シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

おれたち、黙って死んでくれると思われてませんか?

 
togetter.com
 
上掲リンク先は、「氷河期世代が高齢になった時、若い世代のために切り捨てられる」的な話題のtogetterだ。私のタイムラインではよく見かける話で、実際、氷河期世代が高齢者になった時、今までどおりの社会保障が支えづらくなるのは多くの人が予想していることだ。
 
将来に限らず、就職氷河期世代、ロスジェネ世代とかロストジェネレーションとか呼ばれた人たちは、バブル崩壊後の影響をモロに受けて就職難に遭遇し、結婚や家族を持つ機会も逸し、これからは社会保障費のお荷物とみなされようとしている。それはそのとおりなのだろう。そんなわけで、当の氷河期世代はツイッター上で自分たちの不遇や見捨てられようとしている未来を悲観してみせる。
 
 

「おれたちを生かさないとただじゃおかないぞ」と氷河期世代は行動したか?

 
氷河期世代の境遇が不遇だったのはわかる。
では、その不遇な氷河期世代は「おれたちは不遇だから見捨てるな」「おれたちを生かせ」「おれたちを生かさないなら、ただじゃおかないぞ」と団体行動できていただろうか?
 
それを確かめる前に、昭和時代の日本人と、現在のフランス人に目を向けてみたい。
 
昭和時代も中頃の日本人は、しばしばストライキをした。団体行動権、ってやつだ。ストライキに限らず、団体行動はいろいろあった。日米安保を巡る運動、全共闘運動、等々。運動の成否はさまざまだったが、とにかく昭和の人々は徒党を組んで運動し、行動した。適法も違法も含めてだ。
 
現在のフランス人についてもそれが言える。フランスに限らず、ドイツやイタリアでもストライキは頻繁で、規模も大きい。労働者は団体行動する。黄色いベスト運動も凄かったし、新型コロナウイルス関連の規制に対しても、なかなか大きな規模のデモが行われ、為政者をうんざりさせていた。
 
こうした団体行動は、社会や経営者や為政者に対してどれぐらい有効だっただろうか? その成否や正否はさておき、為政者をうんざりさせる程度の意味、メッセージとしての意味はあったのだろう。そういった団体行動をとおしたメッセージを過去の日本人、あるいは現在のヨーロッパ人はやっていた。
 
で、氷河期世代にそれが出来ていたか?
 
私の記憶する限り、氷河期世代は団体行動をとおして為政者をうんざりさせたり、社会にモノ申したりはしていないよう回想する。
 
バブル世代という言葉が生まれる前、シラケ世代という言葉が生まれた。全共闘などの政治の季節が終わった後、政治運動などに関心を持たない個人主義的な若者につけられた言葉だ。
 
とはいえ、世代で区切って考えるなら、このシラケ世代なりバブル世代なりは恵まれていたほうだ。もちろんバブル景気の前には不況の時期もあったがバブル景気崩壊以降の長い停滞に比べればそこまでではなかった。個別の悲喜劇はあったにせよ、世代全体でみれば政治運動などしなくても豊かな個人生活を享受しやすい世代だったと言える。
 
対照的に、氷河期世代はそうではなかった。就職先に困り、結婚や家庭に困り、これからは老後に困ろうとしている。世代全体でみれば割りを食った世代だ。政治運動すべき、ストライキすべき、団結行動し社会に圧力をかけていくべき、そういう理由が若い頃からたっぷりあったはずの世代だ。シラケ世代より前の日本人か、現代のフランス人なら、きっと行動していたんじゃないだろうか。
 
ところが氷河期世代は何もしなかった。
氷河期世代がストライキを起こした、団体行動を取った、ロスジェネ一揆を起こしたという逸話は寡聞にして聞かない。
ごく一部の人が文章をとおして何かを言っていたかもしれない。
もう少し多くの人がツイッターで何かをさえずったいたかもしれない。
それだけだ。
 
 

なぜ、何もできなかったのか。

 
ではなぜ、氷河期世代は団体行動できなかったのだろう。
 
シラケ世代以降、個人主義と政治の敬遠は進み続けてきた。それだけではない。なにやら、団結すること・群れて行動し争うこと自体、次第にタブーになってきたのではないかとも思う。たとえば政治運動やストライキに対する氷河期世代以降の冷ややかなまなざしを見ても、それは想像されることだ。
 
個人主義化が進んでいくなかで、デモやストライキや一揆が社会通念にそぐわなくなっているようにもみえる。それはシラケ世代以降の思想の産物だろうか? そうかもしれない。個人主義、多様性のある生、それらは耳障りの良い言葉だが、それらをとおして実は私たちはアトム化した個人になってしまい、分断することばかり上手になってしまい、共通のイシューに関してまとまることができなくなってしまったようにもみえる。
  


 
個人主義や多様性のある生、それらに親和的な社会通念やインフラは良いものとされてきた。だけど、それらを実現する社会通念やインフラをとおして、私たちが集団の利を活かせなくなっているとしたら……。巡り巡って、個人でしかものが言えず、集団ではものが言えない、そんな人間に私たちが変わってしまったのだとしたら……。
 
私たちは、為政者やエスタブリッシュメントの側にとって非常に都合の良い人間につくりかえられてしまったのではないだろうか。
 
 

為政者やエスタブリッシュメントにしてみれば、笑いが止まらないでしょう

 
かくして日本人は、団体行動できない、社会に対して群れてものが言えない国民になった。主語を氷河期世代から日本人に変えたが、これは間違いではない。団体行動できない・社会に対して群れてものが言えないのは、氷河期世代よりも若い人々だって大同小異だからである。
 
日本人が団体行動できなくなり、デモもストライキも違法適法の集団行動もできなくなったことで、日本は飛行機や電車やサービスが止まることが少なく、騒がしくなく、秩序だった国になったとは言えよう。そのかわり、どんなに生活が苦しくなっても、社会がおかしいとみんなが思っていても、政治的に有意味な、社会的圧力になるような集団的運動のことは忘れられてしまった。そういう方法で為政者やエスタブリッシュメントにメッセージや警告や出すすべを忘れてしまった。
 
これって、体制側の、為政者やエスタブリッシュメントからすれば笑いが止まらないことじゃないだろうか。
 
モノ言わぬ大衆、ツイッターで不満をさえずることしか知らない大衆ほど、為政者にとって都合の良いものはない。ツイッターでさえずる声は確かによく響く。しかしそれはバラバラの言葉であり、アトム化した個人の声の点描、烏合の衆以下でしかない。こと日本の場合、ツイッターでのさえずりは為政者がうんざりしたり脅威を感じたりするようなものではない、ということだ。
 
なかには個人単位で社会に対してモノ申そうとする人もいるだかもしれない。テロリズムを起こす個人などはその極端な例で、そういった事例は21世紀以降の日本にもそれなりある。
 
しかし個人単位で社会にテロを起こしても、それは個別の犯罪や精神鑑定の対象として、個人化されてしまう。個人的なテロリストがどんなに社会的メッセージを行動に仮託したとしても、結局それは個人的な行動上の問題として、司法や医療をとおして処理され、体制に回収されてしまう。かりに、総理大臣経験者が凶弾に斃れるほどのテロだったとしても、個人が個人としてそれを行っている限り、それは個人的なものでしかない。体制はびくともしない。それどころか、個別のテロは体制側の対策を生み、かえって体制を強化したり利することさえあるかもしれない。
 
政治は、個人のスタンドプレーでは動かない。個人の行動は、しょせん個人の行動でしかないから司法や医療に回収されて脱ー政治化されてしまう。だから集まること、集まって行動しメッセージを出していくことが大切なのだが、それが私たちにはできなくなっている。
 
だとしたら、私たちは、黙って死んでくれる都合の良い大衆だと思われっぱなしではないだろうか。
 
為政者やエスタブリッシュメントも世代交代を繰り返していくので、氷河期世代がその枢要を握ることだってあるだろう。しかし、氷河期世代の為政者やエスタブリッシュメントも、大衆がなんにもモノを言わなくて、なんにも行動しなくて、黙って死んでくれる都合の良い大衆であり続けるなら、気兼ねなくゆでガエルをゆでるコンロの火力をあげることだってできるだろう。それは氷河期世代だけの問題ではない。為政者やエスタブリッシュメントだけの問題でもない。黙ってゆでられることしかできなくなった私たち全員の問題でもある。昭和の日本人やフランス人のように行動できなくなって、黙って死んでくれると為政者やエスタブリッシュメントに思われてしまいやすい私たち全員の問題でもある。
 
「おれたちを生かさないとただじゃおかないぞ」を失ってしまったのは、本当はとんでもなく大きな損失だったのかもしれない。
 

ワインがホームランを打つ、とはどういうことか

 


 
ワインが三振するとは、ホームランを打つとはどういうことだろう。
 
たとえば「ブルゴーニュは三振かホームラン」と言った時、込められたニュアンス、期待、狙いは飲む人によって違いそうではある。「酸っぱかった。よって三振」「苦みがあった。よって三振」「ワイン会で一杯飲んでみた時、並び立つワインたちのなかで目立たなかった。よって三振」みたいな評価をする人だっているかもしれない。それは辛口じゃないかと私などは思う。でも、ワイン愛好家にも色んな人がいるし、それこそ、神の雫的なワインをもってホームランとみなす人だっているかもしれない。
 
それでも、ワイン愛好家が10人いたら9人は「あっ これはホームランですね」って答えるワイン*1はあるように思う。今、ワイン界でものすごい値上がりをみせているワインの作り手たちは、ワイン愛好家の大半がホームランだと答えるようなワインをつくっている……と期待されている。
 
考えてみれば、打率9割、ホームラン率4割のワインの作り手がいるとしたらどうなるか。異常だ。そりゃあ値段が高くなるだろう。お金に糸目をつけないタイプのワイン愛好家は、ワインにホームランを、それも場外ホームランを期待し、まるでソーシャルゲームの廃課金者のようにワインに課金する。そのようなワイン廃課金者にとって、せいぜい最大飛距離70m程度の1500円のワイン、草野球チームのようなワインなんて眼中にないだろう。「そんなワインはうちのチームでバッターボックスに立つ資格なし」と思っている愛好家も多いに違いない。
 
それは、仕方のないことかもしれない。
ワインには世界市場があり、グローバル経済のなかで世界じゅうのワインが売買され、比較されている。そうしたワインたちが、個性や来歴さまざまとはいえ、横並びに比較されるのだから、最大飛距離300mのワインと最大飛距離70mのワインでは需要は決定的に異なる。でもって本当にカッ飛ぶワインは、品種がメルローであれシャルドネであれピノ・ノワールであれ、本当にカッ飛ぶ。その瞬間が忘れられないから、「ホームランよもう一度」とワイン愛好家は鵜の目鷹の目でワインを手に入れようとする。
 
と同時に、ドラフト一位のようなワイン、スター選手のようなワインを大枚はたいて買ってきて蔵に寝かせるのだから、かならずホームラン打てよ、シングルヒットなんかじゃだめだ、とワインにかける期待、いやプレッシャーは無限に高まっていく。
 
「ブルゴーニュは三振かホームラン」とは、ブルゴーニュワインが値上がりしたことにより、ワイン愛好家がブルゴーニュワインに寄せる期待とプレッシャーがいやがうえにも高まっていることの反映、という部分もあるかもしれない。だってそうだろう。10年前は8000円で買えたワインが、コロナ禍の前には16000円に、今では23000円になっているとして、10年前と同じ気持ちでそれを飲めるものだろうか? 
 
エチエンヌ・ソゼ ピュリニーモンラッシェ ラ・ガレンヌ 2018
 
たとえば、おまえのことだよ!
エチエンヌ・ソゼのラ・ガレンヌ!
 
クオリティのわりにはお値段控えめだったこのワインも、急激に値上がりして二万円台だ。3倍弱の値段になったワインに、以前と同じ気持ちで相対するのは非常に難しい。そして3倍弱の値段になったからといって品質が3倍になっているわけではなく、ときには、そのワインボトルがくたばっている可能性だってゼロじゃない。勢い、こういう値上がりしたワインを抜栓する時には神にも祈るような気持ちになる、ああ、神様、どうかこのワインにホームランを打たせてやってください。それが駄目ならせめて三塁打、いえ、二塁打を……。
 
こんな心境じゃ、まともに味なんてわからなくなっちゃいそうだ。
 
現在のブルゴーニュワインは、このように難しい遊び場になってしまったので、特に一級や特級を比べ飲みして、その優劣を論じてみせるのは左団扇で暮らす人でなければ無理だろう。昔は、ブルゴーニュワインに50万も突っ込めば一定の理解も期待できたかもしれないが、いまどき、50万程度ではたかがしれている。
 
さようなら、ブルゴーニュワイン。
世の中には、もう少し手が届きやすくて、奥行きさまざまなワインのジャンルがある。それに「ホームランか、三振か」だなんてワイン人生は精神衛生に悪すぎる。そのうちアメリカドルを飲むような気持ちにもなっちゃうかもしれない。もっとテンション下げてワインと向き合いたい。
 
 

身の丈の範囲で、作り手の三振~ホームランを嗜む

 
そんなわけで、あまり値上がりせず、あまり値の張らないワインの領域で遊ぶっきゃないと思うことがずっと増えた。
 
ワインと向き合う。世界の有名ワインをまたにかけて飲む。それは愛好家の夢だけれど、ひとつの地域、ひとつのワインの作り手の毎年の出来不出来に一喜一憂するのも、それはそれで楽しい。
 
たとえばアルザスはトリンバックの一番安いリースリング。
 
トリンバック リースリング 2020
 
こういう大量生産される白ワインでも、年によって様子はかなり違っていて、「今年はホームランだ」「今年は三振だ」と思ったりできる。この、2020年産の楽天レビューには「旨味より酸味が勝っておいしくない」と記されているし、実際、酸味が勝っておいしくないと私だって思う年があるのだけど、そうやって、年によって風味が違うさまを比べるのは案外楽しい。ワインってナマモノだなとも思う。このあたり、ヴィンテージという概念のあるワインならではの遊びだと思う。
 
高騰著しいブルゴーニュワインでも、一番お手頃な「ブルゴーニュルージュ」「ブルゴーニュブラン」なら、この遊びをなんとか続けられる。近頃のブルゴーニュルージュやブルゴーニュブランは、上位クラスのような特大ホームランは打たないとしても手堅くつくられていて、それでいて、年によって顔貌が変わって面白い。特級や一級がべらぼうに値上がりしている一方で、裾物のブルゴーニュは比較的値上がっておらず、値上がったぶん、ちゃんと旨くなっていると思う。豪華絢爛とはいかないが、とてもよくできたワインたちだ。なにより「ホームランか、三振か」なんて気持ちにならなくて済むのが良い。
 
確か、ワイン評論家のマット・クレイマーは、「高価なワインを飲む時にはさっさとデキャンタに入れてしまうのがいい、高価なラベルが見える状態だと気が気でならないから」みたいなことをどこかで書いていたと記憶している。いや、わかる。逆に言うと、そういう気持ちを起こさないようなワインが本来の自分の財布のサイズに合ったワインであって、たとえば私にとってそれはフェヴレのメルキュレだったり手頃なキアンティクラシコだったりするのだろう。
 
フォンテルートリ キアンティクラシコ 2019
 
そういった自分の身の丈に合ったワインが、あるときは二塁打を打って、あるときはピッチャーゴロを打つような、そんな世界でもワインは楽しく、それがアナログな鑑賞であることを想起させてくれる。そしてワインはライブ鑑賞にも近い。ボトルと一対一で向き合えば独演会になるし、食事と一緒にやればアンサンブルやオーケストラになる。
 
もちろんたまには奮発し、何某のグラン・クリュやら一級やらに相対するのもいいけれども、そういう時に無心にボトルと向き合うためには、財布を肥やすか、心を肥やさなければならない。そしてもし、高価なワインが三振した時にはちゃんと三振だと言えて、かといってシングルヒットを打っても三振と言わないよう、逆にシングルヒットをホームランだと呼ばないよう、修身しなければならない(いや、しなくていいけど私はしたい)。そのための方法は色々あるだろうが、とりあえず普段のワインとの向き合い方に関しては、自分が消耗しないで済む価格帯のワインのうちに気安い銘柄を見つけておいて、その銘柄と一緒に歳月を確かめていくことではないかと思う。
 
なんの話をしていたんだったか?
そうだった、ワインがホームランを打つとはどういうことか、って話だった。
それは、やっぱり難しい問いだ。
極端なことを言えば、意中の異性と一緒にワインを飲み、そのワインがいたく気に入ってもらえたならそのワインはホームランを打ったことにならないか? 
 
ワインのテイスティングとは違う話に着陸してしまった。が、コンテキストも含めてのワインがホームランを打つ、という視点は捨てがたく、一緒に飲む人、購入する際の財布の状態とも無関係ではない。「良いワインを開けるなら、良い人と、良いイベントの時に」というのも、要はそういうことなのだろう。願わくは、自分自身がワインがホームランを打つ状況に開かれていますように。
 

*1:ここでいうワインとは、そのボトル・そのグラスの中身に関しての話だ。どんなに名高い銘柄のワインでも、諸条件整わなければ本領を発揮しないことはままある

中年がスプラトゥーン3をやりこむ際に注意すべきこと

 
 

 
  
世界じゅうでゲーム愛好家に楽しまれている『スプラトゥーン3』が我が家にやってきて、1か月が経った。
 
 

 
 
我が家は夫婦・親子そろってこれをプレイしていて、部活動のように励んでいる。雑貨屋のパル子をはじめ、前作には無かった楽しみが色々あるうえ、肝心のバトルは相変わらず「もっと上手になりたい」気持ちを刺激する仕掛けに満ちている。ブキそれぞれの強弱やマップの形状には賛否両論あろうけれども、それらはアップデートで微調整されようし、その微調整も含めてのスプラトゥーンなのだろう。
 
ところで私は中年だ。
子ども時代にファミコンブームに出会い、ゲーム人生を歩んできた。昔は「30代になったらゲームなんてやめている」と思っていたし、実際、フィジカルな部分では若いプレイヤーに敵わなくなった。それでも遊ばせてくれるのが『スプラトゥーン3』のありがたいところだ。私のような老兵でも参加できるのは本当にありがたい。
 
 

 
 
実際、この一か月でプレイの感覚が前作並みに戻った……というより前作の頃にはできなかったことができるようになり、上達した気がする。この「わかばシューター」をメインに遊び続けてS+までウデマエを向上させることができた。射撃の正確さでは子どもに劣っても、全体を見渡し、敵味方の挙動を監視できるなら「わかばシューター」は中年プレイヤーの味方だと思う。
 
それでも、子どもと一緒に『スプラトゥーン3』をやっていて痛感することがある。
プレイし続けた時の身体の反応がどうにも中年なのだ。子ども時代のようにやり込むと身体が悲鳴をあげてしまう。
 
 

「身体をいたわるのもプレイのうち」

 
たとえば本作のさまざまなバトルは2時間を1単位とし、戦場やルールが変わっていく。自分の得意な戦場・ルールの時間帯なら、ポイントを稼ぐチャンスだ。
ところが中年、バトルを2時間連続でやるのがかなりしんどい。ぶっつづけで2時間やるとプレイの質がはっきりと落ちる。チャレンジモードの時など、調子が良いとつい連続で遊びたくなるが、ときどき全身の筋肉を動かしたり目を労わったり、インターバルをうまくとらないと集中力が続かない。
 
じゃあ、カフェインによる強化は?
 

 
確かに、カフェインは効く。スプラトゥーン2時代に自分の身体で実験しても成績が向上したし、そうでなくても集中力や持久力に無視できない差が生まれる。でも、カフェインは無限に飲んで良いものではない。世の中にはカフェイン中毒というものもあり、あまりに多量のカフェインを摂って死んでしまう人もいる。そこまでいかなくても、摂りすぎれば胃が荒れたり眠りづらくなったり変な痩せ方をしたりする。
 
そして私たちは中年であって若者ではない。カフェインはいわば「元気の前借り」。一時的に集中力や持久力を得るかわりに後が辛くなる。カフェインでスプラトゥーン3をゴリ押しして、他の生活領域がメタメタになってしまっては中年は生きていけない。そのうえカフェイン入りの飲料にはカフェインに加えて糖分やらなにやらが含まれているので、メタボな中年はとりわけ気を付けなければならない。
 
 

 
 
そうしたわけで、個人的にはA+からS、SからS+といった昇格戦の時まではエナジードリンクはとっておいたほうがいいと思うし、昇格戦のような大事な戦いは、自分が十分に戦え、翌日に尾を引かない時間を選びたい。それと中年は集中力を2時間続かせることができないと割り切ってしまったほうがいいだろう。タフな人もなかにはいるかもしれないが、そういう人でも若い頃のようにはいかないはずなので、引き際が大切だ。
 
 

これからもゲーム愛好家であり続けるために気を付けるべきこと

 
ゲームが若者だけのものだった頃、そして24時間365日プレイし続けられる環境もゲームも乏しかった頃には、ゲームと健康の問題はそれほど考えなくても構わないものだった。ゲームセンターには閉店時間があったし、ロールプレイングゲームを徹夜で遊ぶと言っても、初期のドラゴンクエストやファイナルファンタジーは何晩もぶっつづけで遊んでしまうゲームデザインではなかった。
 
しかしゲームがオンライン化し、不夜城と化した2020年代の今はゲームを長く遊べてしまうし、若者に比べて身体的に脆くなっている中年のゲーム愛好家も増えている。
 
ゲームと健康というと、いまどきはメンタルヘルス方面の「ゲーム障害」「ゲーム症」「オンラインゲーム依存」を思い出す人が多いだろうし、確かにそういった問題もある。けれども中年のゲーム愛好家にとって差し迫った問題は、たとえば同じ姿勢でゲームを続けることによる肩こりや腰痛といった問題、ディスプレイを見続けることによる目のかすみや痛みの問題、食生活や睡眠サイクルの乱れの問題、等々ではないだろうか。
 
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
 
上掲リンク先では、身体的なさまざまな問題、睡眠・覚醒リズムの問題、メタボリック症候群等々について言及されている。こうした身体の問題は、若いeスポーツ選手の練習効率や選手生命にかかわるだけでなく、中年のゲーム愛好家の練習効率やプレイヤー生命にもかかわる問題だ。いや、若いアマチュアのゲーム愛好家だって本当は気を付けたほうがいいことだし、少なくとも我が家では、これらを意識した効率的なプレイを私自身が心がけ、それを子どもたちに見せるように意識している。
 
身体にもメンタルにも社会生活にも無理をかけず、それでいて最高のゲームライフと最高のゲーム成績を目指そう──長期的にみれば、結局そういった心がけが他人よりも短い時間でゲームが上達できるようになり、他人よりも長くゲームを楽しめ、その弊害を最小限に抑える秘訣になるんじゃないだろうか。だとしたら、その秘訣は中年のゲーム愛好家にもっと知られていいはずだ。
 
この『スプラトゥーン3』をはじめ、ゲームカルチャーは現在進行形で発展しているし、幸運にも私たちはその最中にいる。10~20年先のゲームを見てみたいと思う人、還暦を迎えてもゲームカルチャーに留まっていたい人は、是非、健康にも注意を払いながらゲームするのがいいと思うし、ゲームをより楽しくより巧く遊ぶにあたって健康は重要な要素だと思う。良い健康で、良いゲームライフを。
 
 
  
[追記]:

中年がスプラトゥーン3をやりこむ際に注意すべきこと - シロクマの屑籠

やっぱり中年は塗り特化の方向性よね

2022/10/11 08:29
b.hatena.ne.jp
これが難しいところで、わかばシューターは塗りが重要だけど塗りだけでは駄目なんですよ。スプラッシュボムを使って敵に圧をかけていく必要があり、かといってスプラッシュボムを使い過ぎると今度は塗りが甘くなり、味方のブラスターやローラーの仕事を支援できなくなってしまいます。そしてバンカラマッチの時はオブジェクトに関与しなければならないし、自分の目の前で側面をみせている敵がいたらそれはキルしなければならない。
これらのタスクをいかに帳尻を合わせてやっていくか・それぞれのタスクの精度をあげ、切り替えをいかに効率化するのかが、わかばシューターの道のように思われ、確かに他ブキよりは塗るんですが、塗り特化という意識になってしまうとかえって勝ちにくい気がします。

 
  

行き詰った時、ときめきやきらめきを

 
 
緩募:「煮詰まった中年男性」の気分転換の方法 - いつか電池がきれるまで
 
うちのブログにリンクが貼られていることに気付き、どうお返事するのが適切だろう? と数日考えました。 fujiponさんにはfujiponさんの、私には私の中年期があるのだから、私が返事を書くことにどれほどの意味があるのかわかりません。が、それは書く側ではなく読む側が判断すればいいと思い、私が思っていること・やっていることをとおして「行き詰った中年男性」の気分転換について書いてみます。
 
 

ときめきやきらめき……をお勧めする前に

 
fujiponさんの文章を読んだうえで私が言ってみたいことをまとめると、「ときめきやきらめきを追いかけようよ」「ドーパミンのある生活をしようよ」になるのですが、その前に、確認していいんじゃないかと思うことがあるので先に書きます。
 
50代を迎えた頃の私の師匠筋が言っていたことがあります。それは「サプリを飲め」と「ナッツを食べろ」でした。
 

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実際、その先生は医局でもナッツをよくかじっていて、特にアーモンドがお好きでした。サプリメントも、亜鉛ーマルチミネラルーマカ系のものをぐるぐる飲んでいたよう記憶しています。中年期になって不足してくるものを補っているんだ、とのことでした。
 
30代の頃の私はそれを「ふーん」と眺めていたのですが、体力の衰えを感じるようになった40代の中頃に思い出し、真似てみるようになりました。健康を害している人の場合はサプリメントではなく薬が必要になるでしょうけれど、そうでなければ、一種のおまじないとして手ごろではないかと思っています。私の場合、これらをローテート的に飲むようになってから睡眠の質が良くなった気がします。
 
あとはヨガでしょうか。一生懸命にやるほどではないですが、あの、筋肉と呼吸が気持ち良くなるあの感じは捨てがたく思います。プリミティブな気持ち良さ。
 
案外、fujiponさんの「何もやる気が起きないのに、何もしていないことに焦りを感じ、煮詰められていくような感情」の解決に一番近いのは、こうした身体領域のモディフィケーションだったりするのかもしれませんが、本当のところはわかりません。
 
これに限らず、中年~老年にとって健康状態って切実ですよね。私は、健康が至上命題になっていくことに警戒感を持っている人間ですが、健康状態が体験や活動を左右するのも事実。逆に考えると、健康状態が体験や活動に反映されやすいような、そういう年取った人間がどしどし増えているから(日本社会では)健康が至上命題っぽくなっているのでしょうね。大多数がピンピンしている若い国の人々は、健康についてあまり意識しないでしょうから。
 
でも我が身を振り返ると、そうはいっても健康状態をキープしたい・元気をあげていきたいって思いを捨てることはできません。何をやるにも健康がベースになるし、若い頃に比べて、その健康を維持するためのコストはじりじり高まってきているのですから。私自身は無理のない範囲で自分の健康を意識しながら、「ときめきやきらめきの追求」「ドーパミンのある生活」を目指しています。
 
 

それでも世の中は驚きや感動に満ちている

 
ここからが本題です。中年男性に限らず、閉塞感のある日常を変えるのは、驚きや感動や好奇心だと思います。ときめきやきらめき、ドーパミンが出るような体験だとも思います。もし、私が閉塞感のある日常に置かれているとしたら、そのような体験を突破口とみなし、それらを求めにかかるでしょうし、今までもそうやって生きてきたつもりです。
 

40代、花譜さんに出会って人生が変わった - orangestarの雑記
 
そして、今年の8月、その花譜さんのライブに行きました。先にも書いた通り、日本武道館でした。初めてのライブでしたが、花譜さんの主なファン層は10代~20代。そういう中に行くなんて…、と逡巡していたのですが、そういう自分を嫁が背中を押してくれました。いい嫁です。ありがとう。そしてライブに行ったのですが、本当に素晴らしかった。人生初の体験でした。

そうはいっても自分はやっぱり魔法にかかりにくい人間なので、おそらく本当にライブを楽しめる人ほど楽しめては無いのですが、作り手や観測者(花譜さんのファンのことをこう言うのです)が頑張って魔法を作ろうとしてるのを感じていたら自分も魔法を使えるようになりました。
構成もすごく良かったです。
始めてライブに行って思ったのは、スクリーンで見るのと違って、そこに生身の肉体があり、そして其れから伝わる圧力というものが凄く重要なのだと思いました。やはり生身の人間がそこにいるというのは強い。
スクリーンに映された絵、だというのは頭ではわかっているのに、でも、確かにいるんですよ。そこに。

 
小島アジコさんがお書きになった突破口もそうですね。感動した、良いものを見た、何かに気付いた、そういった体験をとおして中年期がリブートする。
 
こちらでいぬじんさんが挙げてらっしゃる「おしゃべり」や「違う仕事をする」にも近いニュアンスがあるよう思われます。
 
たぶん、私もそうだと思うのです。
これまでの人生を振り返ってみても、何か行き詰ったと感じた時には違うことをやるようにして、違った場所、違った人、違った活動に手を染めてみるようにしてきました。そうやって、人生の風景の風通しを良くしたり、飽き性な自分の閉塞感を打ち破ったりする。そうしたことのなかには、過去、私たちブロガーやテキストサイトの人間がやってきたことも含まれていたはずだと思います。たとえばブログを初めて書いた時。ツイッターのアカウントを初めて動かした時。
 
若い時って、勢いや好奇心に任せて何か違ったことをして、そこでときめきやきらめきを獲得する(悩みも獲得するのですが……)のはそれほど難しくなく、無意識のうちにやれていたよう記憶しています。でも、年を取ってからはそうもいきません。なかには50代になっても勢いや好奇心に任せて色々挑戦できる人もいるんでしょうけど、私はそうではありませんでした。だから、行き詰ってきたな・袋小路っぽくなってきたなと思ったら、意識的に違った場所、違った人、違った活動に自分を曝してみなければならない、と思っています。
 
生活が一変するようなものである必要はありません。それこそ、髪型を変えるとか今まで着なかった服を買ってみるとかでもいいのかもしれない。ちょっと違った景色・ちょっと違った体験・ちょっと違ったコミュニケーションが得られるものでもいい。とにかく、今までとは違った何かをやる・見る・試すを、どっこいしょとやるようにしないと、私などは、ときめきやきらめきが干からびてしまうように思います。
 
なかには、干からびたって構わない人、それぐらいがちょうど良い人もいるでしょうし、同じ仕事・同じ趣味から一定程度のときめきやきらめきが産まれ続ける場合もあります。また、中年危機の一類型として、若い愛人にお金を貢ぐことにときめきやきらめきを見出し、人生をコースアウトさせてしまう人もいるので、無闇矢鱈にときめきやきらめきを追いかければいいってものでもないのでしょう。
 
私の場合、それが人生の操縦法みたいになっていて、定期的にときめきやきらめきの新スポットを探求することになっているし、なにか行き詰った印象を持った時が探求の時、と思うようになっています。すべての行き詰った人におすすめできるものではありませんが、これで気分一新できる人も、またいることでしょう。
 
 

世界はときめきやきらめきを掘り尽くすにはあまりに広い

 
こうした、ときめきやきらめきを探求する生き方が何歳まで通用するのか、中年期危機のソリューションと言えるのかは、わかりません。また、書いているうちに「これはfujiponさんのお悩みに応えきれていないな」と思い始めてきました。結局ここでも、私はとても個人的なことを回答していますね。
 
それでも、これは言えるんじゃないかと思うことがあります。
「世の中にはまだまだ未見・未知のときめきやきらめきの鍵が眠っている。」
世界にはときめきやきらめきの鍵が満ちていて、それを掘り尽くすには世界はあまりに広く、人の寿命はあまりに短い。
 
人間、別にときめきやきらめきのために生きているわけではないでしょう。でも私はそれらに導かれ、助けられ、時々足元をすくわれながら生きてきた人間のひとりなので、身体が許す限り追いかけてみたいなと思っています。そうですね。まだ行ったことのない台湾の南のほうにも行ってみたいし、長い間会っていない人とも再会してみたいし、2040年につくられたワインも呑んでみたい。
 
そう思うと、もうしばらく生きていたいなとか、もうちょっと健康に気を遣っておくかとか、そういう気持ちも沸いてきます。してみれば、ときめきやきらめきを求める気持ちとは執着なのですね。執着は人を苦しめる源であると同時に、人をどこかに連れていく駆動力でもあります。できることなら、私はときめきやきらめきに執着する人間でい続けたいです。
 
 

上等な百合アニメだった──『リコリスリコイル』、雑感

 
リコリスリコイルを上質な百合アニメだとみなすようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
 
「そんなの最初からに決まっている」という人もいるだろう。序盤から千束とたきなの二人はかわいらしく、かしましかった。オープニングテーマの蹴りあうシーンは、何度見ても飽きない。
 
いや、そういうことじゃなくて。
 
「『リコリスリコイル』はとにかく上質な百合アニメとみなして眺めれば良い、それぐらいの目線で見るのがベストだ」と自覚して、視聴態度というか、視聴照度というかを変更したのはいつ頃だったのかな? と振り返ったりした。
 
それは中盤あたりからだったように思う。
 
はじめ、『リコリスリコイル』は、千束とたきなのかしましさや、ガンアクションが目を楽しませてくれる作品である……だけじゃなく、高度に統制された社会を裏側から支えるDA、アラン機関といった組織をも描きそうな気配だった。見栄えのする百合アニメであると同時に、ディストピアめいた近未来社会を描き、そのなかで主人公たちが活躍し、社会にコミットしたり、社会や組織との軋轢に歯ぎしりしたりする作品かもしれなかった。DAに所属するか否かを巡る千束やたきなのストーリーは、そうした作品世界と個々の登場人物について掘り下げていく、導火線のようにも見えた。そんな風に『リコリスリコイル』を眺めていた時期があったはずだった。
 
でも、途中からそういう視聴態度で私は観なくなっていた。
今作は、この高度に統制された社会について、とりわけ千束やたきなの成立与件と社会との関わりあいについて、深くメスを突き立てる作品ではないと感じるようになった。この作品で描かれる世界を、上質な百合アクションに並び立つものとしてではなく、あくまで上質な百合アニメに従属するものとみなすようになった……と言い換えられるかもしれない。
 
もちろんこれは「今期の」「今作の」『リコリスリコイル』についてのものだ。
いまどきの人気アニメにはメディアミックスだ、劇場版だ、二期だのが伴うことが多いので、続編としての『リコリスリコイル』のなかで、高度統制社会について答え合わせが行われる可能性だってあるだろう。
 
そうした続編やスピンオフへの期待も含めるなら、今作で社会についてサラッと流したのも、「社会を描けなかった」とみるより「あえて社会を描かなかった」とみたくもなる。電波塔のことも、延空木のことも、リコリスやリリベルのことも、後半に行けば行くほど曖昧になり、千束とたきなの百合ガンアクションの後景に退いていってしまったが、それは今後のために「とっておいた」のかもしれない。あるいは本作品の眼目は百合ガンアクションであると割り切って、とにかく、かわいい千束とかわいいたきなの物語に視聴者を集中させるべく退かせてしまったのかもしれない。
 
 

かわいかったから、それでいいんだよ

 
そうした百合ガンアクションアニメへの集中は良いことだったのだろうか?
 
人によって受け取り方は違うのだろう。
私ははじめ、社会を描いて欲しいと願ってはいたけれども、この作品がどこに向かうのかわからなかったので、作品の受け取り方を決め打ちせず、どう転がっていっても楽しむぞという姿勢で見守っていた。そうこうするうちにストーリーは進み、相変わらず千束とたきなはかわいく、喫茶リコリコへの親しみも増していった。で、気が付けば、めっちゃかわいい千束とたきなが跳ね回っているのを尻尾を振って眺めていたのだった。
 
……いいじゃないか。
これ、すごく良かったぞ。
 
社会を描くことに対して本作品はだんだん消極的になっていったと否定的にみる人もいようけれど、千束とたきなのかわいい掛け合いとその周辺を描くことに本作品は集中力を高めていった、と私は受け取ることにした。
 
でもって、本作品の千束とたきなは十分に、それはもう、かわいく描かれていた。明るく行動力のある千束と、その千束に引っ張られていくようで良いところで決断力や判断力をみせるたきなのコンビを、眺めているだけで楽しい。下着を巡るやりとり、水族館でのやりとり、そして真島との戦いを巡るやりとり。そういったシーンの積み重ねをとおして、千束とたきなはひたすら魅力的に・ピカピカに磨き上げられた一対の宝石のように輝き続けた。絵の動きや構図が良く、過不足なくイベントが挟まることもあって、終始、気持ち良く眺めることができた。高度統制社会のほうに意識が奪われなくなったぶん、メインの二人組と、それを取り巻く人々に意識を集中させやすくなった。この場合、その割り切りは正解だったんじゃないかとも思った。
 
 

良いアニメにも色々あり、そのひとつのかたちに今作品は着地した

 
良い小説、良い観光地、良いワインにも色々なものがあるのと同じように、良いアニメにだって色々ある。
 
キャラクターが魅力的な作品、その作品世界や作品社会について考えさせられる作品、リアリスティックな作品、なんだかわからない「めまい」や「オーラ」が揺らめく作品……。
 
そうしたなか、今作『リコリスリコイル』は、かわいい(百合)ガンアクションアニメとして申し分のないところに着地したのだと私は受け取った。もちろん、こうでない着地の可能性もあったかもしれないし、社会派な作品に拘る人、リアリスティックな作品に拘る人には物足りなく見えたかもしれない。が、これはこれで秀逸というほかないし、最終回は家族全員で食い入るように鑑賞した。毎週、エンディングテーマを聞くのが楽しみで、あのエンディングテーマもかしましさを楽しむ作品だと割り切る一助になっていたように思う。
 
全方位に詰め込みまくった作品もいいけれども、こうやって、千束とたきなのために捧げられたかのような作品もすごくいいよね。
 
でもって、繰り返しになるけれども、『リコリスリコイル』には余白がまだまだある。いつか、スピンオフや二期や劇場版をとおしてもっと色々な『リコリスリコイル』の世界、千束とたきなのもっと新しい魅力を見せてもらえると期待して待ってみたい。
 

 
 
[追記]:なんか期待の持てるツイートを見つけた! 更新歓迎!