シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「俺らが生きづらい社会」は「あいつらが生きやすい社会」

 
 


 
 このtwitterの文章を読み、「世の中ってそんなものだよね」と思いつつ、社会の変化に思いを馳せた。
 
 この文字列から、私は二つの連想をせずにいられない。
 
 まず、小さな問題として、日本をはじめとする先進国で起こっている混乱。
 
 少子高齢化と経済的停滞の続く日本はもちろん、アメリカはアメリカで、ヨーロッパはヨーロッパで、現代の社会問題にのたうち回り、その解決の目処は見えない。
 
 他方で、途上国と呼ばれていた国々の所得は向上し、生活水準も良くなっているという。
 
 私は少し悲観的に考える癖があるので、資本主義的な豊かさが国単位で安定するためには、本国と植民地、先進国と途上国のような政治的・経済的勾配が必要だと疑っている。地球がフラット化すれば、往年の欧米諸国のような、国単位の豊かさは成立しなくなると心のどこかで思っているふしもある。
 
 日本の20世紀後半の豊かさにしても、戦前は欧米列強の末端に食いつき、戦後もそのアドバンテージを生かして成立したもので、たとえば東南アジアの国々がこれからもっと豊かになるとしても、日本のような国単位で先進国然とした仕上がりにできあがるとはあまり思っていない。
 
 私が日本が先進国然としているとみなすのは、東京が素晴らしく発展しているからではなく、地方の田園地帯や半島部にさえユニクロや大手コンビニチェーンが進出している点、東京と同じ言葉で比較的近い文化が消費されている点だ。バンコクなどと同様、東京はたいがい地方から血を吸い上げて繁栄しているが、とはいえ地方にもそれなり豊かさが分配されている。
 
 話が逸れたのでもとに戻ろう。
 
 その先進国たりえた日本では「どんどん世の中は悪くなっている」。
 
 その悪くなっていると感じる理由のある部分は、国内の失政(=制度疲労と国民の判断ミス)に由来すると同時に、地球温暖化のような世界レベルの問題に由来する部分もあるだろう。
 
 だがそれだけではなく、地球がフラット化し、先進国側のアドバンテージが途上国の猛追によって失われたことに由来する部分もあろうし、それが、20世紀後半に成立した「日本スゴイ」的な自尊感情をも喪失させてしまったのだろう。
 
 いつまでも日本が世界第二位の経済大国のままで、アジア唯一の先進国だったなら、本国と植民地、先進国と途上国のような勾配が続いて、人々の生活は豊かなままだったかもしれない。そして「日本スゴイ」的な自尊感情に溺れたままであれば、「どんどん世の中は悪くなっている」という気持ちは現実の2020年に比べて軽いものになっていただろう。
 
 国や国民といった垣根を越えて考えるなら、たぶん、「どんどん世の中は悪くなっている」と考えるべきではなく「フラット化によって途上国の人々がどんどん豊かになって、世の中はどんどん良くなっている」と考えるべきなのだろう。そしてグローバルに働き、グローバルに考えることのできる人々からみれば、国という小さな垣根の内側で「どんどん世の中は悪くなっている」と考える人々は、視野の狭い、愚かな人々のようにうつるのかもしれない。
 
 

どんどん進歩する社会と「どんどん世の中は悪くなる」

 
 もうひとつ、もっと私の関心領域に近い「どんどん世の中は悪くなる」について記そう。
 
 ここ数十年の間に、日本社会はいろいろな意味で進歩した。
 
 1970~90年代に比べると、東京をはじめ、都市の街並みは美しくなり、人々は行儀良く、清潔になった。20世紀の日本人は今よりもずっと粗暴で、もっとカジュアルに法をはみ出していて、それらが当たり前のような顔をしていた。成人が犯罪を犯す率も、未成年のうちに補導される率も、今よりずっと多かった。
  
 仕事や生活の面でも、私達はまぎれもなく、大きく進歩している。業務は効率的になり、飲食店の店員はテキパキ働くようになった。昭和時代の人々はもっと非効率に働いていたし、もっと業務の質にムラがあった。医療機関や役所や警察の窓口で横柄な態度に出会うことも多かったと記憶している。情報環境という点でも、インターネットの普及によっていろいろな事が変わった。
 
 だが、こうした進歩の恩恵を皆が一律に受け取ったのだろうか。
 私はそうは思わない。
 
  


 
 たとえば、境界知能と呼ばれる人々がいる。知的障害と診断されるほど認知機能が低いわけでもないが、平均に比べれば低めと測定される人々だ。境界知能は知的障害と診断されないため、これ単体では障害者として援助の対象とみなされることはない。もちろん、なんらかの精神障害等に罹患し、医療機関で認知機能を測定してみた際に境界知能に該当した、という事例じたいは無数に存在するのだが。
 
 では、この進歩した社会は、この境界知能に当てはまる人々を生きやすくしているのか。
 
 彼らとてコンビニや市役所や警察窓口などを利用しているわけだから、便利で効率的になった社会の恩恵は受けている、と言える。だが、どこでも便利で効率的なサービスを受けられる社会になったということは、働く際には便利で効率的にサービスを提供しなければならない、ということもでもある。
 
 そして第一次産業から第三次産業まで、少なくない仕事がテクノロジーによって代替されるか、ホワイトカラー的な業務内容へと変わっていった。愚直に肉体さえ動かしていれば一人前の給料を貰える、という仕事がいまどきいったいどれぐらいあるだろうか?
 
 「コンビニのレジ打ちなんて、誰にでもできる」などと嘯いている人もいるようだが、コンビニのレジ打ちは単純作業ではなく、オペレーションである。昭和時代の仕事の多くは、複雑なものであれオペレーションではなかったが、令和時代の仕事の多くは、単純にみえるものでもオペレーションと呼ぶに値する様式になっている。
 
 業務に知的な柔軟さやコミュニケーション能力が期待されるようになったのはもちろん、行儀良く・効率的に・むらなく・安全に・確実にオペレーションをこなせる素養が求められるようになった。
 
 こうした職務の変化に苦もなくついていける人にとって、こうした職務の変化から得られるのは恩恵だけである。自分にとっての当たり前が世の中の常識になっていくわけだから「世の中はどんどん良くなっていく」と感じるだろう。しかし、こうした職務の変化から篩い落とされる人、昭和時代には正社員になれただろうけれど、令和時代には正社員に到底なれそうにない人からみれば「世の中はどんどん悪くなっている」と感じるほかないし、世の中から自分は取り残されているという疎外感は不可避だろう。
 
 こうした、「どんどん進歩していく世の中」からの疎外が、就労の世界だけでなく、たぶん、あらゆる領域で起こっている。
 
 日常生活においては、清潔で臭わない生活が進歩的な生活習慣から、できて当たり前の生活習慣へと変化した。いまどきは、臭わない生活を「できて当たり前っしょ」と思っている人のほうが多数派だろう。清潔や消臭ができて当たり前の社会へと進歩したことによって、何らかの理由や事情によって不清潔だったり臭ったりする人は、当たり前のことができない人とみなされるようになった。
 
 インターネットやスマホによる情報革命にしてもそうだ。
 情報リテラシーや金融リテラシーに優れた人々にとって、情報革命はチャンスの拡大であり、「世の中が良くなっている」と感じるための好材料とみなされることだろう。だが、情報リテラシーや金融リテラシーを身に付けることの難しい人々――それこそ、たとえば境界知能の人々――にとって、情報革命は手に負えないリスクや搾取となって立ちはだかる。
 
 令和時代の情報環境のなかで、いったい誰が巨大企業に最もひどく搾取され、いったい誰がネット山師たちの好餌とされているのか。誰がヘイトスピーチを振り回しているつもりでヘイトスピーチに振り回されているのか。
 
 進歩についていけない人々は、今日の情報環境のなかで何重にも搾取されて、何重にも損をしている。アマゾンや楽天では便利なサービスを受けているかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料でガチャを回して喜んでいるかもしれないが、それでもトータルとしてみれば、進歩と自分自身とのギャップの程度のぶんだけ、搾取されたり損をしたりしているはずである。
 
 いっぽう、進歩についていける人は進歩の恩恵にあずかり、チャンスをものにする。インターネットに搾取される以上に、インターネットで利益や機会を掴んでいく。
 
 誰もが効率的にオペレーションをこなし、誰もが清潔で臭わず、ますます高度化していく情報環境のもとでは、それらについていけない少なくない人々がますます生きづらくなり、疎外されるとともに、そこにぴったりと適応できる人々はますます大きな便益を享受し続ける。
 
 かろうじて医療や福祉がこの図式を緩和していて、たとえば「大人の発達障害」という概念によって援助される人も増えてはいるけれども、医療や福祉にはこの図式を解消するほどの力は無い。
 
 

「どんどん良くなっている」人に「どんどん悪くなっている」人の気持ちはわかるのか

 
 だから、この進歩に対する肌感覚は大きく2つに分かれると思うのだ。
 
 「世の中はどんどん悪くなっている」と感じる人々と「世の中はどんどん良くなっている」と感じる人々に。
 
 あるいは「世の中はどんどん生きづらくなっている」と感じる人々と「世の中はどんどん生きやすくなっている」と感じる人々に。
 
 たとえば清潔な身なりと規則正しい生活を当然のものとし、高度な情報リテラシーと金融リテラシーを持ち、グローバルに開かれた生活をしている人々が「世の中はどんどん悪くなっている」と感じるのは難しいことではないだろうか。
 
 そういう人は、「えっ? なに? 世の中便利になってチャンスもどんどん増えてるでしょ?」で考えるのを止めてしまったほうが適応的だ。そこで考えるのをやめてしまえば葛藤も抱えずに済むし、罪悪感を覚えることもなくなる。
 
 逆に、進歩から置き去りにされ、「世の中はどんどん悪くなっている」「世の中はどんどん生きづらくなっている」と直観している人々には、世の中がどんどん良くなっていると感じる機会は少ない。コンビニや警察窓口では昭和時代より丁寧に対応してもらえるかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料ガチャを回させてもらえるかもしれないが、生活が上向いている実感はあるまい。それでもメディアで発信力を誇っているのは進歩的な人々とそのメンションだから、自分たちが進歩に乗れていないにもかかわらず、自分たちを篩い落としていく進歩に乗れている人々が現に存在し、チャンスをものにしているらしいことは伝わってくる。
 
 こうした疎外感が、進歩のど真ん中で、当たり前のように適応している人にどこまで想像可能だろうか。
 
 

「進歩は、これからもあなたの味方をしてくれますか?」

 
 テクノロジーや文化という点では、私達は間違いなく進歩し続けている。
 
 だが、進歩によって専ら便益やチャンスを獲得している人もいれば、進歩によって疎外されている人、進歩に置いていかれている人もいる。たぶん、これからまさに進歩によって疎外され、置いていかれようとしている人もいるだろう。
 
 私がこれを書いているのは、私がある面では進歩に適応的だが、別の幾つかの面では進歩に疎外されていて、いまにも進歩に取り残されようとしていると直観が働き、脳内の警告ランプが点灯しているからだ。進歩は私たちをますます便利に、快適に、効率的にしていくだろう。だが、その便利さ、快適さ、効率性に、私はどこまでついていけるだろうか。 そしてあなたは? 
 
 「社会の進歩は、必ずみんなの味方をしてくれる」という考えに、いまどき一体どれぐらいの割合の人が同意できるものだろう? 少なくとも私には、それが条件付きのもののように思われてならない。
 
 
 

ブロガー“コンビニ店長”の脈拍について

 
anond.hatelabo.jp
 
 今回もブログを消してしまわれたのですね、店長。
 
 私をはじめ、多くの人が店長の文章、文体、店長が観た世界を楽しみにしていることでしょう。いつか再会できる日をお待ちしています。ブロガーやライターはいくらでもいるけれども、あなたと同じように世界を観て、あなたと同じように文章を綴る者はどこにもいません。もともと、ある段階を越えたブロガーは全員がオンリーワン(だからといってお金になるとは言っていない)ですが、店長の場合、店長の世界観と文体と嗜好が組み合わさってまさにオンリーワンというほかありませんでした。
 
 ちなみに、ご存じないかと思いますが、私も参加しているbooks&apps主宰の安達さんは店長のブログの愛読者で、本当はbooks&appsに誘いたかったみたいです。連絡手段が無く、おそらく店長もそれを望んでいなかったでしょうけれども。
 
 その安達さんが「webで稼げるライター」という商用文章をnoteで公開されたそうです。
 
 「webで稼げるライター」の条件とは。|安達裕哉|note
 
 正直、私自身は「webで稼げるライター」の条件がどういうものかわかっていないし、有料パートも読んでいません。ただ、books&appsに集まっているブロガーやライターに共通していそうな性質を私なりに想定すると、
 
 

 ・世の中を自分という名のフィルターごしに眺められること。
 ・つまり書き手自身の世界観で世の中を見ることができていること。
 ・その自分という名のフィルターは世間一般からズレている部分を含んでいること。
 ・さりとて、世間からズレすぎて余人の理解が及ばないほどではないこと
 ・自分の世界観を読ませるのに適した文体や知識を身に付けていること

 
 たぶん、このあたりが「面白がられやすいブロガーやライター」なのでしょう。繰り返しますが、これが「webで稼げるライター」とイコールなのかは私にはわかりません、が、長く面白がられるブロガーやライターたるもの、これらの条件は満たしているように思われ、そして店長、あなたは間違いなくこれらの条件を満たしていました。
 
 コンビニのこと、エロゲのこと、世間のことを書ける人はたくさんいても、店長のように書ける人は世の中にはいないのです。はてなダイアリー~はてなブログの時代、店長のブログは大変に人を集めていましたが、それは店長のように世の中を観て店長のような文体でそれを記述できる人間がどこにもいなかったからにほかなりません。
 
 人というのは誰しも替わりのきくものではありませんが、「コンビニ店長」の場合は特に、その傾向が強かったように私は思っています。
 
 だからブログではなく匿名ダイアリーでも構いませんので、いつか再び店長の文章に出会える日を楽しみにしています。これから述べるような懸念はあるにせよ、きっと店長は文章をオンライン上に投稿すると、私は信じて疑いません。
 
 店長への個人的な私信はここまでです。
 
 

店長の“脈拍”

 
 ここからは考察みたいなものなので、「ですます調」から「だ・である調」に改めることにする。
 
 コンビニ店長のはてなでの活動は、00年代まで遡ることができ、はてなダイアリー時代後期にはnakamurabashiというidで活躍していた。このidの『G.A.W』というブログは大変な人気で、fromdusktildawnさんやちきりんさんのブログと並んで、00年代後半のはてなダイアリーを代表するブログだったと個人的には思っている。
 
 冒頭リンク先でも記されているように、店長は、ある特定周期で自分が書いたオンライン上のアーカイブをすべて決してしまう性質がある。店長は10年代前半にはlkhjkljkljdkljlというidで、今度ははてなブログをスタートしていて、独特の世界観を自分自身の文体で綴るスタイルによって『24時間残念営業』はたちまち人気ブログになった。けれども人気が出過ぎてアンチまで沸いてしまうなか、予想どおりというか、ブログは畳まれてしまった。
 
 でもって、今回である。
 
 今回は10年代後半からertedsfdsddtyというidで、『隠居』というはてなブログを開設していた。これまでと違って、不特定多数の目を惹き付けるような内容はあまり記さず、読みにくいレトロなフォントを選んでいるあたりにコンビニ店長の気持ちが現れているように思われた。だからなのか、これが店長のはてなブログだと気付いている人も、あまり拡散させないよう注意しながら眺めていた。『G.A.W』と『24時間残念営業』がその人気の絶頂のうちに全消しされた過去を、ファンは皆、心得ていたのだろう。
 
 ではなぜ、店長は今回ブログを消さなければならなかったのか。
 
 店長は、冒頭リンク先のなかで
 
 

 アカウント消す系のやつはけっこう昔から頻繁にやってて、そのうちのかなりの比率はパスワード忘れた系のやつなのだが、そうでない場合は、今回と似たような軽めの自殺的な意味合いが強かったらしいことを理解した。昔からそうなのだが、読まれたいという気分は人一倍強いくせに、実際に読む人が出現すると、とつぜん逃げ出したくなる。その矛盾のなかで、それでも読まれるとうれしいというほうが強かったから、今日までいろいろ書いてきた。とはいえ、ここ数ヶ月は「だれかが自分の存在を知っている」と思うだけでもう無理、という気分が強い。この気分は強くなる一方で、改善する余地がまずなさそうである。反対に書いたものをだれかに読まれたいという欲望はどんどん薄くなる一方だ。

 
 と書いているが、私はこれを65%ぐらいしか信用していない。
 
 いや、私が見つめている店長の振る舞いと、店長自身の自己認識の間にギャップが存在するように思われる、と表現すべきだろうか。 
 
 「店長がブログのアカウント(id)を消すのは読者から逃げ出したくなる時」というのは、はてなの三つのブログの全消去に共通している。だからこれは間違っていないように思う。ストレス対処行動としてブログを消す、という性質も実際あるのだろう。
 
 ただ、今回のブログ全消しの場合、「読者に読まれるプレッシャー」は非常に低いものだったはずである。なぜなら『隠居』を知っている読者は拡散し過ぎないよう注意を払っていたと思われるし、実際、『隠居』の読者数は人気ブログ時代と比較にならないほど少なかったからだ。
 
 だから今回のブログ全消しは、「読者に読まれるプレッシャー」に由来するウエイトは今までよりもずっと低かった。そうでないプレッシャーなりストレスが占める割合のほうがずっと高いと想定される。
 
 店長は、コンビニで働くことの限界や身体的異変のことを書いている。これらが今までになかった心境を店長にもたらしている可能性は、高そうにみえる。もちろん、そうしたストレスやプレッシャーや肉体的変化の総和として、なんらかメンタルヘルスの問題を呈している可能性もあるが、それはここで判断できることではない。
 
 とにかく、人気の絶頂期にあったふたつのブログの全消しと、ブロガーとして実質隠居生活をおくっていた今回の全消しは、シチュエーションが全く異なるなかで起こっている点が、一人のファンとしては気になって仕方がない。
 
 ブロガーとしての店長、ひいてはもの書きとしての店長は、単に精神的にだけでなく、肉体的な部分も含めて、注意すべき臨界点を迎えているのではないか。
 
 私はこれを店長の現状を懸念して考えていると同時に、店長より年下の一人のブロガーとして、自分の行く未来を覗き見るような気持ちで考えている。ブログに限らず、若いうちは生命に勢いがあり、未来の展望も広く、隙間時間に閃いた思考を転写するだけでそのままブログ記事ができる。少なくとも私はそうだったし、たぶん店長もそうだっただろう。
 
 だが、現在の私はそうはいかない。隙間時間に閃いた思考をブログ記事に転写するのに時間がかかってしまう。私の同年代のはてなブロガーであるフミコフミオさんは、今でも「所要時間○○分」などと書いておられるけれども、私の場合、その所要時間がどんどん長くなっている。20分でブログを書き上げるだけの電撃性を私は失いつつある。たぶん、店長もそうだったのではないか*1
 
 そして店長のブログスタイルの場合、そうした瞬間的に思考を文章に転写する電撃性にこそイキがあったと思われ、『隠居』にそうしたスピード感があったのかどうか、それが思い出せないのである。
 
 はてな匿名ダイアリーに記された冒頭の文章は、それこそ所要時間○○分といった手早い仕事ではないかと私は推測している。誰かに手紙を書くのは不特定多数にブログ記事を書くよりも簡単で、匿名ダイアリーなら読者プレッシャーも最小化できるから。
 
 しかしもし、店長が着想を電撃的にブログ記事に転写する素早さを失い、諸事情により読者プレッシャーにも耐えられなくなっているとしたら、今後、匿名ダイアリーでしか店長の文章は読めない、ということになる。
 
 それもきわめて低頻度に。

 個人的にはそれは寂しい。だが今日までの店長の行動傾向や発言を思い出すと、「かつてのように健筆をふるい続けるブロガーとしてのコンビニ店長」という近未来を想像するのは、簡単ではない。twitterならできるかもしれないが、ブログのような長文はどうか。隙間時間に駅そばをつくるようにブログ記事を仕上げるためには、一定以上の肉体的・精神的な若さや心の余裕が必要ではないだろうか。
 
 できればこんな予測は外れて欲しい。というか外れろ。中年期の向こう側にあるブログライフを見せてくださいよ、店長。
 
 
 
 
 【関連記事】:コンビニ店長、私はあなたとブログ交流を続けたかった。しかし、それは難しいのようですね。 - シロクマの屑籠
 【関連記事】:いつも見聞きしているアカウントが消えてしまった事について/はてな村の隣人がまた一人減った…。 - シロクマの屑籠
 
 

*1:いや、たぶんそれだけでなく、店長は電撃的に書き上げてしまうブログスタイルが現在のブログスタイルの主流ではなくなっているということも薄々勘付いていたのではないか、とも思う。少なくとも私は、今日の傾向をそのように眺めている

ワインを理解するためにラベルを記録する方法

 

 
 先日、ワイン界を手探りで探索しはじめている年下の人に出会って、昔の自分を思い出すような気持ちになりました。十年ほど前から、私は『北極の葡萄園』にワインの記録をつけていて、今ではすっかり慣れていますが、昔は何をどう記録すればいいのかわからないことが多く、特に、ワインのラベルに書かれた情報をうまく記録できない時期もありました。
 
 もし、誰かがワインのことを知りたくなった時、なかでも「ワインという飲み物を体系的に理解したい」と思い立った時、ワインを記録する習慣と方法は意外に重要になります。たぶん、記録する習慣と方法が曖昧だと、ワインの記憶も曖昧になり、どこのワインがどうだったのかを比較しにくいように思われるのです。
 
 そこで、今回はワインを記録する時の記法について書いてみます。
 
 

私がワインの記法を教わったサイト

 
 ……と、その前に、私がワインの記法を学んだサイトを紹介しないわけにはいきません。
 
www2s.biglobe.ne.jp
 
 1997年から記録を続けている、安ワイン道場さんです。(現在では御本人がtwitterもやっています)
 
 昔、このサイトには、初心者がどういう手順でどういう風にワインと付き合っていくのか、どういう道具を揃えたらいいのか、そういったハウツーを通覧できる場所がありました。数年前にサイトデザインが現代風に変わり、過去の文章が読めなくなってしまい(追記:今でも読めます!トップページの「指南書」を押すとメニューが出ます。)ましたが、そのハウツーを読み、なにより安ワイン道場さんの記録を猿真似したところから私のワイン遍歴が始まった、と言っても過言ではありません。
 
 安ワイン道場さんは現在でもサイトの更新を続けています。これから述べるワインの記法も、基本的には安ワイン道場さんを出発点として、書籍などで補ったものだと思ってください。ワインの味や香りの表現方法を知るにも、記法を真似るにも、いいサイトだと思います。お買い得な安ワインを探している人には特におすすめです。
 
 

ワインの名前を書く時、ラベルからコピーしたいもの

 
 ここから記法の話に入ります。
 ワインノートやブログ等にワインの名前を記録しておく時に外せないのは、【①メーカー名】【②地域・畑名】【③ぶどう品種名】【④製造年(ヴィンテージ)】です。あと、【⑤そのワインの愛称】【⑥メーカー独自の格付け】がある場合は、それも併記したほうが良いかもしれません。
 
 

 
 このスクショは、南アフリカ・カリフォルニア・ニュージーランドという、いわゆる「新世界ワイン」のワイン記録リストを貼り付けたものですが、見てのとおり、最初にメーカー名を、続いてカリフォルニア産の真ん中は地域を、その後にぶどう品種を、最後に製造年(ヴィンテージ)を記してあります。
 
 「新世界ワイン」のかなりの割合、特に初心者の頃に買いそうなワインの多くは、①メーカー名③ぶどう品種名④製造年(ヴィンテージ)の三つしか記していないため、簡単です。このスクショでいえば、一番上の南アフリカ産や一番下のニュージーランド産ですね。
 
 ただ、全部が全部そうだというわけでなく、真ん中のカリフォルニア産のように、地名が入っていたり、愛称が書いてあったりする場合もあります。それと、
 

 
 たとえば、このチリワインの記録のリストでは、「リゼルヴァ・エスペシアル」だの「ビシクレタ」だのといった、メーカー独自のランク(格付け)が記されています。一番上と一番下は、ともにコノスルというチリの大手ワインメーカーのワインなのですが、このメーカーは同じぶどう品種だけで数種類のワインを作っているため、メーカー名とぶどう品種を記録しただけではワインを特定できません。面倒でも、「リゼルヴァ・エスペシアル」だの「ビシクレタ」だのといったランク名を併記しておく必要があり、これで廉価品なのか中級品なのか高級品なのかを識別しています。
 
 真ん中のコンチャイトロもチリの大手ワインメーカーなのですが、ここも同じぶどう品種で数種類のワインを作っていて、それぞれに「サンライズ」「フロンテラ」といった愛称がついています。新世界ワインや一部のイタリアワイン、日本産のワインなどは、愛称やランクを使って商品を識別させているので、そういうのも書いておいたほうがいいように思います。
 
 最後に、一番面倒なフランスワインについて。
 

 
 フランスワインには、品種名が欠落しているワインが少なくありません。かわりに、地名が大抵のワインに記されています。伝統の長いフランスワインやイタリアワインは、「特定の地名でつくられているワイン=ぶどう品種が法律的にあらかじめ定められているワイン」なので、ぶどう品種の記載が省略されていることが多いのです。
 
 それと愛称。愛称は、ついていることもあれば、ついていないこともあります。ものすごく高価なワインは、えてして、メーカー名と地名しか記していないことが多く、なかにはメーカー名とヴィンテージしか記されていないことすらあります。この一覧にあるように、愛称は地名より先に書いても地名より後に書いても、たぶん構わないと思います(とりあえずgoogle検索にはこれで十分引っかかります)。統一したい人は、統一したほうがいいかもしれません。
 
 そして一番下のワインのように、わざわざ「白ワイン」「赤ワイン」を明記してあるものや、製造年(ヴィンテージ)を省略しているものもあります。ヴィンテージの省略はスパークリングワイン系にはよくあるので、書いてない時は(N.V.[ノンヴィンテージ])などと書いておくといいように思います。
 
 フランスワインの地名の表記は難解きわまりなく、ソムリエさんも覚えるのに苦労するような代物です。たとえばブルゴーニュワインは、以下のリンク先にたっぷりと書いてあるようにものすごく細分化されているのですが、
 
www.bourgogne-wines.jp
 
 
 こういうのをワインを飲む前から暗記するのは不可能です。 
 
 まあだからこそ、ボトルのラベルに書かれている情報はできるだけ全部書いてしまったほうが無難かもしれません。フランスワインは、メーカー名も地名も愛称も信じられないほど長ったらしいことが時々ありますが、もうそういうものだと思って諦めて記載してください。
 
 フランスワインのこうした地名の面倒なシステムは、いったん覚えてしまうときわめて体系的にワインを攻略できる利点になるのですが、初心者には厄介きわまりないので、最初のうちはフランスワインを主戦場にしないほうが気楽かもしれません。
 
 

「視覚」「嗅覚」「味覚」を記録しておこう

 
 もちろんラベルだけ記録しては意味がないので、そのワインがどんなワインだったのか、自分がどんな風に飲んだのかも書き記すのが一般的です。
 
 記録の仕方はいろいろですが、まず目で見て色や濁り具合などを確認し(視覚)、次に香りを確認して(嗅覚)、最後に口に運んでゆっくり味を確かめて(味覚)、それぞれを書くのが良いように思います。ワインはしばしば、ボトルを抜栓した直後の香りや味が、しばらくすると違った香りや味に変わってくるので、そういう変化も記録しておくといいように思います。ワインは、抜栓してすぐに衰弱しはじめるものもあれば、抜栓してしばらくパワーアップし続け、数日ぐらいは元気なままのものもあります。最初はあまりおいしくなかったワインも、翌日にはなかなかおいしくなっているかもしれません。あきらめずに付き合いましょう。
 
 
 なお、こうした色々が面倒な人は

app-liv.jp
app-liv.jp
 
 専用アプリを使って記録するという手もあります。スマホで全部済ませたい人は、こういうアプリを導入したほうがいいかもしれません。
 
 

迷ったら「安ワイン道場」へ行け!

 
 で、迷ったらとりあえず安ワイン道場さんへ行って、師範の記録の書き方をよーく読んで真似るといいように思います。たぶん、おすすめのお手頃ワインも見つかるでしょうし。
 
 もちろん安ワイン道場さんがワインの世界のすべてというわけではなく、いつかは自分のワインの好みを知り、自分のワイン観を持つのがいいように思いますが、スタート時点では間違いなくあのサイトは助けになるはずです。
 
 ということで、安ワイン道場さん(のなかのひとの師範さん)、どうかあまり肝臓を痛めないように気を付けながら、これからもたくさんのワイン初心者を導いてください。
 
 www2s.biglobe.ne.jp
 
 

で、あなたは「本当に自分の好きなこと」を知ってるの?

 
いつの間にか「好きなことをしていい」時代から、「好きなことをしないと豊かになれない」時代に変わった。 | Books&Apps
 
 リンク先の文章は、「好きなことをしないと豊かになれない時代」の到来を告げる内容となっている。
 
 ちょっと前まで、「みんな自由に仕事が選べるようになって」「好きな仕事を好きなように」「あなたのライフスタイルにあわせて働く」ことが持て囃されていた時期があったように思う。ひょっとしたら今でも持て囃されているかもしれない。
 
 それは決して短期的な流行ではなく、バブル景気の前、それこそ「フリーター」がブームになっていた頃からそうだった。バブル景気が終わってもなお、「好きな仕事を好きなように」は流行のフレーズで、個人主義社会の正しさにかなったフレーズでもあった。「好きじゃない事をするのは格好悪い」みたいな物言いをする人は、現在でもインターネットにごまんといる。
 
 では、そうやって好きを選んだ人々の末路はどうだったかといえば、たとえばフリーターなどは死屍累々で、生き残ったのは本当に一握りのスーパーマンみたいな人だけだった。
 
 [関連]:結局は9割が大樹に拠った……80年代に「フリーター」を推奨した人々の、その後の人生|日刊サイゾー
 
 
 冒頭リンク先の文章はもっとその先を行っていて、「好きな仕事が良い」ではなく「好きな仕事を見つけて、やらなければならない」という話になっている。やりたくない仕事をやっていては能力が発揮できない。好きな仕事を選んで能力を最大限に発揮させてはじめて、グローバルな社会状況のなかで開花できる、というのはだいたいそのとおりなのだろうと思う。
 
 個人の実存やアイデンティティの問題としてだけでなく、経済的要請から「好きな仕事を選ばなければならない」社会が迫ってきているとしたら、これはもうユートピアというよりディストピアにしか見えないのだが、資本主義にもとづいた個人主義社会が徹底していくこれまでの流れを踏まえるなら、起こってもおかしくなかろうし、現に起こりかけているようにも思う。
 
 こうなると、大学入試や企業の面接試験の際に、「うちの会社(うちの大学)で、あなたはどんなことをしたいですか」という質問も、様式上のものとはいいがたい。自分の好きなことがわかっていて、それが他人を納得させられる程度には言語化・戦略化できているということは、これからの時代、強みたり得るだろう。少なくとも、自分の好きなことがわかっていない人や、自分の好きなことを言語化・戦略化できていない人よりは、強みがあるといえる。
 
 

「本当はみんなわかってないんじゃないの?」

  
 だけど、私は思うのだ。
 
 「でも、世の中の大半の人は『自分の好きな仕事』なんて本当はわかってないんじゃないの?」
 
 たとえば私が中高生だった頃、「自分が将来やりたい仕事」を言語化できている人間はほとんどいなかった。それどころか「自分が好きな遊び」を言語化できる人間すら、あまりいなかったかもしれない。自分の進路の行く先をぼんやりと想像して、目の前にある娯楽をとりあえず楽しむ。学校教師に「将来やりたい仕事」を尋ねられた時、「●●学部に入って××を勉強して、それを生かした仕事に就きたい」などと言ってみるけれども、じゃあ、その学生が●●学部を本当に切望していて、××を本当に勉強したがっているかといったら、そんなことはない。大人が言えというから、無理くりに「自分の好き(仮)」をでっちあげているだけだ。
 
 志を持っている人が入るといわれる医学部でも、それほど状況は違わなかったと思う。学生の多くは、かなり曖昧な動機で医学部に入っていた。もちろん漠然と、社会的地位が欲しい・命を救う仕事に就きたいと語る人はいたけれども、「自分の好きな仕事」にフォーカスが絞れているとはとうてい言えなかった。同期のなかには、後に研究者として頭角を現し、立派に出世した人もいるけれども、じゃあ彼が学生時代から「自分の好きな仕事」をくっきり意識していたかといったら……そんなことはなかったように思う。
 
 社会人になった人々にしても、大半は「自分の好きな仕事」、あるいは「自分の好きな生き方」がわかっていないし、意識もできていないのではないだろうか。
 
 上手く働き、上手く結婚し、上手く子育てしている人ですら、それがしたくて仕方が無かったという人がいったいどれぐらいいるだろう? 都内の優良企業でまともな報酬をもらい、帰宅すれば一人の母として、あるいは父としての役割をそつなくこなし、そこそこ幸せに暮らしている人ですら、それを心底望んで「好きだから」生きてきた人はけして多くないのではないかと思う。ほとんど成り行きで就職し、ほとんど成り行きで与えられた仕事をこなし、気が付いたらなんとなく幸せになっていた(または、不幸になっていた)という人が、世の中の構成員の大多数を占めているのではないか。
 
 

「自分の好き」がオーラになって見える人もいる

 
 他方で、「自分の好きな仕事」がオーラのように立ち昇って見える人というのも、少数、いる。
 
 起業する人。
 コンテンツづくりに携わっている人。
 あと、一部の研究者。
 
 このあたりの職種には、「自分の好きな仕事」を全身からほとばしらせて働いている人が結構いるように思う。その「自分の好きな仕事」のかたちは様々で、「醸造に関係のある仕事がしたい」「SFに関係のある仕事がしたい」といった場合もあれば、「とにかく自分の力でカネをもうけたい」みたいな場合もある。ただ、とにかくそれが好きで好きでたまらなくて、一途に取り組みたいという意欲がオーラとなってメラメラ漂っているから、遠目にもよくわかる。
 
 趣味の世界には、これはもっと多い。
 たとえば同人誌即売会に出て来るオタク、特に自分で何かを作り、頒布したいと思っているようなオタクからは、少なくとも趣味に対するひたむきな「好き」が感じられる。好きで好きでしようがないがゆえにコンテンツを楽しみ、自分なりに咀嚼して、自分の思うようなかたちでその「好き」を他の人と共有したいという強い思いが、同人誌即売会に出てくるオタクからは滲み出ている。
 
 ネットでコンテンツを発表し続けている人にしてもそうだ。「あっこいつどうしようもなく『好き』なんだな」という人は、傍目にも明らかだ。インフルエンサーの猿真似をして、それを「自分の好きな仕事」だと勘違いして、半年後にはやめてしまう人々とは言動の質感がまったく違う。
 
 こうした人々が社会的/経済的に成功するためにはもちろん「好き」だけでは到底駄目で、才能や需要を読む目、セルフマネジメント能力、運、運、それと体力、悪くない実家などが必要だろう。いずれにせよ、「好き」というオーラを漂わせている人が実在しているのは確かで、そうした人々から各方面をリードする人材が輩出されることもあるだろう。
 
 

「自分の好きなこと」は、現れることも、現れないこともある

 
 じゃあ、どうすれば「自分の好きなこと」がオーラとなってくっきり現れるのか?
 
 わからない。
 
 私が見知っている範囲では、「自分の好きなこと」が子ども時代から発露している人は少数のようにみえる。子ども時代に好んでやっていたことが、実は誰かに褒められるためのもので、本当に好きだったのは自分自身だけだった、という人も案外いる。こういう人が大成している例を、私はまだ知らない。
 
 思春期。この段階でもまだ、自分の好きなことがくっきり現れない人は多い。オタクのなかには思春期で十分に開眼し、ネットやイベントで頭角を現し始める人もいるけれども、こと、仕事の分野となると二十代の前半でも「自分の好きなこと」がぜんぜん現れない人は多い。
 
 そして中年期にもなれば、「自分の好きなこと」がくっきり現れた比較的少数の人と、そういったものが現れない比較的多数の人に分かれてしまう。
 
 繁華街で快活に酒を飲みかわすサラリーマンたちにしても、彼らは「自分の好きな仕事」をやっていると言えるだろうか。「自分の仕事も満更ではない」人なら、結構いるんじゃないかと思う。自分自身を仕事のほうへと寄せて、仕事も自分自身の適性や嗜好に引き寄せて、それで「好きとまでは言わないけれど、やり甲斐は感じられる」境遇にたどり着く人はどこの分野にも多い。たぶん、現代社会にうまく適応しているほとんどの男女は、そうやって現実と自分自身との折り合いをつけ、満更ではないアイデンティティを獲得して生きていく。少なくともこれまではそれで構わなかったし、私個人としては、これからもそれで構わない時代が続いて欲しい、と思う。
 
 だがもし、冒頭で安達さんが述べていたように「自分の好きな仕事」を見つけなければならない必然性が高まっていくとしたら、これは、えらいことだと思う。なぜなら、そんな風に「自分の好きな仕事」を見つけられる人は少数派で、なおかつ才能や運やマーケティング能力や実家の太さによってそれを実現できる人はさらに少数だからだ。
 
 「好きなことをしなければ豊かになれない」近未来とは、自分の好きな仕事を(自身の適性も込みで)見つけられ、なおかつそれを実現できるごく少数だけが豊かになれる、そうでない大多数は豊かさから遠ざけられる近未来だと、私は思う。
 
 そういう未来がやってきた時、才能や運やマーケティング能力や実家の太さに優れた人々が「自分の好きな仕事」で大活躍し、残りの大半が「自分の好きな仕事」はおろか、現実と自分自身の折り合いをつけることすら難しい、アイデンティティの獲得も困難な仕事へと追いやられるような世の中になったら……社会は、今よりもずっとたくさんの疎外に覆われることになるだろう。
 
 リンク先の安達さんも、そのような未来がやってきたら、うまく適応できない人もたくさん出て来るだろう、と予測しているが、同感だ。
 
 たいていの人は、そんなに「自分の好きなこと」をきちんとわかっていなくて、なんとなくお金が多いほうへ、なんとなく世間体の良いほうへ、なんとなく楽しそうで苦しくなさそうなほうへと流されて生きている。だから「自分の好きなこと」、まして「自分の好きな仕事」がわかっていなければならない社会なんて、ごく少数を圧倒的に利すると同時に大多数を疎外するに違いないのである──少なくとも私には、そんな風にみえる。
 
 「自分の好き」をそれほど自覚していない・自覚することもできない大半の人々が豊かさから遠ざけられる社会がやって来るとしたら、それは社会の進歩ではなく退歩ではないだろうか。私の価値基準のなかでは、どんなにテクノロジーが進歩しても、どんなに利便性が高まっても、なんとなく生きてなんとなく死ぬ人が疎外に苦しむほかない社会は、良い社会とは言えない。
 
 「あなたの好きな仕事をすればいい」「自由に好きなことをやればいい」という謳い文句は、少なくともある時期まで、たくさんの人々の自由度を高め、たくさんの人々の幸福の幅を広げてきたはずである。
 
 だが、いつまでもそうだろうか。
 
 現実の世の中には、なんとなく生きて現実と折り合いをつけてうまくやっている人がたくさんいる。他人やメディアが提示した生き方やワークスタイルを自分の願望だと思い込むしかない人もたくさんいる。本当に自分の好きなことを、自分自身の適性も踏まえて選び取ってみせられる人間なんてほとんどいない事を糊塗したまま、「あなたの好きな仕事をすればいい」「自由に好きなことをやればいい」とますます吹聴する世間のなかで、本当に私たちは、豊かさというやつにたどり着くことができるのだろうか。
 
 たとえばあなたは、「自分の好きなこと」を知っていますか?
 その「自分の好きなこと」で人生をちゃんとナビゲートしていますか?
 言語化・戦略化し、他人に語ってみせることもできますか?
 
 

『天気の子』が照らした、社会システムの内と外

 ※この文章は『天気の子』のネタバレ内容を含みます。映画館でまだご覧になっていない人はご注意ください。
 

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

 
 新海誠監督の2019年の新作『天気の子』は、賛否があることを承知のうえでつくられた作品と耳にして、とりあえず期待しながら雨の日の映画館に向かった。
 
 なるほど、こういう作品が許せない人はいるに違いない。少なくとも『君の名は。』と比べて賛否のわかれる物語だろう。それだけに、この作品をこういうかたちでリリースしたことに感心した。
 
 意表を突かれた、とも思った。
 あれだけ売れた『君の名は。』の次に、こういう作品をぶつけてくるとは。
 
 なんにしても、『天気の子』を2019年の7月に映画館で見れたのは幸せな巡り合わせだと思ったので、自分の所感を書き残しておく。
 
 

東京のピカピカしていない部分が描かれている

 
 視聴開始数分で気づかされたのは、今回の舞台としての東京は、必ずしもピカピカに描かれていない、ということだった。
 
 行き交う電車やプラットホームを映し出すのはいつものこととして、今回は東京のあまり美しいとは言えない景観――それはどぎついネオンの繁華街だったり、身よりのはっきりしない者を野良犬のように敬遠する人々だったり、ラブホテル街だったりする――をどぎついままに描き出していた。『君の名は。』が東京や飛騨を、少なくとも景観レベルではひたすら美しく描いていたのに対し、『天気の子』は東京のピカピカしていない部分を意識的に描いていたように思う。
 
 だから今作の東京は、観光パンフレットみたいな雰囲気にはなっていない。
 
 では東京の、どぎつく、ときには汚く描かれていた景観は悪いものとして描かれていたのか?
 
 必ずしもそうではない、と思った。
 
 家出少年の帆高が上京してきた時、さしあたって命を繋いだのは、まさに汚く描かれる東京だった。陽菜たちとの逃避行で彼らが一息ついたのもラブホテルだった。
 
 もちろん汚く描かれた東京は、未成年者の彼らを綺麗な手で受け止めるわけではない。ネカフェの店員は嫌々応対していたし、ラブホテルの婆さんは高い料金を取っていた。帆高を受け入れた(中年サイドの主人公ともいえる)須賀にしても、未成年を日当一月3000円でこき使っていたわけで、どぎつく描かれた東京の生態系は容赦がない。
 
 中学生であるとバレて仕事を失い、売春に走りかけていた陽菜を未成年と察しながらあっせんしていた男も、陽菜を助けていたと言えるだろうか。そうではあるまい。
 
 主題歌のひとつも流れない間に、東京のそういった圏域が矢継ぎ早に描かれ、この作品の主人公とヒロインがそうした圏域のきわで生きていることを私は強く意識させられた。いったいこれから何が描かれるのだろう? と思わずにはいられなかった。
 
 
 

彼らは社会システムのなかの邪魔者だった

 
 家出してきた帆高には、まず東京は恐ろしい街・冷たい街としてうつる。
 
 『君の名は。』で美しく描かれた東京、華やいだ街として描かれた東京は、いったい誰にとって美しく住みやすい街だっただろう?
 
 『天気の子』を見ると、どうしてもそれを考えさせられる。
 
 人々の安全を守り、街の景観を守り、健全な青少年の成長を守る東京の社会システムは、社会システムの内側で暮らす者・社会システムの内側で身分を証明されている者のために最適化されている。そこから外れた人間の都合なんて、社会システムは考えてくれない。社会システムの内側で暮らすことが当たり前になっている人々にとって、そこから外れた人間はただ存在するだけでリスクであり、ただ存在するだけで迷惑な存在でもある。
 
 それもわからなくもない。現代社会の利便性や快適さは、高度なテクノロジーだけでなく、人々の遵法意識やリテラシーも含めた、社会システム全般によって成り立っているのだから。もし、社会システムから逸脱した人間がたくさん存在していては、東京のようなメガロポリスはたちまち機能不全になってしまうだろう*1
 
 そして帆高は家出少年として、陽菜は保護者不在で自活する未成年者として、社会システムからはみ出してしまっている。この作品の主人公とヒロインは「逸脱者」なのだ。
 
 この、美しくて快適な東京の秩序のなかでは、明確な犯罪者だけが「逸脱者」なのではない。身元の保証されていない未成年もまた「逸脱者」である。
 
 帆高に手をさしのべた須賀にしても、そうした社会システム全体のなかでは、相対的に「逸脱者」に近い、うさんくさい仕事をしている大人だった。須賀が未成年を低賃金で働かせることができたのは、彼の意識も職場も社会システムの中枢*2からは遠い、辺縁的なものだったからだ――そう解釈するなら、須賀のような男のもとで帆高が住み込むことにも整合性が生まれるように思う。
 
 陽菜たちが始めたお天気サービスにしても、それが成功裡に進んだのは社会システムの辺縁(フリーマーケットや家族のため)に位置づけられているうちだけで、テレビという、社会システムの中枢に映ってしまえばその力は失われてしまう。作中では、テレビに映ったから帆高と陽菜が「自主的に」サービスを止めたことになっているが、もともと「逸脱者」やうさんくさい仕事の領域には、社会システムの中枢に映ってしまうと力を失うものも多い。
 
 たとえば『ムー』のようなオカルト雑誌にしても、それが社会システムの辺縁にあるから存在を許され、『ムー』としてのプレゼンスを保っていられるのであって、『ムー』が社会システムの中枢に移動してしまえばプレゼンスを保てなくなり、存在じたいも許されなくなる。
 
 物語の後半、帆高は警察に追われることとなり、須賀のもとにも警察官が訪れる。須賀はここで、事務所から出て行くよう帆高に告げるが、はたして、あの時須賀が口にした「大人になれ」という言葉は誰に対してのものだったのだろう? ともあれあのシーンは、須賀という人物がどの程度社会システムから逸脱していて、どの程度社会システムの内枠におさまっているのかをわかりやすく説明していたと思う。多少の逸脱があるとはいえ、須賀もまた、東京という社会システムのメンバーには違いないのである。
 
 『天気の子』という作品の後半では、帆高は陽菜を取り戻すためにますます逸脱を余儀なくされ、最終的に須賀と夏美は、ためらいはあったにせよ、それに手を貸すことになる。社会システムの遵守という視点からみると、須賀と夏美がやったことは逸脱に違いなく、この作品の後半は、そうした逸脱によって支えられていたことになる。
 
 ここまでブログに書いてから『天気の子』の劇場パンフレットを読んでみると、はたして、以下のような新海誠監督のコメントが記されていた。
 

 悩みに悩んで最後に思い至ったのは、狂っていくのは須賀ではなく、帆高なんじゃないかということ。客観的に見て、おかしなことをしているのは実は帆高のほうなんじゃないか。それに帆高と須賀を対立させるとなると、須賀も空の上の世界を信じてなければいけないことになってしまう。でもそれはどうも違う。なぜなら、須賀はアウトローだけど観客の代弁者でもあるからです。須賀はむしろ常識人で、世間や観客の代弁者でもあって、社会常識に則って帆高を止めようとはするけれど、最後はやっぱり味方なんだということにしたんです。帆高と真に対立する価値観があるんだとしたら、それは社会の常識や最大多数の幸福なんじゃないか。結局この物語は、帆高と社会全体が対立する話なのではないか、それに気付けたことが、今回の物語制作でのいちばんのブレイクスルーだった気がします。

 
 この作品のなかで、帆高は徹頭徹尾社会システムの外側にいて、疎外されていて、そんな帆高に手をさしのべられた大人は、社会システムの辺縁に位置し、いくらか逸脱気味な須賀だった。現代の社会システムは、そのリスク管理の思想からいっても、最大多数の幸福に寄与するようにつくられている。陽菜のために逸脱を辞さない帆高はともかく、須賀には逸脱に対するためらいがあった。観客の代弁者という役回りの須賀がそのようにためらい、最後の最後に帆高の味方をしたのは、私にはカタルシスのある視聴体験だった。
 
 だが、私は想像せずにはいられない。
 
 私にはカタルシスの感じられる須賀の行動を、許しがたく感じる人や苛立たしく感じる人がいるであろうことを。なにしろそれは社会システムの秩序からの逸脱、それも、未成年の逸脱を助長する逸脱なのである。社会システムの中枢付近に住み、その価値観を私よりもずっと内面化している人々には、こうした描写は受け入れがたいものではないだろうか――どぎつく汚い東京の景観や、社会システムの辺縁に住まう人々の描写とともに。
 
 
 

異常気象・逸脱者・リスク管理

 
 帆高や陽菜といった社会システムからの逸脱者たちとおそらく対応するように、『天気の子』では天気が「異常気象」としてたびたび描かれる。
 
 気象神社の神主が述べていたように、天気とは、本来人間の手に負えるものではなかった。けっして人間の社会システムによって管理できる代物ではなかったはずである。
 
 だが科学技術が発達し、天気予報を日常の一部とすることで、私達は天気を飼い慣らした……かのように感じている。人類はいまだ天気を自由にコントロールするすべを持っていないが、天気予報というテクノロジーにより、天気というリスクを、管理することはできるようになった。
 
 あたかも、突発的な犯罪事件の発生じたいはコントロールできなくとも、統計的に犯罪発生率を計算・分析し、犯罪発生リスクを管理することができるのと同じように。
 
 現代の社会システムは、こうしたリスク管理というテクノロジー(と思想)に多くのことを依っている。ひとつひとつの突発的事件・突発的災害じたいは、リスク管理のテクノロジーで防ぐことはできない。しかしリスク管理をとおしてその発生確率を抑えたり被害の程度を軽くしたりすることはできる。このテクノロジーの視座からみれば、天気はもう、人類の掌中にあるかのようにみえる。
 
 だが「異常気象」はそこからの逸脱だ。統計的な計算や分析をこえた現象に直面した時、リスク管理のテクノロジーはそれほど上手く機能することができない。そして気象神社の神主が述べたとおり、天気についてのデータはたかだか百年ちょっとしか蓄積していないのである。「異常気象」は狂った天気というけれども、それは、社会システムが既知のデータに基づいて天気のリスクを管理しようとする時に思いつく発想ではないか。
 
 
 ほんらい、天気は人智を超えている。
 少なくとも日本という東アジアの国ではそう考えられていた。
 
 人智を超えた天気をリスク管理しようとするから、安全で快適な社会システムの枠組みのなかで天気を扱おうとするから、「狂った天気」とか「異常気象」といった発想が生まれてくる。
 
 だから、ここでも『天気の子』は既存の社会システムとは相容れないメッセージを放っているように、私には読めた。いや、相容れないメッセージと言っては語弊があるか。帆高や陽菜だけでなく、あの異常気象もまた、社会システムからの逸脱であり、そうした逸脱を織り込み済みで描かれる『天気の子』の結末は、現代社会で支配的な常識や思想とは異なる着地点に辿り着いているのではないか。
 
 
 

単なるラブロマンスでは済まされない結末

 
 もちろんこの『天気の子』も若い男女の物語で、それはそれで美しく描かれていた。この作品はラブロマンスではない、などと言ってしまったらそれはおかしいだろう。『天気の子』の構成要素として、愛だの恋だのの占めるウエイトはけして小さくはなく、RADWIMPSによるエンディングテーマは似つかわしいものだった。
 
 ハッピーエンド、でもあっただろう。
 
 それでも私は、そのラブロマンスの舞台装置のうちに、どうしても社会システムを意識せずにはいられなかった。社会システムの内と外を『天気の子』が描いているように見てしまった。そして物語は終始、社会システムの辺縁で進行し、最後は社会システムと真っ向から対立するような結末が待っていた。まさか、新海誠監督の2019年の新作で社会システムについて連想させられるとは思っていなかったから、私はとてもびっくりした。
 
 断っておくが、だからといって『天気の子』が社会システムを批判したり断罪したりしている、とは私は思わない。
 
 『天気の子』では、豪雨災害に立ち向かう人々の姿や、雨天でも動き続ける交通網も描かれていた。もちろん、社会システムの叡知の象徴である高層ビル群も。水没に瀕した東京で帆高と陽菜が再会できたのも、社会システムがタフに生きながらえていたからにほかならない。
 
 清濁あわさった東京の風景にしても、どれだけシステムの中枢/辺縁に位置するのかはさておき、現代人はシステムに依存せずに生きることなどできっこないのである。
 
 他方で、世界は社会システムの杓子定規どおりにできているわけでない。社会システムから逸脱した圏域にも物語は存在し、逸脱と秩序の隙間にも豊かさはあったはずだし、狂っていると人々が呼び倣っているものも含めて世界は成り立っているはずで、それでも私達は、きっと大丈夫なのである。
 
 これが『天気の子』の模範的な感想とは思えない。が、とにかく私は本作の初見で社会システムの内と外を強く意識させられたので、そのことを覚えておきたいと思った。このようなテイストを2019年の新作に新海誠監督が繰り出してきたことはよく覚えておきたいし、うまく言えないけれども、私は喜んでおきたいと思う。
 
  
 『天気の子』がたくさんの人に見ていただけたらいいなと思う。
 
 
 [関連、その方面の人はこれは目を通しておいたほうがいいと思う]:【ややネタバレ注意】「天気の子」を見てゼロ年代エロゲについて語りだす人々 - Togetter
 [もっとまともな感想]:『天気の子』は何を描いたのか。新海誠監督の決断が予想以上に凄かった理由(作品解説・レビュー) – ウェブランサー

 
 

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*1:後半、運休状態になっている線路をひた走る帆高に投げかけられていた視線や言葉も、それをよく表していた。東京に住まう人々は、社会システムに適合した超自我を内面化していて、そういった行動を良くないものとしてみると同時に、そうした行動を自分自身が取った場合は罪悪感をおぼえることだろう。社会システムから逸脱した行動をとる人間に対する目線の厳しさは、少数の逸脱によって生活が簡単に機能不全に陥りかねない東京のような街に住む人間にとって、それほど不思議なものではない

*2:たとえば丸の内の一部上場企業に勤めるホワイトカラー層や官僚などは、社会システムの中枢に近い意識と就労形態を持っているといえる