シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

在宅勤務でも昼間から酒を飲むのはやめたほうがいい

 
gigazine.net
 
  
在宅勤務が増えるアメリカ合衆国では、在宅勤務者の3人に1人が飲酒しているというニュースを知った。私は精神科医としてはいい加減なほうだし、ワインが好きなので飲酒についてもうるさくないつもりでいる。でも、平日の昼間からアルコールを飲むこと、とりわけ就労中に飲むことはとても危ないと思っている。
 
なぜなら、アルコール依存症になっていく人のプロセスのひとつとして「平日の昼間から酒を飲むようになった」「仕事をしながら酒を飲むようになった」を頻繁に見かけるからだ。
 
このニュースを、日本人はどんな風にみているのか? はてなブックマークを確認してみると、「アル中になる」「17:00までは飲まない」といったコメントがある一方で、肯定的なコメントや心配していないコメントもあった。twitter検索でも傾向はあまり変わらない。怖がっている人もいれば、怖がっていない人もいる。
 
 

「昼間から」「仕事中に」飲むクセがつくのが怖い

 
「昼間は絶対に酒を飲んではいけない」と言いたいわけではない。
 
たとえば花見、たとえば結婚式で乾杯するのは文化の一部だし、そういったハレの日があったって構わないと思う。南の島のリゾートビーチで一杯、というのもいいだろう。すでにアルコール依存症になってしまった人は例外として、非-日常の昼間にお酒を飲むのはそこまでリスクが高くない。
 
怖いのは、ハレの日ではない、日常の昼間からアルコールを飲み、それが習慣になってしまうことだ。
 
花見で一杯、結婚式で乾杯といった非-日常のアルコールは、非-日常のイベントだから習慣になってしまうおそれがまだしも少ない。対して、日常的に昼間からアルコールを飲むようになると、それが当たり前の習慣になってしまい、歯止めをきかせるのが難しくなる。
 
一般に、勤め人は職場にシラフで出勤しなければならないから、出勤という習慣があれば昼間からアルコール漬けになるリスクは低くなる。アルコールの誘惑にちょっと弱い人でも、職場に真面目に通ってさえいれば無事平穏に社会人としてやっていけることは案外ある。
 
ところが在宅勤務はそうではない。上司や顧客からアルコール臭いと指摘される心配が無いから、飲もうと思えば飲めてしまう。顔出ししなくて良いタイプのリモートワークなら、赤ら顔になっていても誰も咎めないだろう。
 
誰も咎めないということは、自分の意志だけでアルコールと向き合わなければならない、ということでもある。出勤という習慣のおかげで何とかアルコールと折り合いをつけてきたような、ギリギリの社会人の場合、この在宅勤務がアルコール依存症に陥る"最後の一押し"になってしまうことは、あり得ると思う。
 
そこに新型コロナウイルス感染症への不安や経済的な先行きの不安が重なれば、不安を紛らわせる飲み方をしてしまうリスクも重なる。不安を紛らわせる飲み方は、不安が続く限りアルコールを飲まずにいられなくなってしまうから、連続飲酒のリスクも高い。いつもなら昼間の飲酒を踏みとどまれるけれども、今回の感染症騒動で不安材料を抱えてしまい、アルコールの歯止めがききにくくなくなってしまう人というのも容易に想像ができる。
 

こうした状況に対し、アメリカ依存症センターの最高医療責任者であるローレンス・ワインスタイン氏は「昨今の情勢を踏まえると、あなたやあなたの家族があまりにも頻繁に酒瓶に手を伸ばしていることに気づいたら、それは懸念すべきです」と指摘。ストレスが多い時期にあり、また多くの労働者が在宅勤務を余儀なくされていることから、アルコールに限らずなんらかの依存症に陥りそうな場合は、支援団体の助けを借りるよう呼びかけました。

https://gigazine.net/news/20200413-home-workers-drinking/

 
パンデミックを生き抜き、仕事を失わずにいられたとしても、「昼間から」「仕事中に」飲む習慣がついてしまえば先行きは危うい。アメリカの在宅勤務者のうち三分の一程度は、そうしたリスクに曝されていることになるし、日本の在宅勤務者も他人事ではない。
 
 

「昼間から飲まない習慣」を手放してはいけない

 
だから在宅勤務になった人には「昼間は飲まない習慣を変えない・手放さない」ことを強くおすすめしたい。もちろん、職を失ってしまった人もだ。歯止めのきく習慣とセットでアルコールに向き合うのと、歯止めを失ってしまってアルコールに向き合うのは、ニュアンスもリスクもだいぶ違う。いままで手懐けていたアルコールに呑まれてしまわないようにするためにも、時間やルールをきちんと守って、節制のきいた飲酒習慣を守っていただきたいと思う。
 
 
 *       *       *
 
 
それにつけても、職場というシステムや出勤という習慣について、最近は考えさせられる。
 
世の中には、職場や出勤が苦手な人がいるし、ネットではそういう人の声をしばしば耳にする。他方で、職場や出勤のおかげで生活リズムや生活習慣が保たれ、アルコールなどの歯止めがかけられ、人生を破壊されずに済んでいる人もまた多い。独りでも自律した生活が守れる人にとって、在宅勤務やリモートワークは望むところかもしれないが、システムや習慣に頼って生活している人には今の社会状況は厳しい。
 
そういった厳しさはスタンドアロンに生きていける人には直観しにくいかもしれないけれど、そういう人も世間には結構いるし、そういう厳しさを過小評価してはいけないのだと思う。
 

「世界のワインを飲んで応援」する

 

 
この写真は、3月10日に「北イタリアのワインを飲んで北イタリアを応援する」とツイッターに書いて投稿したときのものだ。当時は、私の好きなワイナリーがたくさんある北イタリアが感染の渦中にあったので、ファンとしては飲んで応援しよう、みたいな気持ちになっていた。
 
オタクの世界には「ひいきのコンテンツにはお金を出して応援する」というカルチャーがあり、お金を出して応援することを「寄付」とか「お布施」と呼んだりする。ひいきのワイナリーにしてあげられることは、そのワイナリーのワインを買って飲むことに違いないから、意識してワインを買わなきゃ、あわよくば宣伝しなきゃとか思ったりした。
 

 
ところが一か月の間に感染はすさまじい勢いで広がり、フランスも、ドイツも、スペインも、カリフォルニアも感染のるつぼと化してしまった。「飲んで応援」すべきワインが多すぎて困る。いやいや、逆に考えるべきだろう。もう、世界のどこのワインを飲んだって応援になるわけだから、ひいきのワインを好きなように飲もう。ということは、平常運転のワインライフを過ごすこと、今までどおりにお金を費やすことがワインファンとしてすべきことのような気がしてきた。
 
こんな時期だからこそ、ひいきのワインをしっかりひいきしようと思う。
 
 

飲み屋やレストランに通えないのが辛い

 
ただ、なにもかも平常運転というわけにはいかない。
 
この感染騒動のなかでひいきのワインバーやレストランに通うのは難しい。3月中旬あたりまでは積極的に通えたけれども、4月以降は本格的に外食しづらい雰囲気になってきた。もし自分が感染してしまったら家族にも職場にも迷惑をかけてしまうから、せいぜい、テイクアウトできるものをテイクアウトするしかない。そうこうするうちに、臨時休業するお店も出てきてしまった。
 
ひいきの飲み屋やレストランは、ただ飲食する場所ではない。お店の居心地やお店の人とのコミュニケーションにも救われている場所なわけで、閉塞している今だからこそ、本当は行きたくて仕方がない。行って好きなものを食べて、ちょっとお店の人と過ごせば、さぞ、気持ちがまぎれることだろう。
 
ところが当局の発表によれば、そういう飲食は自粛してもらいたいのだという。
 
このご時世、飲食店は苦しい状況にあると思う。だというのに感染や世間体を考え、飲食しに行くことを自粛してしまっている自分がいる。応援したいのに(なにより好きな酒を飲み、うまい食事がし、良い雰囲気に癒されたいのに)、それができない。
 
飲食したい場所で飲食することが封じられるのが、これほど歯がゆいとは思わなかった。
 
 

夕暮れまでは飲めない

 
花見にも出かけられず、家で過ごす機会が増えると、つい、朝から飲もうかなんて気持ちになる人もいるかもしれない。「花見をしていれば今頃飲んでいるはず」「あそこでランチを食っていたらワインを頼んでいたはず」なんて思っている人もいるだろう、というか私はそういう気持ちになることがあった。昼間から飲めば、世間のうさも不安も晴れるやもしれない。
 
ただ、こういう時期だからこそ、日没までは絶対にワインを飲まないよう自分自身を戒めている。
 
私は昼間からワインを飲むのがいけないことだとは思っていない。たとえば花見、たとえば冠婚葬祭、そういった特別なイベントの時に、他人とワインを酌み交わすのは素晴らしいことだ。人類文化の、捨ててはいけない一部分だと思う。
 
けれども、あくまでそれは特別な場面の、非-日常のなかでのこと。
 
日常生活に昼間から飲む習慣が入り込むのは、かなり怖い。少なくともそれが習慣になってしまい、クセになってしまうと身体のためにもワインのためにもならない。手持無沙汰と称して昼間からアルコールを飲むのはキッチンドリンカーへの道であり、アルコール依存症のリスクを高めるものでもある。
 
ワインに限らず、アルコールとの付き合いには節度とルールが必要で、節度やルールが守れない飲み方は悪い結果をもたらしやすい。もし、本当にワインが好きで、長く付き合っていきたいなら、アルコールで身を持ち崩すことのないよう気を付けなければならない。
 
私は在宅勤務ではないので、節度やルールを守りながら「世界のワインを飲んで応援」するのは比較的簡単だ。けれども在宅勤務になった人が昼間からアルコールに手を伸ばすと、節度やルールが壊れてしまうおそれがある。節度やルールが壊れてしまうと、ワインといえども宝物から毒物になってしまう。在宅勤務になった人におかれては、「世界のワインを飲んで応援」する際にはよくよく気を付けていただきたいと思う。
  
 

ボイスチャットから聞こえてくるリテラシーの欠如

 

 
最近は、いままで以上に家に閉じこもってゲームをしている。本当はPS4で発売されている『十三機兵防衛圏』を遊びたいし「遊びたいゲームが発売されているゲームハードを買う」はゲーオタの本懐だけど、PS5のリリースが近づいているこの時期にPS4となれば尻込みしないわけにはいかない。
 
仕方がないのでswitch版の『フォートナイト』を遊んでいるのだけど、昼間、野良で遊んでいる時に聞こえてくるボイスチャットが興味深くて、最近はそっちが目当てになってきている。
 
『フォートナイト』を野良でやっていると、小学生や中学生とおぼしき、若々しいボイスチャットの声が聞こえてくる。
 
"たなか ひろと です。 ボイチャははじめてですがよろしくおねがいします"
 
"すいません 今から助けにいきます"
 
"ありがとうございました。"
 
こういう礼儀正しい声を耳にすることも、ないわけではないが、どちらかといえば少数派だ。いや、きっとこういう礼儀正しいボイスチャットは記憶に残りにくいのだろう。
 
どうしても記憶に残るのは、口の悪いボイスチャットのほうだ。
 
"味方つかえねー"
 
"おまえ、おれのポーション返せよ"
 
"味方援護しろ援護! 援護なしじゃ勝てないでしょう味方!"
 
"俺が面倒みないとなんにもできねぇ" 
 
 
味方の悪口を言い、自分は上手い・自分はよく働いているとボイスチャットで喋っているその当人が、他人が出した強いアイテムを横取りし、戦闘でも役に立たないということが結構ある。それどころか「味方の援護」を要求しながら危険な場所に一人で突撃し、勝手にキルされるありさま。ゲームの世界には猪突猛進して自滅するプレイヤーを(軽蔑を込めて)「勇者」と呼ぶことがあるが、まさにその「勇者」さまがボイスチャットで荒らぶっておられるのである。
 
それと、生活音。
どういう環境でボイスチャットをやっているのかわからないが、おかあさんが"ごはんよー"と呼ぶ声が入ってきたり、きょうだいの泣き声が聞こえてきたりすることがある。インターホンとおぼしき音がしてキャラクターが動かなくなり、その後"すみません 宅配でした"と言ってくれるプレイヤーもいたのでプレイの状況判断として役立つことがないわけではないが、基本的にはノイズでしかない。
 
それにしても、ノイズの向こう側から聞こえてくる声や物音ってのは考えさせられる。野良の『フォートナイト』で生活音が漏れたところでたいしたことはないかもしれないが、とはいえ、それは意図しないプライバシーの暴露にはちがいないのである。
 
 

リテラシーの乏しい子どもをボイスチャットが浮き彫りにする

 
こうした『フォートナイト』のボイスチャット経験から感じることは主にふたつ。
 
ひとつ。世の中には、作法のなっていない小学生や中学生が結構いるということ。
 
ボイスチャットをとおして、自分が欲しいと思ったものをよこせと言い、自分が気に入らないものは気に入らないと言ってしまう、ジャイアンのようなプレイヤーが世の中には存在する。もちろん子どもはまだまだ自己中心的なものだから、年少のプレイヤーが心のうちにジャイアニズムを秘めていることはおかしいことではないし、そんな彼らも、ボイスチャットさえ存在しなければ「テレビに向かってしゃべる老人」と変わるまい。
 
だがボイスチャットという文明の利器を用いている以上、発言には気を付けなければならないし、独り言のつもりでもほかのプレイヤーの耳に入ってしまう。そのことが自覚できないか、自覚していてもなお自己中心的な発言を繰り返してしまうヤバいプレイヤー層がたしかに存在している。
 
"『フォートナイト』では、switchで接続してくるキッズが嫌われる"という話をネットで見かけることがある。なるほど、少なくとも私が出会った自己中心的なプレイヤーたちはキッズと揶揄され、嫌われるにふさわしい人々だった。その多くはどこかあどけなさの残る、おそらく小学生か中学生とおぼしきプレイヤーだが、たぶんというか間違いなく、リテラシーの欠如したプレイヤーのなかに大人も混じっている。
 
もうひとつは、ゲーム機が進歩したことによって、ゲームを遊んでいる時にも作法やリテラシーが(いわゆるネットリテラシーも含めて)問われる時代になったのだな、ということだった。
 
ゲームのプレイ中にリテラシーが問われるようになったのは今に始まったものではない。90年代末から00年代にかけても、オンラインゲームのなかで礼儀作法やリテラシーが問われる場面はあったし、礼儀作法の欠如やリテラシーの欠如が悪目立ちする場面というのはあった。悪目立ちしたプレイヤーが匿名掲示板に曝される風景を思い出す人もいるだろう。
 
しかし90年代末や00年代に比べると、オンラインゲームをリアルタイムに遊ぶためのハードルは大きく下がり、ボイスチャットをやるのも簡単になった。ボイスチャットは、文章入力の苦手なプレイヤーでも簡単に始められる一方、礼儀作法にかなった発言をやってのけるのは簡単ではない。face to face のコミュニケーションに比べると、周囲が自分に対してどんな感情を持っているのかわかりにくいし、ときには、まったくわからないこともある。
 
SNSや動画もそうだが、新しいコミュニケーションツールが普及すればするほど、そのツールを用いて適切にコミュニケーションするための作法やリテラシーが問われる範囲も広がる。年少者が遊ぶswitchのようなゲーム機とて、それは例外ではない……。
 
 

「始めるのは簡単だが、上手くやってのけるのは難しい」

 
SNSも含めて、オンラインコミュニケーションのツールは、「始めるのは簡単だが、上手にやってのけるのは難しい」ものが多い。「ハードウェアやネット環境の進歩により、コミュニケーションを始めるためのコストやハードルはどんどん下がっているが、だからといってコミュニケーション自体の難易度が下がったわけでもなく、拙劣なコミュニケーションがオンラインに暴露される場面はやたらと高まっていると思う。
 
ゲーム機越しのボイスチャットも、そうした「始めるのは簡単だが、上手くやってのけるのは難しい」オンラインコミュニケーションのツールのひとつに違いないのだが、キッズたちがそのような懸念を持っているとも思えず、誰かに注意されて心を入れかえるとも思えず、スピーカーからは今日も無作法な声が聞こえている。
 

アメフラシを触ってきて癒された

 
先日、大きな街に出かける気分にはなれなくて、日本海側の僻地に出かけてきた。アメフラシを触るためだ。
 
アメフラシは生物学では重要な生き物で、確か、記憶の研究分野ではものすごく役に立っていたと記憶している。さておき、アメフラシはとてもかわいい。綺麗で豊かな海にはだいたいいる。アメフラシのいない海が貧しいとは限らないけれども、アメフラシのいる海は決まって豊かだ。海藻がたくさん生えていて、魚がたくさんいて、磯遊びやシュノーケリングに適した場所にはだいたいアメフラシがいる。
 
アメフラシではなくウミウシを推す人もいるだろう。が、ウミウシはサイズが小さく、なんだか澄ましたお嬢さんみたいな顔つきをしているので、私はアメフラシのほうが愛嬌がある、と感じる。
 

 
この写真ではグロテスクな生き物に見えるかもしれないが、動いているアメフラシは、カタツムリをオシャレにして殻を省略し、すこし生意気にしたような姿をしている。意固地なのか無力なのかわからない性質があり、岩場にへばりついて絶対に動かないそぶりをみせることもあれば、人間にとらわれるまま・なすがままのこともある。
 

 
体調約20センチ、角の先っちょにつぶらな目のある立派なアメフラシをつかまえてみた。ご覧のように、恐ろしく無力な姿を曝している。よく、「アメフラシは攻撃されると紫色の煙を出す」と言われているし、これがアメフラシの名前の由来になっているけれども、磯辺で実際に出会うアメフラシはなかなか紫色の煙を吐かない。乱暴な扱いをすれば吐くのかもしれないが、この、愛らしい生き物を突いたり叩いたりする気持ちにはなれない。
 
私がアメフラシの紫色の煙を見たのは生涯に一度だけで、そのときのアメフラシは、岩場に意固地にへばりついていた。岩場にへばりつくと決めたアメフラシを素手でどうこうするのは難しい。水上から手を伸ばして引きはがそうとしたときに、アメフラシが紫色のネバネバした煙をモワーッと噴き出した。「おれはお前に捕まえられるつもりはない」という意志表示ができる軟体動物って、なんて素敵なんだろう! と思ったが、むやみに怒らせるものでもあるまい、とも思った。
 
今回のアメフラシ探索では、ちょっと驚く場面にも出くわした。
 

 
この写真ではうまく撮りきれていないのだけど、アメフラシの産卵に出くわしたのだ。体調25センチほどの大きなアメフラシが、黄色い糸のようなものを垂れ流しながら磯辺を行進していた。「アメフラシ 産卵」でgoogle検索すると、黄色い糸玉のようなものを産卵している画像がヒットするが、私が見たアメフラシは行進しながら産卵していたのか、長くのびた卵を引きずっていた。「これは絶対にブログ映えする!」と思って写真を撮ろうとしたら、海藻がちぎれて手が届かなくなってしまったので良い写真が無い。
 
アメフラシは雌雄同体の生き物で、春先には交尾している二匹のアメフラシのセットにもよく出会う。ただ、産卵をお見掛けしたのは今回が初めてで、大人気なくエキサイトしてしまった。生き物の産卵や出産をみる機会は、あるようであまりないから、アメフラシぐらいのサイズの生き物の産卵を見ると私はめちゃくちゃ興奮する。おお、このでかい生き物が生きて増殖しているぞ、命のバトンリレーをしているぞという感慨がある。
 
私はナメクジはNGでカタツムリはOKなので、それぐらいの軟体動物好きなら、たぶんアメフラシのフォルムや色調、いじましい動き、その意固地なさまや無力にとらえられるさまに魅力を感じてもらえるのではないかと思う。アメフラシは、春先の豊かな磯辺で出会うことが多い。人間同士で濃厚接触するのは憚られるご時世だけど、アメフラシと戯れるぶんには問題なかろうから、お近くに磯辺のある人は出かけておさわりしてくるといいかもしれない。私はすっかり癒されてしまった。
 

世間、マスク、道徳。

 
 


 
世間。
マスク。
道徳。
 
感染が間近な"みんな"の問題と認識されるにつれて、マスクは、感染予防のシンボルになっている、とも思う。
 
マスクは適切に用いるなら感染予防に貢献するとされるので、ときの政府は、世帯あたり2枚の布マスクを配ることにしたという。
自然科学的なマスクの効能とは、そのようなものだ。
だが、それだけとも思えない。
 
  
マスクをつけることが感染予防に貢献する仕草とみなされ、マスクをつけていないことが周囲への感染に無頓着な仕草とみなされれば、マスクをつけていない人に対する世間の目線、人々の心証は変わる。ひいては「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いも変わる。
 
たとえばヨーロッパでは、長らく、マスクをつけることは社会的に許容されない仕草だった。日本では、インフルエンザや花粉症の季節を迎えるたびにたくさんの人がマスクをつけるし、郊外汚染の激しい途上国でもマスクをつけて出歩く人は多い。しかしヨーロッパでマスクをつけて出歩くのは社会的に許容されない仕草だった。ところが今回の感染騒動をとおして、「マスクをつけるという仕草」の社会的な位置づけや意味合いが激変した。おそらくこの騒動が終わった後も、そうした社会的な位置づけや意味合いの変化は尾を引くことだろう。
 
そして日本では、冒頭で引用したツイートの方が察しておられるように、「マスクをつけるという仕草」は他人や世間への配慮、パンデミックな状況下において功利主義に適い、危害原理にも抵触しない、市民にとって望ましいものに変わりつつある。マスクをしていない人の咳き込み、マスクをしていない人のくしゃみに対する周囲の目線は、2か月前より厳しくなっている。公共交通機関において、マスク無しでくしゃみをした人に対する周囲のぎょっとした目線に驚いてしまうこともあった。
 
みんながますますマスクをつけるようになった結果として、2020年4月現在、「マスクをつけるという仕草」は感染予防に貢献するだけでなく、自分が世間に配慮している人間であること・他人に感染させるリスクを慮った道徳的人間であることをディスプレイする手段としても役立つようになっているのではないだろうか。
 
私たちは、ウイルスに狙われる自然科学的で生物学的な存在であると同時に、世間に生き、周囲からの評価や評判を意識せざるを得ない社会的な存在でもある。社会や世間に適応する個人にとって、マスクをつけて感染症対策をするということも重要だが、マスクをつけて世間体を守るディスプレイをすることも、それなりに重要なものだ。
 
そのうえ、幸か不幸か、マスクは顔につける品である。
顔は、他人の視線が集中する場所であると同時に、他人に対してメッセージを発し続ける場所でもあるから、顔の目立つ場所に装着するマスクはディスプレイの効果がとても大きい。であれば、医療関係者や為政者の意図していなくとも、マスクが他者配慮や道徳性のシンボルとしての意味合いを(勝手に)帯びることに不思議はない。
 
 

ラジオ体操にみる「健康でなければならない世の中」

 
社会や世間から「かくあるべし」という圧力がかかっている状況下では、自然科学的な目的は社会科学的な目的としばしば結託する。
 
一例として、戦前の日本で励行されていたラジオ体操を挙げてみる。
 
 

「健康」の日本史 (平凡社新書)

「健康」の日本史 (平凡社新書)

 
 

 ラジオ体操は、家族や職場に集う人々が全国一斉に、「同じ時間」「同じリズム」「同じ動き」で行う体操であったため、人々に連帯感を感じさせるにはたいへんよくできたものでした。簡易保険局はラジオ体操を考案する際に、「民族意識」を高める目的で行われる、チェコスロバキアの「ソコル」を手本にしたといいます。
(中略)
 ラジオ体操の広がりによって、人々の考える「健康」に一つの変化が生じました。体操や運動が「連帯感」などの精神的側面の向上も重視するようになったため、「健康」が身体に生理的な異常を持たないという意味に加えて、国民としての道徳的貢献としても要求されるようになるのです。
 簡易保険局に寄せられた感想文の中で、当時の山梨県知事鈴木信太郎は「不健康は不道徳」というタイトルの文章を寄稿します。その中で鈴木は「私の考えでは、不健康は自分一人の不幸であるばかりでなく、社会的にも不道徳であると思う」といいます。
(中略)
 さらに、「不健康は国に対してもすまないし、社会的にも不道徳である。愛国心のない人であるといっても差し支えないと思う。自身の健康に注意して、絶対病気にかからないようにするのが国家社会に対しての義務である」と述べています。
 鈴木の感想は、たんに彼一人の個人的見解であったわけではなく、この時代の雰囲気を反映したものでした。鈴木は健康になることが、国家社会に対する「義務である」といっています。つまり、この時点で私たちは、「健康になるかどうか」を自分で決定することができなくなったのです。
 たとえば、あなたが怠惰な生活を送ったり、やけっぱちや自暴自棄で不健康になることは「不道徳」として禁じられます。しかもその理由は、あなた自身を不幸から守るというよりも、国家社会に与える不利益を未然に防ぐためです。この時代の「健康」とは、いいかえれば国家に利益をもたらす献身的な行為を意味するようになったのです。
『「健康」の日本史』より

 
ラジオ体操が浸透していった頃と現在では国家の体制が違っているし、ラジオ体操による健康増進とマスクによる感染予防では目的も違っている。しかし、健康を守るべきか否かが個人の問題から社会の問題へとシフトしている点や、健康の名のもとに皆が同じ方向を向き、ある種の連帯感、いや、空気が生まれている点は共通している。
 
医療者が世間や道徳を意識しているか否かにかかわらず、こぞってマスクを着用する人々はそれらを世間の慣習と結び付け、道徳とも結びつける ── これに類することは戦前にもあったし、公衆衛生の黎明期にもあったことだから、起こる可能性の高いこと、いや、起こっている可能性の高いことだと私は踏んでいる。
 
現在の日本では、"自粛"や"要請"や"推奨"といった言葉がメディア上を駆け巡っている。表向き、どれもソフトな言葉だが、それが空気と結合する社会では個人に強い圧力を与え、私たちの慣習や感性にも大きな影響を与えずにいられない。そういう状況のなかで私たちはマスクを争うように買い求め、できるだけ着用しようと心がけている。
 
こうした状況の延長線上として、今まで以上に健康と道徳が結びついた社会、衛生と道徳が結びついた社会を連想するのはたやすい。伊藤計劃の『ハーモニー』は、そうした健康ディストピア社会を舞台とした作品だったが、今まで遠いSF世界だった『ハーモニー』が、最近はすっかり間近に感じられるようになってしまった。医療と福祉に関心と影響力とリソースが集中する状況が長く続き、そこに道徳や功利主義や危害原理が結びついたままの状況も長く続いたとき、どういう社会の地平が待っているのか。考えると怖くなる。もう、SFの気分でそういうことを考えられない。
 
 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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  • 作者:伊藤計劃
  • 発売日: 2014/08/08
  • メディア: 文庫