の道徳や倫理なのかもしれない。だが道徳や倫理とは川底の砂のように流れていくものである。川底の砂が、一分一秒では何も変わっていないようにみえても、長い目でみれば砂が流れ、川底の地形も変わっていくのと同じく、道徳や倫理は変わっていくものだ。そうこうするうちに私たちの社会だって"プラン75"を忌避しない、というより"プラン75"こそが道徳的で倫理的であるとみなす社会に変質している可能性もあるやもしれない。
 
こうした、社会や制度や行政機構が(あるいは民意が)命の管理を推し進めた結果としてついに命のピリオドにまで管理の手を伸ばしていく未来を想像するには、『PLAN75』は良い作品だと思う。是非視聴してみて、自分ならどんな事を感じ、どう考えるのか試してみて欲しい。そういう視聴態度で向き合う場合、本作品の押しつけがましくなく控えめな作風は好都合だ。きっとこの作品を作った人たちは、本作品をとおして何かを主張する以上に、本作品をとおして視聴者が考えたり感じたりする便宜をはかってくれているのだろう、と私は思うことにした。長生きが難しくて必死に生きなければならなかった生物から、自動的に長生きする生物に変わった私たちの未来について、いろいろ考えさせてくれる作品だと思う。興味を抱いた人は是非視聴を。
 
※ところで、現実に比べて本作品には明確にやさしいところがある。これからも膨らみ続ける社会保障費といったカネの問題、やがて1000万人を突破しようとしている認知症老人の将来推計の問題といった灰色の数字は、この作品ではそこまでクローズアップされていない。もし、灰色の数字を前面に打ち立てていたとしたら、本作品は2023年の私たちには耐えられない作風になってしまっていたかもしれない。
 
 

意識が高くなって治療や支援が行き届いた社会だからこそ「なおすべきは、あなただ」と言えてしまわないか?

 
www.kosehazuki.net
 
昨夜、「「セルフケア」を持てはやすなよ」という文章を見かけたので読んだ。その前にもtwitterで前哨戦のようなフレーズを見かけていたので(参照:これこれなど)、ああ、そのあたりが意識されるフェーズなんだなと思うことにした。私も前から関心があって、もう少し調べてから言語化したいと思っていた。このセルフケアやアンガーマネジメントの話は、たとえば『チャヴ』でルポルタージュされたイギリスで新自由主義が進んでいった話などとも、自己実現や自己充足といったモチベーションの領域の話とも、自己啓発の領域とも地続きにみえてならないからだ。
 

 
これらの書籍を「セルフケア」という角度から再読し、文章にまとめるのはちょっとした仕事量にはなるだろう。そうしたわけで黙っていたのだけど、冒頭リンク先に触発され、今、自分が思っていることを殴り書きだけでもしてみたい気持ちになったので、40分一本勝負でやってみる。
 
セルフケアやアンガーマネジメントは、一般に、進めれば進めるほど好ましいとされている。それらをとおして労働者は心身を守れるし、たとえば会社の上司が自分の機嫌の悪さを部下に押し付けるような事態を追放できる。そうすることによって職場の誰もがますます健康になり、気持ちよく働けるようになり、職場のコンプライアンスも守られる。個人間の暴力を禁じ、効率的な取引やコミュニケーションを推進する社会契約の理念にもかなっているだろう。
 
だからセルフケアやアンガーマネジメントを推進するのはおかしくないし、私も原則としては反対しない。たぶん多くの人もそうだろう。
 
ただ、良かれと思ってセルフケアやアンガーマネジメントを推進している人の裏には、ダブルミーニング的にこの流れに乗っかろうとしている人や、かえってこの流れを悪用しようとしている人も、想定しておかなきゃいけないとも思う。あるいは、こうしたことが極まった社会にどんな代償が伴うのかも考えに入れておくべきとも思う。そういったことをこれから書く。
 
セルフケアやアンガーマネジメントは、職場などで誰もが加害者にも被害者にもならずに気持ちよく働くための話だ。それらが難なくできる人にとっては特に好ましい話だろう。自分のメンタルヘルスもエモーションも易々と管理できる人には大した負担にならないし、そういうことができない連中から被害や迷惑を受けることがなくなる。なんとなればそういうことができない連中を職場や社会の表舞台から追放できる。バッチリだ。なにせ職場のコンプライアンス遵守から考えても、セルフケアができない個人、アンガーマネジメントができない個人が問題なのであって、私たちはセルフケアすべきだしアンガーマネジメントすべきなのである。それらができないやつはできてから来やがれ!
 
 
……といった具合に、セルフケアやアンガーマネジメントをちょっとハードに適用すると、職場は最高にホワイトでコンプライアンスの守られた環境になるだろうけれど、その職場はセルフケアやアンガーマネジメントができる面々だけで構成されるようになり、できない面々が立ち入れない環境に変わる。そしてセルフケアやアンガーマネジメントがしっかり定着した職場において、それらがちゃんとできないのは会社の問題でも社会の問題でもなく、個人の問題に帰するだろう。「おい、おまえちゃんとセルフケアやアンガーマネジメントができてないな。AさんもBさんもちゃんとできているんだぞ。できていなければおれらのコンプライアンスがなってないってことになっちまう。おまえもできなきゃだめだろ、できなきゃクビにしちゃうぞ」──こんなことを慇懃無礼な言葉で警告されるようになるんじゃないだろうか。
 
セルフケアやアンガーマネジメントといった話には、たとえ会社や社会に問題があったりしても、まずは労働者個人に問題がないか点検し、個人を”改善”させる方向性があり、ともすれば問題の個人化を促しているきらいがあるんじゃないか、と私は警戒している。最近耳にするレジリエンスという言葉もそうだ。あの言葉はなんとなく聞こえがいいけれども、一歩間違えると問題解決を個人に強いるためのきれいごとになりかねない。気がする。
 
それから、セルフケアやアンガーマネジメントの定着した会社や社会は、資本家や経営者にとって非常に都合が良い点にも目配りしておきたくなる。それらがひとたび定着すれば、労働者は上司も部下も自分で自分をケアしたりマネジメントしたりしてくれるし、職場はブラックではなくホワイトとみなされコンプライアンスが守られる。コンプライアンス遵守の差しさわりになりそうな人物を敬遠し、なんとなれば婉曲に追い出すことさえ可能になるかもしれない。ホワイトな職場やコンプライアンスの遵守された職場は、生産性や効率性の面でも優れているだろうし、職場のコミュニケーションに感情というノイズが侵入するおそれも少なくなる。それらが労働者のメンタルヘルスにどこまで貢献するのかはさておき、資本家や経営者にとっての面倒ごとを減らしてくれるのは間違いないだろう。
 
さて、そんなセルフケアやアンガーマネジメントを念頭に置きながら、もう少し私にとって間近な領域に目を向けてみる。問題の個人化という視点でみた場合、メンタルヘルスに対する治療や診断の普及、メンタルヘルスに対する施策のかずかずも、問題の個人化を(一面としてだが)促していたりしないだろうか。
 
どういうことか。
今日ではメンタルヘルスへの行政的介入や福祉政策が充実し、たとえばストレスチェック、労働基準監督署、失業保険制度などをとおして私たちのメンタルヘルスはモニタリングされ、健康が絶え間なく促されている。それは良いことだろう。また、発達障害も含めた精神疾患がどんどん診断されるようになり、それらが生物学的な背景のある疾患であり、遺伝子なり脳の機能なりの水準で問題が生じていると語られている。これも良いことだろう。特に生物学的背景が説明されるようになった結果、多くの精神疾患において自己責任論がはびこりにくくなり、親責任論がはびこることも減っている。これも良いことだろう。
 
このように、メンタルヘルスをめぐる現況はおおむね自己責任論は回避できているし個人や社会にも貢献している。しかし、こと、問題の個人化という事態は避けきれていないのではないか。個人に対し診断と治療と支援がなされる。それはいい。だが個人に対する診断と治療が一般化していくなか、そのメンタルヘルスの問題が起こっている背景として個人以外の要因に目配りするのは、むしろ難しくなっていないだろうか。
 
つまり会社も社会も個人もメンタルヘルスについて意識がすごく高くなって配慮も制度も充実した結果、ひとつひとつの個人の不適応やメンタルヘルスの増悪はあくまで個人の問題でしかないと考えられやすくなり、そのぶん、会社の問題や社会の問題や体制の問題であるといった視点が、当事者からも医療従事者や福祉従事者からも遠ざけられやすくなってないだろうか。
 
もちろん、メンタルヘルスの諸問題は医療や制度をとおして何重にもバックアップされていて、それも良いことである。しかし何重にもバックアップされている社会ができあがったからこそ、右のように言い放つことが可能になっていないか心配なわけだ──「我々社会はこれだけやっています。それでもあなたがこうなってしまうのはあなたの問題であって、社会の問題ではないですよね? なおすべきは、あなたであって社会ではない」
 
実地の医療や制度運用において、会社が悪い・社会が悪い・体制が悪いなどとシュプレヒコールをあげる余地は少ない。どうあれ個人は個人としてメンタルヘルスの回復と向上につとめなければならない。生物学的背景の関与する精神疾患であれば尚更だ。そのあたりは個人の問題として対処すればいいと思う。でも、これだって、会社や社会や体制の側が「そういうのは個人の問題に帰するものなんですよー」と頬かむりするにはなんだか都合の良い状況だ。個人の救済のためのシステムをバッチリ発展させた結果、問題が生じた個人の治療やケアをすればいいだけで会社や社会や体制を省みるにはあたらない、と思い込みやすい状況ができあがってしまっていないだろうか。
 
もちろん個人も医療も行政機構も、会社や社会や体制の頬かむりを許すために頑張っているのでなく、あくまで個人の救済のために活動しているだろう。セルフケアやアンガーマネジメントを推進している人達にしてもそうだ。でも、そうやってミクロな個人的救済を無数に積み重なった結果、マクロなレベルではまったく異なった結果が生み出され、まったく異なった目的のために通念や制度を利用してやろうと考えるプレイヤーも現れ……みたいなことはぜんぜんあり得る。現状を否定すべきとは言わない。が、こうした変化の行き着く先と、こうした変化で一番得をしているのは誰かといった視点で振り返ってみることも、ときには必要じゃないかと私は思う。
 
前半でちょっと触れたように、この話は人間を働かせることとそれに付随する道徳や正義や正当性の話とも接続しているはずで、しっかりまとめるなら、そのあたりの過去と現在についても併記するのが望ましいと思っている。それと資本主義が極まってきた現在、人間そのものが資本財となっているので、その資本財である人間は当然管理されなければならないはずで、その人間を資本財として管理運用するという視点からセルフケアやアンガーマネジメントについて考えると、今回とは違った、もっとディストピアみのある文章ができあがるはずだ。けれども40分で書ききれるのはだいたいここまでなので今日はここまで。
 
 

子ども不在の食卓に、老の訪れを思う

 
 

 
これはある日の朝食の写真だが、昼食や夕食が似た感じになることもある。
これぐらいの食事で構わない、いや、これぐらいの食事がいいんだよ、と思うことが増えてきた。
 
子育てを始める前、私にとってうれしい食事とは肉や魚がしっかりある、ボリューミーなものだった。揚げ物も、20代30代の頃は今よりずっと好きで無限に食べられる気がした。
 
でもって子育てが始まり、子どもの好みや栄養素を意識しながら食事を作っているうちは食事のレパートリーはそんなに変わらなかった。いったん香辛料の使用がなくなり、それが子どもの成長にあわせて胡椒や唐辛子あたりから少しずつ増えてきた感じだ。子どもと囲む食卓では、焼肉/野菜炒め系やソーセージや唐揚げや焼き魚あたりがオーソドックスなメニューだろうか。
 
で、子どもが成長するにつれて、再び子どもが不在の朝食や夕食がぽつぽつ増えてくるようになった。夫婦だけで、やけに静かに感じられる自宅で迎える久しぶりの食事。子どもが留守だから贅沢をしようという気持ちにはちょっとなれない。むしろ逆だ。子どもがいないから簡素に済ませて構わない。いや、さっぱりとした食事を摂るなら今がチャンスだ。
 
最近、日本経済新聞のサイトで「日本人のたんぱく質摂取量、1950年代並みに悪化」という記事を読んだ。媒体が媒体なので、この記事から日本経済の栄枯盛衰に思いを馳せるのは簡単だ。でもそれだけでなく、これって少子高齢化によってたんぱく質を一番摂る若者が少なくなり、私みたくあっさり&簡素な食事が好きな中年~高齢者が増えてきたからでは、という風にも思わなくもない。
 
冒頭の写真の食事などはほとんど手間がかかっておらず、コストも安い。簡単な野菜の和え物に納豆、干した魚と白飯だけだ。ここから何かを引いて、かわりに味噌汁をつけることも多い。粗食っちゃ粗食だが、『マインクラフト』のプレイヤーキャラクターが食べているものに比べれば全然文明的だし、身体的にはこれぐらいの食事のほうが楽ですらある。
 
結婚し、子育てを始めて、そうこうしているうちに私の身体は歳をとり、すっかり変わってしまった。子ども時代、祖母が昼食にコロッケや簡単な焼肉を作ってくれながら彼女自身はあまり手を付けず、ご飯と漬物と味噌汁でだいたい済ませていたことを思い出す。あれは、孫のことを思ってや節約のためかと思っていたが、それらだけでなく、案外加齢によって油ものをあまり受け付けなくなってしまったからかもしれない……と最近思うようになった。
 
遠い昔、はてなダイアリーで連載していた(今もはてなブログとして連載している)REVさんが書いていた食べ物の好みの変化についてのブログ記事のことも思い出した。はてなブログの検索機能のおかげで、それそのものが見つかった。
 
 
rev.hatenablog.com
 

子供は、砂糖の甘みが好きだ。チョコ、ケーキ、果物。
青年は、炭水化物に満腹する。ご飯、ラーメン、スパゲティー。
若者は、脂肪が好きだ。カルビ、唐揚、トロ。
○年は、アミノ酸の旨みが好きだ。昆布〆、鰤大根。
×年は、核酸の味わいを求める。数の子、イカ、カラスミ、キャビア。

https://rev.hatenablog.com/entry/20070103/p4

 
この16年前の文章からすると、私は中年だか老年だかになったのだろう。
前より漬物や干物がおいしくなったのも、核酸の味わいを求めるようになったから、だろうか。
 
 

生物学的には私は老年である、とみておこう

 
子育ては進行中だし、普段の食卓には肉や魚や揚げ物が並んでいる。奮発して外食することもある。そこだけ見れば何も変わっていないが、子ども不在の日の、ひんやりとした、質素な食事を食べる時、老のはじまりを連想せずにいられない。人によっては「老年期だなんてまだ早いよ」とも言うが、初老はとっくに過ぎているのだから、私は生物学的には老人の身体になったと思っておくべきだろう。この歳になったせいか、不老不死なんて自分には似合わないとも思うようになった。私は生ききって死ぬことを希望したいし、そのためにつとめていくつもりだ。不老不死を願うなら、もっと若かった頃に願うべきだった。
 
時折、街のレストランでステーキと格闘しているご老人を見かける。かつては何とも思わなかったが、今は、あのご老人はたいしたものだなと思う。そうしたご老人は特別に健康なのか。たまたまその日、彼/彼女はステーキが食べたいような体調だったのか。どちらにしても、高齢になってもステーキを食べられるってのは素晴らしいことだし、ステーキを食べられること自体、その高齢者の健康を象徴しているのだろう。ステーキを食べられるうちは死にたくはないな、とも思った。あのような高齢者に自分がなれる保証などどこにもないが、あやかりたいと思う。
 
 

風呂と戦っている人々

 
時折、うちのインターネットの観測範囲内には「風呂と戦っている」「風呂との戦いに勝利した」といったメッセージが流れてくる。世間で「風呂は命の洗濯」などといわれるのをよそに、風呂を戦いの対象とみなし、一定の労力というかヨッコラショ感を伴ったかたちで風呂に臨む人たちが存在している。
 
入浴のできるできないは、一応、精神医療とも関係のある問題ではある。
 
たとえばうつ病や統合失調症など、精神疾患が一定以上に具合が悪くなると、それまでは楽しみにしていた入浴が億劫になったり後回しになったりすることがある。もともと入浴に抵抗が無かった人が入浴困難になっている時には、なんらか精神疾患が伴っていて、それも結構な具合の悪さになっていることを疑ってみてもいいと思う。
 
しかし入浴できない人=精神疾患がめちゃくちゃ具合が悪くなっている人、と決めつけるのも早合点だ。実際、そういうわけじゃないのに入浴が苦手な人も世間にはいたりする。その程度や内容はさまざまだが、こうした人は忙しくなったり余裕がなくなったりするだけでも入浴のハードルが一層高くなって苦労をする。
 
日本社会は江戸期から銭湯が存在し庶民にも入浴可能性があり、20世紀の後半に入ってワンルームマンションなどにも入浴のアメニティがしっかり行き渡った、入浴大国だ。こと入浴の習慣という点で比べれば、水道の普及やプライベート空間の確立を待って入浴習慣が行き渡ったフランスなどと比べても入浴は早く、社会習慣として当たり前のものになっている。
 
[参考]:精神科、入院する。まず、清潔になる。 | Books&Apps
 
そうしたわけで、日本では定期的に入浴していることが一般常識とみなされ、たとえば体臭をぷんぷん漂わせていることは非常識で、香水を使ってそれを誤魔化すのも非常識とみなされている。 
 
ところが実際には入浴が苦手な人は存在している。私の日常にはあまりいなかったが、インターネットの向こう側と精神医療の領域には、風呂と戦っている人はそれほど珍しくない。これは現代の日本社会ではちょっと気の毒なことだ。入浴があまり一般的でない社会や、入浴の頻度がもう少し少なめの社会に生まれたら、彼らの風呂との交戦頻度はぐっと少なく、たとえば一週間あたりの負担も少なくて済んでいたかもしれない。
 
さりとて、入浴をせずに済ませるのは現代の日本では難しい。いや、できなくはないけれども体臭や容姿に問題が生じ、コミュニケーションや社会生活にペナルティを負う可能性が高まるだろう。だから風呂が苦手な人とて風呂と戦わないわけにはおそらくいかない。
 
世の中には、諸々の苦手や不得手を障害と呼ぶカテゴリーが存在している。有名なものでは、座ってじっと座学できないものや、書字などの学習ができないものなどがそうだろう。風呂と戦っている人も、本当はそうしたカテゴリーの一種とみなされていいのかもしれない。けれども風呂と戦うことがそこまで深刻でないからか、それとも人数があまり多くないからか、日本以外ではそこまで入浴を頻繁に期待されることがないせいか、「風呂と戦う障害」などというのは寡聞にして聞かない。
 
この、風呂と戦っている人々に限らず、本当は世の中にはいろんな苦手が潜在しているはずで、それでも人間は力を合わせて苦手をカバーしあい、あるいはお互いに深く気にしないようにして生きてきたはずだった。しかし今、私たちは力を合わせて苦手をカバーしあうのに都合の良いような繋がりと、お互いに深く気にしないようにして生きる常識感覚の、双方を失っているようにみえる。助け合って苦手をカバーするすべも、お互いの苦手に寛容になる常識感覚もなくなれば、あれこれの苦手はカバーされることも許されることもない。社会にあっては好ましくないもの、個人にあっては能力的に問題のあるものとみなされてしまう。
 
苦手が単なる苦手でなく、障害と呼ばれなければならなくなる境目はどこだろう? それで言えば、風呂と戦っている人々は今はまだ、単なる苦手の側に属している。それで構わない人が大半であるようにもみえるが、なかにはこれは立派な障害だ、私の生きづらさの中核だと主張したい人もいるのかもしれない。
 
や、そんな話がしたかったのではなく。生きるというのはいろんな営みの側面を持ち、その営みの側面の数だけ苦手もあって、大半の人には喜ばしく心地よいことが一部の人には苦手であることもあるのだなと詠嘆したくなったのでこれを書いた。今の季節、風呂が苦手な人の苦労はひときわだろう。本当は、そういう目立たない苦手を抱えながら案外たくさんの人が生きていたりするのかもしれない。