シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自己責任社会に阿弥陀様は輝く

 
先日、くたびれた頭でツイッターを眺めていたら以下のようなツイートが流れてきた。
 
 
「56億年後に死の星と化した地球に弥勒菩薩が現れて過ちに満ち満ちた人類史を漂白剤に浸けて綺麗にしてくれると信じてるよ」
 
 
弥勒菩薩、いいよね。
 
私は、(ゆるい)在家の日本の大乗仏教徒なので、弥勒様が過ちに満ち満ちた人類史を漂白してくれると聞くと、救いだと思う。それが人類絶滅後だったとしてもだ。ただ、弥勒様の救済には問題がある。56億年も待たなければならない、という点だ。
 
そこのところ、阿弥陀様(阿弥陀如来)はいい。
 
阿弥陀様は、私のようなフラフラしている信徒にも大変ありがたい仏様だ。南無阿弥陀仏と唱えれば、死の際には阿弥陀様が迎えに来てくれるという。なぜならそれは阿弥陀様の約束だからだ。
 
私は人前で南無阿弥陀仏とはあまり言わないけれども、「よろしく阿弥陀様」とつぶやいたり心中で唱えたりすることは結構ある。そんな感じでも、私が死に至る時には阿弥陀様が西方浄土から迎えに来てくださるだろう。阿弥陀様には約束があるし、阿弥陀様が約束をたがえるとはあまり思えないからだ。
 
 

阿弥陀様みたいなケツ持ちを、私たちは必要としているのではないか

 
ここで主語を大きくして言ってみたい。
私たちは、阿弥陀様を再び必要としているのではないだろうか。
 
自己選択と自己責任が徹底し、グローバリゼーションと名付けられた万人の万人に対する競争を生きる私たちは、事実上、過酷な淘汰に晒されている。鎌倉時代のように直接他人を殴ったり斬ったりすることはなくなったが、現代固有のルールと道理に基づいて、現代人もぎりぎりの戦いに身を置いている。
 
人生の浮沈の行方はしれない。私には、この競争社会が阿修羅の世界のようにみえる。剣や弓矢で戦うのでなく、知識や法や財力で戦い、人を組み敷いたり、人に組み敷かれたりしているからだ。
 
そんなブルジョワ阿修羅の世界で生きるうえで、何が私たちのよりどころになるのか? ここでいうよりどころとは、阿修羅として生きなければならないそれぞれの瞬間に精神のケツ持ちになってくれるような存在のことだ。
 
私の場合、その精神のケツ持ちが阿弥陀様になるわけだが、きっと、カトリックやプロテスタントの信仰でも良いのだと思う。卑見では、キリスト教の世界にもまた、そうした今を生きるための心構えと、生きていくことを後押しする教理や戒律があるようにみえるからだ。
 
21世紀は、サイエンスとエビデンスに照らし出されているようにみえる。ところが個々人の未来は見通しがきかず、結局、一寸先は闇のままだ。そうしたなか、明日も知れない競走をいつまでも続けていくと思うと途方に暮れてこないだろうか。少なくとも私なら途方に暮れるし、「阿弥陀様なしでやっていられるか!」という気持ちになる。
 
また、現代社会からは死も破滅も遠のいていると感じる人もいるかもだが、私にはそう見えない。健康と道徳の装いに包まれていても、ここも苦の渦巻く娑婆世界の一部ではある。その、苦の渦巻く娑婆世界という認識のなかでキビキビと思い切って生きていくためには阿弥陀様のような存在にケツ持ちしてもらったほうが生きやすいように思うのだ。あるいは道半ばで倒れた時、どうにかこうにか死んでいけるのではないだろうか。
 
 

阿弥陀様は、むやみに來迎しそうにないところがいい

 
形而上の存在としての阿弥陀様には、抜群に良いところがある。
それは、生きているうちに迎えに来てしまうおそれが無いことだ。
 
自分が信仰している対象が、何かのはずみで迎えに来てしまうかもしれないと思ったら、私なら気が散ってしまう。あるいは現世利益を説いていたり、「カルマや輪廻転生を意識して生きていなさいよ」と主張していたりしても気が散ってしまうかもしれない。ところが私と阿弥陀様との約束は「死んだら迎えに来てくれて、西方浄土に連れていってくれる」だけなので、生きているうちに阿弥陀様に気を遣ったり、阿弥陀様が迎えに来てくれないかなと空を見上げたりする必要がないのである。ああ、なんとありがたいことだろう! なんまんだぶ、なんまんだぶ。
 
信仰の対象に、現世利益や来世利益を期待し、あれこれ徳を積んだほうが良いみたいな教えにも、それはそれで良いところがある。実は私は、そういう信仰も大好きだ*1。けれども、現世利益や来世利益のために神様仏様の顔色をうかがい過ぎるのも自分は違うと思う。その点、阿弥陀様はバッチリだ。南無阿弥陀仏。本当に必要なのはこれだけ。死後のことをゴチャゴチャ考える必要も無い。そういうめんどくさい思弁は阿弥陀様にお任せだ。
 
「そんないい加減なことで信仰って言えるのか?」という人もいるだろう。そうかもしれない。だけど南無阿弥陀仏の六文字があるだけで、私の心は幾らか自由になって、余計なことに魂のリソースを喰わなくて済むようになるのだ。現世が救済されるような威力はないけれども、生きるということに、夾雑物が混じるのを防いでいただいているとは感じる。ああ、なんとありがたいことだろう! なんまんだぶ、なんまんだぶ。
 
たかが信仰と人は言うかもしれない。でも私は、阿弥陀様との約束のおかげで真っ直ぐ現世を生きていけるし、もうそれだけで現世利益だ。どうにも自己責任な社会を生きるためのケツ持ちとして、阿弥陀様はすばらしい。それと同じ役割を担ってくれる信仰の対象も、きっとそうだろう。
 
 

 

*1:そうやってよその神様仏様を拝んだとしても、阿弥陀様はきっと約束を守って迎えに来てくれる!

伝わりすぎる、伝えすぎる、このネットという場所について

 
 これから書くことは個人的なエッセイだが、そのエッセイがネット上に置かれるため、タイトルにあるように、伝わり過ぎてしまうかもしれない。文章が指し示した内容どおり伝わるかは定かではないし、私が書いている際に考えていたとおりに伝わるのかも定かではない。たぶん、両方ともかなわないかたちで伝わったりもするだろう。どうあれ、ネット上に置かれた文章はどこかに伝わる。正確性の高低にかかわらず伝わる。
 
 私がインターネットを本格的に使い始めた2000年前後だが、そのとき、ネットに書いた文章はボトルメールみたいなもので、自分が書いた文章が伝わる宛先はひとりふたり、多くて十数人の感覚だった。大きなウェブサイトや有名テキストサイトで活躍していた人は、ネットに書いた文章をボトルメールとは思わなかったかもしれない。とはいえ、大きなウェブサイトや有名テキストサイトですら、それらを愛顧している人に文章を伝えるのが専らだった。日経新聞が日経新聞の読者に専ら読まれるようなものだ。

 と同時に、そうしたサイトマスターですら、たとえば自分が書いた文章が日本政府に伝わるかもしれないと信じるのは難しかっただろう。
 
 しかし00年代も半ばになると、ブログが世間を騒がせたり、匿名掲示板の祭りが企業活動に影響を与えたり、そうした出来事が目に留まるようになった。ネットが影響力を持つようになったと言えばいいのか、ネットに書かれたひとつひとつの文章の到達距離限界が遠くなったというべきか。2010年代にはネットがマスメディアと結びつくようになり、ネットとマスメディアの境目は曖昧になっていった。曖昧になっていったにもかかわらず、個人が書いた文章が伝わる度合い、少なくともその飛距離と範囲のリミットはどんどん大きくなっていった。たとえば『保育所落ちた日本●ね』みたいな個人の文章が、びっくりするほど遠くまで届いたりする。あるいはtwitterで誰かが書いたツイートが海外の新聞社に取り上げられたりする。ポジティブな文章でもネガティブな文章でも、ファクトな文章でもフェイクな文章でも、そういうことは起こり得る。
 
 ネガポジや真偽に関係なく、とにかく、ネットという場所は言葉をどこまでも伝えてしまう。それは本当はものすごく恐ろしいことで、人類には早すぎるというか、人類のコミュニケーションの仕様からいって手に負えないことのように私には思えるようになってきた。こんなに伝わっていいのだろうか。このネットという媒体は言葉を伝え過ぎてしまっているのではないだろうか。そういうことを最近はよく思う。ポジティブも、ネガティブも、ファクトも、フェイクも、メロディも、ノイズも、びっくりするほど伝えてしまうこの媒体は、なかなか手に負えない状況になっているのではないだろうか。いや、なっていますね。驚くほどのことではないか。
 
 広く遠く届くだけではない。
 
 ネットに書かれたメッセージは、文章でもイラストでも動画でも、書いた者の意図したとおりにも、テキストとして記された内容どおりにも、伝わらない。それは書き手の表現力のせいかもしれないし、読み手の読解力のせいかもしれないし、可処分時間の問題かもしれないし、コンテキストの欠如のせいかもしれない。無料のせい、という場合もあるだろう。
 
 ネットはただ伝え過ぎてしまうだけでなく、書き手の意図やテキストに記された内容とは異なった風に伝わる。「メッセージとは、テキストとは往々にしてそういうものだ」「多様な解釈が生まれるのはいいことだ」と述べる人もいるだろうし、ごもっともなことではある。けれど、たとえば紙媒体の世界と比較して、このネットという媒体はあまりにも伝え過ぎてしまうと同時に、あまりも違ったかたちで伝わってしまってやしないだろうか。
 
 昨今は、このネットという媒体をとおして政治的なスキャンダルが大きく取り上げられ、政治に影響を及ぼすことがある。あるいは、このネットという媒体をとおしてサブカルチャーのコンテンツが脚光を浴びて、日本語圏全体に響き渡るような賛辞を生んだりする。それらの現象は、とりもなおさずネットという媒体の性質・威力を反映しているし、威力があるからあてにされてもいる。
 
 しかし、威力があるからあてにされているこのネットという媒体は、さっきも書いたように「あまりにも伝え過ぎてしまうと同時にあまりも違ったかたちで伝わってしまう」媒体だ*1。私たちがみんなでひとつのメッセージに「いいね」をつける時、そのメッセージは私たちのもとにどこまで正確に伝わっているのだろう?
 
 たとえばネットで読んだ文章に「いいね」をつける時、逆に「よくないね」をつける時、私たちはメッセージを正確に受け取れているかどうか、どれぐらい気にしているだろうか。案外、メッセージの書き手の意図どおりに伝わっているかや、テキストとして記された字義どおりに伝わっているのかを考えようともしないまま、「いいね」や「よくないね」をつけるように、だんだん流されていやしないだろうか。
 
 でもって、私たちは書き手の意図やテキストの字義どおりかを度外視して「いいね」や「よくないね」をつけるよう、日々慣らされて、日々訓練されているとさえ言えるのではないだろうか。
 
 そういう、伝わり具合が正確かどうかをみんながあんまり意識しないメディアがマスメディアに比肩する影響力を持つようになり、世間をさまざまに沸騰させているとしたら、だとしたら、私たちはネットという媒体をとおして、いったい何をやっているのだろうか。この、影響力の生起とその評価(または位置づけ)は正解なのだろうか。
 
 うまくまとめきれないから私の危惧するところが誰かに正確に伝わるのか自信がないのだけど、私は今のネットという媒体は「うまくいっていない」と思う。旧世紀に生まれてこのかた進歩してきたようにみえて、なにやら、大きな間違いを内包したまま巨大になってしまったとも思う。たとえばメッセージが意図する以上に広がりすぎてしまったり、たとえばメッセージの正確性を度外視したかたちで伝わってしまったりすることなどは、媒体としてのネットの不出来なところ、従来の媒体に比べて劣っているところではないだろうか。この点において、媒体としてのネットは粗野で信用がならない。その粗野さや信用のならなさは(諸般の事情で)今日まで不問に付されてきたが、ここまで大きな影響力をふるうようになってなお、不問に付されたままというのもおかしな話ではある。だのに、平気な顔でネットという媒体をあてにしている人は多い。むしろ、これでいいのだと思っている人もいる。本当にいいのだろうか。
 
 私がインターネットを始めた時、この、伝わるということ・伝わる可能性があることに惹かれた。けれどもネットがあまりに巨大になった今では、この、伝わるということ・伝わる可能性があることが、誰の手にも負えないものになっていると感じる。だいたい正確に伝わるならまだマシだが、どう伝わるかわかったのものではないのに遠くまで伝わるから手に負えない。そんな手に負えない媒体が私たちを包囲し、現代社会に深く食い込んでいる。なんとあてにならないものをあてにしているのだろう、私たちは。
 
 

*1:たぶんだけど、官公庁の提供するpdfファイルすら、そうしたネットという媒体の性質をある程度受けてしまう

「僕たちの文明では感情は精神疾患」まであと何歩?

  
私の気持ちは、誰のもの?(熊代亨:精神科医)#もやもやする気持ちへの処方箋|「こころ」のための専門メディア 金子書房
 
リンク先は、金子書房さんのnote記事に寄稿させていただいた「私の気持ちは誰のもの?」という文章だ。
 
社会から不適切な感情がどんどんなくなり、怒りや気分の落ち込みや不注意がどんどん治療やマネジメントの対象になっていくとしたら、私たちの気持ちはいったい誰のものなのか──そういった疑問を書き綴ったものだ。
 
でもって、この文章の終盤で、私は『魔法少女まどか☆マギカ』のキュウべえのセリフを拝借した。
 

10年ほど前にヒットしたアニメーションで、効率主義の異星人が「僕たちの文明では、感情という現象は稀な精神疾患でしかない」と主人公に言い放つ場面を見たことがあります。当時はその異星人の非-人間性に戦慄しましたが、最近の私には、それが他人事には聞こえません。効率性や生産性の妨げとなる感情や行動を次々に病気とみなして治療し、ICTやAIの力を借りて大規模なモニタリングまで実施する、その行き着く先が人間を人間でなくしてしまい、効率性や生産性のための部品のような存在にしてしまう未来はあり得ると思います。
(金子書房note:私の気持ちは、誰のもの?)より

 

 
『まどか☆マギカ』が話題になっていた頃、キュウべえは見た目のかわいらしさとセリフのギャップがひどくて、(悪役として)大人気だった。で、そのキュウべえは作中、過去の悲劇を振り返って涙を流すまどかに「僕たちの文明では、感情は稀な精神疾患でしかない」と言い切ったのだった。
 
この、キュウべえのセリフを10年前の私は面白がるばかりだった。ところが今の私には、この言葉がリアリティを伴って聞こえてしまう。というのも、現代の日本社会には感情がまだ残っているとはいっても、いくつかの感情は許されないものになっていたり精神疾患になっていたりして、全体としては、許容される感情表出の幅が狭くなっているからだ。
 
 

より少なく、許されなくなっていく感情表出

 
許される感情表出の幅が少なくなっている? どこが? とおっしゃる人もいるかもしれない。
ところが狭くなってきているんですよ。
 
たとえば昭和時代の歌謡曲を振り返ると、今日では珍しくなっている感情や情感がたくさん登場する。男女関係は令和に比べて合理性を欠いていて、衝動的だった。令和の流行歌と昭和の流行歌をSpotifyで聴き比べると、メロディラインの変化もさることながら、歌われている情感の違いにもびっくりする。
 
コメディアンの一挙一動や映画の登場人物の身振りもだいぶ違う。よく怒る。よく叩く。よくボディアクションする。もちろん令和のコメディアンにも感情表出はあるけれども、どのような感情表出が大げさで、どのような感情表出が穏当なのかの線引きは令和と昭和ではかなり異なってみえる。ドリフターズのコントや『寅さん』の登場人物の会話を見ていると、いずれも令和の基準からは遠い。喜怒哀楽といった感情表出の決まり事が、この数十年で変わってしまったことを作品から感じ取ることができる。
 
国外に目を向け、さらに昔にさかのぼると、生活に占める感情の割合がもっと大きく、(現代人から見て)感情表出が野放図であったことがみてとれる。『近代人の誕生』のなかでミュシャンブレッドは、近代以前の人々の不潔さ・無礼さ・暴力性などを紹介しているが、それらに伴う感情表出も、現代からみれば粗野で野放図なものだ。もちろん、文明化の進んだエリートたちは自分はそうではないと思いたがるわけだが、
 

 黒人、インディアンその他のエキゾチックな人種は、じっさい恐怖よりむしろ知的好奇心をかきたてるモデルであった。だが田舎の農夫や都市で暮らす貧しい連中はもっと不安で得体の知れない存在であり、文明化された人々にしてみれば自分が忘れたがっている自分自身の一部分について語りかけてくる存在なので、非常にいやな、できれば消えてほしいような性格をあれこれそなえている。対象から距離を置いた視線、動物的衝動および行動や言葉遣いの下品さの抑圧──当時の上流社会はそうやって近代人なるものを創出し、それを起源の根っこから切り離そうとした。けれどもその根っこは同じ時間・同じ空間の中に、一般大衆として存在しつづけている。

ミュシャンブレッドの見るところ、起源をさかのぼれば不潔で無礼で暴力的で粗野な感情表出の人物像にたどり着くことをエリートたちもどこか自覚していたようである。そのような自覚を打ち消すためにも、
 

 だから闘いはまだ終わっていない。十八世紀を通じてエリートたちが都市にどんどん移住したのはなぜか、また彼らが都市を浄化し、平和にし、都会化しようとしたのはなぜかということも、以上で一挙に説明がつく。……都市の人間である啓蒙思想家たちは、当時「下品」とか「野卑」とか言われていたものを少なくとも保守的エリートたちと同じくらい拒絶していた。そして周知の通り、啓蒙の光は地方の農村を照らしはしなかったのだ。

エリートたちは都市へと移住し、その都市のジェントリフィケーションに余念が無かったのだった。
 
 
また、この手の書籍の草分け的存在である『文明化の過程』のなかで、著者のエリアスは中世において感情表出がどのようなものだったのかを、以下のように記している。
 

 中世の人間生活は現代とは異なる情感の条件を基盤としており、不安定で、未来に対する十分な見通しに欠けていた。そうした社会では、全力を尽くして愛さないもの、あるいは憎悪しないもの、また激情の渦中でおのれを全うできないものは、修道院へ入ったのであった。後世の社会、とりわけ宮廷においては激情を抑制し、情感を秘めたり「教化」したりできないものがそうであったように、かれは、世俗生活の中ではいわば落伍者だったのである。
 

中世までさかのぼると、感情表出の足りない者が社会不適応者として修道院に入ったという。今日ではきっと逆だろう。感情表出の過多な者こそ、社会不適応者として、修道院に、いや……修道院に代わる何かに身を委ねなければならなくなる。
 
 
 *        *        *
 
 
こうした(アナール学派の)書籍はたいてい、過去の人々の習慣や常識の違いと、精神生活や感情生活の違いについて教えてくれる。それらによれば、近代以前の人々は私たちより喜怒哀楽が激しかっただけでなく、そうした感情表出が社会的に必要とみなされていた。これは、現代とはほとんど逆にみえるのではないだろうか。近代化や文明化が進むにつれて、私たちは喜怒哀楽を激しく表出しなくなり、そうした感情表出がどこまで社会的に妥当なのか(または妥当でないのか)の基準も変わっていった。
 
昭和から令和にかけての日本人の感情表出の変化と、それに対する妥当性の判断基準の変化も、こうした流れの延長線上にあるよう、私にはみえる。こうした変化は現在進行形のものだから、たとえば平成生まれは昭和生まれの感情表出を粗野なものと感じたり、許容できないものと感じたりする。
 
 

うつ病・双極性障害(躁うつ病)の軽症化を、このアングルから眺めてみる

 
そうした感情表出の妥当性を判断する際、今日では、精神疾患か否かという尺度が用いられることも多い。メランコリーがひどければうつ病、高揚した気分や行動力がひどければ躁病といった具合だ。気分がジグザグに揺れ動く人には、双極性障害という病名がいかにも当てはまるように聞こえる。
 
うつ病や躁病や双極性障害は、ひとまとまとまりのカテゴリーとして「感情病圏」とか「気分障害圏」と呼ばれている。では、どこまでの感情が病気で、どこまでの感情が病気でないのか? この線引きも、時代によって一定ではない。少なくとも私が精神科医になってからの20年ちょっとの間にも、病気とみなされる線引きはかなり変わった。
 
うつ病は、はっきり軽症化している。軽症化の理由は、患者さんが早い段階でメンタルクリニック等にかかってくれるからともいえるし、うつ病の診断基準が変わり、かつて神経症やノイローゼと呼ばれていた人もうつ病の診断基準の範囲内になったからだとも言える。あまりにも重症で、話す言葉にスローがかかったようになっている患者さん*1に出会うことは少なくなっている。
 
双極性障害(と躁病)についてもそうだ。重症度の高い躁病がいなくなったわけではないにせよ、ずっと頻繁に見かけるのは軽症の双極性障害の患者さんだ。双極性障害は見過ごされやすく、うつ病として治療されていることがままあると言われているが、とどのつまり、よくよく目を凝らして病歴や気分の浮沈を見極めなければならない、そんな双極性障害が増えているということでもある。
 
これら、重症度の低い気分障害圏の患者さんの増加は、ある程度までは啓蒙や医療充実の成果とみなせる。みんながメンタルヘルスを気に掛けるようになり、早期発見・早期治療が行き届いた成果として、精神疾患の軽症化が進んだという一面は間違いなくある。本題とはズレるが、統合失調症の患者さんの軽症化に関しては、この一面がとりわけよく出ているように思う。
 
だけど、そうした医療サイドの啓蒙や充実だけでこれが起こったとは私には思えない。冒頭リンク先に、私はこんなことを書いた。
 

 うつ病が広く診断されるようになったことも、こうしたことの一環かもしれません。まだ軽症のうちにうつ病が診断されるようになったのは、早期発見・早期治療という観点からはシンプルに望ましいものです。しかし別の観点からみると、同僚や家族のメランコリーな気持ちや仕事や勉強が手につかない状態を職場も家庭も抱えきれなくなったから、いや、個人も社会も抱えきれなくなったから、以前はうつ病と診断されなくても良かった軽度の状態までもがうつ病と診断され、治療されなければならなくなっているのではないでしょうか。
(金子書房note:私の気持ちは、誰のもの?)より

 
つまり、うつ病が広く診断されるようになり、より軽症のうつ病までもが治療の対象になったのは、会社も家庭も、社会も個人も、メランコリーな気持ちや仕事や勉強が手に付かない状態を許容できなくなったからではないだろうか。
 
メランコリーな気持ちや仕事や勉強が手につかない状態は、職場や家庭や学校での社会適応に悪影響をおよぼす。だが、人間の人生にはメランコリーな時期や諸々が手に付かない時期だってあってもおかしくなかったはずだ。
 
では、どこまでだったら許容されるのか? たとえば職場で暗い顔をしていて、時々思い出し泣きしている人がいるとして、そういう人は職場にいて良いものだろうか? または、一個人としてそのような状態でいて構わないものだろうか?
 
暗い顔をして思い出し泣きをしている人は、もう、職場にいてはいけなくなっているのではないだろうか。あるいは学校でも。家庭でも。個人においてもそうだ。人生のある時期にメランコリーであること、生産性が低下していることを現代人がどこまで許容できるのだろう? 一日ぐらいなら許容できるかもしれない。では一週間なら? 一か月なら?
 
メランコリーな個人、生産性が低下している個人を早期発見・早期治療する社会は、ある面では優しくて健康な社会だが、ある面では厳しい社会であるよう私には思える。というのも、そのような社会は人がメランコリーな状態でいることも、生産性が低下した状態でいることも、許容しないからだ。「許容しない」といって語弊があるなら、「忍容できない」とでも言い換えれば良いだろうか。メランコリーな状態や生産性が低下した状態を忍容できない社会は、そのような個人をそれそのままにしておかない。のみならず、人生のなかにメランコリーな感情や気分が優勢な時期が存在することを(個人も、社会も)忍容できない。このような社会ではメランコリーな感情や気分は顧みられなくなり、抗うつ薬やマインドフルネス瞑想などによって退けなければならなくなる。
 
と同時に、気分の浮沈のある人も(極端な躁病でなくとも)治療を受けなければならなくなる。精神科医がよくよく目を凝らして病歴や気分の浮沈を見極めなければならないような、そんな双極性障害が増加しているということは、昔よりも小さな気分の浮沈までもが社会適応にとってクリティカルな問題になり得るようになった反映ではないだろうか。
 
契約社会の一個人として、誰もが自己判断と自己責任の綱渡りをやっていかなければならない社会では、気分の浮沈に左右されるほど不利を被りやすい。たとえば誰もが投資をしなければならないような社会では、気分の浮沈に左右される人は損をしやすく、気分の浮沈に左右されない人が得をしやすいだろう。
 
また、昔よりもマイルドな感情表出しか許容されなくなった社会では、気分の浮沈が顔や言葉に出過ぎることが問題になりやすい。ガミガミする人、メソメソする人、けたたましく笑う人は、令和のホワイトな職場にそぐわない。ホワイトな職場にいたければマイルドな感情表出の幅に自分を押し込まなければならない──と同時に、マイルドな感情表出の幅に自分を押し込めない人はホワイトな職場にいられない、とも言える。
 
うつ病や躁病や双極性障害の軽症化は、「社会が許容する感情のありよう」というアングルで見るとこんな具合にみえる。精神医療は、そうした社会からのニーズに即した治療を提供しているとも言える。追認しているようにも見えるかもしれない。後押ししている、という風にもうつるかもしれない。
 
なんにせよ、うつ病や躁病や双極性障害の軽症化と、それに伴う患者さんの増加から、ここ数十年の精神生活や感情生活の変化を透かし見ることは可能だろう。
 
 

「僕たちの文明では感情は稀な精神疾患」まであと何歩?

 
「社会が許容する感情のありよう」がこの調子で変わり続けた結果として、誰もが怒らず、誰もが泣かず、誰もがさざなみのように微笑む、そんな未来が来たとして。その未来はユートピアと言えるだろうか。
 
そうかもしれない。けれどもそのユートピアで暮らす未来人は、私たちよりもっと喜怒哀楽の幅が狭くなければならないし、その狭い感情表出の幅へと自分自身を適合させるべく、努力しなければならないだろう。それとも努力するまでもなく、ICTや薬物によって喜怒哀楽や感情表出が調整されるようになるのか。
 
そうなった未来を人間の解放とみるべきか、人間の幽閉とみるべきか。私なら後者とみる。なぜなら、誰もが怒らず、誰もが泣かず、誰もがさざなみのように微笑むようになったら、それはもう人間ではないよう、私には思えるからだ。そのように調整された人々で占められた社会では、カルチャーは繊細かつ淡白なものにならざるを得ない。今日親しまれている多くの作品やコンテンツは、刺激が強すぎて楽しめないもの・禁じられたものとなっていくだろう。大きな声で笑うことすら、行き過ぎた感情表出として忌避されるかもしれない。
 
人間の喜怒哀楽と感情表出には、効率性や斉一性に馴染まないところがある。けれどもそれも人間の一部であり、人類を飛躍させるエネルギー源でもあったはずだ。そういう意味では、「僕たちの文明では、感情は稀な精神疾患」と言い放ったキュウべえがエネルギー源としての感情を求め、魔法少女の希望と絶望の相転移を集めてまわったのは似つかわしいことだった。しかし私たちの社会がそうなってしまったら、衰退し自滅していくか、感情を豊かに持った別の社会に征服されるしかないのではないか。
 
キュウべえにインスパイアされるまま、良くない未来を展望してしまった。しかしこういう未来が絶対来ないとは言えないし、少なくとも大昔の人々からみれば、令和の日本社会はずっとキュウべえの異星文明に近づいているはずである。そして今のところ、社会も医療セクターも、私たちの感情を都合の良いように整形することを躊躇っているようには、あまりみえない。
 

*1:いわゆる精神運動抑制が顕著な患者さん

梅雨の雨、雲、におい、どれも好きだ

 

 
雨の降る季節はあらゆるものにカビが生え、洗濯物が乾きにくくなり、水害が起こることもある。気圧の変化や温度の変化のせいで、私の場合、自律神経も失調気味になってしまうからいただけない。生活する、という点でみれば梅雨は厄介な季節でしかない。
 
けれども年を取るにつれて、この季節が待ち遠しくなり、、2021年も梅雨景色を満喫している。
 
まず雨のにおい。
いつの季節でも雨のにおいは好ましいものだし、真夏ににわか雨が降る寸前の、埃っぽい乾燥と生ぬるい湿りの混じり合うあの瞬間のにおいはたまらない。6-7月の雨のにおいはというと、さまざまな植物の香りが強く伴っていて、なんというか命の息吹が感じられる。だからアガる。
 
濡れそぼったアスファルトのにおいと合わさった、庭園の薔薇の香り。紫陽花やゼラニウム、ドクダミやガマにも香りがある。いや、花の香り以上にそれらを咲かせる土壌の香りだろうか。梅雨の季節は、土壌がむんむん匂い立ってくる。クローバーの生えている土壌も人参畑の土壌も田んぼの泥も、この季節ならわかりやすい。
 
そういうオーガニックなにおいと全体的に濃い色調の緑が合わさって、生命力に満ちた景観ができあがる。最高だ! その生命力はどこからきているかというと、梅雨前線がもたらす雨、ヒマラヤから東アジアに広がるモンスーンの壮大なメカニズムからきているわけだ───そのことを連想するにはこの季節がいちばんいい。9月の台風も雨をもたらすけれど、9月の緑にはメランコリーの気配があるし、そもそもあれは、荒っぽすぎる。
 
 

 
雲を眺めるのも好きだ。
低くたれこめた黒っぽい雲を早がけのように横切っていく小さな白い雲。雲によってフィルタリングされてラムネみたいになった太陽。天球をグレー一色に塗りつぶしてしまう乱層雲。昔は夏の入道雲や南ヨーロッパの(やる気の感じられない)雲のほうが好きだったけれども、梅雨の雲とそれによって生まれる景観のほうが好きだと最近になって気づいた。
 
うっすらと雨雲に覆われた山野が水墨画のように見える時、川向こうの田園地帯が雨に煙っている時、「これでいいのだ」という気持ちになる。これをナショナリズムと呼ばなければならないのか、郷土愛と呼んで構わないのかはわからない。が、そうした湿潤な景観をみていると「ここで生まれ育って良かった」「これからもここで生き続けたい」という気持ちになる。小雨のふりしきる田んぼにポツンと立つ鷺を見るのもいい。そういった諸々が魂の風景になっているだけでなく、夏がやってくる前触れにもなっているのだ。
 
虫たちも。
雨の日、草の裏を観察すると蝶が羽を休めている。梅雨も後半になればキリギリスの声が聞こえはじめ、環境の良いところではトンボたちがもう飛んでいる。真夏や秋のトンボは我が物顔に飛び回るイメージがあるが、梅雨のトンボには慎ましさが感じられる。たまにヤゴの抜け殻を見かけたり、脱皮したてのアメリカザリガニを見かけたりすることもある。
  
近頃は地球温暖化の影響で、こうした気候や風土も変わり始めていると聞く。そうでなくても梅雨の雨には危険が伴い、人がさらわれてしまうことさえある。それでも自分はこうした風土のもとに生まれ、育ててもらったから、この気候を嫌いになることはできないし、いつまでもこの気候に囲まれながら生きていきたいと願う。
 
書いているうちに雨があがった。山鳩の声が聞こえる。朝の散歩に出かけよう。
 
 

「日本スゴイ」や「ネトウヨ」にみる、アイデンティティの間隙

 
blogos.com
 
 
リンク先はBLOGOSさん向けの書き下ろし記事です。拙著『何者かになりたい』の後半章に関連した、中年期~老年期のアイデンティティの話題を記しています。BLOGOS編集部さんから「中年の危機」に重心を置いて欲しいとリクエストいただいたので、そのような内容となっています。ご関心ある人は読んでみてください。
 
ところで、リンク先の文章のなかで私は「日本スゴイ」について触れました。
 

それでも、この問題で精神医療の助けを借りなければならない人は全体の一部だ。実際には、多くの中年や高齢者が自分のアイデンティティを巧みにメンテナンスし、年を取ってからも何者かで居続けている。なかにはアイデンティティの空白を「日本スゴイ」的な動画配信のシンパになることで埋めあわせてしまう人もいるが、そうしたことも含め、人は自分のアイデンティティの空白をどうにかするためには骨惜しみしないし、それで案外なんとかなっている、ともいえる。

https://blogos.com/article/546687/

これですね。
 
「何者かになりたい」「何者にもなれない」と思い悩む若者とはまた別に、中年や高齢者にもアイデンティティの危機が起こることがあり、リタイアメントや死別などによってアイデンティティの構成要素を(一部)失ってしまうことなら頻繁にあります。仕事、人間関係、家庭、趣味、なんでもいいですが、それらがアイデンティティの構成要素として機能しなくなった時、人はそのまま空白に耐えるより、新たにアイデンティティの構成要素となりそうなものを取り入れ、メンテナンスしようとするものです。
 
思春期に「何者にもなれない」と悩んだことのある人ならわかると思うんですが、アイデンティティの構成要素が足りてない状態では気持ちに余裕が生まれず、心が飢えがちです。そういう状態でアイデンティティの構成要素として有望なものに出会ってしまった時、これをスルーするのは簡単ではありません。アイデンティティの構成要素が足りてない状態で、これぞというオンラインサロンやソーシャルゲームに出会ってしまった人は、深入りしやすいのでした。
 
で、「日本スゴイ」の話。
 
コンテンツとしての「日本スゴイ」はオンラインサロンやソーシャルゲームに比べ、経済的リスクは少ないようにみえます。テレビを持っている人には無料と言ってもいいでしょう。
 
しかも「日本スゴイ」には圧倒的な間口の広さがあります。日本のことがだいたい好きで、日本が優れた国であって欲しいと願ってさえいれば、誰もが「日本スゴイ」を介して「スゴイ日本に生きている日本人」というアイデンティティを獲得……というより自分のアイデンティティの構成要素の一端に日本人ってのがあったことを指差し確認できるのです。
 
「日本人なんて、アイデンティティとして希薄すぎるじゃないか」とおっしゃる人もいるでしょう。そうかもしれませんね。ひとことで日本といっても広いわけですし、日本人なんていくらでもいるわけですから。
 
でも逆に考えれば、日本人というアイデンティティほど簡単なものもありません。少なくとも日本国籍を持っていれば日本人には違いないのです。日本人であることに疎外感をおぼえる人、日本が憎くてしようがない人にとって、日本人であることはアイデンティティの構成要素たり得ませんが、日本人であることを誇りに感じている人や日本が好きな人には、日本人であることもアイデンティティの構成要素たり得ます。
 
アイデンティティというと、かならず個人的なものだと思う人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。個人的な地位・名誉・アチーブメントがアイデンティティになるだけでなく、特定の集団に所属していること・組織の一員であること・居場所が実感できる状況であること、等々もアイデンティティの構成要素たり得ます。たとえば昭和時代の愛社精神豊かなサラリーマンは、個人としては業績や肩書きがふるわなくても、「○○社の社員としての自分」という実感がアイデンティティの大きな割合を占めたことでしょう。ちょっと昔の「はてな村」というネットコミュニティにしてもそうです。「はてな村」でそれほど目立っていなかった人でも、「はてな村」というネットコミュニティに自分が所属しているという(肯定的な)自負や自覚がある場合には、「はてな村」がアイデンティティの一部を担うことになります。
 
愛社精神豊かなサラリーマンにとっての会社や「はてな村」が大好きなはてなユーザーにとっての「はてな村」に比べれば、日本という集団・組織は広く薄いので、「日本スゴイ」をとおして再確認できる日本人というアイデンティティは"原則として"薄いものでしかありません。
 
とはいえ無いよりずっと良いし、多くの人が利用可能なアイデンティティではあるのです。たとえば職場や家庭や肩書きやコミュニティといったアイデンティティの構成要素がどれもズタボロになってしまった人でも、再確認さえしてみれば日本人というアイデンティティが手許に残っているのです。「日本スゴイ」は、そんな手許にあったはずの日本人というアイデンティティを気持ち良く発掘し、足りないアイデンティティの構成要素を補う一助として利用できるコンテンツではないでしょうか。

(補足:でもって、日本人というアイデンティティが要らないと感じている人々からみると「気に入らない人々だ」とうつることでしょう。人は、自分自身がアイデンティティを感じることのない組織や集団にアイデンティティを感じ取っている他人を見る時、ポジティブな感情をなかなか持てないものですから)
 
 

カジュアルな「ネトウヨ」に問題はあるか

 
そんなわけで、私は「日本スゴイ」系のコンテンツを好んでいる人には極端な愛国者はそれほどいなくて、大半は、アイデンティティの構成要素の間隙を埋めたいニーズを充たしているだけじゃないかと思っています。
 
同じことはいわゆる「ネトウヨ」についても言えます。
 
「ネトウヨ」とは、掴みどころのない言葉ですが、少なくとも「ネトウヨ」には従来型の(そして典型的な)主義者とは違うという含意があります。どうやら、オンラインコミュニケーションの一部に愛国的・右派的・保守的な発言がみられる人もまとめて「ネトウヨ」と呼ばれているようですね。
 
そうした「ネトウヨ」な人々のなかにも、SNSなどをとおしてカジュアルにアイデンティティの一部を補完している人が結構いるようにみえます。
 
オンライン上の「ネトウヨ」な人々は、オフラインで「日本スゴイ」系の番組を見ている人より、いくらかアクティブです。日本や日本人について肯定的なツイートを書いたり、いいねやリツイートで共有することでアイデンティティの構成要素としての日本・日本人を指差し確認しているようにみえます。だからといって、彼らが四六時中日本を愛するツイートをしているわけではありません。色々な人から「ネトウヨ」認定されている人のツイートを眺めてさえ、全ツイートの1/5以下、たいていは1/10以下ぐらいのものでしょうか。多彩なツイートからは、「ネトウヨ」認定されている人も、日本・日本人以外にさまざまなアイデンティティの構成要素を持っていることがうかがえます。
  
こうしたカジュアルな「ネトウヨ」と、それをとおしたアイデンティティの指差し確認に問題はあるでしょうか。「ネトウヨ」の正反対の人からすれば大問題でしょうけど、私も以前に「ネトウヨだ」と言われたことがあったので、よくわかりません。でも、これって大丈夫なのかな? と私なりに思うところもあります。三つ挙げてみましょう。
 
1.ひとつは、一人ひとりにはカジュアルなアイデンティティの指差し確認でも、積もり積もれば言霊として大きくなる点。
「ネトウヨ」と呼ばれる人の大半がカジュアルでも、リツイートやシェアによって広がる言葉は言霊として膨張し、政治の重みを宿すことがあります。もちろんこれは「ネトウヨ」以外でも同じでしょう。ところがそれに自覚的な人は、あまりいません。自覚がある人々によって言霊が膨張するのも怖いですが、自覚がない人々によって言霊が膨張するのも、それはそれで怖いものです。
 
でもって政治的なリーダー格の人はそうしたことも承知のうえで、カジュアルにアイデンティティの指差し確認をしている人とその願望を動員しているのでしょうね。
 
2.もうひとつは、アイデンティティがとことん足りない人には結局猛毒になりかねない点。
さきほど私は「日本のメンバーシップの一員だと指差し確認にして獲得できるアイデンティティは"原則として"薄いものでしかない」と書きましたが、これは、積極的に活動することで濃縮可能です。アイデンティティの構成要素がすごく乏しい人が活動をとおして日本・日本人としてのアイデンティティを再確認した時、それがアイデンティティの一番大きな構成要素になってしまうことがあります。ちょうど、自分にはオンラインゲーム以外にないと思っている人がオンラインゲームをアイデンティティの一番大きな構成要素にしてしまい、抜け出せなくなってしまうのと同じことが「ネトウヨ」にだって起こり得ます。「ネトウヨ」の正反対の人たちにだって起こるでしょう。
 
そうやって全精力を注ぎ込んで活動するようになった「ネトウヨ」は、傍から見れば生粋の主義者とほとんど変わりません。いや、案外主義者とはそういうものなのでしょうか? なんにせよ、深入りしてしまうリスクはここにもあるでしょう。
 
3.みっつめは、そうした「ネトウヨ」をとおしてアイデンティティの指差し確認する人が増えたってことは、アイデンティティを獲得できる手段が社会に足りなくなっていることや、アイデンティティを希求する余力が乏しくなっていることを反映していないか、という点。*1
 
人的流動性が高まり、替えのきく匿名的な仕事が増えれば、そこからアイデンティティを実感・獲得するのは難しくなります。旧来の地域や共同体が希薄になれば、集団をとおしてアイデンティティを獲得するのも難しくなるでしょう。もちろん今も、匿名的ではない仕事を獲得する道や、旧来の地域や共同体にかわる繋がりを獲得する道もあるにはありますが、それらは学力やコミュニケーション能力の競争に勝ち抜かなければ得られないものでもあります。地元に生まれ、地元の高校を出て、地元の経済圏で働く人だって例外ではありません──いまどきの地元の人的繋がりを、無条件で所属できるものだと私は感じていません。学校という名の予選があり、そこからセレクションが働いています。学校という名の予選で疎外されてしまった人が大都市の大学などに進学できるならまだいいですが、そうでない場合、アイデンティティの構成要素の求め先は非常に限られてしまうでしょう。
 
そうした社会状況のなかで、どこにもアイデンティティの獲得先が見いだせない人が生まれてくるのは必定ですし、オンラインサロンやソーシャルゲームといった、アイデンティティを求める動機を利用したビジネスが盛んになるのもうべなるかな。もし、「ネトウヨ」をはじめ、ネット上の政治的言説がアイデンティティの獲得先が見出しにくい人の居場所になることが問題だとしたら、個々の政治的言説の是非だけでなく、アイデンティティの獲得先が見出しにくくなった社会や、アイデンティティの椅子取りゲームで敗者が発生しやすく、しかも彼らのアイデンティティの獲得先について一顧だにしない社会にも問題があるように思います。
 
 

どうにもならない。でも問題はそこにある

 
まあ、こうやって考えたところでどうにもなりませんし、なるようにしかなりませんが。
 
アイデンティティの構成要素が足りない人が、どんどん「ネトウヨ」(やその正反対)に染まっていく社会って、いったいどうなっちゃうんでしょう? アメリカのトランプ前大統領みたいな人が現れたりするんでしょうか。それともドイツのチョビ髭伍長みたいな人が支持を集めてしまうんでしょうか。
 
未来のことはわかりません。でも、「ネトウヨ」や「日本スゴイ」に限らず、今の世の中の景色のある部分は、アイデンティティの獲得先がなかなかに難しい社会、ひいては「何者にもなれない」社会とそれなり結びついているでしょう。個人の心理的充足の問題とて、積もり積もれば政治も含めた社会の色々な領域に影響し、影を落とすのだとしたら、社会を主導する人々はいったい何をすべきなのでしょうね。
 
 

何者かになりたい

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*1:もちろん「ネトウヨ」の増加がアイデンティティを実感しにくい社会になった主因だとここで言いたいわけではないのは断っておきます。たとえば東アジアにおける政治的緊張の高まりだって、大きな要因のひとつでしょう