シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

楽天ワインショップを5つお勧めしてみる

 
 急に春めいてきてワインが恋しくなってきたので、この一年間、特に気に入っていた楽天ワインショップを5つ推薦してみます。
 
 

1.ヴェリタス

 
www.rakuten.ne.jp
 
 

便利なところ:
・お手頃な送料無料セットが結構ある
・高級ワイン系にもお買い得が紛れている
・安いシャンパン・スパークリングワインが揃う

 
 このワインショップは幅広い価格帯のワインを取り揃えていて、送料無料セットにはお手頃セットがいろいろあります。ですが、なんといっても安いシャンパンとスパークリングワインを取り揃えているところが目を惹きます。最近はシャンパンの値段が右肩上がりなので、2000円前後でシャンパンを買うならここ以外はほとんどあり得ないように思います。
 
 また、このお店はときどき高級ワイン系に結構なお買い得品が紛れ込んでいることがあり、たちまち売れてしまいますが、狙ってみると面白いかもしれません。
 
 
このお店のおすすめワイン
 
ポワルヴェール ジャック シャンパーニュ ブリュット
 いわゆる安シャンパン。とはいえ、いまどきシャンパンがこの価格で買えるのは驚異的。
 
 フィズ・フィズ・フィズ カヴァ ブリュット
 こちらはスペイン産のスパークリングワイン。1000円切っている価格帯でこのクオリティは頑張っている部類だと思います。
 
 

2.酒倉庫MASHIMO

 
www.rakuten.ne.jp
 
 

便利なところ:
・ワインはまんべんなく充実している
・PC版のサイトはワイン初心者向け
・イスラエルワインの良いやつを安く売っている

 
 まんべんなくワインを扱っている、隙らしい隙があまり見当たらないワインショップです。フランスワインやイタリアワインもしっかりしていて、安いものから高級品まで一通り揃ってます。コスパ的に信じられないクオリティのイスラエルワイン『ゴランハイツワイナリー ヤルデン』を安く購入できるお店のひとつなので、リピート買いさせてもらっています。
 
 あと、PC版のウェブサイトは初心者がワインを買うには向いていて、誘導先の内容も良心的な部類ではないかと思います。2019年3月現在、スマホ版のページではこのメリットは得られないので、ワイン初心者の人はPC版のページにアクセスして、人気ワインやオススメワインを選んでみるといいかもしれません。
 
 
このお店のおすすめワイン:
 
ゴラン ハイツ ワイナリー ヤルデン シャルドネ
 価格を考えたら驚異的なシャルドネ。濃すぎず、風味豊かで、バランスがとてもいいです。我が家のリピートワインナンバーワン。
 
カビッキオーリ ランブルスコ ロッソ グラスパロッサ アマービレ
 甘口系の発泡赤ワインの頂点はこれです。これだけ知っていれば十分。ワインが苦手な人も大丈夫。花見の友。
 
 

3.ワインショップウメムラ

 
www.rakuten.ne.jp
 
 

便利なところ:
・2万円~のお店にお任せセットが結構面白い
・ブルゴーニュワインがたくさんある
・高級ワインを割と安心して買える

 
 かつては高級ワインしか売ってなくて使いにくいお店でしたが、最近はお手頃ワインも取り揃えるようになり、ハイローミックスなまとめ買いがしやすくなりました。高級ワインを買う時に頼りにしているお店のひとつで、今のところ、ひどい保存状態だったと推測されるワインをここで掴まされた経験はありません。
 
 高級ワインもいいですが、値段の手頃なブルゴーニュワインを扱ってくれているのは嬉しいところ。あと、2万円~のお任せセットは「自分じゃ選びそうにないワイン」を面白く入れてくれるので、つい好みのワインばかり買ってしまう人には勉強になるかもしれません。
 
 
このお店のおすすめワイン:
 
ジョセフ・ドルーアン ピノ・ノワール
 お手頃価格のブルゴーニュワイン。花見の料理を蹴散らすような野蛮なワインではなく、それでいて雑に取り扱っても構わない感じなので適当に。
 
ジョセフ・ドルーアン シャルドネ
 同じメーカーの白ワインも気軽に呑め、かつ野蛮ではないワインなので、野蛮ではないお花見のお供に。
 
 

4.タカムラワインハウス

 
www.rakuten.ne.jp
 
 

便利なところ:
・お手頃チリワイン「コノスル」を買うならここ!
・セットワイン品を買い求めやすい
・イタリアパスタのディチェコが安く買える

 
 このお店の良いところは、なんといってもコノスルのレパートリーが良いこと。チリワインのコスパ常連ワイン「コノスル」がびっくりするほど何でも揃っています。「コノスル」だけがチリワインというわけではありませんが、それでも、このお店で「コノスル」の廉価版~高級品までほ品比べしてみると、ワインのクオリティの違いやぶどう品種の違いについて考えさせられるでしょう。
 
 あと、このお店はセットワインに初心者おすすめっぽいのが結構あるのと、イタリア産パスタの「ディチェコ」を安く売っているのも素晴らしい。もくもくとした滋味深いパスタがお好みなら、ここでまとめ買いがいいんじゃないでしょうか。
 
 
このお店のおすすめワイン:
 
コノスル カベルネソーヴィニヨン オーガニック
 これに限らず、このお店はコノスルの品揃えがパーフェクトなので、好きなものを好きなように買いましょう。送料無料セットも便利です。
 
ディチェコ No.10 フェデリーニ
 ディチェコのパスタを安く買えるので、ワインのついでにどうぞ。
 
 

5.トスカニー

 
www.rakuten.co.jp
 
 

便利なところ:
・6本以上で送料無料 ※クール便代別
・イタリアワインがとにかく強い
・意外にフランスワインもある
・パスタやイタリア食材をたくさん扱っている

 今回のお勧めナンバーワンはこちら。
 
 イタリアワインの品揃え豊かなワインショップは楽天にたくさんありますが、個人的にはここの品揃えを一番あてにしています。イタリア国内の、ちょっとマイナーな産地のワインを漁るならここの右に出る店は無いのではないでしょうか。とはいえ、イタリアワインしか売っていないわけでもなく、フランスワインで意外なお買い得品を見かけて不意を打たれることがあります。
 
 あと、ここはパスタをはじめとするイタリア産品をたくさん扱っています。2019年3月現在、「ディチェコ」は扱っていませんが、ツルツルした食感の「ディヴェッラ」もなかなかです。
 
 このお店のおすすめワイン:
 
アッレグリーニ ヴァルポリチェッラ スペリオーレ
 飲みやすくて香りも豊かな、親しみやすいイタリア赤ワインです。これも花見やピクニック向き。
 
ディヴェッラ No.9 スパゲッティーニ
 でもって、ツルツル系パスタ。ディチェコと両方買い揃えると楽しい。ワインまとめ買いのお供に。
 
 

行楽のお供にどうぞ

 
 今回おすすめしたワインは、どれも気難しいやつではなく、割と人を選ばない部類なので、行楽シーズンのお供には向いていると思われます。ただし、シャンパンやスパークリングワインを花見に持ち込む際には吹きこぼれにご注意ください。振動や温度上昇によって、シャンパンやスパークリングワインは吹きこぼれやすくなるので、抜栓する時はそのつもりでやりましょう。
 
 他にもご紹介しがいのある楽天ワインショップはいろいろありますが、最近お世話になっている5店を紹介しました。
 
 ※ワインは20歳以上になってから。
 ※節度のある飲み方のできない人は飲むべきではありません。節度を守って。
 ※高級ワインを買う場合は必ずクール宅急便を利用しましょう。
 

今の若者が成長に必死なのは仕方ないと思う

 
最近の若い人たちが成長することに必死すぎる。 - Everything you've ever Dreamed
 
 リンク先、拝見しました。
 
 私も、最近の若い人を見ていて成長に余念がないというか、成長とかスキルアップにまっすぐな人が多いなぁと感じています。
 
 成長やスキルアップに真っ直ぐというより、「ボヤボヤっとしている」若い衆をあまり見かけないと言うべきでしょうか。学歴のいかんにかかわらず、成長します! レベルアップします! みたいな価値観に根差した言動が目立つといいますか。キャリアアップ志向でない人でも、結局、自分が大事にしている分野では精力的かつ効率的に自己開発しているというか。
 
 あと、再就労を目指している若い患者さんの言動を聴いていても、成長します!スキルアップします!みたいな物言いを結構耳にして驚いたりします。10~15年ほど前は、そうでもなかったのですが*1。精神科医を相手取っている時にも 成長します! スキルアップします! みたいな物言いになるってのはどういうことだろう? と考えさせられます。
 
 最近の若い人たちが成長に必死っぽく“みえる”理由について考えると、幾つか、背景として思いつくものはあります。
 
 
1.成長に必死にならなければ生きていけない
 
 まあその、バブル景気以前の世界観を知っている私やフミコフミオさんの世代からみると、今の若い世代の生きざまが必死にみえる、という部分はあるかもしれません。
 
 いわゆる「ロスジェネ世代」は90年代半ば~00年代にかけて、就労その他で大変な思いをしました。「生き残ったロスジェネ世代」とは、書くのもおどろおどろしい文字列ですね。
 
 そうはいっても、私たちの世代は大学生になるぐらいまではおっとりとした世界観のなかで生きてきたし、バブル景気が崩壊してもしばらくは過去の世界観を引きずっていたわけですから、今の若い世代とは世界観がそもそも違うのではないでしょうか。
 
 「サバイブしないと生きていけない」的な言説を小さい頃から耳にしてきた90年代生まれと、そういった言説に大学卒業してから出会った70年代生まれでは、見える景色も、住んでいる世界も違う気がするのです。
 
 たとえばの話、小中学生なんかを見ていても、昭和時代の子どもって、もっとおっとりしていたように思えます。それに比べると、平成末期の子どもは全体的に効率的・合理的に行動しているようにみえます。勉強にしても、遊ぶにしても、休むにしても、どうしてこんなに合目的的にできるんだろう? と思ってしまいます。効率的・合理的な行動をしなければならない社会圧が高いのでしょうか。
 
 そうした社会圧の高さも含めて、ready to growth な人間でなければならない必要性や、効率的な人間でなければならない必要性が高くなっているのだとしたら。それを羨ましがるべきなのか、憐れむべきなのか、私にはわかりません。
 
 
2.成長に必死なフリをしなければならない
 
 でもって、もうひとつ。
 
 本当は成長やレベルアップに必死になりたくなくても、周りの空気や同調圧力に強いられて成長に必死なフリをしている人も、いるんじゃないのかなぁ……と私は疑っています。
 
 今の学生さんや新社会人さんは、昔の学生や新社会人に比べて色々な場面で「成長やレベルアップにがんばる自分」を演じてみせるよう、求められているように思います。
 
 AO入試が制度化され、就活でもそういった姿勢を求めてやまない現代社会は、若い世代に「成長やレベルアップにがんばる自分」を自己演出するよう、要求しているようにみえます。「社会はそういう人材を求めている」というメッセージを人生の節目節目に押し付けられれば、世代全体として、そのような仕草を身に付けるのは自然なことでしょう。まして、若くて感受性の豊かな時期にそのようなメッセージを押し付けられるわけですから。
 
 そういう意味では、いまどきの成長志向の何割かは制度や慣習によってつくられた産物、と考えられます。
 
 でもって「成長やレベルアップにがんばる自分」って雰囲気が社会に蔓延すればするほど、表向きのポーズとして「成長やレベルアップにがんばりたくない自分」をカミングアウトするのは難しくなってしまいます。
 
 仕事に限った話ではありません。趣味や男女交際やSNSのフォロワー数も含め、前向きで、成長やレベルアップを良いこととする雰囲気のなかで暮らしていると、そうでない自分をカミングアウトしにくい場面がそれなり出てくるかと思います。少なくとも、周りの空気とか同調圧力とかが気になる人にとってはそうでしょうし、職場の先輩や上司に対しては尚更でしょう。
 
 あるいは、そういうカミングアウトをやってのける勇気の無い人がはてな匿名ダイアリーやtwitterの裏垢で愚痴っていることはあるかもしれません。また、「スローな生活志向」という反動もそれなり見受けられますし*2。それでも、社会的体裁として、成長やレベルアップにがんばる自分をみせる必要性がここまで知られてしまっている影響はぬぐえないように思います。
 
 
3.成長で必死になっている人が目に付きやすい
 
 みっつめ。
 
 「成長に必死になっている人は目立ちやすい」ってのもあるかもしれません。積極的に他人に声をかける・自己演出してプレゼンテーションする人は目立つものです。いまどき、成長やレベルアップを孤独にコツコツとやるなんて流行とは思えません。実際、成長やレベルアップのたぐいを効率的にやり遂げたいなら、それにふさわしいフィールドやパートナーや組織にリーチしなければならないわけで、リーチするためには声をあげなければならないし、自分がどういう人間で、何を望んでいるのかをプレゼンテーションしなければなりません。
 
 成長戦略やレベルアップ戦略に「自分を売り込む」という要素が加われば、声のデカい雌鶏や雄鶏が爆誕せずにはいられないし、実際、そういう騒々しい社会情況になっているのではないでしょうか。
 
 逆に言うと、いまどきは成長やレベルアップにがんばる姿勢をプレゼンテーションできない人間は、どんどん目立ちにくくなって、不可視になりやすいんじゃないでしょうか。
 
 みんながそれなり成長やレベルアップに開かれていて、自己プレゼンテーションしている状況では、相対的に、そうでない人間は目立たなくなっていきます。成長やレベルアップに後ろ向きで、非効率で、自己プレゼンテーションの不得手な若者が、それでもポジションを獲得できる余地はどれぐらいあるのでしょうか?
 
 こういう世相のなかで「だるい」「がんばらない」的なポリシーを貫き、それでいて社会競走にキャッチアップできる若者というのはよほどの切れ者と言わざるを得ません。そうでない大半は、そのまま目立たなくなり、せいぜい、はてな匿名ダイアリーやtwitterの裏垢を安住の地とせざるを得ないようにも思えるのです。
 
 

資本主義的主体として訓練されてはいても、若者は若者

 
 なので、いまどきの若い人々の過剰成長志向や過剰レベルアップ志向は仕方のないことではないかと私は思っています。コスパ志向、効率志向も同様です。その内実が、資本主義的主体として幼少期から訓練されまくった結果だとしても、今の世の中で資本主義的主体として訓練されていることは、訓練されていないよりは収入面でも繁殖面でも有利には違いないでしょうし。
 
 ただ、フミコフミオさんが指摘されたように、成長やレベルアップとは、本来、もっとわかりにくいもので因縁めいたものであろうと私は思いますし、目に見えやすく、他人に披露しやすいタイプの成長やレベルアップに偏ってしまうのは、あまり上手くない適応戦略ではないかと思います。
 
 「理解可能な成長やレベルアップにリソースを全振りしていく、それが効率的な成長だ」みたいな考え方をしていると、足元をすくわれると思うんですよ。オンラインゲームのようにあらゆるファクターが数値化・可視化されているならいざ知らず、自分も他人もはっきりと見えない娑婆世界では、そういう効率厨的な発想は危険であり、傲慢でもあります。
 
 たぶん、中年になっているフミコフミオさんにはそれがよく見えるから、若者の、良く言えば真っ直ぐな、悪くいえば傲慢な成長ストラテジーが気にかかるのではないかと推察しました。
 
 他方で、若者ってのは多少傲慢で猪突猛進な時期があっても良いようにも思えます。再起不能にならない範囲で、成長やレベルアップに向かって愚直に突き進む時期も必要でしょう。そういうのって、へたな知恵をつけてしまった中年には困難ですからね。
 
 あるいはフミコフミオさんは、そういう若者の真っ直ぐさ妬いていらっしゃいますか?
 私は、ちょっとだけ妬いています。
 でも、私にもそういう時期があったのだから、順番だよね、と思うことにしています。
 
 ともあれ若者がビカビカと輝きながら疾走する姿というのは良いものですよね。時代が変わっても価値観が変わっても、その輝き自体は変わらないと信じたいものです。
 
 飽きてきたのでこのへんで。
 
 [関連]:テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠
 
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

*1:ここは、「同世代の精神科医には本音が言えても年上の精神科医には本音が言えなくなった」、みたいな私自身の加齢による影響も考慮しなければならない点ですが

*2:でも、いまどきの若い方のスローライフプレゼンスというのは、いかにもプレゼンスといいますか、怠惰の産物のようにはみえません。スローライフであることに対して効率的・合理的であるといいますか。

ゲーム解説者が求められる今と、「解説君」が嫌われていた昔

 
 【バーチャ2】本当にハイレベルな戦いは、戦いを経験した人にしかわからない│けんすう

 
 けんすうさんの書く文章は、twitterでもnoteでも洗練されていて、雑味がない。食べ物にたとえるなら「更科そば」というか。いつも抵抗感なく読める。
 
 で、そのけんすうさんが、バーチャファイター2の記事、それも、やり込んだ人にしか内容がわからない記事を書いておられるのを見て、びっくりするやら感心するやら、なんだか嬉しい気持ちになった。で、ゲームばかりやっていた頃のことを少し思い出したので、昔話がてら、書いてみる。
 
 

いまどきは「ゲーム解説者」が求められている

 
 このけんすうさんの記事には、はてなブックマーク上でたくさんのコメントが集まっている
 
 対戦格闘ゲームでも他のゲームジャンルでもそうだが、ゲームのハイレベルなプレイは、見る側自身がハイレベルでなければ理解しにくい。それがeスポーツの問題点(のひとつ)であり、プレイヤーのハイレベルさが見栄えの良さに繋がるようなデザインが求められている、というのはそのとおりだと思う。
 
 また、ハイレベルなプレイの凄さを、ゲームをやり込んでいない人にも紹介できるゲーム解説者が必要、というのもそのとおりだと思う。
 
 eスポーツやゲーム実況が示しているように、いまどきは、ゲームは自分自身がプレイするものとは限らなくなった。他人のプレイを専ら見て楽しんでいる人もいる。しかし、冒頭リンク先にもあるように、ハイレベルなプレイは見て楽しむだけの人々には理解されにくい。あまりやり込んでいない人が喝采を浴びせるのは、しばしば、見栄えの良いわかりやすいプレイに対してであって、高い技量にもとづいた緻密な駆け引きに喝采するとは限らない。
 
 シューティングゲームの世界でも、それは言えるように思う。
 
 派手な弾幕を次々に避けていくシューティングゲームは見栄えが良い。『怒首領蜂』や『東方』シリーズといった弾幕シューティングゲームが一時期流行したのは、それらが高い技量を理解しなくても喝采したくなる(と同時に、そこそこの技量でも見栄えの良いプレイを実現できる)ゲームだったことにもよると思う。
 
 一方、たとえば『雷電ファイターズ』シリーズなどはプレイヤーに求められる技量は極限レベルだったのに、生半可な腕前では見栄えの良いプレイなど望むべくもないものだった。
 
 シューティングゲームという存亡の危機に立たされていたジャンルでは、奇妙にも「ギャラリー受けしやすく、そこそこの技量でも見栄えの良いプレイができる」ゲームがニーズをさらった時期があったのだ。それでもシューティングゲームは衰退の一途を辿ったのだけれど。
 
 

「ゲーム解説者」ならぬ「解説君」がいた時代

 
 ところで、昔のゲーセンには「ゲーム解説者」ならぬ「解説君」という言葉があり、忌み嫌われていたのをふと思い出した。
 
 「解説君」という言葉の初出は、アーケードゲーム専門誌『ゲーメスト』か『アルカディア』のどちらかだったと思う。現在のインターネットでは、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)にその名を冠したスレッドが残存している。
 
 
 解説君の特徴を挙げるスレ
 
 
 解説君とは、上手いプレイをしているプレイヤーの後ろで、他のギャラリーに向かってプレイ内容について解説する人物のことだ。
 
 プレイヤーが対戦プレイなりハイスコア更新なりに勤しんでいる最中に、その後ろでブツブツと語られては迷惑このうえない。とはいえ、今にして思えば「解説君」がマトモに解説するためには、少なくとも、解説するゲームについて一定の技量やノウハウが無ければ難しいのだった。
 
 逆に言うと、「よくわかっている解説君」はそれほど多くなかったように思う。『ゲーメスト』や『アルカディア』の攻略記事に書いてあるとおりの知識は語れても、プレイヤーの挙動の細かな意図を理解し、攻略パターンを成立させるためのメカニズムまで語れる「解説君」はそう多く無かった。
 
 ゲーム雑誌でテキスト化されている知識は誰だって覚えて解説できるけれども、そうでない部分について解説するためには、解説者自身がプレイヤーの意図や挙動を読み取れるぐらいにはゲームのことをわかっていなければならない。だから「よくわかっている解説君」になるためには、目の前でプレイしているプレイヤーよりちょっと劣っているぐらいの技量やノウハウが必要だった。そういう意味では、「よくわかっている解説君」がいるゲーセンには、それなりそのゲームのことがわかっている人間が存在している、ということでもあった。ボウリング場のゲームコーナーやバッティングセンターのゲームコーナーで「解説君」に出会うことは無かったわけで。
 
 

「解説君」が忌み嫌われていた頃の意識

 
 それとは別に、「解説君」が嫌われていた背景には、当時のゲームプレイヤー共通の感覚があったと思う。
  
 それは、「ゲームはプレイする奴が偉い」「自分でプレイしないのはゲーム愛好家じゃない」といった感覚だ。
 
 私達はゲーセンにゲームを遊びに行っているのであって、ゲームを見物しに行っているのではなかった。そしてゲーセンで楽しくゲームを遊ぶためには一定以上の技量が必要だった。
 
 スポーツや囲碁などと同様、ゲームもまた、中級者には初級者には見えない景色が見えて、上級者には中級者には見えない景色がみえる。都道府県でトップになるかならないかのスコアで競っているプレイヤーと、全国一になるかならないかのスコアで競っているプレイヤーでは、見えているもの・体験しているものがぜんぜん違う。誰もがゲーセンで何らかのゲームをやり込んでいたあの頃は、その当たり前のことをプレイヤーはだいたい共有していたし、だからこそ、自分がまだ見ていない景色を観るために・自分よりも強い奴に会いに行くために、たくさんのプレイヤーががんばっていた。
 
 必然的に、マニアが集まるようなゲーセンでは、そういった気持ちを持っていない部外者がなんとなく浮いてみえたし、「ただ他人のプレイを見てガヤガヤ言うだけの人間」に対する忌避感を一プレイヤーとしての私はもっていたように思う。
 
 1990年代になると、全国のトッププレイヤーのビデオや動画が流通しはじめていたけれども、当時、「トッププレイヤーのビデオや動画をただ鑑賞するために」入手する人はあまりいなかったのではなかったかと思う。自分自身の腕前を向上させるための研究素材としてビデオや動画を観る、という感覚が一般的で、視聴者とプレイヤーが限りなくイコールに近かった。
 
 ゲーセンにも、ギャラリー文化というか、秀逸なプレイをみんなで見届ける瞬間は確かにあったが、偉いのは他人を魅せられるプレイができる人間であり、他人に勝てる人間であり、他人に優越したハイスコアを叩き出した人間だった。「上手いプレイヤーほど偉い」という文化的ヒエラルキーがゲーセンで成立していたのは、ゲーセンにいる誰もがプレイヤーだったからだろう。もちろんこういったことは、UFOキャッチャーやプリント倶楽部ばかり設置されているアミューズメント施設には当てはまらないものだったけれども。
 
 

年を取ったら「ゲーム解説者」におすがりしたい

 
 それから四半世紀ほどの歳月が流れ、ゲームを巡る状況はすっかり変わった。
 
 隔世の感があるが、それだけゲームの裾野が広くなったのだろう。
 
 誰もがプレイヤーで、周りもみんな上達したがっていた時代が私には懐かしいし、私自身はこれからも一人のプレイヤーであり続けたいと思う。
 
 だからといって「ゲーム解説者」を昔の「解説君」のように嫌いたいとは思っていない。むしろ、いつかは私もプレイする側から視聴する側にシフトするのだろう。
 
 なぜなら、今はかろうじてゲームプレイヤーとして現役でも、50代、60代になっても現役であり続ける自信は無いからだ。なんやかんや言っても、ゲームのハイレベルなプレイには動体視力や集中力や記憶力といったものが必要で、それらは歳を取るにつれて失われていく。これからゲーム愛好家の高齢化が進むにつれて、ゲーム実況者のニーズは高まってくるはずなので、そこらへん、eスポーツの広がりみたいなものとあわせて、界隈の人々にはうまくやっていただきたいところだ。
 
 とはいえ、「ゲーム解説者」に私がおすがりするのはまだ先のこと。
 
 プレイヤーとして現役でいられるうちは、私はゲームをプレイし続け、まだ見ぬ風景を自分で勝ち取っていきたい。
 
 いつか力尽きるその日まで、私はゲーム世界のフロントラインで粘ってみようと思う。
 
 

「他人が読む日記」と「自分が読む日記」

 
2/28「はてなダイアリー」サービス終了で考えるインターネットの失ったもの - エキサイトニュース
 
 2019年、(株)はてな が運営するブログサービス「はてなダイアリー」がそのサービスの幕を閉じた。後継のはてなブログが繁盛している以上、自然な流れではあるけれども、私も「はてな“ダイアリー”」には思い入れがあったので、リンク先には強いシンパシーを感じた。
 
 日記とブログは似て非なるもの。
 
 もちろんブログに日記を書くことはできるけれど、ブログに全員が日記を書くわけではない。まして、きわめて個人的な日記が読み物としてブログに曝されるさまは、目に付きにくくなっているようにも思う。
 
 たとえばの話として、2005年頃に「はてなダイアリー」でみんなが書き散らしていたような日記は、今、どこでどこまで私に(または、あなたに)可能なのだろうか。
 
 

日記からブログ・SNSの時代へ

 
 まず、日記とは誰に向かって書くものなのか。
  
 私には、「日記は自分自身が後になって読み返すために書く」という前提があり、このブログもそのように書かれている。でもって、実際私は自分のブログをわりと頻繁に読み返している。
 
 と同時に、日記には他人に読まれることを前提に書かれる側面もある。日記文学と呼ばれるような作品群は言わずもがな、このブログの文章にしても、他人が読むことを前提とした整形が多かれ少なかれほどこされている。
 
 日記には「自分が読むメディア」と「他人が読むメディア」の二つの顔があって、どちらが優勢かによって内容や文体は違ってくる。とはいえ、個人的な日記なら、「自分が読むメディア」という前提が多かれ少なかれ備わっているはずだ。
 
 はてなダイアリーをはじめとする、00年代に繁栄したブログサービスの筆者の大半は、まさに「自分が読むメディア(=日記)」としてブログを書いていたように思う。そういう意味で、はてなダイアリーという命名は実態にみあったものだった。
 
 もちろん、当時も「他人が読むメディア」としてブログを書いている者がいなかったわけではない。著名人のブログ、専門家のブログ、アルファブロガーのブログ、ニュースサイト系のブログなどは「他人が読むメディア」として書かれていた。だが、全体のユーザー数から考えると、「他人が読むメディア」に的を絞った書き手はあまり多くなかったのでないだろうか。
 
 それから10年以上の歳月が流れ、ブログも、ブログを取り巻く環境も変わった。
 
 例えば、今、流行しているブログ――はてなブログでもいいし、ワードプレスで駆動するアフィリエイトブログでもいいが――において、「自分が読むメディア」としてのブログは一体どれぐらいの割合になっているだろう?
 
 現在でも「自分が読むメディア」としての性格を失っていないブログとブロガーはまだまだいるに違いない。
 
 それでも、「他人が読むメディア」としてブログを書く人が増えて、「自分が読むメディア」としてブログを書いている人でさえ、いくらかなりとも「他人も読むことを前提とした性格の日記」へと重心が移動させていることが多いのではないだろうか。
 
 ネットでは、ウェブサイトの時代から「自分が読むメディア」としての日記が綴られてきた。もちろんネットに書かれる日記には、他人に読まれる期待も込められていた。ウェブサイト黎明期の「日記」には、自分自身のことを書きつつも、ボトルメールのようにどこかの誰かに届くかもしれないという、他人への淡い期待があったように思う。
 
 だが、2019年にあまた書かれるブログ記事はそうではないと思う。
 
 他人のまなざしを期待する、ではなく他人のまなざしを前提にして私達は日記を書いているのではないだろうか。
 
 まだブログしかなかった頃、ブログは「自分が読むメディア」であると同時にトラックバックをとおして人と人とをつなぐ機能を担っていた。とはいえ、その機能はまだ弱く、常に意識させられるものではなかった。
 
 しかし今はSNSがあり、誰もがSNSで繋がり合っている。ブログを書く人も書かない人も、SNSという、他人に読まれることを意識させられるメディアで日常的にコミュニケートするようになった。SNSは、ブログ以上に人と人とを頻繁に繋ぎ合い、「他人が読むメディア」であることをユーザーに強く意識させる。そこで用いられる言葉は、おのずと自分に向けられる以上に他人に向けられたものとなる。
 
 現状のSNSは、「自分のアウトプットが他人に読まれる」ことを意識させる訓練装置として機能していて、そのような訓練装置が、現代人の日常に溶け込んでしまっている。
 
 SNSが普及して、それこそ誰もが「他人が読むメディア」を意識するよう訓練され続けている2010年代後半において、ブログもまた「他人が読むメディア」として書かれることには違和感はない。
 
 はてなダイアリーが終了し、はてなブログに取って代わられた現状は、そのことを象徴しているように私には思える。
 
 

学校で教わった日記も「他人が読むメディア」だった

 
 そういえば、学校で習ったばかりの日記も、実は「他人が読むメディア」ではなかったか。
 
 小学生の宿題には、「日記を書いてきなさい」というものがある。私が最初に書いた日記も、この「日記を書いてきなさい」だった。
 
 「日記を書く」宿題は、先生が読むという前提で書かれている。
 
 自分自身の過去はもう思い出せないが、子どもが宿題として日記を書いていた頃に、それがよくわかった。
 
 宿題として提出する日記に、子どもはありのままの気持ちや出来事を書いていなかった。先生に叱られないように、あわよくば先生から花丸をもらえるように、子どもなりにテーマや書き方を考えていたし、そういうことが思い浮かばないと「日記に書くことがない」ことに困っていた。
 
 先生が読むという前提で日記を習っていたということは、私も、私の子どもも、日記というメディアを「他人が読むメディア」としてまずフォーマットされた、ということだ。実は、現代人にとっての日記とは第一に「他人が読むもの」であり、「自分が読むもの」という特徴は後から付け加わったものではなかったか。
 
 

「現代人訓練装置」としての日記

 
 学校には、子どもという自然に近い存在を、現代人という近代的主体へと訓練していく場としての性質がある。授業や運動会や時間割によって子どもは訓練され、近代的主体としてふさわしい習慣や規律や時間感覚を身に付けていくし、そのように社会から期待されてもいる。
 
 もし、近代的主体としてふさわしい習慣や規律や時間感覚を身に付けられない子どもや、身に付けられそうにない子どもは、「問題」があるとみなされ「事例化」していく。が、それはさておき。
 
 この視点で「日記を書きなさい」という宿題について思い出してみる。私達は「他人が読むもの」として日記を教わり、それを後になって「自分が読むもの」だと思い込んで書き綴る。このプロセスをとおして、日記は、自分自身の内面を他人が読めるようなフォーマットへと言語変換する訓練として働いている*1
 
 日記が、その習得段階において「他人が読むもの」としてまずインストールされる以上、良い日記とは、自分で読み返せるだけでなく他人が読むにも適した性質を持っていてしかるべきである。ウェブサイト黎明期やブログ黎明期において、あちこちに書き綴られた「他人の日記」をネットサーフィンして楽しめたのも、それらの「日記」が他人が読めるようなフォーマットで書かれていたおかげなのだろう。
 
 近代的主体にとっての良い日記、ひいては良い内省とは、言語化され、他人が解釈可能な性質のものでなければならないのかもしれない。
 
 だとしたら、本当に「自分に向かって日記を書く」とはどういうことなのか?
 
 範疇的に考えるなら、「他人が読むもの」というフォーマットを上手に使って「自分が読むもの」を書き残せれば、それは「よくできた日記」ということになるだろう。近代的主体である限りにおいて、そのフォーマットを逸脱する必要は無い。そのフォーマットのなかで内省し、そのフォーマットのなかで語り、そのフォーマットのなかでコミュニケーションしても困ることは何もあるまい。
 
 ただもし、自分独自のフォーマットで「自分が読むもの」を書けたとしたら。
 
 私にはそんなことはできないし、大抵の人も同じだろうけれども、フォーマットの殻を破れる剛の者は、破ってみせて欲しい。あるいは詩人の言葉ならば。きっとそれは、近代的主体としての諸フォーマットに慣れきった私には解読しづらいだろうけれども、世の中にはそういう人がいたっていいし、いたほうがいいと思う。
 
 日記の話をしていたつもりが変な着地点に辿り着いたけれども、まあこれも「はてなダイアリー」出身のブログなので、どうかご容赦を。
 
 

*1:そもそも、言語変換するということ自体、他人が読めるような共通のフォーマットへと思考を導く訓練ではあるけれども

それはゲーム障害なのか、思春期のトライアルなのか、それとも。

 
 
20190220150519
 
 日本産業カウンセラー協会さんの機関誌『産業カウンセリング』2019年2月号の特集「インターネットと承認欲求」にて、インタビュー記事を掲載していただきました。
 ※こちらにインタビュー記事の抜粋が公開されています。→http://blog.counselor.or.jp/business_p/f244

 
 さんざんオフ会に出まくってゲームをやりまくってきたブロガーとしての実体験と、1人の精神科医としてネット依存やゲーム障害と呼ぶべき症例を経験した精神科医としての実体験が融合した内容になったかと思っています。
 
 
 

私がゲーム障害に抱いている懸念

 
 
 このインタビューのなかで、私は以下のようなことを言いました。
 

 総論としてはインターネット依存、ゲーム障害が治療されていくということは、良いことだと思っていますが、過剰診断になってしまうような未来は見たくないんです。世の中には、治療を必要とする人だけでなく、思春期のはみ出しとみなすべき人や、それらに助けられて何とか適応している人もたくさんいます。彼らを肯定的にみる視点を、私は臨床の先生方にも知っていただきたいんです。障害未満のネットやゲームの世界が知られていくことを、切に願っています。

 ゲーム障害(ゲーム症)は、ICD-11という国際診断基準で新たに採用された疾患名で、十分な期間、ゲーム以外の活動や社会機能に重い障害を呈していて、依存の兆候を示しているものが該当するといった感じになっています。ほかの依存症*1の診断基準と比較して、それほどおかしな診断基準だとは思えず、字面のうえでは妥当だと私は思っています。
 
 精神科医をやっている手前、数こそ少ないものの、ゲーム障害が主たる問題とみて差し支えなさそうな症例を経験したこともありました。私自身もネットやゲームにのめり込んできた経験から、過剰診断しないよう細心の注意を払っているつもりですし、それらの診断をする以前に問題とすべき重大な精神疾患(双極性障害、統合失調症、全般性不安障害、等々)や背景としての発達障害には目を光らせてきたつもりです。それでもなお、主たる問題をネット依存やゲーム障害とみなさざるを得ず、ゲームと自分自身との距離がコントロールできておらず、切迫していると判断せざるを得ない症例が存在するのも事実です。 
 
 である以上、ゲーム障害という概念はいまの社会に必要で、そのような症例に対処するメソッドは整備されるべきでしょう。
 
 反面、ゲーム障害と呼んで構わないのか迷う症例も少なくありません。少なくとも私の場合は、ゲーム障害以外の診断を優先させなければならない、まぎらわしい症例のほうが多いと感じています。
 
 
 第一に鑑別診断として。(こちらは専門家にもわかりやすい)
 
 ネット依存やゲーム障害を疑ってご両親が連れてきた青少年を診てみたら、その正体が双極性障害や統合失調症だったことはままあります。種々の不安障害・発達障害・境界知能といった土台のうえに依存がかたちづくられている症例も経験しました。そういった症例においても、ネットやゲームは確かに問題ではありますが、精神科医としてまず対処しなければならないのは、本態としての精神疾患であったり、土台としての発達障害や境界知能のほうであったりします。少なくとも、そういった本態や土台に相当するような精神医学的イシューを放っておき、ネット依存やゲーム障害にフォーカスをあてるのは、本末転倒ではないかと思います。
 
 また、家族内力動*2や家庭外の問題が透けてみえる症例に出会うこともあります。家族内の人間関係や、家庭外の不適応状況を土台として、ネット依存やゲーム障害と呼ぶべき問題が立ち上がってきているような症例です。「悪いのは本人ではなく家族」という考え方は精神科臨床に馴染むものではないとしても、家庭内で起こっている人間関係の問題や家庭外の適応状況にも意識を回したうえで、総合的に診断と治療を考えるのが精神科医の仕事であると私は考えています。こういった症例の場合、(たとえば)両親の求めるままネット依存やゲーム障害と診断して十分とは思えません。よしんばそう診断する必要性があるとしても、家庭内外の諸問題を無かったこととして「本人だけの問題」「本人の病気」として矮小化されないよう、意識はすべきだと思っています。
 
 
 第二に、そもそも障害という枠組みで扱って構わないのか。(こちらは専門家に否定されるかも)
 
 かつては精神疾患や精神障害とは呼ばれていなかった色々なものが、ここ数十年で精神医学の担当範囲になりました。
 そのこと自体は、社会の変化にあわせて必要なことではあったでしょう。
 
 それでも、人間の行動・発達・人生には多かれ少なかれの寄り道があってもおかしくないはずですし、症例として事例化すべき人と、症例未満のものとして目をつむるべき人の境目はつねに曖昧であるはずではないか、と私は考えています。
 
 私は一人のゲームオタクとして、あるいはネットフリークとしてそうした界隈に棲み続けてきました。ゲームをやりこんで大学を留年する者、オンラインゲームで夜更かしを繰り返してしまう者、ソーシャルゲームのガチャに何万円もつぎ込む者が知人友人のなかにはたくさんいました。現在でもそうです。
 
 白状してしまえば、私もそのなかの一人でした。授業をサボって朝から晩までゲーセンに入り浸り、眠い目をこすってオンラインゲームに興じ、ネットサーフィンにたくさんの時間を費やしてきました。現在は、それらがたまたま芸の肥やしになっている側面はあるにせよ、一般的な医師のキャリアとしては褒められたものではないと自覚していますし、見る人によっては「ゲームやネットで身を持ち崩した精神科医」という風にも見えるのではないかとも思います。
 
 そうしたゲームオタクやネットフリークの営みは、eスポーツという言葉もネット依存という言葉も無かった時代から存在していました。私たちは毎日何時間もゲームに打ち込んでいて、いわゆる実生活の機能に多かれ少なかれ支障をきたしていたように思います。どんなにマイナーなゲームでも、全国一のスコアを叩き出そうと挑戦する者は恐ろしく長い時間をゲームに費やさなければならず、そのプロセスのなかで、ゲーム筐体やゲームコントローラに八つ当たりするようなこともありました。イライラしたりゲームのことを四六時中考えずにはいられないこともありました。睡眠時間や学業に影響が出た者もいました。私だってその一人です。
 
 そんな私達のゲームライフを、もし現代の精神科医が操作的診断基準にもとづいて「診断」したら、ゲーム障害という言葉が脳裏をよぎるのではないかと思います。ゲームオタクにとって思春期を賭けたトライアルだとしても、たとえば精神科医からみた時、たとえばご両親からみた時、それは思春期のトライアルとうつるでしょうか。それとも障害とうつるでしょうか。ネットに関する活動にしても同様です。トライアルと障害とを分け隔てているものは、一体なんでしょうか。
 
 もし、「長時間ゲームをやっているから」「ゲーム筐体やコントローラを叩いたから」「大学の単位を落としたから」社会機能の障害や嗜癖の兆候と即断されてしまうようなら、そもそも、ゲームアスリート文化じたいがゲーム障害の温床、またはゲーム障害そのもの、ということになってしまうのではないか──と、私は懸念します。ゲーム障害という診断の普及が、ゲームアスリート文化と共存できるものであって欲しいと願っています。
 
 
 

両親次第では十代のウメハラだって「ゲーム障害」

 
 
 一例を挙げてみます。
 
 先日、eスポーツの草分け的存在である梅原大吾さん(通称ウメハラ)のインタビュー記事が紹介されていました。
 
www.itmedia.co.jp
 

 両親の理解に助けられたところはとても大きいですね。うちの父親の教育方針として、「好きなことを見つけたらとことんやれ」というのがありました。それに対して親は口を出さないと。実は梅原家というのは、ひいおじいちゃんの考え方で、おじいちゃんは自分のやりたいことができず、そのおじいちゃんの考え方でうちの父親はやりたいことができず、というふうに悩まされてきた歴史があります。そこで親父は、時代によって考え方が違っていくから、親の価値観で子どもの将来を決めちゃいけないとずっと心に決めていたみたいです。

 だから、実際ゲームをやめろって言われたことは一度もないんですよ。そのおかげで20代に麻雀にのめり込んだりして、気苦労をかけさせたとは思います。ただ、プロになる時も両親に背中を押してもらった部分もあります。ですから、自分がプロゲーマーになれたのは両親のおかげともいえるでしょうね。
 プロゲーマー「ウメハラ」の葛藤――eスポーツに内在する“難題”とは #SHIFT より)

 なるほど、ご両親の価値観ぬきには今日のウメハラの成功譚は語れなさそうです。
 
 しかしこのようなご両親は少数派でしょうし、「精神科医のもとに『ゲーム障害ではないか』という疑いをもって我が子を連れてくる両親」においてはとりわけ稀でしょう。ウメハラに限らず、思春期をゲームに捧げる青少年のプレイスタイルは、教育熱心な親を怯ませるには十分です。
 
 もし、ウメハラのご両親が「好きなことを見つけたらとことんやれ」という価値観の持ち主ではなく、「しっかり勉強し、良い大学を出て良い企業に就職しなさい」という価値観の持ち主だったとしたら、そしてウメハラを2019年の精神科病院に引っ張っていったら、そこで診察を求められた精神科医は「ゲーム障害」という診断を回避できるものでしょうか。
 
 未成年の教育方針は親が決めることである以上、「ご両親の価値観という文脈によって『ゲーム障害』かそうでないかが左右される」という考え方はある程度理解できることではあります。その一方で、eスポーツが興隆する以前から、ゲームカルチャーには少なからず思春期を捧げるという側面があり、ゲームカルチャー全般が逸脱とみなされやすい文化的背景があることを、ゲーム障害という診断をくだす立場の人は忘れないでいただきたい、と私は願っています。
 
 たとえばの話、ラグビーやサッカーや将棋の部活動に思春期を捧げ、留年することに「障害」や「逸脱」という単語を想起するご両親はそれほど多くはないでしょうけれど、ゲームに思春期を捧げ、留年することに「障害」や「逸脱」という単語を想起するご両親はかなり多いのではないでしょうか。今日の文化的文脈と照らし合わせて考えた時、そうしたご両親の受け取りかたは理解できることではあります。だとしても、ご両親が心配しているから・多かれ少なかれの遠回りがあるから、その青少年をゲーム障害という精神医学の問題系に引っ張りこんで良いのか、それなりの慎重さは求められるのではないでしょうか。
 
 私自身はゲームオタクやネットフリークの世界に長く身を置いていたので、クンフーを積むようにゲームに挑んでいる者や心から楽しんでいる者と、そうでない者を、多少なりとも嗅ぎわけられるつもりです。と同時に、ゲームやネットによって社会不適応が促進されている者と、ゲームやネットによってむしろ生かされている者の違いを意識し続けてきたつもりです。ですが、世の精神科医や臨床心理士の先生がたに、そうした嗅ぎわけをお願いするわけにはいかないでしょう。
 
 なのでせめて、それがゲーム障害やネット依存と呼ぶべき問題なのか、思春期のトライアルやはみ出しと呼ぶべき問題なのか、それとももっと重大な精神科的イシューであるのかに関して、これまでも・これからも慎重に丁寧に見極めていただきたいとお願いしたいのです。
 
 私は精神科医としてのアイデンティティと、ゲームオタク・ネットフリークとしてのアイデンティティを並立させたまま、四十代まで生きてきました。精神医学も、ゲームやネットもどちらも愛しています。ゲーム障害やネット依存の診断が適正になされて、真に治療すべき青少年の助けとなることを願っています。と同時に、真摯にゲームを愛している青少年のトライアルが片っ端から逸脱とみなされないよう、ゲームやネットによってむしろ生かされている青少年を温かく見守っていただけるよう、願ってもいます。
 
 
 つけ加えると、ゲーム業界の方々にも一層のご配慮をいただきたいものです。いまどきのゲームデザインにありがちな、あまりにもプレイヤーをコントロールし過ぎるアレは……もう少しどうにかならないものでしょうか。
 
 
 ゲーム障害やネット依存の適正かつ丁寧な診断と治療、ひいては今後のゲームカルチャーやネットカルチャーのますますの発展を祈念して、本文の結びとさせていただきます。
 
 

*1:より専門的に言えば行動嗜癖

*2:注:家族関係の問題