シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ブロガーが次々に言及する」文化の衰退と、はてなブックマークの変容

 
 2020年1月6日、はてな匿名ダイアリーに「無知なお前らに最高のゲームを教えてやる(据置編)」というエントリが投稿され、それに触発されて何人かが「自分にとって最高のゲーム」をまとめる出来事があった。
 
 
じゃあ私も「最高のゲーム」を挙げてみる - シロクマの屑籠
90年代から10年代までお世話になったゲームたち!
明けまして俺の年代別最高のゲーム 20/01/07: 不倒城
個人的最高のゲーム(1980年代編) - novtanの日常
 
 
 同じ話題に次々にブログ記事の投稿が連鎖したのがなんだか懐かしくて、嬉しかった。2000年代のブログ界隈ではこういうことが頻繁にあって、誰かが書いたブログ記事に次々にブロガーが言及して盛り上がったものだ。
 
 ひとつの話題にブロガーが次々に言及し、ひとまとまりの議論や、複数名からなる広い視野をかたちづくるのは、当時のブログ界隈のカルチャーだったと思う。
 
 しかし2010年代に入って、こうしたことは稀になってしまった。私が喜んでいるのも、この言及の連なりが久しぶりに起こったからだ。
 
 

なぜ、ブロガーが次々に言及する文化が衰退したのか

 
 ひとつの話題にブロガーが次々に言及する文化が衰退したのは、第一にはブログ以外のメディアが普及したからだとは思う。twitterがスタートした00年代の後半には、もうブログを捨ててtwitterに移動してしまうブロガーをたくさん見かけた。それから十年以上の歳月が流れ、最初から短文に特化したツイッタラーもたくさん生まれた。文章中心ではない、画像や動画がメインのメディアにも人が流れていった。
 
 ごく単純に、ブログをわざわざ書く人、それも、かつての「ブロガーが次々に言及する」カルチャーを覚えている人は少なくなっていると思う。
 
 ただ、それだけとも思えない。
 
 いつの間にか、はてなブックマークが、「ブロガーが次々に言及する」を可視化する装置として機能しなくなってしまった。
 

 
 このスクショは、現在の「はてなブックマーク」の画面の一部だ。【関連記事】という、(株)はてな がチョイスした記事へのリンクが3つ載っていて、その下に【人気記事】へのリンクが8つ載っている。スマホではてなブックマークを見ても、だいたい同じ構造になっている。
 
 はてなブックマークが昔からこんな構造だったわけではない。かつてのはてなブックマークには、【その記事に言及したブロガーのアイコンと、ブログ記事のリンクがずらりと並んでいた】。はてなブックマークは「言及した複数のブロガーの一覧」が眺められる仕様だったため、一人が書いた記事に複数のブロガーが次々に言及しているさまが可視化されていた。これが、ブログ記事を書く動機になっていた人も少なくなかったように思う。少なくとも私は、「みんなが言及しているから自分も何か書こう!」と思うことがたびたびあった。
  
 ところが「言及した複数のブロガーの一覧」がいつの間にか削除され、ブロガーの集いが可視化されなくなってしまった。はてなブックマークは、複数のブロガーがひとつの話題に群れ集う、いわば広場の役割を果たしていたのに、それがなくなってしまったため、ブロガーは昔のように集まれなくなったし、「みんなが言及しているから自分も!」と動機付けられなくなってしまった。
 
 その代わりか、はてなブログには「自分のブログに言及した他のはてなブログを通知する機能」がついている。
 

 
 残念ながら、この通知機能はブログ管理者以外には見えない。これでは昔のはてなブックマークのような、ブロガーが群れ集う広場の役割を果たすことはできないし、ブロガーが群れ集うようなカルチャーが育つこともないだろう。
 
 ブログ以外のメディアが盛んになってきたから「ブロガーが次々に言及する」カルチャーが衰退しただけでなく、そもそも複数のブロガーがひとつの話題に群れ集うための場がひとつ失われたのだから、00年代のようにブロガーが群れ集うことは難しくなっている。
 
 そのうえ、かつての「まなめはうす」のように、個人ニュースサイトがブロガーの群れ集っているさまを一纏めの記事にすることも珍しくなったので、ますますもってブロガーが次々に言及するさまは可視化されにくくなった。
 
 ブロガーが変わっただけでなく、ソーシャルブックマークのアーキテクチャが変わったことによっても、「ブロガーが次々に言及する」カルチャーが失われたと言っておかしくないのではないだろうか。
 
 

アーキテクチャが変われば、メッセージも、意識も変わる

 
 マクルーハンは「メディアとはメッセージである」と言ったものだが、実際、メディアのアーキテクチャが変わればユーザーのメッセージも意識も変わる。
 

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
 例えば、はてなブックマーク上から「言及した複数のブロガーの一覧」が無くなれば、ブロガーは、そこに集まろうと動機付けられなくなる。あるいはtwitterを用いればtwitterのアーキテクチャに、Instagramを用いればInstagramのアーキテクチャに合わせてユーザーのメッセージは変わり、さらには意識までもが変わる。
 
 「小説家になろう」などもわかりやすい。ランキングシステムをはじめとする「小説家になろう」のアーキテクチャによって、ユーザーが投稿するコンテンツも、ユーザーの動機づけも、大きな影響を受けている。
 
 こうしたアーキテクチャの変容にともなうユーザーのメッセージや意識の変化は、しばしばユーザーの大半が気付かぬうちに決定され、進行することが多い。
 
 たとえばはてな匿名ダイアリーでは、いつの間にか、【人気記事のアーカイブ】というページが据え付けられている(以下参照)。
 

 
 このページが、いったい何時頃から実装されていたのか私は知らない。しかし、このようなページの有無によって、はてな匿名ダイアリーの書き手のメッセージや動機づけは変わらざるを得ないだろう。
 
 (株)はてな に限ったことではないが、ネットサービスの提供者は、こんな具合にアーキテクチャをいつの間にか変更する。そうした変更のひとつひとつによって、ユーザーのメッセージや意識が変わり、インセンティブまで変わってしまう。ユーザーのメッセージや意識をいつの間にか変えてしまえること、インセンティブまで変えてしまえるということは、(株)はてな に限らず、ネットサービスの提供者は小さくない権力を保持している、と言うこともできる。
 
 この権力の存在、ユーザー側からは意識しづらい。しかしネットサービスの提供者側はかならず意識しているだろうし、それは、はてなブックマークやはてな匿名ダイアリーを運営している(株) はてな とて例外ではあるまい。
 
 「ブロガーが次々に言及する」文化は、アーキテクチャの掌の上に咲いた、時代の仇花だったのだと思う。
 
CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

 
 

じゃあ私も「最高のゲーム」を挙げてみる

 
anond.hatelabo.jp
 
 話は聞かせてもらった!
 
 リンク先で挙げられている作品を全部知っているわけではないが、知っているゲームは名作ばかりなので、きっと筆者にとって「最高のゲーム」だと信じることにした。
 
 ただ、最近発売された最高のゲームというには古く、それでいて時代が幅広い。一瞬、「90年代前半のゲームライターを真似た文章」を疑ったけれども、それにしては発売時期がバラけているし、据置ゲーム機と断りを入れているにしてはアーケードゲームの移植作が多かったりする。
 
 愛好家の語る「最高のゲーム」は、愛好家自身がゲームを遊んだ時期、環境によって左右される。好みも違えば、評価のスタンスも違うだろう。プロのゲーム評論家なら、ゲームそのものの楽しさだけでなく、ゲーム史上の位置づけまで考慮するかもしれない。
 
 ……まあ、そんなごたくはどうでも良い。思い入れのあるゲームを「最高のゲーム」として、それぞれが自分の経験からしゃべることのほうが大事で、面白いことだと思う。その人ならではのゲーム体験やゲーム観がかならず「最高のゲーム」に反映されているはずだからだ。
 
 リンク先のリストを見て、私も「最高のゲーム」を挙げてみたくなった。機種や環境の区別をせず、10年単位で区切ってみようと思う。もちろん思いっきり主観的なやつを、だ。「最高のゲーム」は、その人が遊んだ最高の思い出のなかに見いだされるべきだと、私は思うからだ。
 
 

80年代

 80年代はアーケードゲームとファミコン~スーパーファミコンの時代だった。なにより、日本のパソコンゲームメーカーがほとんど最強だった。
 
  
・ゼビウス
 本当にやりこんだ最初のゲーム作品で、ゲームの世界に自分が飛び込んでいく感覚を与えてくれた。反復的な暇つぶしでなく「ゲームの世界」を見せてくれた最初のゲームは間違いなくゼビウス。今でもぜんぜん遊べる。
 
・ドルアーガの塔
 「ゲームの世界」をみせてもらうだけでなく、二次創作や脳内補完することを最初に教えてくれたゲーム。大学生時代からはアーケード版をワンコインクリアするのに燃えた。今でもぜんぜん遊べる。
 
・ザナドゥ
 本当の意味で自分が最初に出会ったロールプレイングゲーム。ドラクエ3やウィザードリィもいいし、同じく日本ファルコムが出していたイースやソーサリアンもいい。が、緻密な戦略性と自由度の意外な高さでいえば、やっぱりザナドゥだと思う。
 
・ゼルダの伝説
 任天堂のゲームはいつの時代も面白いけれど、80年代も傑作だらけだ。でもひとつ挙げろと言われたら、ディスクシステム版のゼルダの伝説を挙げたい。これは、個人的な思い入れの強さによるもので、スーパーマリオブラザーズやエキサイトバイクでもおかしくないとは思うけれども。
 
・提督の決断
 1980年代の光栄は、パソコンゲームメーカーとして世界最高水準だったんじゃないだろうか。個人的には提督の決断を挙げるけれども、信長の野望や三国志、大航海時代も捨てがたい。海戦は今やってもぜんぜん遊べる。
 
・SDガンダム2カプセル戦記
 ねとらぼにも書かれているけれども、隠れた傑作。シミュレーションゲームとしての戦略性と、アクションゲームとしての操作性をここまで両立させたゲームをいまだ知らない。今やってもぜんぜん遊べる。
 
・女神転生2
 80年代のJRPGには傑作がたくさんあるけれど、替えの効かない傑作は女神転生2だと思う。なにしろこの作品、21世紀には絶対リリースされない内容だからだ。JRPGの懐の広さと表現の自由さ加減を体現している。ほかは21世紀の佳作で替えがきくが、これは替えがきかない。
 
 

90年代

 90年代は私にとってアーケードゲームの時代、それも、シューティングゲームを徹底的にやりこんだ時代なので、「最高のゲーム」もそれを反映したものになる。
 
・ファイナルファンタジー4
 ファイナルファンタジーからは、思い入れ的にファイナルファンタジー4を挙げる。スーパーファミコンになってはじめてのファイナルファンタジーだったのでインパクトがあり、なにより、黒魔法のフレアがちゃんと強かったので◎。
 
・ダライアス外伝
 90年代の横スクロールシューティングゲームの最高傑作と言っても間違いではあるまい。今遊ぶと当たり判定の厳しさやバリアの脆さが厳しいけれども、とはいえ奇跡のゲームバランス、当時最高のグラフィックとBGM。
 
・バトルガレッガ
 奇跡のゲームバランスという点では、縦スクロールシューティングゲームのバトルガレッガを挙げるしかない。プレイヤーにかなりの技量を要求するけれども、そこから先の伸びしろがものすごく大きい。今やってもぜんぜん遊べる。 
 
・怒首領蜂
 東方シリーズへと繋がる弾幕シューティングゲームのさきがけとなった作品。後続作品と比べると、ルールがシンプルで弾幕も破天荒ではないので、実は現在でも遊びやすいほう。最高の弾幕シューティングゲームのひとつ。
 
・スターブレード
 ナムコがバブル景気の勢いでつくりあげた、ポリゴン宇宙戦闘ゲーム。奥行きのある特殊ディスプレイのおかげで、ゲーセンでしか絶対に体験できない宇宙戦闘ができた。据置ゲーム機に移植されているけれども、あの奥行きはゲーセン版以外無理。
 
・千年王国の興亡
 第二次世界大戦モノの大戦略系シミュレーションゲームとしては、これがバランス良かった。メガドライブのアドバンスド大戦略は待ち時間が長すぎるし、アドバンスド大戦略98はスケールが大きすぎる。
 
 

00年代

 00年代は、エロゲーなどに端を発したヴィジュアルノベルが完成していった時期、だと思う。それと海外のゲーム会社がいよいよ力をつけてきた。
 
・ガンパレードマーチ
 革新的なゲームデザインとストーリー。オーパーツみたいなゲームだと思う。このゲームデザインのまま2020年代に新作を作っても、ぜんぜん楽しいはず。きれいなグラフィックで遊んでみたい。
 
・CLANNAD
 エロゲーに端を発したヴィジュアルノベルの傑作のひとつなのは間違いない。「Airか、CLANNADか」と問われたら、めちゃくちゃ迷うが、家族や親子について考えさせられるゲームといえばこれしかない。いまだ、替えのきかない作品。
 
・斑鳩
 「完成度の高いシューティングゲーム」をひとつ挙げろと言われたらこれだろう。2018年にリトライしたけれども全く色あせないゲーム体験だった。国宝にすべき日本のゲームがあるとしたら、斑鳩は有力候補だと思う。世界に誇れる日本のゲームだ。
  
・シヴィライゼーション4
 外国のシミュレーションゲームとして、初めてハマったのはシヴィライゼーション3だったけれど、完成度とリピート度ではこちら。適度にアンバランスなので続編よりもこっちのほうが楽しいと感じる。
 
・ヨーロッパユニバーサリス3
 歴史の大河に身を置けるシミュレーション装置。それと、西洋のルールに基づいた残酷無比なパワーゲームを骨の髄まで味わえる。シヴィライゼーションとは全く違った趣がある。
 
・シュタインズ・ゲート
 日本のヴィジュアルノベル文化の到達点にして、00年代の終わりの傑作。今やってみると、00年代文化のタイムカプセルみたいで、その点でも「最高のゲーム」。キャラクターデザインも当時としては先進的だったと思う。
 
 

10年代

 2010年代は仕事が忙しくなり、ソーシャルゲームの影響を良くも悪くも受けてしまった。全体として、2010年代の佳作や傑作はバランスが優れている。ただ、それだけに、昔のような野蛮なゲームは少ない。運任せな要素のあるゲームのほうが野蛮で好ましいとさえ思う。
 
・ダライアスバーストAC
 steamに移植されたダライアスバーストCSともども、横スクロールシューティングゲームとしては最高峰、特にゲーセンの環境では没入感が高い。ステージ構成も2010年代風に練られていて、今でもぜんぜん遊べる。
 
・Skyrim
 素晴らしいロールプレイングゲームだと思う。グラフィックは最新作に劣るけれども、グラフィック以前の世界観や世界デザインが優れていたことがかえって判明した。続編が出たら絶対にやる。世界最高峰のロールプレイングゲームのひとつ。
 
・Minecraft
 Skyrimの少し後に触ってみて、唸らされた。現在でもアップデートが続き、modによる改造のおかげで楽しみはまだ続いている。単純作業の気持ちよさとびっくりドッキリな意外性、その場しのぎと計画性の両面が楽しめるゲームでもある。すごい。
 
・Fate Grand Order
 自分が遊んだソーシャルゲームのなかでは艦これとFGO、どちらも捨てがたい。けれどもヴィジュアルノベルの遺産を受け継いでいるFGOを挙げる。ソーシャルゲーム然とした危険性も含め、推すに値すると思った。
 
・スプラトゥーン2
 FPSの殺伐とした雰囲気を敬遠していた自分にもちゃんとのめりこめて、キャラクターやゲームのデザインも磨かれまくっていた作品。任天堂はこんな素晴らしいゲームを2010年代になってもリリースできるのだから、本当にありがたい。ますますの飛躍を祈念申し上げたい。
 
 

万人に勧められる「最高のゲーム」ではないけれども

 
 90年代にシューティングゲームがたくさんノミネートされていたり、危険性を伴うソーシャルゲームを挙げてあったり、この「最高のゲーム」リストは万人に勧められるものではない。FPSがスプラトゥーン2だけなのは、FPSファンの人からすれば憤慨モノだろう。それでも一人のゲーム愛好家にとって間違いなく最高のゲームばかりを挙げたつもりだし、誰かにはきっとわかってもらえるリストだと思う。
 
 「最高のゲーム」のリストは、愛好家の数だけある。けれども、他の愛好家のリストのどこかが琴線に触れるってことは必ずあるはずなので、私たちはもっと「最高のゲーム」についておしゃべりしたっていいんではないだろうか。
 
 

エヴァンゲリオンの初夢と夢判断

 
 2020年代が始まった。この、区切りの年に見た初夢が『新世紀エヴァンゲリオン』だったことに因縁めいたものを感じたので、ブログの書初めをやってみる。
 
 

1月1日の状況

  
 前日夜にエヴァンゲリオンについてしゃべったり見たりした記憶はまったくない。
 
 ただ、寝る前にたまたまテレビをつけた際、水晶玉子という占い師が「2020年は大きな見地からものを見るような、そんな年になる」的なことをしゃべっていた。夢が醒めてそのことを思い出したので、ここから影響を与えていたかもしれない。
 
 

実際に見たエヴァンゲリオンの初夢

 
 エヴァンゲリオンの夢は、碇シンジと惣流アスカラングレーが並んで登場するシーンから始まった。二人とも学生服姿で、そのデザインは90年代の新世紀エヴァンゲリオンというより、新劇場版のソレに近かった。そういう意味ではアスカは式波アスカラングレーだったのかもしれない。このシーンで、「アスカのほうがデザインが良い」という謎の解説が聞こえてきたが、いったいどういう意味なのかよくわからない。
 
 最初のシーンから変わって、真っ黒な背景のなかに金色の碇ゲンドウの顔が浮かび上がっていた。ゲンドウの顔をなす金色の輪郭は、金の細いネックレスでかたちづくられていて、その持ち主が赤木リツコであることが私にはすぐにわかった*1
 

新世紀エヴァンゲリオン DVD STANDARD EDITION Vol.8

新世紀エヴァンゲリオン DVD STANDARD EDITION Vol.8

  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: DVD
(だいたいこのDVDの表紙みたいな顔を金のネックレスでかたちづくろうとしていた)

 
 少し顔の輪郭がズレている気がしたので私は指で直そうとしたが、なにせ金のネックレスでかたちづくられた顔だから、少し触っただけで顔の輪郭がゆがんでしまう。手こずっているその時、碇シンジの声で「おやじにびびっているからうまく表現できないんだ」と声が聞こえてきた。
 
 そのとき、唐突にBGMとしてタナトスが流れ始めた。ここでいうタナトスとは、新世紀エヴァンゲリオンの劇中で、綾波レイが特攻や自爆をやろうと覚悟を決めたシーンで流れる曲だ。これも夢にありがちなことだが、タナトスが流れ始めてすぐ、私は悲痛な感情で胸がいっぱいになった。ここで、夢から醒めた。
 
 

この夢が意味しているものは?

 
 私にとって、新世紀エヴァンゲリオンのキャラクターやBGMは特別な意味を持ったものであり、象徴的なものだから、この初夢は、私の意識下~無意識のどこかの引き出しを反映していると思われた。だから、それが何なのか考えてみたい。
 
 エヴァンゲリオンでの役回りから、碇ゲンドウは、私の超自我を象徴しているとみなすことにした。超自我とは、「かくありたい」という理想を象徴すると同時に「かくあるべき」「かくあらねばならない」を象徴するものでもある。そこで私は、これを精神医学(とそれを含んだ現代の社会秩序)、と翻訳することにした。
 
 ブログではあまり書かないけれども、私は精神科医という職業人としてはオーソドックスを良しとし、正統な精神医学にリスペクトを感じている。精神医学は、現在の私の「かくありたい」や「かくあるべき」の相当部分を担当していると、思う。
 
 だから夢のなかの私は、そういう超自我を赤木リツコの金のネックレスという、非-正統な品を用いて表現しようとしていた。
 
 非-正統な金のネックレスとは、このブログをはじめとする私の表現活動のことではないだろうか。ブログや表現活動は、堅い職業人には不要のものだ。しかし、私にとっては宝物で、貴重な表現の手段でもある。
 
 対する碇シンジはイド、またはエゴグラム風に言えばFree Childだろう。私のなかのチルドレンが「おやじ(=精神医学と社会秩序)にびびっているからうまく表現できないんだ」と囁いたのである。
 
 その瞬間、タナトスが流れ、私は悲痛な感情にもなっていた。綾波レイが自爆を覚悟した時のような哀しみが伴うということは、自由のままに精神医学や社会秩序を描くことには犠牲が伴うと、夢が警告しているかのようだ。
 
 碇シンジの声をしたイドは、碇ゲンドウの顔をした超自我をしっかり描くよう、はっきり私をけしかけていた。にもかかわらず、描くことには犠牲が伴うという。私という一個人の内面で、これらがせめぎあっている様子を初夢をとおして私は自覚した、ように思った。
 
 

では、どう実践するか

 
 インターネットを始めた頃から、私は個人の社会適応について考え続けてきたが、ここ数年は、個人の社会適応の大前提となる社会秩序のメカニズムやルールを追いかけていた。その一環として、精神医学というシステムが社会というもっと大きなシステムに何を提供しているのか、逆に社会から何を受け取り、どのように両者が噛み合っているのかを、非-医学的な見地から追いかけ続けてきた。
 
 医療者や研究者それぞれの善意や、医療・福祉によって支援されている人々それぞれの救済とはほとんど無関係に、大きなシステムとしての精神医学と大きなシステムとしての社会が関連しあい、秩序の大きな歯車を回している。そう私は思う。だが、そういうマクロな秩序の成り立ちについて考えること自体、けしからんという人がいることも私は知っている。
 
 「それでも、私は考えることをやめない!」と思っていた矢先、私はこの初夢を見てしまった。見てしまったから、私は碇ゲンドウを金のネックレスで描ききろう、と思う。赤木リツコのネックレスが象徴しているように、それは正統なものではないけれども、それでも私が保持している力には違いないのだから。たとえタナトスのBGMを伴うとしても、私は、退かない。
 
 
 個人の社会適応の大前提になっている現代社会を、その成り立ちの一部である精神医学も含めて、描ききって、物語っていこうと思う。それが2020年の私の初夢であり、ブロガーとしての私のマニフェストだ。
 
 今年は、私という色眼鏡をとおしてみえる現代社会の姿を、まっすぐ物語っていくぞ。
 
 
 ※はてなブログの今週のお題「2020年の抱負」※

*1:夢では、特に説明がなくても「わかってしまう」ことがままある

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊

 
ネット言説における「合理性」信奉 - 道徳的動物日記
 
 リンク先のブログは『道徳的動物日記』という私の好きそうな語彙が集まった名前で、しかも冒頭に「このブログは利益や金銭目的ではなく人々に対する啓蒙のために書かれています。ありがたがれ。」と記されているので、安易にリンクを飛ばしてはいけないと前々から思っていた。
 
 ところが今回の合理性信奉の話が好きすぎること、筆者のDavidRiceさんが「まとまりのない与太話になってしまった」とはてなブックマークでコメントしているのに勇気づけられて、自分のブログでもっとまとまりのない、自分っぽい与太話をやりたくなってしまった。
 
 
 
 
 *      *      *
 
 
 リンク先の記事は、安易で浅薄な合理性信奉は、不毛で、異様で、ポジティブ心理学や徳倫理学からみて的外れもいいところとなかなかに手厳しい。「コスパ最高!」「合理的選択ができるアタクシってば素敵!」とうぬぼれている人々に冷や水をぶっかけるような内容だ。
 
 私もブログで、イージーな合理主義や効率主義のうさんくささについて書いているし、私が信奉するのは合理主義ではなく仏教の縁起説なので、リンク先の合理性信奉にたいする辛辣さは心地良くすらある。
 
 反面、私も合理主義や効率主義にはだいぶ入れ込んでいるというか、習慣や通念のレベルではそれらに服従しているのを認めないわけにはいかない。
 
 私はスケジュールに正確であるよう努めているし、ソーシャルゲームのレベル上げを単位時間あたりの生産性や収益性で考えてしまう。仕事中はともかく、娯楽と向き合っているときぐらいもっと自由に、理不尽に、豪快に遊んでしまってもいいだろうに、それができない。それぐらい、合理主義や効率主義が身に付いてしまっている。
 
 私が合理主義や効率主義を拝まずに済んでいるのは、私がそれらを目的ではなく手段とみなしているから……ではない。合理主義や効率主義を(浅薄に)ありがたがってしまわずに済んでいるのは、私には予め信奉すべき宗教があったからだと、私は思う。
 
 如是我聞、仏教の因縁・縁起の話は娑婆世界のメカニズムをよく説明していて、仏教の戒律は執着と折り合いをつける良い方法だ。それらに比べると、合理主義や効率主義は、少なくともそれらだけでは、娑婆世界のメカニズムや執着との折り合いのつけかたについて教えてくれない。愚直に合理主義や効率主義を追いかけた果てには、むしろ執着の強い、業の深い境地があるようにすら思える。
 
 合理主義や効率主義は、ある種の方便としては有用だけど、とうてい、拝めるようなものではない。
 
 ただ、日本のインターネットでしばしば見かける合理主義や効率主義の信奉者を見て思うに、彼らには私にとっての仏教に相当するものが無いのではないだろうか。
 
 「偶像を拝む者は何も知らない」という言葉もあるけれども、そもそも拝むべき偶像すら無ければ、人は何かを拝まずにいられなくなって、どうやら自分にとってありがたいと思えるものを遮二無二拝んで、偶像化してしまうのではないだろうか。
 
 [関連]:“崇拝欲”とどう折り合いをつけていくか――ホメオパシー問題に関連して - シロクマの屑籠

 
 よその国ではいざ知らず、日本では宗教が希薄化した、みたいなことが言われる。大晦日や初詣に寺社が賑わうのをみるに、実はアニミズムはちゃんと生き残っていて、人々は崇拝欲をそれなり持っているようにも見受けるけれども、合理主義や効率主義をありがたがっている人々にとっては神は死んだも同然だろう。
 
 さりとて、合理主義や効率主義で神を殺してみたところで、人間の崇拝欲がなくなるわけでもなく。安易に神を殺してしまった人、そもそも神をどこにも見いだせない人は、それでも崇拝欲を充たしてくれる対象をどこかに見出さなければならない。
 
 それが、人によっては科学崇拝という形式をとることもあれば、ニセ科学崇拝という形式をとることもあれば、スパゲッティモンスター崇拝という形式をとることもあれば、合理主義崇拝や効率主義崇拝という形式をとることもあるとしたら……まあいわば、それって迷える子羊なんじゃないのかなと思ったりもする。
 
 人間、拝みたいものを拝めばいいのだから、拝んでいろよ、拝ませてやれよ、みたいな気持ちも無くはない。その一方で、崇拝欲の脳内アドレスにテキトーなものを突っ込んでありがたがるのは危なっかしいことだと思ったりもする。自分のアタマで考えてテキトーなものを突っ込んでありがたがるぐらいなら、がっしりとした宗教、先祖代々の宗教を予め割り当てておいたほうが無難だという気持ちがどこかにある。
 
 アニミズムや宗教を殺したまでは良かったけれども、そこから自由という名のもとに合理主義や効率主義を拝み倒すに至った人たちは、他に拝めるものを見つけられなかったのではないだろうか。
 
 
 *     *     *
 
 
 我ながら、ヤマもオチもイミもない与太話を書いてしまった。
 
 私は、自分自身が厚みのある人間観や幸福感を持てる人間だと思っていない。勉強して独自の境地にたどり着ける人がいるのを認めたうえで、私は仏教という名の大樹にもたれかかりながら自分のアタマで考えるふりをしている。もし仏縁に恵まれなければ、私も道具を拝んだり飴玉を拝んだりしていたかもしれない。だから、そういった神仏に恵まれぬ人のありようを、ちょっとだけ弁護したくなる、こともある。
 
 ここで、神仏を殺して衆生を路頭に迷わせたのは誰だったのか思い出したくなったけれども、そろそろ除夜の鐘の時間なので今日はこのへんで。煩悩無量誓願断。
 
 
 
 

人間を繁殖させられない日本動物園、それとフィンランド動物園

 
 
www3.nhk.or.jp
 
 日本、少子化進んでるってよ。
 
 
 ときの首相が、少子化問題を「国難」と評するようになった。実際、国難だろう。だからといって若い男女を強制的につがいにして、強制的に出産なんてさせられない。
 


 
 個人主義や社会契約のロジックにもとづいて考えるなら、挙児・出産という現象は、当事者の主体性にもとづいたものでなければならないはずである。だから「産め」と強制するのでなく「産みたい」という意志によって、あえて意地悪な言い方をするなら産みたくなる動機付けをする必要がある。いまをときめく行動経済学の言葉でいえば「ナッジ」するなら強制ではないのでいいんじゃないだろうか。
 

 行動経済学的手段を用いて、選択の自由を確保しながら、金銭的なインセンティブを用いないで、行動変容を引き起こすことがナッジである。大きなコストをかけないとそのような政策的誘導から簡単には逃れることができないのであれば、その誘導はナッジとは呼べない。
(中略)
 ナッジは、行動経済学的知見を使うことで人々の行動をよりよいものにするように誘導するものである。
 大竹文雄『行動経済学の使い方』

 いやー、選択の自由を確保しながら人々の行動をよりよいものにするナッジって、とても便利で正しいですねー。
 で、何が「よりよいもの」で「より悪いもの」なのか、それを誰が裁定するの? 官邸のひとですか? 経団連のひとですか?
 
 「ナッジ」についてはさておき、私は東京で少子化が進んでいるのをみるたび、動物園のシロクマの繁殖のことを思い出す。
 

 
 動物園でシロクマを繁殖させるのはかなり大変だという。たとえばこちらのブログ記事に記されているように、動物園でシロクマが繁殖に成功するとちょっとしたニュースになる。札幌市円山動物園のレポートからも、人工的な環境でシロクマを繁殖させることの難しさが窺える。
 
ホッキョクグマの繁殖と環境整備に関する発表/札幌市円山動物園
 
 産室環境も含めて、ストレスケアに細心の注意を払いながらシロクマの繁殖を後押ししているさまがうかがわれる。
 
 これはシロクマに限ったことではない。動物を人工的な環境のもとで繁殖させるのはしばしば大変だ。動物園で餌を与えて生かしておくだけなら簡単でも、繁殖させるのは難しい動物がたくさんいる。
 
 さて、振り返って人間はどうだろう。
 
 忘れてしまっている人もいるかもしれないが、人間だって動物である。少なくとも繁殖するのは動物としての人間だ。その人間が、現代社会では繁殖しづらくなってきている。日本で最も人間が繁殖しなくなっているのは東京とその周辺だが、東京とその周辺は、いかにも人工的な環境というか、人工的な環境そのものである。
 
 東京とその周辺には食料があり、水があり、治安も安定している。現代医療なんてものまである。そういった部分だけピックアップすれば、縄文時代よりもずっと人間の繁殖に適した環境であるはずだ。ところが当地に住む人間だちはあまり繁殖しない。かろうじて繁殖する人間がいないわけではないが、合計特殊出生率が示唆しているように、東京とその周辺という人工的な環境では、人間の繁殖が起こりにくいようなのだ。
 
 東京という人工的環境を動物園になぞらえるなら、"東京動物園"は、どうやら人間の繁殖に不向きな、人間を繁殖させる条件の調整に失敗した環境であるらしい。それは日本という国全体にも言えることで、"日本動物園"は、人間の繁殖に適した環境を提供することに失敗している。
 
 繁殖を度外視し、動物を飼い続けるだけなら人工的な環境でも比較的簡単なのと同じように、東京動物園や日本動物園で人間を飼い続けるのはおそらく難しくない。というか人間がバタバタ死んだりしていないわけだから、ただ人間を生かし続けるという点については東京動物園や日本動物園はよくやっていると言える。
 
 しかし、繁殖という視点でみれば、東京動物園も日本動物園も、人間の繁殖に適した環境を準備できていない、ということになる。繁殖適齢期にさしかかった人間が繁殖したくなるような環境が足りないのかもしれないし、ストレスを与え続けているせいかもしれないし、繁殖に適さない文化的土壌ができあがっているせいかもしれない。が、いずれにせよ人間同士がつがいをつくって主体的に繁殖するのに東京動物園や日本動物園が向いていないのは間違いない。
 
 動物園のシロクマと人間の一番大きな違いは、シロクマが人間に一方的に飼育される動物であるのに対し、人間はみずから環境を調整し、みずからを飼育する動物である点だ。神様が東京動物園や日本動物園を運営しているのでなく、人間自身がそれらを運営し、環境を改変し、よりよく生きられるよう選んでいける……はずである。
 
 ところが昨今の状況をみるに、私たちは人間が繁殖しづらい環境を野放しにしているか、うまく環境を調整できなくなっている。動物園としての日本は合格点とは言えない。とりわけ動物園としての東京、人工的な環境としての東京には明らかに問題があるのに、それをどうにかできないみたいなのだ。
 
 かつて、優生学を否定したいきさつが示しているように、人間が繁殖する権利というのは割と尊いもので、繁殖する権利を剥奪するのは人間疎外であったはずだ。しかるに現代の日本や東京では繁殖したくてもできない人がたくさんいて、繁殖したいという主体的な気持ちが沸きづらい環境もあって、それでも人々は黙々と働き、日々の糧を得るのにあくせくしている。
 
 断種のたぐいが強制的に繁殖をさせないのに対し、主体的な気持ちが沸いてこないから繁殖しないのは疎外ではない、それは自由意志による選択の産物だ、という人がいるかもしれない。
 
 なるほど、近代市民社会の市民の主体性というのは、そういう物差しで人間の行動を測るのやもしれない。だが動物に還って考えた時、人間という動物がこれほど繁殖しない・できないのはやはり珍妙なことであり、疎外ではないだろうか。食料も水も安全も高水準で確保されている人工的な環境にも関わらず、これほど人間が繁殖せず、繁殖できないのだから、私はその事実じたいに引っかかりをおぼえる。
 
 
 

フィンランド動物園も失敗しているようですね

 
 さて、そんな折、ちょっと驚くようなニュースが飛び込んできた。
 
 forbesjapan.com
 
 フィンランドの合計特殊出生率がものすごい勢いで低下しているのである。
 フィンランド動物園も、人間の繁殖に失敗しているみたいですね。
 
 北欧諸国は、しばしば社会制度の優等生、見習うべきロールモデルとして語られることが多い。フィンランドもそのような国のひとつだったはずである。そしてフィンランド以外の北欧諸国が一定の合計特殊出生率を保っているとはいえ、その数字は2.1をだいぶ下回っている。ほかの先進国もおおむねそうだし、実のところ、出生率がすごい勢いで下がっている国は途上国にもたくさんある。韓国、台湾、シンガポールあたりの合計特殊出生率は、完全に人間の繁殖に失敗した動物園といわざるを得ない。経済は発展しているかもしれないが、人間が繁殖できる環境とは言い難く、私なら、それは人間が疎外されやすい環境ではないかと言いたくなる。
 
 人間は動物であるだけでなく、経済的主体だったり法的主体だったりするから、動物としての失敗が人間の失敗と言い切ることはできない、と言う人はもちろんいるだろう。
 
 それでも私は、人間は経済的主体や法的主体である前に、まず動物であり、まず有性生殖生物であるとみなしているから、繁殖という、最もプリミティブな営みが困難になっていたり、おざなりになっていたり、過小評価されていたりする社会環境は不適切であろう、と思う。人間が強制的に繁殖させられるのは悪夢としても、主体的に繁殖したくなるような環境を整えるのが、日本動物園だったり東京動物園だったりフィンランド動物園だったりの運営者の使命ではないかと思う。言い換えれば、有権者である私たちの使命ではないだろうか。
 
 繰り返すが、ときの首相は少子化を「国難」と評した。この国難は、日本、ひいては東京という人工的な環境が人間の繁殖に適さないがゆえに起こっているものだ。
 
 何がどう適さないのか十分に精査したうえで、安心して人間が繁殖できる環境を取り戻せるよう、私たちは環境に働きかけていかなければならないのだと思う。それこそ、シロクマの繁殖につとめている動物園の飼育員のように。