シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

ロボットやアリとして「現代人らしく生きる」ということ

 
 
 
 
 
anond.hatelabo.jp
 
冒頭リンク先の文章は、結婚や子育てをするでなく、仕事→給料→趣味という生活のうちに自己実現が欠如している、その実存的悩みを吐露したものだ。
 
文中から察するに、結婚や子育てが自己実現の一環をなし、実存的な悩みを解決してくれるような期待が仄見えるし、それは結婚や子育てをしていない人に起こりやすい期待かもしれない。その一方、世の中には結婚や子育てが自己実現の一環をなさず、承認欲求や所属欲求を獲得する糸口にすらならず、重荷になっている人もいる。
 
だからこの文章の重心は自己実現とその欠如、自分のためにでなく誰かのために生きざるを得ない(または生かされている)ことの虚しさや交換可能っぽさやBOTっぽさ、なのだろうと受け取った。
 
こうした問いかけに、ポジティブな回答を提供するのも不可能ではない。実際、ついているはてなブックマークコメントをみれば様々な考えが述べられていて興味深い。たくさんの人が、さまざまな方法でこの問いの答えらしきものを書いている。なかには実践できるものもあるように思う。
 
でも、今日の私はそういう気分ではなく、逆に、私たちのBOTっぽさのぬぐいがたさ、脱出不能っぽさを強調したい。
自己実現などマズローの蜃気楼でしかなく、私たちは茫漠とした肉BOTの世界を生きて、生きさせられて、生産させられて、多少の境遇差はあっても大同小異の域を出ないのではないか、と私は言いたがっているらしい。仕方ないじゃないか、という思いと、それでいいんだよ、それがいいんだよ、という思いもある。否定したい思いと、肯定したい思いが相半ばするような気持ちを、まとめられないものだろうか。
 
 

自己実現は馬を走らせる幻の人参ではないか

 
まず自己実現、という言葉の定義について。マズローは自己実現について厳密な定義づけはしていないが、おおよそ、以下のような理解で良いのではないかと思われる。
 

 自己実現した人の定義はいぜんとして曖昧であったが、マズローは大まかに次のように記述した。
「自己実現とは、才能・能力・可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる」。
 消極的な基準としては、心理的問題・神経症あるいは精神病への傾向をもたないことがあげられた。自己実現した人は、人類の中の最良の見本、マズローが後に「成長している先端」と名付けられるようになったものの典型である。
『マズローの心理学』より

 
この成長している先端とは、たとえば研究やスポーツなどといったなんらかの分野で先端的技能や先端的業績に辿りつき、さらなる高みを目指している人がそれにあたると思われる。まず、これが難しく、達成したとしても人の一生のなかで先端に居続けること自体が難しい。稀にそうした人生もあるかもしれないが、おおよそ、凡夫が目指せる境地ではない。各方面の秀才ですら、たいていは一時的にしか達成できない状態だろう。
 
"自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる"、というフレーズも厄介だ。この条件を満たすためには、他人と比較して嫉妬するようなキョロキョロしたところがあってはいけない。本当は自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のこととしてしがないサラリーマンをしている人でも、他人と比較して嫉妬してしまい、自分はもっと伸びたのではないか、などと羨んでいてはこの条件には該当しなくなってしまう。*1
 
まあそれでも一時的にしても自己実現にたどり着いたとしよう。
で、置き換え可能なBOT感がなくなったと本当に言えるのだろうか?
 
自己実現について考えた時、私は、マズローの心理学が産業界に受け入れられ、例の、マズローの欲求段階説ピラミッドが今日でもまだ引用されていることに思わずにいられない。欲求段階説のピラミッドが古い古いと誹りを受けてもなお、繰り返し引用されているのは、産業界との親和性が高いこと、労働者や実業家が生産効率を向上させていくのに都合の良い言説だったからでもある。ドラッカーなどもそうだが、産業界がたびたび引っ張ってくる啓発的な言説は、どれほど人間の可能性を謳っているようにみえても、それは資本主義に適合する詩であり、生産性や効率性に貢献する社畜の歌である。ここでいう社畜とは、文字通り会社の家畜という意味だけでなく、社会の家畜という意味を含んでいると付言しておく。労働者は会社の家畜をとおして社会の家畜をやっているし、資本家や経営者はもっと大きな規模で社会の家畜をやっている。いずれにせよ、マズローやドラッカーのいざなう理想には、資本主義のユニバーサルタグがついている。
 
自己実現。至高体験。
しないよりはしてみたいかもしれない。だけど、それらもまた、生産性や効率性を至上命題とする資本主義の、そして現代社会の掌の上でのワンシーンに過ぎず、レアで、一過性に過ぎないものでしかない。なにより、そうした自己実現や至高体験は、ちょっと深く考えてみれば、別に自分がそうならなくっても構わないことでもあったはずなのだ。たとえば蒸気機関のワットやiPhoneのジョブズはそれぞれにたいした人だとは思うけれども、ワットやジョブズがいなくても蒸気機関やiPhoneに相当するものはやはり世の中に現れただろう。よほどの例外を除いて、偉人や有名人すら置き換え可能なBOTではなかったか。椅子取りゲームのユニットではなかったか。芸能人や研究者はどこまで唯一無二だろう。世の中には、自分自身のことを唯一無二だと思い込めている幸福な人もいる。が、その人がいないならいないで、ほんの少しだけ運の悪かった同僚やほんの少しだけ間に合わなかった後輩がその位置を占めていたはずなのだ。
 

自己実現できていない会社員って置き換え可能なbotでしかないわなぁ。むなしくなる。
無私な毎日だわな、ほんと。宇宙人が見たら、あまりの規則性に驚くと思う。人間がアリの習性に驚くように。

 
だから、かりに自己実現したとしても、そんなのは、ちょっと珍しい役割を引き受けた働きアリの一匹でしかないのではないだろうか。
今日の発明発見や創作の相当広い領域は、大局的にみれば、一人で作っているというよりみんなでつくっているのであり、時代がつくっているのでもあり、自分がやらなくても誰かが似たようなものを創りだす可能性が高い、そんな何かだ。そのうえグループによる研究や創作もあるわけだから、自分、というものに拘って発明発見や創作を見つめるのは、自己愛を充たすには適していても、事実からは遠い。そうした諸々を承知のうえで、それでも何かに挑む、何かを創るという行為には喜びが、フロー体験が伴うとは言える。文脈によっては、私はそのフロー体験をありがたがってみることもあるのだけど、今日はそういう気分じゃない。脳汁が出てるだけじゃねえか。ずっと出ているわけでもなし。唯一無二の脳汁であるわけでもなし。
 
自己実現も含め、希少で、ありがたいものを夢見て、結局、目の前にぶら下げられた幻想の人参に向かってダッシュし、生産性や効率性を搾り取られて社会のネズミ車を回しているのが私たちなのだから、どこまで行っても社会の掌の上でしかない。そして社会の内部において私たちは常に群体であり、その生態は、ギトギトの個人主義者が思い込んでいるほど個人主義にそぐうものではない、と私なら思う。
 
 

アリの一匹として、社会の細胞のひとつとして、ただ生きる

 
それらを踏まえたうえで、私たちが生きて暮らすとは、一体どういうことなのか見つめ直してみる。
 
私たちはしばしば、取り換え不可能な社会関係やかけがえのない活動をとおして、実存を、自分が生きる意味や生きがいを見出す。
承認欲求や所属欲求を馬鹿にしつつも、それらを心の支えに生きていたりもする。
きっと、そのほうがメンタルヘルスにも良いだろうし、個人主義的イデオロギーにも、資本主義的要請にもかなっていよう。
だからそういう思い込みが可能で、しかもメンテナンスできる人はとても幸せな人ではある。冒頭のはてな匿名ダイアリーを書いた人が夢見ている正解とは、結局、こういった「実存があると思い込めて、承認や所属の欲求にももたれかかっていられて、しかも、それをメンテナンスできる人」なのかもしれない。
 
が、本当じゃないな、とも思う。
 
人はもっとバラバラで、思い通りにならず、家族や子どもをとおして獲得できるアイデンティティとて一過性でしかない。自己実現だのフロー体験だのは、なおさらだ。賢者タイムみたいなもの。それか、衰退の約束された有頂天のようなものだ。
 
そうやって心細く、思い通りにならない生に生まれてしまって、管理のなかで生きて、管理を内面化して、よく学びよく働きよく年を取っていく世のならいを漫然と受け入れながら、それでも生きていく、生きざるを得ないのが人間の実態であると今日の私は特に思う。「そういう一面が人間の生にはついてまわる」と、トーンを下げて言い直すべきかもしれないが。
 
人間は生きている限り苦しく、空しく、なんのために生きているのかよくわからない境地にあり、思いつきと思い込みと偶発的才能によって時々自己実現や実存を幻想することはできても、それらも無常でしかないので結局ダラダラ生きて生かされているのだと思う。じゃあ安楽死? それを決めるのも社会であり制度であり、たぶん、資本主義も含めた体制ですよね。我々が決めていいものじゃない。でもって体制はたぶん、ロボットのように働けちゃう私たちに容易く安楽死の門はくぐらせないだろうし、安楽死しようよではなく、もっと楽しく生きようよとか、もっとポジティブに生きようよとか、もっとあなたらしく生きようよとか、声をかけ、支援を促すだろう。言い換えれば、ロボットのように働けちゃう私たちはもっと楽しく生きなければならないし、もっとポジティブに生きなければならないし、もっとあなたらしく生きなければならない、のだと思う。少なくとも、そういう読み換えは可能だ。
 
だから本当はアリのように、社会の細胞のひとつとして生きなければならない私たちにせいぜいできることは、せいぜい趣味や余暇を楽しんだり、家族や友人も含めた社会関係などをとおして実存を幻想したり、それぐらいのものだと思う。それぐらいのものだ、と書いたらたいしたことないように思えるかもしれないけれども、一匹一匹のアリである私たちにとって、案外それが重要だったりする。くだらないことに入れ込んだり、お笑い芸人に楽しませてもらったり、プロ野球やプロサッカーの結果に一喜一憂する、そういうひとつひとつだって、案外生きることの肝心な要素たり得るのではないだろうか。
 
と同時に、私たちにせいぜいできることは、私たちがせいぜいできなければならないことでもある。趣味や余暇は、仕事と同じく、ロボットとしての人間やアリとしての人間ができなければならないこと、そう言って語弊があるなら、できていることが望ましいことだ。私たちが社会に趣味や余暇を求めると同時に、社会は私たちに趣味や余暇を求めている。そういうものとして、私たちは、生きて、生産して、消費しなければならない。こう書くと人間はなにやら悲惨で悲観的で重たいもののように感じられるかもしれない。けれども体も心もよく訓練された現代人は、こうしたことを空気を吸うようにやってみせる。そして私には生きがいがあります、実存がありますと進んで証言してくれたりもする。よくできた現代人とは、そのようなものかもしれない。
 
オーライ(なにが?)。
冒頭リンク先の筆者のように、それか今日の私の気分のように、人はときに迷ったり嘆いたりする。ロボットのような生、アリのような生、社会から期待され資本主義的体制に最適化された生に対して、ふと、素面になってしまう瞬間がある。幻想の人参を取り戻さなければならない。ロボットのような生やアリのような生に実存の覆いをかぶせ、現代人らしく生きてみせるのだ。本当によくできたBOTは、実存について悩んだりはしない。
 
 

*1:マズローは、持論の適用できる範囲から神経症~精神病の傾向を持つ人を外しているので、他人と比較して嫉視するようなところのある人間は適用外、ということになるのかもしれない。ちなみにここでいう神経症にしても、マズローのいうそれはICD-10のF4圏などと比較すれば広範囲をカバーしており、精神科や心療内科を受診していない者が広く含まれると想定すべきだろう。マズローは神経症かどうかの判定を概ねホーナイに委ねているので、ホーナイの神経症的人間、神経症的人格が参照先となり、ならば、明らかにサブクリニカルな層を含んでいる。で、話は戻るが、SNSの時代、あまりにも他人が見えてしまう現代において、ここでいう神経症的人間にならずに生きるとは……どれぐらい簡単だろうか? 今日の生育環境で神経症的人間たらずに済む与件とはどのようなものだろう? 結構難しそうに思える。

キリトとアスナの新婚生活は現在のオンラインゲームでも可能か

 

 
2020年代になって『ソードアートオンライン』も遠い昔の作品、ライトノベルの古典に思えるようになった。で、同世代のオタクな人と会話になった時に、「今、オンラインゲーム(特にMMO)をやっている若い人は『ソードアートオンライン』みたいな夢がみられるか」といった話になった。
 
なんていうか、『ソードアートオンライン』の一巻でキリトとアスナが新婚さんみたいな生活をゲームの向こう側で実現していた、ああいう夢を見ることって今のオンラインゲームのプレイヤーに可能なのか、そこまでいかなくても「現実の向こう側」を夢見て楽しめているのか、みたいなことが気になったのだった。
 
 

00年代のオンラインゲームは「現実の向こう側」ではなかったか

 
『ソードアートオンライン』を知らない人向けに断っておくと、同作は00年代前半から連載され、10年代に入ってとりわけ広く知られるようになった。ゲームの仮想世界に完全没入できる装置が開発され、新しいオンラインゲーム「ソードアートオンライン」を始めた主人公たちが、諸々の事情でゲームからログアウトできなくなり、仮想世界のなかで生き延びなければならなくなり、脱出するまでにさまざまな物語が展開される。それが『ソードアートオンライン』の最初の物語だった。
 
この作品の魅力はたくさんあり、それらを列挙していてはきりがない。けれども魅力のひとつとして「オンラインゲームの向こう側の世界に行く夢」「現実ではないゲームの世界に没入し、そこで冒険をして、人間模様もあって、恋だってする」といったものがあったように思う。作中で「ソードアートオンライン」の攻略が終わり、登場人物がオフラインでも集まれるようになってからは違った魅力も出てくるのだけど、少なくともはじめのほうは「完全にゲームの向こう側に行っていること」そのものがひとつの夢物語だったと記憶している。
 
そうした「ゲームの向こう側」の夢は『ソードアートオンライン』の序盤の魅力であると同時に、往時のオンラインゲームプレイヤーが夢見たものでもなかっただろうか。
 
ウルティマオンライン、ファンタシースターオンライン、リネージュ、ファイナルファンタジー11、ラグナロクオンライン、等々。
 
色々なオンラインゲームがあったけれども、それらに接続し、仮想世界で職業をこなし、人間関係をつくっていくのはまさに「ゲームの向こう側」に行くことだった。オフ会で集まるようになると話が少し変わってくるのだけど、実のところ、オフ会だって「ゲームの向こう側の、そのまた向こう側」といった感じで、ゲームの世界は現実の延長線とみられるよりも、現実とは違ったどこかだった。
 
そういう意味では、当時、オンラインゲーム依存を槍玉にあげていた人々が「現実逃避だ」と言っていたのは当たっている部分もあったように思う。実際、サーバに接続しディスプレイの向こう側に夢見ていたのは、たとえば現実で四苦八苦している人でもゲームのなかでは活躍できる世界であり、力や美しさを獲得できる世界でもあった。少なくとも現実と地続きの世界としてオンラインゲームをやっている人は滅多にいなかった。
 
そうやってゲームの向こう側に夢を見た結果、入れ込み過ぎてしまう人々を、精神医学の専門家たちはオンラインゲーム依存やゲーム障害といったテクニカルタームで整理しようとしていたし、現場のプレイヤーたちも、あまりにも過激に入れ込むプレイヤーをやっかみや揶揄を込めて「廃人」と呼んでいた。実際、「廃人」が過ぎれば現実がおろそかになり、ソーシャルスキルが低下したり心身の不健康な状態に陥ったりすることがあり得るし、海外では死人も出ていたから、仮想世界にとらわれてしまった人々が問題視されるのは、当然の成り行きだったと言える。「ゲームの向こう側」に行けること・現実と隔絶された世界にいられることは、オンラインゲームの魅力のひとつだったけれども、それは脱-社会的なことでもあったからだ。
 
と同時に、当時のオンラインゲームは単なる世界の代替品ではなく、「最先端のどこか」や「未来的などこか」でもあった。『Second Life』で盛大に勘違いする人が現れた一因も、そこが単なる現実の代替品ではなく、新世界でもあったからだろう。
 
 

2022年。「現実の向こう側」はあり得るだろうか?

 
それから歳月は流れ、『ソードアートオンライン』はライトノベルとしては古典になり、オンラインゲーム、とりわけ「ソードアートオンライン」的なMMOは最先端でも未来的なものでもなくなった。ありとあらゆるゲームがオンライン化され、SNSやDiscordをとおしてプレイヤー同士が繋がりあい、小学生でもボイスチャットをやるようになった。そんな2022年において、ゲームの向こう側とはどこまで想像可能・没入可能なものだろうか。
 
先に触れたように、『ソードアートオンライン』では、主人公のキリトとメインヒロインのアスナが新婚さんごっこをしていた。それは、MMOプレイヤーの夢物語であると同時に、実際にMMOのなかで起こり得ることでもあった。起こり得ることだったからこそ、キリトとアスナの新婚さんごっこが『ソードアートオンライン』の作中に描かれ得た、とも言い換えられるかもしれない。
 
ゲーム世界のなかで恋人同士のように言葉を交わし、エモを交わし、結婚式もあげる。男性プレイヤーが女性キャラクターを操作し、その女性キャラクターに別の男性プレイヤーが惚れたり貢いだりすることだって起こる。ゲームの仮想世界の内部でそうしたことが起こるのだから、新婚さんごっこが「ソードアートオンライン」という壮大な夢のなかで描かれても違和感はなく、むしろ「あるあるネタ」だった。
 
しかし2020年代のMMOにおいて、そうした新婚さんごっこがどこまで可能なのか? そもそも、そうやってゲームの仮想世界を現実世界と対立するものとみなすことが、どこまで可能だろう?
 
インターネットがアーリーアダプターのものからレイトマジョリティのものへ、それからラガードのものにまで広がっていった頃から、「ネットは現実と繋がっている」「ネットと現実はシームレス」と言われるようになった。そうに違いない。あらゆる経済活動、あらゆるニュース、あらゆる政治がインターネットでも繰り広げられるようになった今、インターネットと現実を二項対立的に論じるなんて時代遅れもいいところである。
 
だとしたら、オンラインゲームも現実と二項対立的に論じるべきじゃないだろう。
 
少なくともゲームデザインやゲーム運営やメディアミックス戦略、そして現代のプレイヤーのゲームとの向き合い方から考えるに、オンラインゲームはもう、「現実の向こう側」とは呼びづらくなってきてないだろうか。オンラインゲームは、ゲームそのものを包み込む別種のオンライン空間やオンラインメディアと繋がりながら成立している。でもって別種のオンライン空間が現実とシームレスなのだから、一枚噛ませているとはいえ、ゲームの仮想世界は昔ほど現実から隔たったどこかとは言えなくなっている。
 
プレイヤー同士のコミュニケーション手段も今では充実しているから、ゲーム内の機能の限定的なチャットツールにしがみつかなければならない道理はなく、たとえばSNSやdiscordを使ってコミュニケーションすれば良い。プレイ中も、キーボードを使って会話しなければならない道理はなくなった。ボイスチャットをしてしまえばいいのだ。ボイスチャットは今ではまったく珍しくなくなっている。
 
そういった、ゲームの外側のコミュニケーションツールによって便利になったことは沢山ある。けれども、それらのツールに慣れれば慣れるほど、そのゲームは「現実の向こう側」ではなく、より現実に近い位置に留め置かれてしまう。そもそもインターネット自体も現実とシームレスになってきているのだから、それは仕方のないことだ。そして自分自身のボイスが発せられ、他のプレイヤーのボイスが耳に届くことによって、ゲーム内でのコミュニケーションは、実際の人間同士のコミュニケーションへと接近していく。 
  
タイトルで「キリトとアスナの新婚生活は今のオンラインゲームでも可能か?」と問うたのは、こうしたコミュニケーションの変化と、ゲーム世界と現実との距離感の変化を踏まえたうえでの問いだ。ひとつのオンラインゲームの内側でプレイヤー同士のコミュニケーションが完結できていた時代が終わり、ゲームの内側でコミュニケーションを完結させようとするのが一種のこだわりプレイに変わってしまった今の時代に、MMOのなかで新婚さんごっこ、恋人ごっこはどれぐらい可能だろうか? あるいはゲーム世界内の地位や財力や権力にのぼせあがることがどこまで可能だろうか?
 
ちゃんと工夫すれば……できるかもしれない。でも、ちょっとゲームの外に目を向ければ、魅力的な女性キャラクターのプレイヤーが本当は冴えない男性のものだったと知れてしまう。勘違いと幻想から始まるネットの恋など、これでは始まりようがない。あるいはゲームでは対等の地位や財力を持っているとみなしている相手が、現実でも大金持ちだと知れてしまうかもしれない。そしてボイスチャットは、その息遣い、その声音、その背景音などをとおして、お互いのナマの人間性を漏洩してしまう。
 
今、オンラインゲームをやっている若いプレイヤーは、ゲームの外に目を向ければSNSやdiscordのアカウントが目に入り、ボイスチャット越しにさまざまな情報(いや、現実の向こう側に行くうえでは、ノイズというほかない)が耳にも入る環境でオンラインゲームをやっている。それは、プレイヤー同士を現実に近いかたちで結びつけるには適しているし、そんな環境のなかでもキリトとアスナのような仲になっていく男女がいるとしたら、従来の恋人同士とほとんど変わらない。だとしても、コミュニケーションが現実に寄りすぎてしまったせいで、イージーにゲームに幻想することが難しくなり、「現実の向こう側」で権力者や勇者や男女交際を幻想するのも難しくなってしまった、とも言える。
 
2020年代から『ソードアートオンライン』、とりわけ「ソードアートオンライン」世界を攻略する物語を思い出すと、あれが「現実の向こう側」の夢として一番訴求力を持っていた時代は過去になったんだなと思わずにいられない。だから『ソードアートオンライン』が駄目だとか、読む価値が無いとか言いたいわけではない。逆かもしれない。『ソードアートオンライン』には、まだオンラインゲームの隔絶度が高く、「現実の向こう側」として幻想可能だった頃のフィーチャーやエモーションや希望がぎっしりと詰まっている。同作者の『アクセルワールド』とあわせて、00年代のオンラインゲームとその周辺の息吹をライトノベル作品として昇華したようにも今は読める。たとえそこに創作上のご都合主義やお約束があるとしてもだ。いやいや、そうしたご都合主義やお約束すら、同時代を思い出すフックになる。
 
 

今、「現実の向こう側」といえば異世界じゃないか

 
ところで、ゲームが現実とシームレスになっていくのをよそに、異世界転生の物語は現実と隔絶している。そこに登場するノウハウやテクノロジーは現実からの借用かもしれないし、魔法やスキルはゲームからの借用かもしれない。それでも、現実との行き来が不可能か、ものすごく困難な異世界の物語は、読者を「現実の向こう側」へといざなう。少なくともそのような、現実を気持ち良くシャットアウトした異世界転生の物語は存在する。
 
そのような異世界転生の物語の魅力とは、案外、オフラインゲームの魅力や、もっと古典的な物語の魅力に近いものかもしれず、ことさら新しいと喧伝するほどではないかもしれない。いずれにせよ2020年において、オンラインゲームを通じて幻想するよりは、「現実の向こう側」の想像や幻想を炸裂させるには手堅いように思う。
 
 

残り時間を気にしながらいつも走っている

 
president.jp
 
4月に入ってからいろいろ忙しいため、しばらく読むのを後回しにしていたけれども、読んで得心するものがあった。そうか、私はこれを読むのを怖がっていたわけだ。
 
リンク先の文章は『裸の大地 第一部 狩りと漂白』という書籍からの抜き出しであるという。そこに書かれている、冒険家の筆者が43歳という年齢を迎えて思うこと・実行することは私には身近なことと感じられ、他人事で済まされるものではなかった。
 
四十代になって見えてくるいくつかの問題。
 
ひとつめ、厄年の問題。
 
古来、日本では42歳は厄年と言われ、忌み嫌われてきた。実際には、女性の厄年としての33歳、子どもの厄年としての13歳もあり、それら厄年みっつの合計数である88が、四国遍路の霊場の数だったりする。
 

「四十二歳は日本人にとって不吉な年なんだろ。ナオミだって死んだ。カナダで氷に落ちて死んだのもいただろ。日本人はみんな四十二歳で死ぬんだ。たぶんあんたも北方の旅から村にもどる途中、イータの地に立ち寄り、そこで命を落とすことになる。あんたの遺体はオレが六月に鴨の卵を取りにボートでイータにむかったときに発見することになるだろう。本当だよ」
(上掲リンク先より)

この、イヌイットのシャーマンの言葉をひいたうえで、筆者は日本の探検家たちが43歳前後で相次いで命を落とした事実を振り返る。確かに、それぐらいの年齢で亡くなった探検家は多い。でもってリンク先の文中にも書かれているように、これは、職業によっていくらかのズレを含むものでもあるのだろう。たとえば瞬発力を必要とするスポーツなら危機の年齢は早まり、たとえば結晶性知能で勝負の職業なら危機の年齢は遅くなるだろう。eスポーツ選手などは、もっともっと早くに危機の年齢が訪れるのかもしれない。
 
危機の年齢と言って語弊があるなら、人生の曲がり角、とでも言えばいいか。とにかく、発展と発達の一途にあった人でさえ上り坂から下り坂に変わりやすい時期を、いにしえの人々は厄年と名付け、注意を払った。思春期の盛りを過ぎた後、人間の肉体は少しずつ衰え、いっぽうで経験は少しずつ蓄積していく。その能力の総和として、これから下り坂に入っていく直感が得られる時期が厄年のあたりなのだろう。
 
ふたつめは「今ならできる」という問題。
厄年のあたりで自分が下り坂に入っていくという直感が得られたとて、本当に衰えてしまう時期はまだ遠い。これも職業によるが、基本的にあと何年かは全盛期に近いアウトプットが期待できるし、衰えを補えるぐらいの経験蓄積も期待できる。全盛期そのもの、ではないかもしれないが全盛期に近いアウトプットを、残り何年かは叩き出せるという目算が立つ。
 
これも私自身にはわかる感覚で、今の私は30代の頃にできなかった幾つかのことが楽々とできるし、30代の頃には読めなかったものが読め、書けなかったことが書けるようになっている。ああ、もし今の私ぐらいの能力が20代や30代の私自身に宿っていたらどんなことができたんだろう、という思いと、いやいや、40代になってようやく今の私ぐらいの能力なのだから、この先は知れているという思いが相半ばする感じだ。と同時に、おそらく人生のなかで現在ほど高い打点でヒットやホームランを狙える時期は無いはずだ、という直感もある(これが、後述する残り時間に対する焦りをも生む)。
 
だから、物書きとしての私は今、全力で、できれば、全裸で走りたいと願っている。おそらく人生のなかで一番高い打点でヒットやホームランが狙えるのは、今を置いて他にないからだ。私よりもずっとずっと偉大な物書きの先人たちを見ていても、代表的な作品が50代を過ぎてから出ている人はいないわけではないが少数だ。だから統計的に推定しても、自分自身の直感に問いただしても、まさに「今ならできる」だとしか思えない。
 
しかし、リンク先にはその「今ならできる」について以下のように記されている。
 

実際にできるかどうかより、たぶんできるはずだと思えるようになるところがポイントだ。

若くて経験値がひくく想像力が貧困であれば、実際の経験の外側にある未知の世界は、純粋に未知で、予測がつかないぶん恐ろしく、そこに手を出すことなど考えられない。あるのは体力だけ、だから思いつく計画のレベルもたかが知れている。

ところが経験値が増して世界が大きくなると、その外側にある未知の領域のこともなんとなく予測できるようになり、いわば疑似既知化できる。予測可能領域がひろがり、本当は未知なのに、なんだか既知の内側にとりこんでしまっているような感覚になり、それなら対応可能だろう、と思えてくるのだ。だからカヤックの経験が皆無でも、北極で長期の旅を何度もこなしていれば、つぎは北極をカヤックで旅するか、という発想がおのずとうまれる。経験と予測の相関関係はこのような仕組みになっている。

この文章を読むと、中年期の「今ならできる」の感覚のなかには、経験の蓄積や世界の拡大に伴って可能になった、ある種の先読みによる疑似既知化が含まれていると記されている。つまり「本当はやっていないことでも」「これまでの経験と照らし合わせて、おそらくこれぐらいでできる」という読みをきかせてしまっている部分。
 
たぶん、ここが中年が人生を滑落を滑落させるポイントのひとつなのだろう。中年の「今ならできる」という手ごたえの内側には、先読みによってだいたいできると推測しているもの、逆に言えば、本当は踏破していないものが含まれている。「今ならできる」と思ってトライするものに対する予備調査能力も若い頃よりは高まっているに違いない。けれどもそれはどこまでも推測の域であり、予備調査でしかない。それらに基づいて大股なトライをした時、何%の確率かはわからないが、足を滑らせたり、脱出不能の穴に落ちたりする可能性は否定できない。だのに、「今ならできる」と思い込んでいると、推測や予備調査にうつらない穴の存在を忘れてしまう。
 
なにより、みっつめは残り時間の問題。
どんなに「今ならできる」と思っていても、中年には残り時間がない。

このように四十になると、人の世界は経験によって拡大膨張し、その大きくなった世界をよりどころに様々な局面を想像できるようになり、冒険家にはなんでもできるという自信がうまれる。つまり経験値のカーブは上昇線をえがく。その一方で、肉体は衰えはじめ、体力や勢いや気力などが低下し、個体としての生命力は下降線をしめす。

リンク先の筆者は、経験が増えても体力が、気力が、生命力が落ちていく、その交叉点として40歳か41歳を挙げている。繰り返すが、これは冒険家の場合で、スポーツ選手なら、医者なら、それぞれまた異なった年齢が交叉点になるだろう。いずれにせよ、その交叉点を越えてからは経験の蓄積を生命力の衰えが凌駕していくようになり、総合的なスペックは下降線を辿るようになる。
 
「今ならできる」という感覚と、総合的なスペックの翳りが重なる時、人は焦りを感じる。「今ならできる」が「今やらなかったら、もうできない」になっていく。ゆえに筆者はこう書いている。
  

南極大陸犬橇横断を最終目標としていた植村直己が、やらなくてもいいように思える冬のデナリにあえてむかったのは、なんでもいいから身体を動かしておかないと、南極が、すなわち彼固有の、彼にしか思いつけない最高の行為が遠のくという焦りがあったからだ。北極点から愛媛の自宅に帰るという旅に出発した河野兵市にも、おなじような焦燥があっただろう。
 
すくなくとも、二〇一八年三月に私をシオラパルクにむかわせた原動力として、この年齢の焦りは確実に作用していた。私がやりたかったのは、北極で狩りをしながら長期に漂泊することだ。それは今年やらなければ、もう永久にできないことだと思われた。

植村直己の挑戦とご自身の挑戦とを、筆者はここでダブらせている。「今年やらなければ、もう永久にできない」。私もまた、それにシンパシーを感じた。私も物書きとして、今年とは言わないにしても2020年代にやらなければ、もう永久にできないという気持ちを抱えている。「今なら書ける」が「今書かなかったら、もう書けない」になるきわの淵に、私は立っている。
 
 

中年期危機のリアリティ

 
中年期危機(midlife crisis)とは、言い古された言葉ではある。
アメリカ精神医学の教科書である『カプラン精神医学』では、日本語版第二版までこの言葉が使われていて、第三版からは人生中期の過渡期(midlife transition)とソフトな言い回しに「改正」している。「改正」とは同教科書の編集陣から見てのことで、政治的にあまり正しくない私がこのソフトな言い回しを改正として鵜呑みにするのはやや難しい。というのも、内容的にはだいたい同じで、そのボリュームを縮小したうえで、言葉遣いをソフトにしているからだ。まるで、今日日の世の中みたいだし、私はここに、アメリカの加齢フォビアな世相に対する、精神医学界の配慮や譲歩を勘繰りたくなってしまう。
 
さておき、中年期危機や人生中期の過渡期のリアリティに、私はようやくたどり着いたという手ごたえが今はある。
 
43歳の時、私は中年期の面白さやできることの増えるさまに感化され、『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』という一種の賛歌を作ったが、この時点では、「今ならできる」→「今やらなかったら、もうできない」の感覚がまだよくわかっていなかった。今は、それがビシバシわかる! 中年には、残り時間がもうないのだ!
 
ここに、私の場合は「今もこれからもすべきこと」が加わる。本業のこと、家庭のこと、物書き以外でなすべきこと、そういった事々を背負った状態で、私は私だけの南極大陸犬橇横断に挑まなければならない、いや、挑みたいと思ってしまう。こういうイカロスの太陽特攻じみたトライアルに心惹かれる感覚は、43歳時点ではほとんど感じなかった。中年期は比較的長い穏やかな時期という人もいるが、いやいや、たった数年でも景色は結構変わるものじゃないですか。
 
その景色の変化を楽しみにしている、と数年前の私は言ったし、実際これも新鮮に感じるのだけど、心身ともに少しずつ衰えていくなかで、手持ちの、もはや20代の人々からはアナクロとみられるであろう手持ち兵装で全力撤退戦をやる時の景色には、ほろ苦さと、アドレナリンを伴った加齢臭が伴っていて、ちょっといたたまれないものがある。けれども、それをやるっきゃないし、今やらなかったらもうできないのだから、私は老骨(失礼、もっと年上の人々からみればまだ若い、けれども20代からみれば気力集中力もそぞろになった、と訂正する)に鞭打って手を動かすのだ。もう、それすら十年後には思い出になってしまうと確信しながら。
 
こうなってみると、中年期危機の項目に書かれていた、「人生最後の勝負と銘打ってみずから人生をひっくり返してしまう中年」のことが他人事ではなくなってしまう。数年前までの私は、中年期危機のうち、抑うつや空の巣症候群や男性の更年期障害などは恐れていたが、「人生最後の勝負」のたぐいをせせら笑っていた。ところが今の私はそういう心境にシンパシーを感じてしまう。『機動戦士ガンダム』シリーズで言えば、旧式モビルスーツをかき集めて一旗あげようとするジオン残党と今の私はたいして変わらないのかもしれない。
 
と同時に、かつてここで書いた、駆け抜けるような研究人生や臨床人生の彼岸にたどり着いた50代の先輩がたを思い、ああ、あの先輩がたはこの危機のサバイバーだったんだな、とも回想する。走り抜けて50代にたどり着くことを、今の私はまだ羨ましいと思いきれていない。まだ戦いはおわっちゃいない──たとえその思いが、遭難してしまった冒険家たちの思いに相通じるものがあるとしても。
 
戦わなきゃ、と思う。
誰と?
自分と。
迫りくる時間と。
何かを書く、何かを表現する、何かを伝えるということと。
あるいは世間と。
  
後悔は、どのようにも起こるものだ。だとしたら私は、走って、走って、前のめりに転んでも構わないから走って、そのうえで後悔というものを手にしてみたい。中年の危機ではなく、人生中期の過渡期、か。ふん、悪い言い回しじゃないのかもしれない。そう思いながら、今日も私は、ありとあらゆる空き時間を文章を書くためのタスクで埋め尽くす。
 

現代社会プレイヤーとしての私が語れる言葉/語れそうにない言葉

 
II-3 男性にも「ことば」が必要だ – 晶文社スクラップブック
男性から「ことば」を奪っているのは男性自身ではないか - あままこのブログ
 
上掲リンク先のやりとりを興味を持ちながら眺めた。そこで展開されている、男性に言葉があるかなきか、男女双方がどうやって・どれぐらい抑圧しているのか/されているのかの問題は、私の追求したいテーマそのものではないので、興味のままに文章を追った。
 
とはいえ、結局この方面で私自身にとって本当に関心があるのは、1.私自身(と私に関わりの深い人々)の利害と表現をどう防備していくのかと、その延長線上の話として、2.その防備のために誰に味方すべきか、といった単純政治の次元で、それより深いレベルの議論は自分には難しそうだった。
 
で、一連のやりとりを読みながら私が点検したのは、私自身が語る言葉をどれぐらい持っていて、語れそうにない言葉をどれぐらい溜めこんでいるかだ。
 
あらかじめ前提を述べると、私は、2022年の日本社会でいちおう専門家のライセンスを持った状態で働きながら分泌業、もとい文筆業を兼ねている、そういうホモ・サピエンスの男性だ。典型的ではないかもしれないが、現代社会の男性プレイヤーの一人には違いない。
 
では、その現代社会の男性プレイヤーである私は、どこまで自分自身について語る言葉を持ち、語れない言葉を抱えているのか?
 
語る言葉、語れる言葉も結構ある。こういってはなんだが、私は四半世紀ほどインターネット上で文章を書いてきたし、ブログに限っても17年ぐらい書いている。だから自分の言いたいこと、自分のオピニオンを言うことには慣れているほうだ。多くの人に嫌われてでも、問うてみたいことを問うことだってある。
 
たとえば「オタクだって必ず変わっていくし、必ず年を取っていく」というテーマは私の2005年頃からのお気に入りで、これがはてなブックマーク界隈ではすこぶる不評だが、それでもこれは諸行無常の一端であり、ゆえに真実不虚であるから、これからも私は問い続けることができるし、問い続けるに違いない。
 
その一方で、私が言えない言葉もたくさんある。
そうした言えない言葉のなかには、くだらないものや益体もないものも多い反面、本当は薄氷の上を歩くような問題だと思っていてもなかなか言えないもの、吐き出せないものも少なくない。いわば、はてな匿名ダイアリーや5chぐらいでしか吐き出せない言葉たち。とはいうものの、それらの場も結局は書いた人間に紐付けられているので、私は匿名っぽいインターネット空間で裸の王様になるほど気楽にはなれない。
 
男性として・中年としての私のなかに眠っている幾つかの悩み、幾つかの願望、幾つかの不公平感といったものを、もし言葉にしてしまった時、どんなペナルティを受けるのか、どんな詰問を受けるのか、どんな心証変化が起こるのか、想像するのは難しくない。そんな言葉が私の心身にはいくつも眠っている。同年代の女性たち、いや女性全般も男性全般もか、きっと皆もそんな言葉を心身に幾つも眠らせているのだろう、とも想像する。
 
まさにこれこそが社会からの抑圧とかそういった話とリンクするのだろうけれど、「これを言ったらプレイヤーとしての私の立場がはっきり悪くなる言葉」というのがこの世にはすごく沢山あって、その沢山の語れそうにない言葉たちを束ねているのは、世間の通念であったり、現代の価値観であったり、ときには法や制度だったりもする。語れそうにない言葉を語れそうにない言葉たらしめているのは、正当性を伴った推奨されるべき制約であれ、不当な抑圧としてひっくり返さなければならないものであれ、ともかくも、他者によって構成された社会の側だ。社会のなかでプレイヤーをやっている私は(いや私たちは、か)、社会を眺め、言える言葉と言えない言葉を随時判断している。男性が言えない言葉を作っていることもあれば、女性が言えない言葉を作っていることもあるのかもしれない。けれどもホモサピエンスは男と女という性別にもとづいて世代を紡いできたことを思えば、どちらかが言える言葉/言えない言葉を作っているとみるより、両者の共犯関係や共振関係をこそ検討したくなる。
 
おっとっと、深入りしそうになってしまった。
いや、そんなことより、とにかく私は、リンク先のベンジャミン・クリッツァーさんとあままこさんのお話を読み、「社会に適応するプレイヤーが、機会主義的に言動を最適化していったら、とりあえずめっちゃ言えない言葉あるよね」みたいなことに思いを馳せたのだった。でもって、その機会主義的に言葉を最適化していることに抑圧を感じると同時に、その抑圧を意識しながらもなお自分の行動を自動的に最適化している自分自身に面白味を感じたりもした。世の人々も、そうやって抑圧を感じると同時に、抑圧があっても自分の行動を自動的に最適化しているとみていいのだろうか。でもって、私のようにそんなオートマチックな所業を面白いと感じたりするものなのだろうか。
 
プレイヤーとして語れそうにない言葉の多くは、それを語るとプレイヤーとしての私が大小のペナルティを被ると予測される言葉で、かつ、一部は功利主義や危害原理に抵触するから語るべきではなさそうな言葉でもある。もちろん、そういう言葉を語れそうにないとて、そこまで気落ちする必要もない。そういう言葉だったら慎んだほうがいいだろう。
 
他方、弱音や溜息のような言葉を書ききれない、吐き出せないと感じる場面も結構ある。ブログやSNSやオフラインで、弱音や溜息はどこまで吐き出せるものだろうか。これは年齢や立場や媒体によって異なるはずで、たとえば小学生が友達に向かって吐き出して良い言葉と、四十代も後半にさしかかった男性プレイヤーである私が友達に向かって吐き出して良い言葉はやはり違うだろう。友達ではなく、親だったら、見ず知らずだったら、結婚相手や恋人だったら、と対象を変えてもやはり違うだろう。いずれにせよ、どの場合であっても語れそうにない言葉が存在していて、なぜ語れそうにないかといったら、社会というコンテキストのなかでそれらの言葉を発するとプレイヤーはペナルティを被ることになるからだ。
 
もし、ペナルティを被らなくても良い立場になれば、語れる言葉も増えるだろう。けれども、およそ、プレイヤーとして計算が必要な現代人は皆、その計算に対応した語れる言葉と語れそうにない言葉をもっているはずで、きっとまあ、今の私に似た思いを持っているのだろうと想像する。
 
だとしたら、社会のなかで語ってもペナルティにならない言葉を見つけること・作っていくことは重要だし、本来ならペナルティになりかねない言葉を技芸をとおしてペナルティになりにくいかたちで言葉に翻訳していくことも重要ってことになる。
 
 

どうせわかりあえないのなら

 
ここまでを踏まえて、社会と個人、集団と個人、他人と自分の間に必ずあるはずの、語れる言葉・語れない言葉の絶縁に思いを馳せる。社会運動な人なら、この壁を壊せないものか考えるのだろうし、社会学な人なら、この壁について精査するのだろう。で、現代社会の男性プレイヤーの一人としての私は、この壁に面従腹背の姿勢をとりながら、この壁を利用し、この壁に利用されながら、一番うまいことやっていく道を模索するのだろう。
 
本件に限らず、社会と個人、集団と個人、他人と自分の間にはいつも壁がある。語れない言葉の壁であったり、わかりあえない壁であったり。いや両者はイコールではないがシームレスではあるか。人それぞれに思いと立場があり、思いは伝え合えず、立場は譲り合えず、そうやって大人同士が肩ひじ張りながら生きていくこの世界で、私たちは壁に抑圧されるといいながら壁を使って誰かを抑圧し、壁に塞がれると当時に壁に守ってもらいながら暮らしている。たとえその営為のひとつひとつが、抑圧を、壁を強化する結果になりかねないとしても。
 
ってことは、わかりあえないし、わかりあわないってことだよね?──それが大人世界の適応を読解する際の、ひとつの前提になり得るというか。
 
もう少し言葉をポジティブに寄せるなら「お互い、都合の良いところだけわかりあったってことにするのが最適だよね」とでもいうべきか。いやいや、まだちょっとネガティブだな。
 
人々は、抑圧をなくせ、壁をなくせ、表現の自由を、とか、まあいろんなことを言っている。そうですね。確かにどれも魅力的だ。でもそれだけじゃなく、その抑圧と呼ぶものや壁と呼ぶものにもたれたり、利用したり、道徳サーフィンや正義サーフィンで波に乗りながら生きている側面がある限りにおいて、私たちは本当はわかりあうだなんてことより、わかりあわなくていいから抑圧や壁を駆使して、それらにもたれて生きてもいるわけだ。真にフリーダムな人からみればクソみたいな社会適応と言われそうだが、程度の差と意識/無意識の差こそあれ、現代社会のプレイヤーは多かれ少なかれそうやってもたれて生きている。
 
こうした話題に際しては、一般に、抑圧なくせ! 壁壊せ! 自由なほうがいい! みたいな話にしたほうが人気が集まって現代社会のプレイヤーとしてクレバーな気がするけれども、じゃ、そのクレバーな人のクレバーな振る舞いも含め、なあ私たちって、世間の通念や現代の価値観や法や制度から自由じゃないし自由であるべきとも思えないし、程度は異なれど、もたれかかっているわけだ。そうしたもたれかかりのゼロな人間がもし現代社会に存在するとしたら、たぶんその人物は危険アナーキストとして早晩刑務所に閉じ込められる気がする。控えめに言っても、その人物が現代社会のプレイヤーとして現前し続けるためには相当なテクニックと才能が必要になりそうだ。
 
だからまあ、凡夫としての私は、以下のように思わずいられない。
語れそうにない言葉を避けて、抑圧や壁に馴れて、わかったふりしてわかりあえあい・わかりあわない、そんな相互理解の体裁の空中楼閣をつくって、それでお互いプレイヤーやっていきましょう、お互いなるべく不快にならずにわたしたち別々に暮らしていきましょう。永遠に他人のまま、永遠にわかりあえないまま、だけど社会のなかでわかりあっている・コミュニケーションしているという体裁だけを整えて有利取っていきましょう。それがよろしいんでしょう? 
 
そうして小器用に、現代人のプレイヤー然として生きていく。きっとみんなもそうしている。正義や道徳や法にかなっている部分に関しては尚更だ。だけど小さな痛みは残る。痛みは何か。語る言葉をもたないことにしてしまった何かが疼いているからだ。その疼きを言葉にする方法をあきらめ、意志をもあきらめたからだ。そうやって虚勢のように生きていくこと自体が、自分の語れなさ、言葉にできなさをますます強化しているかもしれない。男なら泣くな。いいや、女でも泣くな。泣いてみせたっていいじゃないか。うんうん、現代人のプレイヤーとして、それがそのとき最適な振る舞いならばね。
 
ああ、おれってこんな中年男性プレイヤーしたかったんだっけ? したかったとも言えるけれども、そうでないとも言える。いずれにせよ私は全裸中年男性にはなれない。2022年の社会のなかで、私は現役の、プレイヤーだからだ。誰の歌だったかな。勝利も敗北もないまま、孤独なレースは続いていく。
 
 

『人生はゲームなのだろうか?』──思考演習なのはわかる。でもゲーム観が古く読みにくい

 

 
上掲リンク先の本に気が付いたのは、発売される直前ぐらいだったように思う。
 
「人生はゲームなのだろうか?」。
 
ゲームを愛好し、さまざまな事物をゲーミフィケートすることで効率化し、理解の助けにしている私のような人間にとって、これはフックに釣られるしかない本、タイトル買いせずにいられない本だった。もとより哲学者の先生が書いてらっしゃる本なのだから、人生とゲームに相いれない部分があると導かれるのは読む前から想定されることではある。が、ゲームに関心があり、かつ哲学の道筋で人生について考えてみたい人なら、(私と同じく)手に取って読んでみたく思うかもしれない。
 
 

論理が首尾一貫し、思考のトレーニングとなる

 
前半において、この本は、ゲームについて最初に以下のように定義を行う。
 

ゲームとは、
[1.]プレイヤーが目指すべき終わりが定められていて、かつ、
[2.]プレイヤーにできること・できないことが定められている人間の活動である。

はじめにゲームを上記のように定義し、そこから論理的に思考を積み重ねることをとおしてゲームとは何か、そして人生とは何なのか、人生とゲームとはどう異なるのか(それとも同じなのか?)を論じてゆく。
 
ゲームに造詣のある人なら、この定義がゲームの定義としてはなはだ不完全で、コンピュータゲームでも、そうでないゲームもカバーしきれていないことに即座に気づくだろう。しかしこの本は、思考の積み重ねのなかでゲームの定義を追加・変更する必要性をも認識していき、ゲームの定義と人生の定義を深化させてゆく。不完全なゲームの定義から始まった思考が、よりふさわしいゲームの定義へと変わるにつれ、メインテーマであろう人生についての思考や定義までもが変わっていき、並行して深まってゆく。
 
たとえば同書には「ゲームはリセットできるが人生はリセットできない」的なフレーズが何度も登場するが、そうしたフレーズも、思考を積み重ねる過程のなかで以下のように変わる。
 

 そこで、浮上してくるのが、「その外があるかないか」です。ゲームには、リセットできるものもある一方、リセットできないものもありました。だけど、リセットできるゲームにせよできないゲームにせよ、いずれにしても「終わり=目的」はありました。で、ゲームが終わると、そこはゲームの外の世界。
 ところが人生の場合は? そう、人生の場合には、人生の外の世界なんていうものはないのです(厳密にいえば、そんなものを前提にして考えるわけにはいかないのです)。

ゲームと人生をわけるポイントとしてリセットできるかどうかを採用するのでなく、外側があるか/ないかをもってすることで、もっと広範囲のゲームが射程に入るようになる。それだけでなく、人生についての思考も深まっていく──その手続きをこの本は記している。こうやって人生について考え続けたとき、たとえば、自殺とは人生のリセット的なものとして取り扱えるのか、人生に終わりがあるのか、といった人生に関わる他のこともおのずと考えずにはいられなくなる。
 
哲学的にあれこれを考える書籍はしばしばそうだけど、一つのイシューを追いかけていくと、おのずと人生とか神とか生死とか、そういうきわの話が浮かび上がってくるのは、こういう本の面白いところだと思う。これから述べるように、この本は現在のゲーム愛好家にとって読みにくい認知負荷を含んではいるけれども、それに耐えられる人や気にせずに済む立ち位置の人なら、読んで味わいや手ごたえがあるんじゃないだろうか。
 
 

だけど、現役のゲーム愛好家にはおすすめしづらい

 
では、この本は現役のゲーム愛好家にお勧めしやすい哲学演習本といえるだろうか。
 
タイトルに反して、私はノーといわざるを得ない。
 
ゲーム愛好家が哲学演習本を読みたいと思ったら、この本を読むよりも別の入り口を探したほうが良いように思う。幸い、初学者向けの哲学本はそれなりある時代なので、候補には事欠かない。
 
せっかくのタイトルにかかわらず、どうして私はこの本を現役のゲーム愛好家におすすめできないのか?
 
それは、このゲームの思考手続きのなかで登場するゲームの定義が、初手から現代のゲームのありよう・遊ばれようと食い違っていて、違和感を飲み込みながら読まざるを得ないからだ。
 
わかりやすく、甚だしいのは「ゲームはリセットできる」という例のやつだ。
確かにファミコンゲームはリセットして最初から遊べたかもしれない。しかし現代のゲーム、特にオンラインゲームやソーシャルゲームにはリセットをして遊び直せるという感覚がない。いや、リセマラ(リセットマラソン)という技法はあるにはあるけれども、リセマラはゲーム開始時に繰り返すもので、ひとたびゲームアカウントの運営が始まったら、そうそう気軽にリセットなどできようはずがない。
 
もちろん先に触れたように、この本を読み進めていくなかで、(たとえコンピュータゲームの現状について知らずとも)ゲームはリセットできるものとは限らないことがおのずと明らかになるし、それがゲームについての知識によってではなく、思考の手続きの賜物であるところがこの本の見所でもあるだろう。けれども、いまどきのゲーム愛好家からすれば、そこに辿りつくまでの何十ページかが大変まだるっこしい。まだるっこしいばかりでなく、自分が慣れ親しんでいるゲーム観をいちいち殺して、「ゲームはリセットできる」という文中の定義に何度も何度もひざまずかなければならないのだ。
 
もちろん、この本は思考演習の本でもある(というよりそちらのほうが眼目なのではないか?)ので、自分が慣れ親しんでいるゲーム観をいちいち殺して、文中の定義に何度もひざまずくのもトレーニングのうちだ、と言われてしまえばにべもない。しかしそれは読みやすいことではない。いまどきのゲームのことを知りもしない読者には引っかからないところかもしれないが、いまどきのゲームによく親しみ、かつこうした思考演習には慣れていないビギナー読者にとって、これは小さくない認知負荷になる。
 
冒頭で示されるゲームの定義が古すぎて現状に見合っていないために、いまどきのゲーム愛好家には、それが読み進める助けになるのでなく、読み進める認知負荷になってしまっているのである。なまじゲームと銘打っていることが、仇になっている部分はありはしないだろうか?
 
同じく、ゲームには「終わり=目的」があるというフレーズも、いまどきのゲーム愛好家には飲みこみにくいかもしれない。
もちろん現在でも、エンディングらしきものを真っ直ぐに目指すゲームはあるし、そのエンディングらしきものを見たら気持ちがすっきりしたり安心したりするゲームもあるにはある。だが、そうでないゲームもたくさんあるのが21世紀以降のゲームシーン、もっといえば2020年代のゲームシーンである。とりわけソーシャルゲームやオンラインゲームやオープンワールドゲーム、ARゲームの領域では、ゲームに終わりがあり、それが目的と言えてしまうゲーム観は希薄だ*1。もっとだらだらと、もっと無目的に、世間を知らない若者がサラリーマンを見て想像するところの人生のように、だらしなく始まってとめどもなく続いて終わる(というより終わりがあるのかわからない)、そんなゲームが巷に溢れているなかで、「ゲームとは終わり=目的があるもの」と初手で定義され、その定義にひざまずき続けるのは小さくない認知負荷といわざるを得ない。
 
少し話が逸れるけれども、最近の私は、ゲームを人生に譬える際に、何か楽しいゲームとか、何か目的の明確なゲームとか、そういうゲームを想像するのもいいが、楽しくないゲーム、目的の不明瞭な、誰のために、何のためにやっているのかわからないようなゲーム体験もゲームだと言いたい気分に陥りがちだ。
 
このようなゲーム体験は、『人生はゲームなのだろうか』の定義に沿っていえばもはやゲーム体験とは言えない何者かである。でもって、大層な人間疎外とうつるかもしれない。でも、自他のゲーム体験やゲームシーンのなかに、こういう、楽しくもなければ目的もはっきりせず終わりもみえない、慢性的労働のような営為をみることが増えてきた。ゲームメーカーやgooglePLAYなどが準備したアーキテクチャに流され、SNSの流行に引っ張られ、人生の時間配分も見失って、楽しくもないのにとめどもなくゲームしてしまう。もうほとんど単にゲームをやめられないとしか言いようがないような淀んだゲーム体験。そういうのが今のゲームシーンにはあり得るようになっているように思う。それって、なんだか人生っぽくないだろうか。人生っぽい、という人もいれば人生っぽくない、という人もいるだろう。で、私はどちらかというと人生っぽいと言いたくなる性質だ。ネットでよく見る『インベスターZ』のテンプレでいうなら「おれたちは雰囲気で人生をやっている」というか、ぬるい一杯のビールのような人生(とその側面)というか。ああ、なんて焦点の定まらない人生観だろう!
 
逸れた話をもとにもどそう。
そんなわけで、この本の内側で行われる議論の手続きにはまったく異存ないのだけど、その議論に読者を引き入れるための釣り餌としての「ゲーム」には、私はかなりの負荷を感じた。1990年代ぐらいのゲームの定義の人にとって、それは負荷にもならないものだろうし、もともとゲームに関心を持っていない人にとっても同様だろう。しかし、なまじゲームを思考演習の導入として用いている点が、かえってゲーム愛好家に苦痛と認知負荷をもたらすものになっているのはもったいないと感じた。思考演習が、人生とか死とか、いかにも哲学らしいテーマへの広がりを持っているだけに、なおさらだ。ゲームにあまり詳しくない人や、もうゲームをやめちゃった人にはおすすめだ。
 
 

*1:実は、スペースインベーダー~90年代前半のアーケードゲームにもしばしばあてはまる