シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

50代で浮かび上がってくる承認欲求のヤバさ

 
togetter.com
 
正月明けに、「50代くらいになると何をやっても褒められなくて、不安になり、承認欲求をこじらせる人が多い」というtogetterを発見した。
 
本当だろうか?
だとしたら世知辛い世の中だ、大変ですね、でも自分も無関係とは言えないな、などと思った。
 
そもそも、50代にもなって他人に褒められたい、それも、褒められているとはっきりわかるかたちで他者からの承認をいただきたい心境とは、どんなものだろうか。
 
私は、そのような心境は
 
・心理発達のプロセスが厳しかったことのあらわれか
・その人を取り囲む環境が特に難しくなっているか
 
のどちらかに思われ、どっちにしても滅茶苦茶厳しいよね……といった風に思った。しかも、案外他人事とも思えなかったりもした。今回は、それらについて書いてみる。
 
 

「50代になって、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ」

 
まず心理発達のプロセスという視点でみた時、50代とは、どれぐらい褒められなければ気が済まない年頃だろうか。この際、呼び方は承認欲求でも所属欲求でもナルシシズムでもなんでも構わないが、社会的欲求の充たし方には年齢によって成熟の度合いがあり、基本的には、成熟が進むほど褒められ具合が低くても満足しやすくなる。
 
たとえば乳児は存在するだけでも養育者に肯定してもらえるし、また、肯定されるのがお似合いでもある。小学校低学年なら、学校のルールを守っていたり宿題を片付けたりした時には褒めてもらえる一方、悪いことをした時には叱られることだってあるだろう。高校生ぐらいになれば、褒めてもらえる場面はより少なくなり、褒めてもらえたとしても、乳幼児のように存在するだけで全肯定というわけにはいかない。
 
こんな具合に、年齢が高まり、社会的立場が変わるにつれて(そして接する他人の幅が広がるにつれて)、くっきりと褒めてもらえる場面は少なくなる。もちろん今どきはアメリカっぽいカジュアルな肯定文句が良いとみなされたりもするので、少し意識の高い場所で働いていれば、togetterに書かれているほど褒められないなんてことはないのかもしれない。とはいえ、50代になってもなお、幼児みたく「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とか褒めてもらう機会はめったにないし、運よくそういう機会を獲得したとしても、それは(たとえば祝賀会や授与式のように)高度に社会化・儀礼化されているだろう。
 
では、もう幼児のように褒めてもらえなくなった中年の心は枯れ果てるしかないのか?
そんなことはない。成長するにつれて、人は、よりマイルドでより社会化・儀礼化した様式でも、だいたい社会的欲求を充たせるようになる。そういうことを数年前の私は繰り返し書き続けていた。以下の二冊の本などは、まさにそれにあたる。
 

認められたい

認められたい

Amazon
 
この二冊の書籍のバックグランドとなっているエリクソンとコフートは、それぞれ論の核心は異なるにせよ、「社会的欲求がエイジングに伴って成熟していく」という見立てでは共通している。というより精神分析的な考え方には多かれ少なかれ、成長するにつれて欲求充足の様式が成熟していくといった含意があり、と同時に、そうした欲求充足の成熟不全が治療の焦点とみなされたりもしたのだった*1
 
そうした精神分析的なモデリングを思い浮かべながら現実の50代や60代を見ていると、やたら褒めてもらいたがっている中年、褒めてもらえないと困っている中年が多数派になっている風にはみえない。いや、誰かに悪く言われたり誰かと喧嘩したりした直後などは、自分が褒めてもらえていない・評価されていないと悲しく思うことだってあるだろう。私もときどきそういう気分になる。けれども総体としては、職場で挨拶を交わす時、仕事のなかで自分の持ち味を生かせている時、趣味の集まりで旧交を温めている時などに、社会的欲求はだいたい充たせるのではないだろうか。
 
その際に、「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とかお互いに指差し確認する必要性を感じている人はもういない。信頼しあっていること、メンバーシップであること、挨拶を欠かさない間柄であること、それだけでも十分だ。もちろん、ヘビーな自己愛パーソナリティの人などは50代になっても絶賛を期待し、そうでない肯定を肯定と感じられないものかもしれないし、それなら精神病理と呼ぶにふさわしいだろう。けれどもそういうわけでない多くの人は、社会的欲求の充足がまずまず成熟しているおかげで、幼児のように褒めてもらわなくても、あるいは万雷の拍手に包まれていなくても、だいたい充足できたりする。親をやっている人だったら、自分の子どもが元気に食事をとっているのを見ているだけで、社会的欲求が充たされたりもしないだろうか。
 
こんな具合に、ある年齢を越えてくると、社会的欲求は、自分の子どもの健在や自分の後輩の成長を見ているだけでも充たされると感じるようにもなる。別に自分が褒められなくても、自分より年下の人間が健在だったり成長していたりしているのを見ているだけで、それがもう心理的にはご褒美なのだ。この場合の充足感は、"ネットスラングとしての承認欲求"の意味合いからはかけ離れていると言わざるを得ない。が、ともあれ社会的欲求が充たされる経路には違いない。
 
そうしたわけで、この心理発達の側面からみると「50代にもなって、自分自身が、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ?」と私は思いたくなる。それは社会的欲求の充足様式があまり成熟していないうまい具合に社会化していない、という問題や不全を含んでいるのではないか?
 
 

それとも、挨拶する相手にも窮するほど社会環境が悪いのか

 
じゃあ、そういう悩みを持っている人が必ず成熟不全的側面を持ち合わせているかといったら……そうとも限らないように思う。
 
さきほど私は、「信頼しあっていること、メンバーシップであること、挨拶を欠かさない間柄であること、それで十分」と書いた。また私は、「別に自分が褒められなくても、自分より年下の人間が健在だったり成長していたりしているのを見ているだけで、それがもう心理的にはご褒美」とも書いた。けれども2021年の社会において、そうした信頼関係やメンバーシップや年下の存在が全員に行き届いているとは、到底思えない。
 
人的流動性が極限まで高まった社会では、どこでも働けるしどこでも住める。人間関係を続けたってやめたって構わない。けれどもそうした社会の帰結として、信頼関係やメンバーシップや家族といったものは、持てる人は持てるけれども持てない人は持てないといった具合に、格差が広がりやすくなった。タテマエとしての機会の平等を推し進めた*2今の日本社会は、経済的格差に加え、社会関係の格差の問題を内包している。ということは、社会的欲求の充足の格差を内包している、ということでもある。
 
結果、挨拶する相手にも窮するような孤立状態の人がほうぼうに現れることになった。日本に限らず、先進国では孤立が大きな社会問題となっているが、人的流動性を極限まで高めておいて、中間共同体が壊れていくことを寿ぎ、中間共同体をどこまでも悪者呼ばわりしていた人々が今更孤立に鼻白んでいるのを見ると不思議な気持ちになる──この事態が予想できなかったのなら見識が足りなかったということだし、予想していたけれども頬かむりをしていたのなら良識が足りなかったということではないか?
 
ともあれ、中間共同体に所属するよすがを失い、人的流動性がサラサラに高まった社会を身一つで漂流する人が、「何をやっても褒められなくて、不安になり、承認欲求をこじらせる」事態は十分にあり得るし、高齢者に怪しい商品を売りつける人々は、そうした事態をハックして商売をやっているという読みもできるだろう。年齢相応に社会的欲求が成熟している人とて、それこそ挨拶できる相手にも困るほど孤立していては社会的欲求が充たされなくなり、精神衛生の歯車がギクシャクしてくるのは十分考えられることだ。
 
 

どちらが理由であれ、なるほど、危機と呼ぶのがふさわしい

 
そうしたわけで、私は50代になって承認欲求がやたらクローズアップされる状態はだいたい危ういようにみえるし、なるほど、これをひとつの危機とみなすのもわかる気がする。
 
心理発達の不全にもとづいているのであれ、社会関係の欠乏によるのであれ、両方が重なっているのであれ、そのような50代は社会的欲求の充足という点で大きな問題を抱えているようにみえる。逆に言えば、この年齢の頃に「褒めてもらえなくて不安になる」とあまり感じない人は、今はまあまあ社会関係と社会的欲求に困っていないのだろう。
 
危機、などというと大げさに響くかもしれない。
また実際、危機というにはあまりにもありふれた危機でもある。
 
というのも、今の日本では中間共同体と呼べるものはすごく少なくなっているし、たとえば職場にそれを求めることも難しくなっているからだ。家族ですらそうだと言える。子育てをとおして社会的欲求が充たされていた人は、空の巣症候群に直面するかもしれないし、職場に貢献して社会的欲求を充たしていた人が退職後もそうできるという保証はどこにもない。パートナーに先立たれる人、健康を害し趣味を失う人だっているだろう。そうやって社会的欲求を充たす経路をひとつひとつ失っていった先に、「褒めてもらえなくて不安になる」と意識する未来を想像するのは案外たやすい。
 
日本でコフート理論に貢献し続けてきた精神科医の和田秀樹は、高齢者のナルシシズムの問題を重視してきたけれども、実際、社会関係を失いやすく、人間関係の喪失にも直面しやすく、健康までもが損なわれやすい境遇になってくれば、「褒めてもらえなくて不安になる」は差し迫った問題になりやすいだろう。親子といえども別れ別れになりやすく、金の切れ目が縁の切れ目にもなりやすい、この、サラッサラの社会が続く限り、中年期以降に浮かび上がってくる社会的欲求のヤバさを他人事とみなしてしまうのは、結構難しそうに思える。
 

*1:もちろん欲求充足の様式「だけ」が問題なのではない。臨床寄りのポジションで考えなければならない事例の場合、それより防衛機制の様式のほうに着眼したほうが実地に適っているよう、私には思える。

*2:タテマエとしての機会の平等、とわざわざ書いたのは、実際には生まれや育ちによって不平等なかたちで皆の人生のスタートラインが切られるからなのは言うまでもない

どんなアニメ・ゲームをやっているかで人間を値踏みする勢は減ってないか、増えてるのでは

 
今日は2年ぶりにコミックマーケットが開催されたそうで、うちのタイムラインは、それを寿ぐ画像やメンションでいっぱいになった。そういえば、私はもう10年近くコミケに行ってない。今行ったら自分は年寄りだろうなとも思ったりした。
 
ところでコミケも含め、いわゆるオタク界隈とみなされる領域から発展した諸コンテンツの一般化、カジュアル化がいわれて久しい。新世紀エヴァンゲリオンの頃も、涼宮ハルヒの憂鬱の頃も、まどか☆マギカの頃もそれは言われていた。2021年の歌番組にウマぴょい伝説が登場するのも、そうした変化の帰結と言えるかもしれない。
 
だからアニメやゲームを楽しんでいるといってオタクとは限らない、と言いやすくもなった。そしていわゆるキモオタとは、キモいコンテンツに夢中になっているからキモオタなのではなく、主な趣味がSFや漫画やアニメやゲームだからキモオタなのでもなく、当人自身の(挙動も含めた)外観の問題と広くみなされるようにもなった。
 
「あなたがキモオタとみなされるのは呼ばれるのは趣味のせいではなく、あなたがキモいからです」という、例のやつだ。
 
では本当に、界隈のコンテンツはキモオタのあらわれではなくなったのだろうか?
 
たとえば新海誠の人気映画を観に来ているお客さんを眺めていると、そうだ、と言いたくもなる。今、新海誠を観ているからといってキモオタのあらわれとみなす人はあまりいないだろう。シン・エヴァンゲリオンにしたってそうだ。
 
けれども全てのコンテンツが一律にそうなったわけではない、気がする。選んでいるコンテンツやコンテンツの消費態度のうちに、何らかのヒエラルキーを読み込む筋はいまだに存在していて、キモオタとまではいわなくても、あまり褒められない風にみられやすいコンテンツ、鼻で笑われやすいコンテンツの消費態度といったものは健在なんじゃないだろうか。
 
というより、そういう読み筋に基づいてアニメやゲームを見る向きが案外強まっていたりして、ソーシャルな差異化のメカニズムの一端としてあてにされていたりしないものだろうか。
 
 

「でも、就職した女子はそういうアニメやゲームがバレないようにするものなんです。」

 
話は2010年代の中頃に遡る。
 
そのとき私は、前途有望な20代の集まりに参加する機会をいただき、いまどきの世間だの、グルメだの、適応だのについて意見交換していた。そういった場では、90年代のオタクのオフ会とはずいぶん違った話題も出るし、考え方も出る。たとえば涼宮ハルヒの憂鬱が話題に出るとしても、それをどのように位置づけ、どのように語るのかのアングルはだいぶ違うと感じたりした。
 
宴がお開きになり、レストランから駅に向かう道すがら、私はある女性の執筆者としゃべっていた。間違いなく前途有望な執筆者で、アニメやゲームについてもよく知っていた彼女は、レストランでの話の続きとして、私にこんな風なことを言ったのだった。
 
「でも、就職した女子はそういうアニメやゲームがバレないようにするものなんです。」
 
まあ確かに。たとえば病院で若いナースが休憩中に、ソーシャルゲームをいじっていたりアニメを視聴していたりするのを見かけることはあるけれども、彼女らがそういうコンテンツを楽しんでいることを大っぴらにするようなことはない。いや、そういう話ではないな? 彼女の語る「バレないようにするものなんです。」には、職場で公言しないという意味に留まらないニュアンスが宿っていた。強者女子というか、ハイクラス女子というか、そういった女子はアニメやゲームを楽しんでいると友達にも知られないようにするといった意味だった。アニメやゲームを楽しんでいるとバレたら女子としての、または社会人としての「格」が下がるということなのか。
 
まあ、ハイクラスな女子ともなると、そういうものかもしれないな───当時の私は、それ以上深く考えるのをやめた。
 
ところがそれ以降も、類似点を感じさせる話が、とりわけ前途有望な若者の集まりでしばしば聞こえてきたのだ。
 
彼ら彼女らも、確かにアニメやゲームを楽しんでいる。『君の名は。』や『天気の子』は観ているし、スマホにはなんらかのゲームがインストールされていたりする。けれども彼ら彼女らの言葉尻からは、なにやら、"アニメやゲームを楽しみすぎるそぶりは見せすぎるものではない"といったような、それか、"アニメやゲームを楽しむそぶりには礼法や節度がある"かのような、そんなニュアンスが感じられた。
 
そして幾つかのコンテンツに関しては、poorな人間が嗜むものであるといった、哀れみの響きさえ感じられたのである。
 
最近、自分よりもずっと若い人々がスクールカーストについて語っている場面に出会ったけれども、そこでも、いわゆるオタク的な趣味はローカーストということで意見の一致をみていた。対して昔から人気の運動部や一部の文化部がハイカーストとみなされていたのは言うまでもない。
 
 

趣味で人間を値踏みするまなざしはたぶん健在

 
ということは、アニメやゲームがこれほど一般化・カジュアル化したといっても、アニメやゲームがメインの趣味だと周囲に知られるのは、いまどきの思春期男女にとってもリスクやコストを伴う選択なのだろうか。あるいはハイカーストに属することができない人間の表徴とみなされるものなのだろうか。
 
フランスの社会学者のブルデューは、人々の趣味や所作と、文化的なヒエラルキーや位置づけについてさまざまに論じた。
 

 

 
たとえば小説愛好家とひとことで言っても、どんな小説を読んでいるか、どう小説を読んでいるのかによって上掲図のような体裁の違いがあり、それは小説愛好家同士の間では意識されるものだろう。こうしたことは自動車の選択にも、衣服や音楽の選択にも、食事の選択にもしばしば当てはまる。それならアニメやゲームにだって、きっと当てはまるだろう。
 
アニメやゲームが一般化・カジュアル化したこと、その見立て自体は間違っていない。
けれどもそれらがカジュアル化していくなかで、どんなアニメやゲームを選んでいるのかや、どうそれらを楽しんでいるのかが、文化資本のマッピングや人間評価のヒエラルキー軸に組み込まれてしまった向きも、あるように思う。90年代まではアニメやゲームのほとんどを嘲笑していた層、いわば、人間評価のヒエラルキーを差配しているハイカースト層までもがアニメやゲームをたしなむようになった結果として、アニメやゲームもまた、どれを楽しんでいるのか・どう楽しんでいるのかが峻厳に評価され、意識される標的になったってのはありそうな話だ。
 
これは穿った見方だろうか?
かもしれない。
けれどもこうした見立ては、2010年代後半に私が出会った前途有望な若者たちの、アニメやゲームに対する繊細な感覚とよく合致している。あるアニメやゲームならばハイカーストにも楽しまれやすく、あるアニメやゲームならばハイカーストに敬遠されやすい──そういった向きがあるとしたら、キモオタか否かはともかく、人間評価のヒエラルキーを左右する要素として、アニメの趣味やゲームの趣味が問われずにいられなくなるだろうし、くだんの女性執筆者が語ったように、自分のヒエラルキーを守るために一部のコンテンツを隠す、またはそういったコンテンツに近づかないといった処世術も要請されるだろう。
 
それじゃあ、オタクであるとバレるのが恐くて「隠れオタ」をやっていた頃と同じか?
 
……いや、同じとは言えない。もはやアニメやゲームは、カウンターカルチャーというよりメインカルチャーだ。だからハイカーストな人々も嗜むようになり、その選び方や嗜み方が問われるようになったという点では、濃いオタクだけがそれらを楽しんでいた時代、うるさいサブカルだけがそれらのヒエラルキーを論じていた時代とは違っているだろう。
 
で、私は。
 
私のように中年になるまでアニメやゲームを愛好し続け、その趣味があまり良くないと自覚している人間は、定めし趣味の悪いローカーストな中年とみなされやすいのだろう。ああ、痛いなあ。私はそのようにまなざされるリスクを冒しているわけか。オタクだからキモいと言われる時代じゃなくなっても、その選好、その所作がローカーストなのだとしたら仕方ありませんね。
 
だからといって、自分の趣味を改める気があるかといわれたら、ノーだ。ある先人は、「オタクとは、自分が好きなものと自分が好きではないものが選べる人間、そのうえで自分が好きなものを選ぶ人間」と言っていた。私は、自分が好きなものを選ぶ人間であることを大事だと思っている。そのために他人からの評価が下がることも承知のうえで、このままの中年でいたい。
 
 

「いつも異性選びで失敗する」→「自由意志に逆らうしかあるまい」

 


 
人間は、くっつくべき人間とくっつく。
 
これは本当のことである。
人には好みがあり、同じタイプの異性に惹かれ続け、その傾向は簡単には変わらない。だから学生時代や社会人一年目の恋愛で大失敗した人が、二十代の後半になっても、三十代の半ばになっても、同じ傾向を持った異性を選好し続けて、疲弊し続けることはまったく珍しくない。むしろそれが娑婆の因縁メカニズムに基づいた平常運転なのだとさえ思う。
 
ここで、娑婆の因縁メカニズムという変な言葉を使ったが、これは、私が聞き知った(仏教の)因縁という考え方にもとづいている。
 
世間では、仏教由来っぽい言葉として「因果」が有名だが、実際に仏教的なのは「因縁」であり、娑婆、つまり世の中で起こっている出来事も因果関係よりも因縁関係にもとづいて考えたほうがうまくいく。
 
というのも、因果(因果関係)とは、原因と結果が一対一の出来事に用いるべきで、対して世の中で起こっている出来事の大半は、複数の原因や要因から生じて、その結果も単一ではなく、さまざまな結果に波及していくのが一般的だからだ。
 
で、ほとんどの人から見て間違いなくハズレな男に必ず惹かれてしまう女、間違いなくハズレな女に必ず惹かれてしまう男……というのはよくいるものだ。「蓼食う虫も好き好き」という諺では、こうした男女のありさまは説明しきれない。なぜなら、そうした男女は毎回のように選んでしまうそうした異性に満足しているわけではないからだ。DV癖のある女性を毎回選んでしまう男性、借金癖のある男性を毎回選んでしまう女性は、常に苦しんでいる。にも拘わらず、せっかく異性と別れてせいせいしたと思いきや、数年後には似たタイプの異性と連れ添っている。
  
こうした「いつも同じタイプの異性を選んで苦労してしまう人の話」については、かつて、精神分析の世界で盛んに話題にされていたし、たとえばこの『夫婦関係の精神分析』などは大変興味深かった。この本では、異性の選択を(精神分析の概念にもとづいた)精神病理性と結びつけて、複数のパターンを例示して説明している。
 
でもって、この本は良くも悪くも誠実な精神分析的書籍だ──つまり、現実無視の理想論には陥っていないのである。だから人間理解や娑婆ウォッチの手引きとしては信頼できる一方、本当に困っている人の助けにはあんまりならない気がする。少なくとも当事者がこの本を読み、頭で考えて自分の恋愛や婚活をアレンジするのは難しいので、ライフハック書としておすすめすることはできない。
 
そうしたわけで、私が異性の選択で失敗している人のソリューションとして精神分析的なアイデアを連想していたのは10年ぐらい前までで、それ以降、精神分析的に考えるのはやめてしまった。
 
それと、異性の選択には遺伝子の関与がある。服を着て法律を守って暮らしているようにみえる人間だって、配偶という次元では案外動物だ。その動物が、免疫学的事由なども含めて、たとえばにおいなども込みで異性を選択しているきらいがあるのは、まあ間違いないだろう。精神分析的なアイデアは、こうした本能的選択まで込みで考えるには向いていない。
 
 
それなら、精神分析が得意な生育環境の問題と、生物学的な遺伝の問題をまとめて考えるのに適したワードは無いものか?
あるじゃないか!
それが仏教でいう因縁だったというわけだ。
 
では早速、この問題を因縁に基づいて考えてみよう。すると、だいたい以下のような感じになってしまうだろう。
 
「人間は、くっつくべき人間とくっつく。なぜなら、家庭で育まれた病理性、生まれ持っての遺伝性、それからどんな場所でどんな人間と巡り合うかの縁の問題は、すべて因縁のなした結果と言えるからだ。」
 
となる。じゃあ、その因縁をもたらす原因や要因を分析して、未来を予測したり、未来を変更したりするにはどうすればいいんですかと考えると、仏教に忠実に考えるなら、以下のような答えになると思う。
 
「因縁をもたらすさまざまな原因や要因をすべて考慮し、そこから未来を予測できるのは、人間には難しい。仏教的にそれが可能なのは、如来だけである。ちなみに如来は、釈迦牟尼か、あとは形而上の存在だからよろしく。」
 
……まるで役に立たない。
 
いまどきは仏教にも色々あって、護摩壇に火を焚いて現世利益を謳うものや、念仏を唱えれば来世はなんとかなりますと宣伝するものもある。けれども、こと、因縁という考え方に基づいて配偶者選択をうまいことやろうと思っても、私たちには上手くいきそうにない。少なくとも如来のように、ズバリ未来を予測したり、自在に未来を変更したりってわけにはいかないだろう。
 
加えて、因縁の考え方次第では、自分の自由意志がなんとも頼りない気がしてくる。いや実際、自由意志とは(欧米の)近代個人主義社会が要請した概念として存立しているのであって、その要請を剥がして自由意志を点検すると、案外フニャフニャしていて、頼りなく見えるのだけど。そうした近代個人主義社会の要請をひっぺがし、因縁という考えにもとづいて点検する自由意志は、流されがちな、意のままにならないものである。今まで自由意志だと思っていたものが、(家庭や社会環境や遺伝子といった)過去の因縁にもとづいて構築されていると考え、それが毎回救われない恋愛や配偶を"自己選択"していると考えた時、なんだか救いがないように思えてこないだろうか。
 
そのうえ現代社会は自由恋愛化しているので、お見合いとか、会社の仲人とか、イエの押しつけとかで配偶が起こることはまずない。自由恋愛は、自由意志にもとづいた恋愛や配偶を可能にしてくれるが、まさにそうだからこそ、自分自身に内在する諸要因によって異性の選択に毎回失敗している人を、必ず失敗させてしまう。自分自身に内在する病理性や遺伝的素因が異性の選択に影を落としているタイプの人にとって、自由恋愛とは、出口なき永遠の輪である。
 
でも、ここまで考えると、因縁を自由に操作するとまではいかなくても、ある程度揺さぶる方策が見えてくる。
 
自由意志に対する反逆。
 
これが、自由恋愛の、出口なき永遠の輪から抜け出すための突破口になる。
 
いつも同じように恋愛や配偶で失敗する人は、自分の意志や選好、直感といったものをあてにしてはならない。まったくあてにしてはならないわけではないとしても、どこか、逆らってかかる部分がなければ次の恋愛や配偶も同じように失敗すると思ってかかったほうがいいだろう。そのうえで、自分が望みもしなかったパートナーシップで満足している人の選好に身を委ねてしまえば、たぶん、同じ失敗は起こりにくくなる。お見合い的な、誰かの紹介にもとづいた出会いでも良いかもしれない。
 
こうした、自由意志に対する反逆を100%やろうとすると著しい苦痛を伴うし、"逆張り=必ずアタリ"というわけでもないので、「どんな反逆なら望ましいのか」という問題はついてまわる。また、自分自身の病理性があまりにも深刻すぎるために、どんなパートナーと巡り合っても、そのパートナーを同じように変質させてしまう、そんな人にもこの方法は通用しないだろう。それでも、自由意志に忠実すぎると同じ轍を踏むという隘路にくさびは打ち込める。
 
この結論を過度に単純化するなら、「男運や女運のない人は、自分のセンスを信じるな。」となるのかもしれない。けれども、その結論にたどり着くまでのプロセスとして、私は因縁の考え方がどうしても避けて通れないので、こういう考え方をとおして、こういう結論にたどり着くことになる。
 
 

じゃあ、誰のセンスにチップを賭けるべきか

 
ところで、「男運や女運のない人は、自分のセンスを信じるな。」と考えるに至った後、じゃあ、一体誰のセンスをあてにすれば良いのだろうか。
 
恋愛コンサルのいうことだろうか。
そうかもしれない。けれども不特定多数に向かってアナウンスされているアドバイスの場合は、自分にどこまで当てはまるのか、それとも当てはまらないのかの判断が難しいように思う。
 
じゃあ、自分によく当てはまるアドバイスを的確に与えてくれるのは誰なのか。自分のことをよく知っていて、自分のために骨惜しみしない親しい第三者のアドバイスが可能な表向きの人物は、親である。ところが親は遺伝的にも環境的にも因縁が深すぎるので、自分の自由意志とあまり変わらない欠点が親のアドバイスにしみこんでいる可能性は結構高いと思う。親のアドバイスがあてになる度合いは、親と自分自身の関係性や、親自身の配偶や恋愛がどれぐらい成功裏に進んだのかによって大きく左右される。
 
だから、配偶や恋愛を親のアドバイスに基づいて決めてしまうのは、案外危ないかもしれない。とりわけ親自身の配偶や恋愛がひどいもので、その結果としてあなたの家庭環境が情緒的に良くない環境だった場合はそうだ。
 
「じゃあ、そのような個人はむしろ親の逆張りをしたらいいんじゃないか?」と思う人もいるかもしれない。が、親の逆張りも難しい。前掲の『夫婦関係の精神分析』でも触れられていたが、親の逆張りを意識するあまり、逆にコインの表裏のような失敗にたどり着いてしまう人をよく見かけるからだ。たとえば自由意志の制限された結婚をして苦労した親の子が、自分の代になって自由恋愛や自由意志にこだわるあまり、硬直したパートナーシップしかできない……なんてことはよくあることだ。
 
親より、たとえば叔父さんや叔母さん、少し年上の仲の良い親戚などにアドバイスや参照先を求めたほうがいいんじゃないかと私は思っている。なんなら高校や大学の先輩とか、尊敬できる職場の上司でもいいかもしれない。そうした人々の、自分とは異質な配偶者選択の方法論や考え方を導入すると、自由恋愛下の因縁の牢獄を突破できるかもしれない。
 
 

社会が自由だからこそ、自分自身に束縛される。

 
この自由恋愛の領域に限らず、なにごとにつけ選択の自由度が高い領域では、その選択には、より純度の高いかたちで自分自身の良いところも悪いところも反映されがちだ。でもって現代社会は、まさにそのような社会なので、自分自身の弱点や欠点をどう回避しながら、強みや長所をどう残すのかがすごく重要な課題になっていると私は考えている。その際、私なら因縁という概念で考えると整理がしやすい。たぶん、他の概念でも整理はできるように思う。
 
 
ここ2ー3年の私は、社会制度やアーキテクチャによって人間が束縛される話ばかりしていたので、こうした、自縄自縛によって同じ過ちを繰り返すタイプの話はしばらく忘れていた。でも、本当はこの種の自縄自縛についても喋りたいし、これは、娑婆の重要な一部をなしている現象だと思う。
 
人間はさまざまな次元で不自由な存在だ。そのさまざまな次元の不自由とどう折り合っていくのかが渡世のコツでもあり、社会問題でもあるよう思われるので、来年以降もそういうことをブツブツ書いていくブログをやっていくつもりです。
 
 

2021年に出会ったすごく良かったワインたち

 
2020年に出会ったすごく良かったワインたちに引き続いて、2021年に出会った良いワインを数本、(コストがめちゃくちゃ高くない範囲で)挙げてみたいと思います。
 
 
・Cono Sur Sparkling Wine Rose (N.V.) (チリ・ロゼスパークリング)
【2196】Cono Sur Sparkling Wine Rose (N.V.) - 北極の葡萄園
 

 
チリワインのメーカーのなかではコノ・スルは有名な部類だけど、たまたまこのロゼスパークリングとは縁がなかった。で、飲んでみていけていると思ったので紹介。
 
まず、ロゼワインのなかでは桜や薔薇のような香りがとてもしっかりしている。色もすごく鮮やか、はっきりとピンク~朱色をしていて泡立ちもいい。味はすごくフレンドリーで、一部のロゼワインにあるような、酸っぱさや金属っぽさで初心者をひるませる感じじゃない。ロゼという、初心者向けのようで実は難物の多いジャンルのなかでは、こいつは親しみやすさ最上位だと思う。
 
なお、同じコノ・スルでもスパークリングワインじゃないロゼは硬派というか、ワインに慣れている人向けにできているので、普段ワインをあまり飲まない人はロゼスパークリングを買ったほうが幸せになれると思う。世の中、やたらワインに慣れた人間ばかりでもないので、飲み慣れていない人向けにチューンされたお手頃品があるのはすごく大事なことなはず。で、そういう品をコノ・スルが扱ってくれているのはさすが。
 
・Cantina Zaccagnini il Vino "Dal Tralcetto" Cerasuolo d'Abruzzo 2017 (イタリア、アブルッツォ州・ロゼ)
【2163】Cantina Zaccagnini il Vino "Dal Tralcetto" Cerasuolo d'Abruzzo 2017 - 北極の葡萄園
 

 
スパークリングじゃないロゼのお手頃品はこちら。イタリア中部の無名のメーカーだけど、ここはロゼ以外も結構頑張っていて、ハウスワイン水準ながらも価格は上昇傾向。で、この品はロゼに典型的な金柑っぽい香りがしっかりしていて、化粧箱みたいないい香りをちょっとだけ伴っている。ワインは軽々と飲み干せるタイプながら風味はしっかりしていて、薄っぺらいという印象は伴わない。
 
コノ・スルのロゼスパークリングに比べると、ロゼの風味としてはこちらのほうが典型的で、値段を考えればとてもよくできている。どちらも1400円ほどなので、両方を買って飲み比べてみるのも面白いかもしれない。
 
・Colour Field 2016 (南アフリカ、赤)
【2174】Colour Field 2016 - 北極の葡萄園
 

 
今年初めて見かけた南アフリカ産のブレンドワイン。楽天でワインをまとめ買いする際に数合わせ的に購入した。楽天のレビュアーのコメントがマトモそうな雰囲気だったと記憶している。
 
で、ちょっと土臭いワインではあるのだけど、煮豆みたいな香りやインクみたいな香りがしっかり、飲み進めるにつれてビターチョコレートやカフェオレみたいな香りもよぎってくる。コクも果実味もある。でも、南アフリカの安赤ワインならこれぐらい揃っていても珍しくはない。
 
ところがこいつ、それだけではなかった。味や香りが濃厚なわりに、きつく感じられないのだ。ボルドーの安ワインのような落ち着いた飲み心地があり、口当たりもトロトロと気持ち良くて押しつけがましくない。新世界のワインと旧世界のワインの良いとこどりをしたような雰囲気。
 
それと翌日~翌々日も顔つきが結構変わって、野菜っぽい風味が強まったり墨汁や鉄っぽさが強まったり、なかなか飽きさせない。一般に、こういった顔つきの変化はもっと値段の高いワインに期待すべきものなので、結構驚いた。2021年の安赤ワインでは、こいつがダントツ一位。
 
・Francois Carillon Bourgogne Chardonnay 2018 (ブルゴーニュ・白)
【2173】Francois Carillon Bourgogne Chardonnay 2018 - 北極の葡萄園
 

 
ブルゴーニュワインはどんどん値段が高くなって手が付けられない感じになっているので、最近、新規開拓を意識している。で、このフランソワ・カリヨンという作り手の白ワイン。ここのブルゴーニュ・シャルドネ自体も安いとは言えないけれど、いわゆる大御所に比べればまだマシ。でもって、こいつは色こそ薄めながら、ナッツのような飲み口とバターのような風味、それでいて軽々としていて重たすぎる感じでもない。ブルゴーニュの白ワインに期待したくなる立体的な構成に加えて、リンゴみたいなやさしい酸も伴っていてすこぶるうまい。気高さと気安さがこのシャルドネはうまいこと両立している。少なくとも初日はそんな感じで、びっくりしてしまった。
 
ちなみにこの作り手の上位クラスの一級畑の品も結構いけている感じで、高騰するブルゴーニュワインのなかでは良心的価格を保っている。なので、ここのワインを複数本キープして、熟成プロセスを追いかけてみることにした。楽しみ。
 
 
・Benjamin Leroux Bourgogne Rouge 2017 (ブルゴーニュ・赤)
【2202】Benjamin Leroux Bourgogne Rouge 2017 - 北極の葡萄園
 

 
赤のブルゴーニュワインも一品。このバンジャマン・ルルーという作り手もあまり有名ではないのだけど、以前、格上のワインに出会った時に森の香りがいっぱいの、滋養たっぷりの品だったのでマークしていた。で、今回紹介するのはいちばんベーシックな「ブルゴーニュ赤」と銘打たれたこの品。
 
ところがベーシック品でもこいつ、結構いけているのだ。森の腐った切り株みたいなオーガニックな香りを伴っていて、さくらんぼみたいな軽やか&チャーミングな果実味がしっかりある。それと渋みであるタンニン。うまく言えないんだけど、香りとタンニンの風味が溶け合っている気配があり、これもまた気持ち良い。森の赤ワイン、農産物として優れたワインという感じがする。
 
近年のブルゴーニュワイン高騰のせいかもしれないけれども、最近は「ブルゴーニュ赤」といえども高級志向というか、華やかな風味を追求している品が多い。いわば「特級畑や一級畑の赤ワインを縮小再生産したような品」というか。ところがこのメーカーはそうした風潮に傾き過ぎておらず、今のところ、農産品らしさや森のお恵みらしさが前に出ていて、自分的には推したい感じだ。高級ブルゴーニュ赤みたいなものが欲しいなら買うべきじゃないけど、森のお恵みが欲しいならこれはアリ。ここの上位も買って熟成させてみたいところ。
 
  
・Fantini Gran Cuvee Bianco (N.V.) (イタリア、アブルッツォ州・スパークリングワイン)
【2191】Fantini Gran Cuvee Bianco (N.V.) - 北極の葡萄園
 

 
これは、高いシャンパンと同じ形のボトルに入ったイタリア産のスパークリングワイン。ファンティーニというブランドはアブルッツォ州では割と有名というか、手堅いワインを作ることで知られているところなのだけど、このスパークリングワインはかなり変。それも、良い意味で。
 
見た目はレモン色のきれいなスパークリングワインなのだけど、味が面白くて、オレンジと枇杷をミックスさせたような感じだ。パパイヤや桃といった、果肉のしっかりした果物みたいな後味にも感じられ、しばらく飲んでいるうちに、桃ミックスカクテルであるベリーニを連想することさえある。だからこのスパークリングワインは「すっきり」とか「すっぱい」という言葉が似合わず、なんというか「肉厚」で「こってりしている」のだ。だからフランス産のシャンパンはもちろん、スペイン産のカヴァや同じイタリア産のスプマンテなどともだいぶ雰囲気が違う。これが面白く、意外と旨い。
 
イタリア産のヘンテコワインの常として、この品も土着品種で作られていて、その品種名はココチオーラというんだそうで。初めて聞きました。ちょっと変わり種の品が欲しい人にはおすすめ。
 
 

今年は見知らぬフランスワインが面白かった

 
去年は「手堅いフランスワインばかり買うのはよしておこう」と思い、いろんな地域のワインを呑んでまわったし、それが今回のリストアップにも反映されたつもりだ。けれども実のところ、2021年に色々飲んで思ったのは、「いやいや、でもフランスワイン打率高いっしょ」だった。今回ここで挙げなかったけれども、ドメーヌ・デ・ザコルシャトー・ペスキエといった、名醸地からちょっと外れたところで頑張っているフランスの作り手のワインもかなり良かった。勝手のわからない作り手に挑戦し、ちゃんと面白い見返りがあるのはありがたいことだ。
 
それと自分がブルゴーニュ贔屓であることを差し引いても、3000~4000円のブルゴーニュ赤やブルゴーニュ白の打率がものすごく高かった。あれっ?この価格帯のブルゴーニュってこんなに旨かったっけ?と首をかしげることもしばしば。10年ほど昔なら、もう2~3000円高い価格帯で出会っていた味が、今は3000~4000円でアクセスできている気がする。ブルゴーニュワインの特級と一級は値上がりし続けているけれど、ベーシック品については値上がり一辺倒とも言えないのかも、と思った。や、値上がりしている銘柄はもちろん値上がりしてはいるのですが。
 
こんな感じで、一年経って気が付けばフランスワインに回帰してしまった。フランスワイン、層が厚い。
 
 

「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」が本当ならば

 
blog.tinect.jp
 
「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」。
 
上掲リンク先は、いくつかのバイト体験を例示しつつ、人手不足のところには何かしらそうなる理由があるから働くな、それは地雷だ、といったことを教訓的に記した文章だ。文章の前のほうに「バイトだろうが正社員だろうが、これはたぶん同じだと思う」と書いてあるので、一般論として読み取るよう書かれているのだろう。
 
では、この文章を一般論として読み取っていった時、どんな展望が開けるだろうか。
 
この文章についたはてなブックマークには、同じ現象があてはまりそうな複数の例が挙げられている。また、いつも人手を募集している業種や企業に対して警戒感を持っている人が少なくないことも伺われる。
 
ところで、人手不足なのは企業だけではないし、仕事上のことだけでもない。
 
世の中を見渡せば、私生活の領域においても人手不足を訴える声が聞こえる。もちろんそうした声は「人手が足りません。うちで働いてください」といった形式をとってはいない。同好会やサークルのメンバーを募集するメッセージ、友達や相互フォロワーを募集するメッセージ、パートナーを求めるメッセージといったかたちをとっている。
 
もし、同好会やサークルのメンバーが満杯なら、もし友達や相互フォロワーが十分なら、もしパートナーが見つかっているなら、それらのメッセージは発せられなかったはずである。それか、不足していた時期にだけ発せられた、一時的な表明に過ぎなかっただろう。だとしたら、ずっとそうしたメッセージを出している側というのは、単に社会関係が不足しているだけでなく、社会関係が続かないような要素があるのではないか……と、読みを働かせる余地が生まれそうである。
 
そして訳あり求人や訳あり不動産が定点観測によって浮かび上がってくるのと同様に、いわば、訳あり個人もまた、定点観測をとおして浮かび上がってくる。少なくともそういう読み筋を働かせる余地がある……ということにならないだろうか。
 
いまどきの社会関係は、私生活の領域でも雇う側と雇われる側の関係に案外似ている:つまり、お互いの自己選択と双方の同意にもとづく限り関係が持続し、双方の同意が維持できないなら関係は持続しない。だから人がなかなか定着しない職場や企業が慢性的な人手不足に悩みやすいのと同じように、人がなかなか定着しないサークルや個人も慢性的な人手不足、言い換えれば社会関係の乏しい状態になってしまう。でもって、人が定着しやすい企業や職場が正社員やバイトを頻繁に募集しないのと同じように、人がよく定着するサークルや個人は社会関係が足りているからあまり新しいメンバーを募集したり探したりしない。
 
上掲リンク先の一般論を少し拡大して娑婆に適用すると、こんな見立てがずんずんと立ち上がってきてしまう。
 
 

なら、どうすべきだろう。

 
ここまで書いたことは、他の人が書いた一般論を借用し私が勝手に拡張してみた、キメラのような思考実験に過ぎない。が、この思考実験的な見立てが娑婆に適用できると想定したうえで、対策を考えてみたい。
 
まず常識的な対策として、いつでも募集のメッセージを出さざるを得ない側は、みずからに人が定着しないこと・離れていくことを顧みて、問題のある箇所を見つけて修正していく……という案がある。
 
表向き、これが正攻法の解決であるようにみえるが、実際にはできない場合も多い。いつも人手不足の職場が困った社員やバイトの存在を簡単にはどうにかできないのと同じように、個人も、みずからの問題を顧みて、問題のある箇所を修正できないことは多かったりする。顧みること自体が困難であることもあれば、修正することが困難な場合もある。そもそも、正攻法の解決ができる職場や土地やサークルや個人はやがて解決をとおして人手不足ではなくなり、人材市場においても、人間関係市場やパートナーシップ市場においても、じきに不可視化されていく──この考え方をそのまま思考実験していった場合、「いつまでも正攻法の解決がはかれない職場・土地・サークル・人物だけが市場で売れ残っているはずだから、ずっと市場で売れ残っているプレイヤーにはなにかしら解決困難な問題がある」という読みができてしまうことになる。
 
常識的な対策とはみられないけれども実際によく行われるのは、人が定着しないこと・離れていくことを前提とした生存戦略だ。どんどん雇用しどんどん退職していく職場などはその好例だろう。ほとんどの人が辞めざるを得ないような過酷な環境でも、たとえば賃金が高めであるとか、そういった好条件を併記すれば少なくとも人は寄ってくる。私生活の人間関係の場合も、人目を惹く長所を持った人は社会関係の維持しにくい性質がいくつかあろうとも、短い社会関係をぐるぐる回すことで一応なんとかなっていることがしばしばある。
 
対策その3。社会関係の不足をあまりにも露骨に示さないこと。社会関係の不足も深刻な問題になり得るし、深刻さの度合いが増すと余力がなくなってしまう危険性があるが、余力があるうちなら、自分の見せ方を工夫する余地があるかもしれない。ここまで書いた読みが娑婆で広く用いられているとするなら、不足を露骨に示し過ぎるのは、うまい手ではない。社会関係を求める声のボリュームやトーン。頻度には注意を払う余地があるだろう。
 
対策その4。いや、これは対策と言えるものではないかもしれないが、本当は、コネクション(コネ)がとても重要なのだと思う。冒頭リンク先についたはてなブックマークのなかに、こう書かれているものがあった。
 

しょっちゅう人手不足になるところでは働くな。

ホワイト職場でなかなか人が辞めないところでは、たまの求人は社員のコネ(悪い意味じゃなく)で埋まるので、ホワイト職場に勤めるのは難しい側面がある。

2021/12/02 10:51

 
これによれば、「人が定着しやすい職場がなかなか募集を出さず、市場において不可視化していくのは、たまの求人も社員のコネ(悪い意味じゃなく)で埋まるから」だという。社会関係においても同じく、たまの求人が当人たちのコネによって埋まっていくと考えるなら、とにもかくにもコネを大切にすること肝心、コネがコネを呼ぶという意識を持っておくべき……と考えざるを得なくなる。
 
そうだとしたら、コネというものを、つまり既存の社会関係というものをどう取り扱うべきか、無碍にして構わないものかが問われるということになる。だとしたら。
 
だとしたらだ、地縁や血縁のしがらみがなくなり、人間関係の切り貼りが意のままのようにみえるこの社会でも、結局、地縁や血縁にかわるしがらみからは自由ではなく、コネをコネたらしめる方法論、しがらみを制御するための方法論の優劣が問われる点は同じと考えざるを得ない。でもってこの社会ですら、地縁や血縁をメリットとして有している人間が若干有利になるわけだから、たとえば田舎から大都市圏に出てきたような根無し草はやや不利といえるのだろう。
 
現代社会の便益により、私たちは独りでも生きていけるような社会的体裁のもとで暮らしている。けれども、その現代社会で有利を取り、不利を避けるには、やはり人の輪に入り、コネと呼べるような社会関係を築いていくための諸力が肝心なのだと思う。もちろん昭和以前と比較すると、そうした社会関係を築く諸力の文法構造には違いがあるのだけれども、ともあれコネは大切だという印象に、「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」からスタートして着地した。