シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

続・発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない

  
anond.hatelabo.jp
 
5月29日にはてな匿名ダイアリーに投稿された『発達障害やグレーゾーンの人の適職って?』という記事*1に、たくさんのはてなブックマークが付いていた
 
文中で挙げられている"逐一支持しても単純作業しかできない人(もしくは単純作業も難しい人)"が実際に発達障害か、ここで判定することはできない。なんらかの発達障害に加え、二次障害を併発している人物を思い起こさせる記述ではある。が、この人が精神科を受診したら別種の精神疾患を診断されることはあり得るし、精神疾患の該当無し、と判断されることも絶対に無いとは言えない。
 
それにしても、と思う。
 
匿名ダイアリーの投稿者も、はてなブックマークでコメントを寄せている人々も、あまりにもナチュラルに発達障害という診断名を用いていて、くだんの人物をASDやADHDといった発達障害の概念に照らし合わせている。「グレーゾーン」という言葉を用いている人が多いのを見るに、発達障害が白黒はっきりつけられるものではなく、スペクトラム的・グラデーション的な疾患概念であることまで知られているのだろう。
 
数あるネットサービスのなかでも、はてなブックマークは発達障害とその周辺問題に敏感なユーザーが多いとは思う。そのことを差し引いても、発達障害という概念に基づいて人物評やコミュニケーションがこんなに行われていることには驚かざるを得ない。2010年頃のはてなブックマークでは、まだ一部のユーザーだけが発達障害という概念を用いていたはずだし、2000年のインターネット上で発達障害が語られることはずっと少なかったはずである。
 
是非はともかく、今では発達障害という概念をとおして人間を寸評することが世間で珍しくなくなった。
 
 

発達障害という概念はどんな風に広まったのか

 
発達障害という概念をとおして人間をまなざす目線は、いつ頃から一般化していったのか。
 
専門性の高い研究者や児童精神科医は、20年以上も前から発達障害に注目して、啓蒙しようとしていた。とはいえ、最初からすべての精神科医が発達障害に注目したわけではないし、もちろん世間の人々は知りもしなかった。
 

我が国の事情は......アメリカに30年遅れて1999年に学習障害が教育用語として定義された。MBD*2当時から現在に至るわが国の学会事情の推移としては、日本児童青年精神医学会の学会誌に掲載された論文と総会演題等を過去48年にわたり調べたものがある。それによると、ADHD関連演題は1999年以降多少の変動を示しながらも急増していることがわかる(図1)。
 

 
田中康雄「ADHD概念の変遷と今後の展望」、『精神科治療学』第25巻6号、P709~717、2010 より

このグラフは、ADHDに関する学会発表や論文掲載をカウントしたものだから、一般精神科医の意識はこれより少し遅れていたとみるべきだろう。実際、私が研修医をやっていた2000年頃には「わしは、発達障害という診断がなくても診療をやっていけるわい」と豪語する精神科医の先輩に出会うこともあった。
 
ところが00年代後半に差し掛かる頃には、多くの精神科医が発達障害という概念をとおして患者さんを診るようになっていった。それに伴い、発達障害と実際に診断される患者さん、または「この患者さんにはADHDの(または広汎性発達障害の)傾向があるね」とカンファレンスで指摘される患者さんはみるみる増えていった。
 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

はじめに反応したのは精神科医たちだった。そうした新しい社会の新しい不適応に、発達障害という概念はぴたりと当てはまったから、精神科医たちは発達障害についての講演や専門書から一生懸命に学ぶようになった。「こころ」の病気としてうまく捉えきれない患者を、発達障害とその研究者たちはうまく説明してくれるように見え、また、その方面のエビデンスが蓄積されはじめていたからだ。
ほどなく学校関係者や福祉関係者もこれに続き、発達障害とおぼしき子どもを医療に委ねることが当たり前になっていった。日本じゅうの学校で校内暴力が吹き荒れていた一九七〇年代には発達障害がほとんど広まらなかったのとは対照的に、学級崩壊が取り沙汰された二〇〇〇年代には発達障害は速やかに受け入れられた。
......最後に、世間の人々が変わっていった。片付けられない人。落ち着きのない人。空気が読めない人。敏感と鈍感の混じりあった人。そういった、ちょっと変わってちょっと困った、ホワイトカラーの典型的な職域やコミュニケーションからはみ出しがちな人々、つまり、ハイクオリティ化していく社会から取り残されつつある人々を説明づける概念として、発達障害はパズルのピースのように社会に嵌まった。そうした結果、当事者みずからもADHDやASDを語るようになり、〝発達障害本〟が書店に平積みされるようになった。
 『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

 
一般精神科医が発達障害という概念をとおして患者さんを診るのが当たり前になり、教育関係者や福祉関係者もしっかり意識するようになった。やがて世間の人々も知るようになり、書店に"発達障害本"が山積みにされるようになった。
 

発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由

発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由

  • 作者:栗原 類
  • 発売日: 2016/10/06
  • メディア: Kindle版
ボクの彼女は発達障害 (ヒューマンケアブックス)

ボクの彼女は発達障害 (ヒューマンケアブックス)

  • 作者:くらげ
  • 発売日: 2014/03/13
  • メディア: Kindle版
 
みんなが発達障害を知るようになったことで、恩恵を受けるようになった人も多い。早期発見・早期対応(治療)により適切な対処がなされた人々については、とりわけそうだと言える。仕事や生活をサポートされ、それで助かっている人も増えた。
 
 
 

「発達障害はサポートされるべき」で考えるのをやめてしまう人々

 
しかし、冒頭の匿名ダイアリーを再読し、考え込まずにいられない部分もある。
 
発達障害が世に知られていくなかで、仕事ができない人・コミュニケーションが苦手な人・ちょっと付き合いづらい人らを、人々は発達障害という概念で括ってしまい過ぎではないだろうか。たとえば、はてなブックマークのコメントのなかには、匿名ダイアリーの筆者に対しても「この筆者が発達障害ではないか、グレーゾーンではないか」と寸評するものが混じっている。なにやら、受け入れがたい人・十分ではない人・コミュニケーションができていなさそうな人を、発達障害という概念で括ってしまい、そこから先を考えるのは医療や福祉の役割であるべき(=そこから先を考えるのは私たちではない)とみなす口実にしてしまっていないだろうか。
 
匿名ダイアリーの筆者は、部下が発達障害ではないかと思いながらも最善を尽くしたという。だが、世の中にはこのような上司ばかりがいるのでない。「発達障害だから適切にサポートされるべき」を「発達障害はあらかじめサポートされていて、職場にスムーズに適応できなければ困る」とみなしている人も多い。
 
「発達障害はサポートされるべき」と言ったとき、そのサポートを誰がすべきなのか。
 
サポートすべきは家族や医療や福祉、あとはせいぜい教育機関まで、という意識の持ち主が実のところ多いのではないか。「発達障害はサポートされるべき」というけれども、それを家族や医療や福祉や学校の役割とみなし、弊社はサポート済みの、仕事もコミュニケーションもこなせる状態になった発達障害の人を歓迎します(または障害者雇用という枠組みのなかで歓迎します)……といった職場や現場が少なくないのではないか。少なくとも私は、そのようなプレッシャーを日常診療のなかで再三感じる。
 
と同時に、発達障害の特性を理解しながら少しずつできることを増やしていきましょう、といった提言が拒否される瞬間にもしばしば出くわす。
 
拒否する側の立場も理解はできる。どこの職場も現場も人手不足のうえ、生産性や効率性や利潤を向上させ、リスクを回避しなければならない。余裕のない世相のなか、「発達障害ですか、では適切なサポートが必要ですね。ご本人がサポートを受けたうえで活躍できる場所で頑張ってください。それはここではありません。」を慇懃に表明する現場や職場もまた多い。
 
「発達障害はサポートされるべき」という意識じたいは、医療や福祉に限らず、多くの職場や現場にもそれなり行き届いてはいる。
 
が、実のところ、自分たちがサポートしようとか、自分たちが向き合おうという意識が行き届いたのでなく、「医療や福祉がサポートすべき」であり、「サポートが必要ならサポートされた環境に向かうべき」といった意識が行き届いてしまっているのではないだろうか。
 
言い換えるなら「弊社では関わりたくない、医療や福祉に丸投げしたい、それか、障害者雇用のような枠組みのもとで用いたい」という意識とセットになったかたちで「発達障害はサポートされるべき」という意識が広がっている、とでもいうか。
 
こうした切断操作的な意識が広がることを、医療関係者や福祉関係者が望んでいたとはまったく思えない。そもそも、発達障害とはグレーゾーンを含んだスペクトラムな概念であったはずである。ところが表向きは「発達障害はサポートされるべき」というフレーズをなぞりつつも、「サポートされてから(そして私たちと同じように働けるようになってから)働くべき」に置き換えられていることが、案外あるように思われるのだ。
 
 
 

生産性・効率性・利潤・リスク回避に仕える「発達障害はサポートされるべき」

 
ほんらい、「発達障害はサポートされるべき」とは、医療や福祉や学校がサポートするに留めてはならないもの、だったはずだ。にも関わらず、実際には医療や福祉にサポートをまかせっきりとして、そのサポートによって定型発達*3に近づいた人を、近づいた割合に応じて職場や現場に迎える、そんな仕草が世間でまかり通っている。それはどうしてなのか。
 
このことに関して、私は「発達障害はサポートされるべき」という命題と並び立つ世間の命題を思い出さずにいられない。
 
つまり、21世紀の職場や現場は「生産性や効率性に優れていなければならず、利潤をあげられなければならず、リスクを回避しなければならない」。政治学者のウェンディ・ブラウンが『いかにして民主主義は失われていくのか』で記したように、人々の意識が資本主義に染まった現代社会では、この命題は企業活動に限定されず、個人生活や行政のありかたにも適用される。
 

 

人も国家も現代の企業をモデルとして解釈され、人も国家も自分たちの現在の資本的価値を最大化し、未来の価値を増大させるようにふるまう。そして人も国家も企業精神、自己投資および/あるいは投資の誘致といった実践をつうじて、そうしたことを行うのである。
(中略)
いかなる体制も別の道を追求しようとすれば財政危機に直面し、信用格付けや通貨、国債の格付けを落とされ、よくても正統性を失い、極端な場合は破産したり消滅したりする。同じように、いかなる個人も方向転換して他のものを追求しようとすると、貧困に陥ったり、よくて威信や信用の喪失、極端な場合には生存までも脅かされたりする。
『いかにして民主主義は失われていくのか』より

 
「生産性や効率性に優れていなければならず、利潤をあげられなければならず、リスクを回避しなければならない」という命題が国から個人にまで浸透した社会では、それに逆らって生きるのはとても難しい。のみならず、この命題が医療や福祉にも浸透しているとすれば、「発達障害はサポートされるべき」とは資本主義の命題に拮抗するものというより、資本主義の命題に仕えるもの、資本主義の命題を支えるものたり得るのではないだろうか。
 

(発達障害はサポートされるべきという)通念や習慣の変化は、発達障害という診断が受け入れられる下地となっている現代社会そのものにとって都合の良いものでもある。というのも、発達障害という現代社会に適応しにくい特徴のある人々に医療や福祉がサポートを提供するのが当たり前になり、さらに障害程度に応じて(たとえば障害者雇用や障害年金の適用といったかたちで)社会のなかへの再配置がきちんと行われるなら、サポートされる個々人の生産性が高まるだけでなく、この新しい社会が個々人に要求する秩序のハードルや能力やクオリティのハードルを下げなければならない、道義的必要性もなくなるからだ。
医療や福祉が正しく発達障害をサポートしてくれる限りにおいて、この高度に進歩した社会は、ますます子どもに行儀の良さや聞き分けの良さを期待できるし、ますます就労者に効率的で持続的な仕事ぶりを期待できるし、ますます私たちにコミュニケーション能力の高さを要求することができる。
 『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

「発達障害はサポートされるべき」という意識が広まり、障害程度に応じたサポートが行われることによって、社会は、生産性を獲得した発達障害の人々を受け取る。だがそれだけでなく、この社会がこのままで構わない正当性をも獲得する。ますます誰もが行儀良くあるべきで、誰もが効率的で持続的に働けるべきで、誰もがコミュニケーション能力が高くあるべき、この資本主義の命題が具現化したような社会は、医療や福祉によるサポートによって経済的にも道義的にも支持されている──少なくともそういう側面を否定することは難しいのではないか──。
 
医療関係者や福祉関係者の思惑とはまったく違ったかたちで「発達障害はサポートされるべき」という言葉が独り歩きし、どこかで資本主義の命題に仕えるシステムの一環に組み込まれているとしたら、その点には注意が必要だと私は思う。
 
このような状況のなかでは、たとえば匿名ダイアリーの筆者のような人は、善意による「発達障害はサポートされるべき」という思いと、資本主義の命題に忠実な「発達障害はサポートされるべき」の板挟みに遭うことだろう。職場や現場で発達障害の人と対峙している人は、しばしば、そうしたふたつの「発達障害はサポートされるべき」の合間で様々なことを考えさせられるだろう。もちろん、考えることをやめてしまうよりは余程良いとは言える。ただ、発達障害という言葉が世間に浸透したからといって、当事者や関係者の悩みがなくなったわけでも、良いことづくめだったわけでもないことは、折に触れて思い出しておくべきだ。
 
私は、発達障害という言葉がここまで広がったからこそ、この言葉の受け取りかたは世間に揉まれてしばしば変質し、ときに、体よく利用されていると感じる。とりわけ、この言葉が資本主義の命題に組み込まれながら用いられることに警戒感をおぼえる。その果てに「発達障害はサポートされるべき」が「発達障害はサポートされなければならない」に変わっていくような未来は見たくない……のだが、誰もが健康であるべき・誰もが清潔であるべき・誰もが生産性の高い経済的に自立した個人であるべき社会とは、そういうものなのかもしれない。
 
[前回の記事はこちらです:]発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない - シロクマの屑籠
 

*1:なお、後にこの記事は『愚痴です(発達障害やグレーゾーンの人の適職って?)。』に変更となっている

*2:シロクマ注:minimal brain dysfunctionの略。ADHDという疾患概念が登場する以前に用いられていた

*3:注:いわゆる「正常」

4月5月は"やっている感"のハイシーズン(だからしんどい)

 
日本社会では成果よりも「みんなと一緒に」という美徳が信頼の源泉になっている。 | Books&Apps
 
books&appsさんに、"やっている感"について寄稿させていただいた。
 

  • 「みんな一緒に」の同調圧力が強まりやすい職場や現場では、仕事の効率や成果とは別に、みんなと一緒に手を動かしている"やっている感"を出すよう求められがち。
  • また、お互いのことをよく知らないメンバー同士の職場や現場では、「あいつ、本当に仕事をちゃんとやっているのか?」と誤解されないようにするために、シグナルとして積極的に"やっている感"を出しておいたほうがいい。

……といったことを書いた。
 
寄稿した文章を読み終わり、"やっている感"のハイシーズンとオフシーズンについて補足しておきたいと思ったので、書いておく。
 
一般に、"やっている感"を否応なく出さなければならない季節は、4月~5月、それと7月や10月だと思う。つまり新しい学校や職場に入っていく時期、転勤や異動がある時期だ。教室や職場のメンバーがお互いのことをよく知らないこの時期は、"やっている感"を出しておいたほうが無難なことが多い。リンク先で私は以下のように書いた。
 

一緒に働いているメンバー同士がお互いのことをよく知っていたり、進捗がガラス張りになっていたりする環境ならいざ知らず、そうでない環境では、仕事を進めているジェスチャーを出しておいたほうが誤解は避けやすい。
特に、あなたが短時間に一気に仕事を片付けるタイプで、仕事の合間にクールタイムを必要とするタイプの場合はとりわけそうだ。
「みんな一緒に」「みんなで力をあわせて」をルールとして重視していない人でも、プロジェクトメンバーの一人がマトモに働いていないようにみれば心配になるのは理解できることだ。
というのも、誰だってマトモに働かないメンバーのしりぬぐいなんてしたくはないだろうからだ。
そうした誤解や懸念を避けるためには、自分の進捗を明らかにしつつ、”やっている感”をメッセージとしてしっかり出しておくことには意味がある。
着任して間もない新しい職場や現場では、とりわけそうだろう。

 
世の中にはマイペースに働き、それで成果や結果を出せる人もたくさんいる。引用文にあるような、"短時間に一気に仕事を片付けるが""仕事の合間にクールタイムを必要とする"タイプもそれほど珍しくない。しかし、転勤や異動があった直後はお互いがお互いのことをよく知らないから、マイペース丸出しで働いたり、短時間に仕事を片付けるスタイルそのままに働いたりすると、「あいつ、ひょっとしてちゃんと仕事しない(できない)奴なんじゃないか?」という不信感を生んでしまう可能性がある。
 
不信感を生むリスクを減らし、職場で信用をスムーズに獲得するためには、ある程度意識して"やっている感"を出しておいたほうが無難ではある。
 
もちろんこれは、新しい職場に着任した人だけに問われるものではない。以前から職場にいた人も、新任者から「あの人、職場のお荷物なんじゃないか?」と思われないようにするためには、ある程度"やっている感"を出しておいたほうが安全だ。実際には実働5時間で仕事のほとんどを片付け、残り時間をフリーに過ごすワークスタイルを得意としている人でも、新任者にはすぐさま理解してもらえないかもしれない。はじめのうちは"やっている感"をある程度出しておき、徐々にそのワークスタイルを理解してもらったほうが不要の誤解や不信を避けやすいだろう。
 
それと規律や規則の問題。
ワークスタイルが概ねフリーな職場でも、イレギュラーなワークスタイルを新任者に積極的にはオススメしたくない、新任者にはまずテンプレート的なワークスタイルを提示しておきたい、という職場は意外に多いと思う。または、ちゃんと仕事をこなせる限りにおいてイレギュラーなワークスタイルを"許容"はしているけれども、表向きの規則としてはテンプレートどおりのワークスタイルを尊重してもらいたい、としている職場だってある。
 
そういう職場では、最終的には新任者にもイレギュラーなワークスタイルを許すことになるかもしれないけれども、少なくとも初手の段階ではテンプレート的なワークスタイルを、それこそ「和と協調を重んじて」「みんなが手を動かしている時にはあなたも手を動かして」的な規律を示しておかなければならなかったりする。規律を示しておかなければならない場面では、イレギュラーなワークスタイルが許容されているメンバーにも、ある程度の協力が期待される。「新任者にウチのテンプレを教えている横で、おまえさんのイレギュラーなワークスタイルを丸出しにされると少し困ります」という暗黙の期待には応えておいたほうが、ゴタゴタを避けやすいだろう。
 
こうしたニーズがあるため、"やっている感"を出さなければならない時期には一定の季節性がある。自分が新任の側であれ、新任者を迎える側であれ、お互いのことをよく知らない状況下でイレギュラーなワークスタイルを丸出しにするのは誤解や不信を招いてしまうリスクが高すぎる。本当はイレギュラーなワークスタイルでなければ本領を発揮できない人でも、はじめのうちは"やっている感"にコストを割き、「みんなと一緒に」をやってみせておいたほうが安全ではないだろうか。
 
そして相互理解の進行状況をみながら、自分のイレギュラーなワークスタイルを小出しにしていくのが、処世術としてはベターなんじゃないか。
 
 

それでも"やっている感"を出すのはラクじゃない

 
こんな風に、職場や現場のメンバーが入れ替わる状況では"やっている感"のニーズが高まる。4月5月、7月や10月は"やっている感"のハイシーズンと言っても過言ではないだろう。逆に、卒業式や送別会のシーズンは一年のなかでお互いのことを見知っている時期なので、"やっている感"のオフシーズンと言えるかもしれない。
 
とはいえ、処世術としての"やっている感"はやはりコストに違いない。少なくとも、マイペースなワークスタイルやイレギュラーなワークスタイルの時に仕事がトップギアに入るタイプの人にとって、わざわざ"やっている感"を出すために時間的・精神的・肉体的コストを支払うのは快いものではない。
 
今年は感染症対策の影響のため、顔合わせの時期が大幅にズレている学校や職場もあるだろうから、今まさに"やっている感"を出しておかなければならない人も少なくないのではないだろうか。
 
お互いの理解が進んで、自分のワークスタイルを出していけるようになるまで、なんとか頑張っていきましょう。
 

「釣りの終焉」と「フェイクの時代」

 

 
インターネットスラングに「釣り」というものがあった。たとえば00年代の2ちゃんねるでは、「釣り」「釣り乙」という言葉がしばしば用いられた。釣りを釣りだと理解していることは、ちょっとしたネットのリテラシーだったものだ。昔の2ちゃんねるの管理人が言っていた、「ウソをウソだと見抜ける人でないと(インターネットは)難しい」という言葉が支持されていた時代でもあった。
 
はてなダイアリー(現はてなブログ)やはてなブックマークでもそれは同じで、「釣り記事」「釣りエントリ」といった言葉が並んでいたものである。わざと突っ込みどころのあるブログ記事を書いたり、たくさんの人の反応を集めるための仕掛けをほどこされたブログ記事などに、そうした言葉があてがわれていた。「大きな釣り針」「錆びた釣り針」といった派生語を用いている人もいた。本人は大真面目にブログ記事を書いたつもりが、「釣り」扱いされて、憤慨している人もいた。
 
なんにせよ「釣り」という言葉があって、皆がそれを共有していた。
 
twitterでも、00年代までは釣りという言葉はそれほどレアではなかった、はずだ。「はずだ」と書くのは、2009年まで私はtwitterを非公開運用しかしていなかったからだが、2010年前半のtwitterでは、まだ「釣り」という言葉が視界に入ったように思う。
 
 

「ウソをウソだと見抜ける人でないと(インターネットは)難しい」の終焉

 
しかし、今日では「釣り」という言葉を用いるネットユーザーは非常に少なくなった。古参のネットユーザーでも、「釣り」という言葉を積極的に選び続けている人は少ない。私だって、「釣り」という言葉をネットスラングとして用いるのは久しぶりである。というか普段は意識にのぼらない。 
 
いっぽう世間では、フェイクニュースなるものが取り沙汰されるようになった。事実に基づいたメンションを侵食するようにフェイクのメンションが流通し、そのフェイクが影響力を獲得して事実を食い荒らすようになると、フェイクに皆が真剣になって、フェイクに気をつけろ、フェイクに対策しろと言うようになった。
 
フェイクに気をつけろ、という時の皆の口調は真剣で、「釣り」という言葉を応酬していた頃ののどかさ、おおらかさは無い。「釣り」という言葉にはどこか遊び心があったが、フェイクに関しては、それを流布する側もそれをフェイクだと看破し注意を呼び掛ける側も真剣になっている。
 
昔、インターネットには「ネタにマジレスカコワルイ (現代訳:ネタに対して本気になって反応しているのは格好が悪い) 」というフレーズがあったけれども、ネタや「釣り」に相当するものがフェイクになってしまった今、このフレーズも通用しなくなったと言える。
 
伴って、昔の2ちゃんねる管理人が述べていた「『ウソをウソだと見抜ける人でないと(インターネットは)難しい』も終わりを告げた。ウソをウソと見抜けない人がいて、ウソをウソと知りながら流布し、影響力を獲得する人もいるようになった今は、ウソをウソだと見抜けない人がインターネットには満ちている、というのが本当のところだろう。そして私たちは意外に簡単にウソに騙されてしまう。
 
[参考]:「『ウソをウソだと見抜ける人でないと難しい』という格言はもう賞味期限切れ」という意見に同意の声 - Togetter
 
今にして思えば、「釣り」という言葉に遊び心が宿り、遊び心のある言葉が流通する程度には、インターネットは遊び場だったのだろう。現実とシームレスではなく、現実と少し距離感をもって付き合う場でもあり、マジになり過ぎたらカコワルイものでもあったのかもしれない。だが、現実とインターネットがシームレスになり、そこでお金や影響力が動くことが皆に意識されるようになるにつれて、インターネットは単なる遊び場ではなく、ビジネスや政治の場になった。
 
ビジネスや政治の場では、「ネタにマジレスカコワルイ」などと言えたものではあるまい。
「釣り」という言葉が廃れていったのは、時代の必然だったのだろう。
 

新型コロナウイルスと、呪術で戦っていませんでしたか

※今日、書くことはエビデンスを踏まえたものではありません。感染対策に貢献するものでもありません。私のエッセイ、いや思いつきでしかないことをあらかじめ断っておきます。※
 
 

(※出典:『肥後国海中の怪』(京都大学附属図書館所蔵))
 
 
人々は、新型コロナウイルス感染症と「呪術」や「アニミズム」で戦っていたのではないだろうか。
 
 
外出自粛やマスク、手洗い、医療機関や行政機関の努力の甲斐もあって、5月27日現在、この感染症は下火に向かっているようにみえる。実際にウイルスの拡散を防いだのは医療や防疫のテクノロジーであり、そうしたテクノロジーにもとづいて専門家が助言を行い、施政が行われたからだろう。
 
 
そのことを踏まえたうえで、専門家ではない私たちの大半がどのように感染対策を"体験"したのか、あるいは"解釈"したのかについて、所感を書いてみたい。
 
専門家ではない私たちのなかには、この、新型コロナウイルス感染症との戦いを「呪術」として、「アニミズム」の一環として戦っていた人はいませんでしたか。
 
医療機関や行政機関は、サイエンスやエビデンスに基づいたかたちで「不要不急の外出をひかえてください」「マスクをしてください」「ソーシャルディスタンスを保ってください」とアナウンスしていた。そこに呪術やアニミズムが入り込む余地はほとんど無かったように思う。
 
だけど、そうしたアナウンスを受け取る私たちは、サイエンスやエビデンスに基づいたかたちで受け取っていただけでなく、むしろ同時に、「穢れを払う」「清める」「物忌みをする」といったかたちで受け取り、実践してはいなかっただろうか。
 
いわば、私たちは医療機関や行政機関のアナウンスするとおりに感染対策を実践すると同時に、「穢れを払う」「清める」「物忌みをする」といった日本人に古くから伝わる呪術をも実践していたのではないだろうか。
 
感染対策が叫ばれていた頃、人々は、争うようにマスクや消毒液を買い求め、驚くほど従順に外出自粛を成し遂げ、進んでソーシャルディスタンスを守ろうとした。もともと日本にはきれい好きな習慣があり、手を洗ったりマスクをしたりすることに抵抗の無かったとはいえ、諸外国と比較しても素早く、徹底的にそうした感染対策が実践に移された。
 
命が惜しいから感染対策?
そういう人は大勢いたはずだ。
 
なんだか不安だったから?
もちろん不安は私たちを強力に動機づけたことだろう。
 
サイエンスやエビデンスを理解していたから?
うん、日本にもそういう人はいたに違いない。
 
でも、そういった常識的な動機だけでなく、私たちは*1アニミズムな魂の命じるまま、「穢れを払う」「清める」「物忌みをする」ことに熱中してもいなかっただろうか。
 
たとえばマスク。マスクが売り切れはじめ、ドラッグストアに行列をなして買い求めていた頃、マスク着用をサイエンスやエビデンスに基づいた感染対策として実践していた人はいったいどれぐらいいたのだろう?
 
とりあえずマスクをしてさえいれば、鼻がマスクからはみ出していても、裏返しに装着していても平気な顔をしている人がたくさんいた。あと、空気を清めるだとか、手を洗うだとかに関して、サイエンスやエビデンスを度外視した、気休めというより有害な行動を繰り返していた人々も多かった。外出自粛に関しても、どうしてあんなに人々は熱心で忠実だったのか? よもや、ときの政権に人々が忠誠を誓っていたから、ではあるまい。
 
思い出せば思い出すほど、あの頃の私たちは感染対策に熱心だった。サイエンスやエビデンスを度外視している人も多かったはずなのに、感染対策は熱気に包まれていた。あの熱気はいったいなんだったのか?
 
サイエンスやエビデンスを皆が理解していたからではあるまい。そもそも、サイエンスやエビデンスを動機としていたなら、あれほどの熱気は生じなかったのではないか。3月の半ばから5月上旬にかけての、物忌みカーニバルとでもいうべき、異様な熱心さで行われた感染対策は、私たちの習慣や伝統に練り込まれた、無意識のうちに駆動する壮大な呪術でもあったのではないだろうか。
 


 
この二つのツイートは4月3日時点のものだが、形式主義的なマスク着用が横行しているのを見ているうちに、私はマスク着用には感染予防の役割と同じかそれ以上に、社会的・心理的な役割が宿っていると思うようになっていった。
 
それに伴って、人々の着用しているマスクが「注連縄(しめなわ)」に、コンビニのレジに設置されたビニールシートが「鳥居」のようなものに思えてきた。人々は、マスクをしたりビニールシートを敷いたりソーシャルディスタンスを保ったりして、いわば、「結界」を作っている、といったイメージだ。
 
そういうイメージを持っている日本人が私以外にたくさんいても、サイエンスやエビデンスにもとづいた感染対策と矛盾していなければ、呪術とて咎められることはない。
 
ネットの賢い人たちのなかには、実のところ感染対策を呪術のように実践している人々、形式はなぞっていてもサイエンスやエビデンスへの理解が欠如している人々に勘付き、警告を発する者もいた。けれどもそれは少数派で、結構な数の人々は、メディアからの情報をサイエンスやエビデンスにもとづいて理解し実践したと同時に「穢れを祓う」呪術にもとづいて解釈し実践していた、ように私にはみえた。それどころか、サイエンスやエビデンスにはほとんど無頓着に、感染対策を専ら呪術ベースで解釈し実践していた人も、本当は少なくなかったのではないか。
 
もともと日本ではトイレの後に手を洗う人がたくさんいるが、たとえば新宿駅のトイレの手洗いコーナーなどを見ていればわかるように、トイレの後の手洗いをキチンと実践している人は思うほどにはいない。しかし、ともあれ手を洗うこと・手を清めることを習慣にもとづいて(形式的に)実践している人はかなりいる。あるいは、サイエンスやエビデンスにもとづいた手洗いが実践できなくても、習慣にもとづいて(形式的に)手を洗えればとりあえず気が済む人々が存在している。
 
サイエンスやエビデンスに基づいて感染対策を推し進めていた人々の思惑とは別に、アニミズムや呪術に基づいた動機がドライブしていて人々が異様な熱心さでマスクや外出自粛やソーシャルディスタンスをやっていたのではないか?……と考えてみたとしても、特段、役に立つ知見が得られるとは思えない。かりにそのような動機が今回の騒動でドライブしていて人々を躍起にさせていたのだとしても、それが感染を実際に防いだと考えるのは正しくないだろう。感染対策の効果は、あくまでサイエンスやエビデンスに基づいて分析されなければならない。
 
しかし、そうした真面目な話とは別の与太として、この数か月にわたって異様なまでに忠実に行われた感染対策のうちに、私は、熱気を、熱情を、動機を、モチベーションを見てしまった気がした。命が惜しいから・不安だからといった一般的な動機に加えて、なんらか、お祭りやお祀りのごときエネルギーが宿っているように感じた。
 
もちろんこれは、私の主観に基づいた心象風景に過ぎないのだけど、こういう心象風景ができあがったのは久しぶりだったので、ここに書き残しておくことにした。他意は無い。
 
 
 
 
 
 
【PVが増えてきたので宣伝を。】
6月に現代社会の健康や清潔や秩序について新著を出します。
こちらは社会の秩序と自由と不自由についてがテーマです。よかったらどうぞ。
 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
[関連]:熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』第一章(上)を公開します - シロクマの屑籠
[関連]:熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』第一章(下)を公開します - シロクマの屑籠

 
*2020/05/27の15:40に、アマビエさまの画像を貼り付け。

*1:いや、もうこの際、私はと言ってしまったほうがスッキリするか

親が教師のかわりに教えることと、親子のソーシャルディスタンス

 
今が人生でいちばんハッピーなんじゃ。|こゆるぎさん|note
 
リンク先のnoteには、在宅勤務になって子どもと過ごす時間が増え、コミュニケーションがたくさんできるようになった喜びが記されている。こうした在宅勤務がなくなって元の勤務体制が戻ってくるのか、それとも在宅勤務が一般化していくのかは、わからない。でも、学校はもうじき再開されるだろうから、こんな風に親子が一緒に過ごす時間は稀になっていくのかもしれない。
 
私は在宅勤務ではないので、子どもと一緒に過ごす時間が圧倒的に増えたわけではなかった。それでも、学校や習い事が休みになり、外出や出張も減ったおかげで子どもと過ごす時間はだいぶ増えたと思う。
 
学校や習い事や出張が減って再認識したのだけど、現代の(核)家族は、普段、一緒に住んでいても時間や空間をあまり共有していないんだなと気づいた。寝泊りするのは同じ家でも、別々の時間割、別々のスケジュールに沿って暮らしている私たち。なるほど現代人は、こうやって子ども時代から生活もプライバシーも個人化した individual として規律訓練されていくわけか。
 
親は親の時間、子は子の時間をセパレートして過ごすことが絶対必要不可欠な家庭にとって、今回のような、親子のソーシャルディスタンスが急変した状況は苦しいだろうなと思った。
 
それと授業の難しさ。
 
学校が授業をやってくれない間、私が子どもに授業をしようと頑張っているが、想像していた以上に難しい。
 
今まで、子どもに勉強を教えることはあっても、それは先生が教えてくれることの復習が中心だった。「先生があらかじめ教えてくれている」前提で「先生が出した課題に沿って」勉強を教えていた。予習をしなければならない場合も、いずれ先生が教えてくれるから・学校できっちりやってくれるからという期待があった。
 
ところが今年の3月からこのかた、学校がいつ再開するのかもわからないまま教えなえればならなくなった。途中からは動画やzoomを活用することにもなったけれども、特に3月~4月はじめにかけてはほとんど独力でやるしかなかった。前年度の三学期の終盤のカリキュラムと今年度の一学期の序盤のカリキュラムには、なかなか重要そうな内容も含まれていて、おろそかにしてはいけない雰囲気が漂っていた。せめて、重要そうな内容だけでも使いこなせるようになってもらいたかった。
 
子どもにとって何がわかりやすく、何がわかりにくいのか。
どこで躓きやすいのか、どこが応用をきかせやすいのか。
 
親と子どもは別の人間だから、わかりやすいところも、躓きやすいところもまちまちだ。もちろん、子どもそれぞれによって学習の手癖も違っている。そういう違いを意識しながら各教科を順番に教え、理解の程度もはかりながら進むのは骨のおれることだった。教えている間、脳が酸素と糖分をすごい勢いで消費していると感じた。
 
どうやったら肌に吸い付くように理解してもらえるか?
どうやったら子どもの負担を最小化し、理解を最大化できるのか?
そういうノウハウの乏しさを、よくよく思い知ることになった。
 
教えていて、もうひとつ気づいたことがある。
自分が教師の代わりとして教えているつもりでも、子どもは親をまず親として認識する。「うまく解けたね」「ここで見落としがあったみたいだ」「来週もう一度復習してみよう」といった言葉のひとつひとつを、子どもは教師からの言葉ではなく、親からの言葉として受け取る
 
少しニュアンスが欠落してしまうおそれを冒して言い換えると、親の一言一言から子どもは承認欲求や所属欲求を充たされたとか充たされないと感じ、そうした充足(や不充足)を親子関係の一部に組み込んでしまう、ということだ。
 
子どもが教師に褒められたり注意されたりしても、それは子どもと教師の関係のなかで起こることで、親子関係には直接的には影響を及ぼさない。たとえば教師が子どもに「ここで見落としがあったみたいだ」「ここはまだわかってないみたいだな」と言ったとしても、それで直接的に親子関係に影響が及ぶわけではない。
 
でも、親が教師のかわりに教える場合、そうした一言一言が親子関係になんらかの影響を与えてしまう。親は、子どもにとってあくまで親だから、一言一言が与える影響は教師からのソレとは異なっていて、もちろん親子関係への影響も大きい。だから授業をやっている最中に間違いを指摘したり注意をしたりするときには、いつも以上に注意深くならなければならないと感じた。
 
教師の存在意義は、教育のプロフェッショナルであるだけでなく、教えるプロセスについてまわる心理学的な困難を肩代わりしてくれる点にもあるわけか。
 
精神医療の世界では身内が身内を診るのは非常に難しいといわれ、身内の治療は第三者に委ねるのが一般的だけれど、教育の世界も、身内を身内が教えるのはあんまり楽ではないのかもしれない。教えるという行為をとおして、親子関係や親子のソーシャルディスタンスも変わり得るとするなら、教育のプロフェッショナルとて、自分の子どもを教えるのは苦手というのは十分にあり得るだろうし、教師とよその子どもというソーシャルディスタンスのおかげで教師としての腕前を維持できている教師だっているんじゃないかと推察したりもした。
 
 

それでも実りの多い時間だった

 
それでも、冒頭リンク先でこゆるぎ岬さんがおっしゃっているように、親子で時間や空間を共有できたこの一時期は、滅多に経験できないものだった。子育てをやっている、いや、子どもと同じ時間を過ごしているという手ごたえを実感できて、いろいろなことを考えさせられた。平日は仕事、休日は授業という状況で疲れた部分もあったとはいえ、お金ではなかなか買えない経験だったと思う。