シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

いつも見聞きしているアカウントが消えてしまった事について/はてな村の隣人がまた一人減った…。

 
 本日、『なんかねー、ブログ消した。』から始まる以下の文章をはてな匿名ダイアリーで見かけた。
 
 http://anond.hatelabo.jp/20120616105328
 
 上記が投稿されたのとほぼ時を同じくして、はてなid:nakamurabashiさんのblog『G.A.W.』の記事が読めなくなり、同一アカウントのミニblog等も読めなくなった。このことと文体その他から察するに、匿名ダイアリーの文章はid:nakamurabashiさんのそれだと私は断定した。
 
 『G.A.W.』といえば、はてなダイアリー界隈――あるいは、はてな村界隈と言っても良いかもしれない――では著名なblogだった。著名なblogだったと思う。コンビニエンスストア関連の記事で不特定多数の注目を集める一方で、エロゲーについての感想やインターネット上での体験談など、ややマニアックではあっても読む人によっては記憶に残るような、そういう文章をblogに残すことを躊躇わない人だった。それらの文章の端々には、往年のテキストサイト時代と共通する、ある種の“芸”根性が垣間見えることもあったけれども、その点も含めて「ああ、この人はこういう人なんだなぁ」という一個人の、色々な側面を見せてくれるアカウントだったと思う。
 
 ブロガーというのは、タレントや芸人や有識者ではない。だからblogを書く者・ブロガーは、キャラになっても良いけれどもキャラにならない自由もある。キャラを引き受け、コンテンツとしての方向性を固定化すれば、そのキャラとコンテンツを期待するお客さんを定期的に集めるには向いているだろう。時々、ブログのアクセスアップ論の類で「ブログのテーマを決めなさい」とか「ブログで書くことを決めなさい」的なアドバイスを見かけるが、よりたくさんのPVを獲得する手段としては、それが良いのかもしれない。
 
 その代わり、自分のアカウントのキャラを固定化し、自分のブログとアカウントをコンテンツとして特化させてしまった人は、そのキャラを維持し、これと決めたコンテンツを維持しなければならない。例えば「コンビニでの体験談や経営論」でキャラ立てしてしまった人は、他のことを書く自由を失い、「現代の社会分析」をコンテンツとして提供することを決めた人も、それに関連した事項以外は書けなくなってしまうだろう。いや、実際には自由に書いたって何にも差し支えない筈なのだ。プロの物書きでは無いのだから、何を書いたって構わないし、PVだの知名度だのはカタツムリの殻が何回転なのか程度の意味しか無い。けれども大量のPV・大量の被ブックマーク・大量の被言及に曝されれば「大量の不特定多数にまなざされる自分」について色々なことを考えさせられずにはいられないし、気にし始めると、そういうわけのわからないものに多かれ少なかれ束縛されることになる。
 
 nakamurabashiさんの『G.A.W.』というblogのスタンスからは、そういった束縛を嫌う、「これは俺のブログで俺のインターネットなんだ。俺は俺の好きなことを書きたいんであって、他人のまなざしとは無関係に何でも書きたいんだ」という、ブロガーがブロガーであり、ブロガー以外の何かではないための必要条件の気配が漂っていた、と私は思う。twitterでの投稿についてもそうで、氏のtwitterアカウントは色々なものを垂れ流すままになっていて、キャラだのコンテンツだのに束縛される度合いはかなり低いように見えた。キャラやコンテンツといった、個人に属する一面だけを拡大鏡にかけるような書き手ではなく、自分という多面体の、できるだけ多くの面を書き記すことを尊ぶ、アマチュアの自由を愛してやまない書き手としてのnakamurabashiさん――そんな風に私は彼のことを眺めていたし、私は、彼のブロガー根性を貴重なものと思っていた。
 
 尤も、ブロガー根性などと言えば聞こえが良いが、見方を変えれば、プロの書き手のような徹底を欠いているということだし、キャラやコンテンツと心中する覚悟が出来ていないとも言い換えられる。売り物という尺度から見れば、ブロガー根性など“百害あって一利なし”だろう――人間なんぞ見たくない、みたいキャラ・みたいコンテンツだけを見ていたいという昨今のネット上のニーズを考えるにつけても――。
 
 けれども、個人が可能な限り個人のままとしてテキストを書き連ねること・個人がキャラ化・コンテンツ化することに伴うまなざしの猛毒を回避することを思えば、ブロガー根性というスタンス、あるいはネット処世術はあながち悪いものでもないと思うし、ブログにしか出来ない・ブログになら出来る事と、このブロガー根性とは不可分なんじゃないかなとも思う。私のこの『シロクマの屑籠』も、そのようなブロガー根性を捨てることなく続けたいと思う。以前ここで書いたように、私もブロガーとしては幾分堕落してしまったかもしれないけれども、それでもブロガー根性的な・キャラやコンテンツに束縛されることのない、自分という多面体を嘔吐する場としてのブログを捨てたくないと思うし、それを捨ててしまったら、後になって一体何のためにブログなる個人媒体に執着していたのか、わからなくなってしまうだろうとも予測する。
 
 しかし実際には、そんなブロガー根性を持っていたと推定されるnakamurabashiさんのアカウントさえ消えた。何故か?本当の理由はわからないが、nakamurabashiさんが定期的にアカウントをリセットする習性を持っていた人らしい事を踏まえて推測するなら、「キャラ」や「コンテンツ」の呪いがアカウントに纏わり付いて、だんだん自由なブログライフ・インターネットライフがとりにくくなってきたからというのも、理由の一端にあるのかなと思う。実際、リンク先の匿名ダイアリー記事にも、こんなくだりがある。
 

たとえば俺がIDなりアカウントなりブログ名なり名乗ったら「まあ聞いたことある」程度の人って、たぶん万単位は確実に行くんじゃねえのかな。俺はあんまそういうの気にしないほうっていう建前だったし、実際、ネット上での活動の大部分は、引きこもった場所でやってたんだよね。
最近はわずか数人の人たちだけ相手に、死ぬほど長文の日記書いてたしさ(まあ、あれが直接の理由)。
でもそういう場所でだって、背後に「あの」っていう権威は背負ってて、そんで俺、自分にそれを許容してなかったかっていったら、それは絶対ないわけ。心のどこかには「俺がなんか書けば人呼べる」みたいなのあって、それもひっくるめて、もう呪わしくてたまらないものになった。

http://anond.hatelabo.jp/20120616105328

 もし、引きこもった場所でのコミュニケーションでさえ「あの『G.A.W.』の」というキャラなりコンテンツなりの呪いを蒙っていたとしたら、一個人として友誼を結んでいくにあたって鬱陶しい重荷と感じられたことだろう。また、openなインターネットの活動に際しても、キャラやコンテンツの呪いはそれなり足枷として感じ取っていらっしゃったかもしれない。私は、そのようなキャラ・コンテンツの呪いを鬱陶しく感じる感性を良いものと思う。けれども、今日日のインターネットにおいて、キャラ・コンテンツの呪いを鬱陶しく感じる感性は、アカウントの維持にとって命取りとなるかもしれない。
 
 今日日のインターネットでは、ブログ根性とは対極的な・キャラやコンテンツを進んで受け容れるような人も珍しく無い。ブログどころか、twitterのようなフィールドでさえも、やたらキャラ立ちだのセルフブランディングだのを意識しているような人を見かけることもある。けれども、そうやってキャラやコンテンツを引き受けていくこと・PVだの被フォロワー数だのを意識していくことは、本当に幸福なネットライフに通じる道なのだろうか?;nakamurabshiさんとそのblog『G.A.W.』の消失を目の当たりにして、そういう事を改めて考えさせられた。
 
 

はてな村の明かりが、またひとつ消えた…。

 
 それはさておき、はてなダイアリー(d.hatena)の一ユーザーとしての感想を述べるなら、これはd.hatenaに所属する興味深いブロガーがまた一人消失した事を意味する。いわゆる“はてな村的なるもの”の灯火がまたひとつ消えた、というわけだ。かつて、著名人も書き連ねたというはてなダイアリー。id:fromdusktildawnさんやid:y_arim(有村悠)さんといった個性的なキャラクターが話題を提供してやまなかったはてなダイアリー。けれども人が一人また一人去って行くことに、寂寥の念は拭えない。最近はHatena Blogなる新サービスが始まったことも相まって、いよいよもって、はてなダイアリーと“はてな村的なるもの”は過疎化の進んだ山村のような様相を呈しつつある。一応、『とある青二才の斜方前進』『斜め上から目線』といった、きわめてはてな村的で、その名のとおり斜め上をゆく新進気鋭のブログが無いこともないけれども、全体としては、d.hatenaを巡る一連のコミュニティは寂寥感をもって語られるものになりつつあるように見える。
 
 しかし、私は、この“はてな村的なるもの”にそれなり愛着を感じているし*1、(株)はてなが、はてなダイアリーやはてなブックマークを通して形成した緩やかなコミュニティには、それなり存在意義もあったんじゃないかと最近思いはじめるようになった。だから私は、d.hatenaに残された者の一人として、皆がはてな村に帰って来れるよう、村の灯火を守り続けていこうかな、などと思う。みんな、好きなところに行って好きなネットライフを過ごせばいいと思うけれども、盆と正月と彼岸にははてな村に帰っておいで。そして、逝ってしまった人達にお線香を供えながら、牡丹餅やお萩を頬張ろう;愚にもつかないことかもしれないが、ゴーストがそうしろと囁く限りにおいて、当面はそうしてみたいと思う。
 
 

*1:一時期は疎ましく思っていたけれども。