シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

風呂と戦っている人々

 
時折、うちのインターネットの観測範囲内には「風呂と戦っている」「風呂との戦いに勝利した」といったメッセージが流れてくる。世間で「風呂は命の洗濯」などといわれるのをよそに、風呂を戦いの対象とみなし、一定の労力というかヨッコラショ感を伴ったかたちで風呂に臨む人たちが存在している。
 
入浴のできるできないは、一応、精神医療とも関係のある問題ではある。
 
たとえばうつ病や統合失調症など、精神疾患が一定以上に具合が悪くなると、それまでは楽しみにしていた入浴が億劫になったり後回しになったりすることがある。もともと入浴に抵抗が無かった人が入浴困難になっている時には、なんらか精神疾患が伴っていて、それも結構な具合の悪さになっていることを疑ってみてもいいと思う。
 
しかし入浴できない人=精神疾患がめちゃくちゃ具合が悪くなっている人、と決めつけるのも早合点だ。実際、そういうわけじゃないのに入浴が苦手な人も世間にはいたりする。その程度や内容はさまざまだが、こうした人は忙しくなったり余裕がなくなったりするだけでも入浴のハードルが一層高くなって苦労をする。
 
日本社会は江戸期から銭湯が存在し庶民にも入浴可能性があり、20世紀の後半に入ってワンルームマンションなどにも入浴のアメニティがしっかり行き渡った、入浴大国だ。こと入浴の習慣という点で比べれば、水道の普及やプライベート空間の確立を待って入浴習慣が行き渡ったフランスなどと比べても入浴は早く、社会習慣として当たり前のものになっている。
 
[参考]:精神科、入院する。まず、清潔になる。 | Books&Apps
 
そうしたわけで、日本では定期的に入浴していることが一般常識とみなされ、たとえば体臭をぷんぷん漂わせていることは非常識で、香水を使ってそれを誤魔化すのも非常識とみなされている。 
 
ところが実際には入浴が苦手な人は存在している。私の日常にはあまりいなかったが、インターネットの向こう側と精神医療の領域には、風呂と戦っている人はそれほど珍しくない。これは現代の日本社会ではちょっと気の毒なことだ。入浴があまり一般的でない社会や、入浴の頻度がもう少し少なめの社会に生まれたら、彼らの風呂との交戦頻度はぐっと少なく、たとえば一週間あたりの負担も少なくて済んでいたかもしれない。
 
さりとて、入浴をせずに済ませるのは現代の日本では難しい。いや、できなくはないけれども体臭や容姿に問題が生じ、コミュニケーションや社会生活にペナルティを負う可能性が高まるだろう。だから風呂が苦手な人とて風呂と戦わないわけにはおそらくいかない。
 
世の中には、諸々の苦手や不得手を障害と呼ぶカテゴリーが存在している。有名なものでは、座ってじっと座学できないものや、書字などの学習ができないものなどがそうだろう。風呂と戦っている人も、本当はそうしたカテゴリーの一種とみなされていいのかもしれない。けれども風呂と戦うことがそこまで深刻でないからか、それとも人数があまり多くないからか、日本以外ではそこまで入浴を頻繁に期待されることがないせいか、「風呂と戦う障害」などというのは寡聞にして聞かない。
 
この、風呂と戦っている人々に限らず、本当は世の中にはいろんな苦手が潜在しているはずで、それでも人間は力を合わせて苦手をカバーしあい、あるいはお互いに深く気にしないようにして生きてきたはずだった。しかし今、私たちは力を合わせて苦手をカバーしあうのに都合の良いような繋がりと、お互いに深く気にしないようにして生きる常識感覚の、双方を失っているようにみえる。助け合って苦手をカバーするすべも、お互いの苦手に寛容になる常識感覚もなくなれば、あれこれの苦手はカバーされることも許されることもない。社会にあっては好ましくないもの、個人にあっては能力的に問題のあるものとみなされてしまう。
 
苦手が単なる苦手でなく、障害と呼ばれなければならなくなる境目はどこだろう? それで言えば、風呂と戦っている人々は今はまだ、単なる苦手の側に属している。それで構わない人が大半であるようにもみえるが、なかにはこれは立派な障害だ、私の生きづらさの中核だと主張したい人もいるのかもしれない。
 
や、そんな話がしたかったのではなく。生きるというのはいろんな営みの側面を持ち、その営みの側面の数だけ苦手もあって、大半の人には喜ばしく心地よいことが一部の人には苦手であることもあるのだなと詠嘆したくなったのでこれを書いた。今の季節、風呂が苦手な人の苦労はひときわだろう。本当は、そういう目立たない苦手を抱えながら案外たくさんの人が生きていたりするのかもしれない。