シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会は「要らない」。

 
 以下のリンク先記事は、現状分析としては間違っておらず、実際、仕事への要求水準は高くなっているのだろう。
 
人手不足なのに給料が上がらないのは、経営者の強欲のせいではなく、仕事に要求される能力が高くなったから。
 

ですから現在の状況を単純に言えば、
1.事務職の消滅とともに、「普通の人」が遂行できて、「それなりのお金がもらえる」職場は消滅してしまった。
2.今は「低賃金・肉体労働」の仕事に就くか、専門家として「知識労働」に従事するか、その2つしか選択肢がない
ということになります。

 
 日本だけでなく、欧米諸国でも「普通の人」が働いて「それなりのお金がもらえる」職場は少なくなっている。低賃金の肉体労働や単純労働に従事するか、高度なスキルを必要とする知識労働にジャンプアップするか、そのどちらかを迫られがちな世相なのは、そのとおりなのだろう。
 
 加えて、リンク先ではマーケティングセンスの重要性も指摘されている。
 

例えば今の時代は、人工知能や統計解析の専門家は稼げても、刀鍛冶や畳職人はそれほど稼げません。
要するに、専門家でありさえすればよいのではなく、「マーケットがある上での専門家」である必要があります。

 高度なスキルを持っていてもマーケティングセンスがなければ稼げない。ここでは刀鍛冶や畳職人が「稼げない専門家」として挙げられているが、マーケティングセンスというのは、ある種、魔法のセンスであり、市場のニーズをくみ出せるなら刀鍛冶や畳職人でも「事業」を興せないことはないだろう。刀鍛冶や畳職人で想像しづらいなら、和菓子職人について考えればもっとわかりやすい。どれほど素晴らしい和菓子職人でもマーケティングセンスが無ければ零細のままだし、過疎化にまかせて廃業を余儀なくされるおそれもある。だが、マーケティングセンスと技芸を両方持っている和菓子職人であれば、支店を全国に持つような「事業者」になることも叶おう。
 
 
【「アタマが良くて商売センスのある少数以外は低収入待ったなし」】
 
 なので、リンク先の文章を額面どおりに受け取るなら、現代社会において「稼げる」のは、アタマが良くて商売センスにも恵まれている人、ということになる。
 
 だが果たして、世の中にそのような人がいったいどれぐらい存在するだろうか。
 
 大半の人は、それほどまでに高度なスキルを身に付けられるわけではないし、マーケットを読めるわけでもない。
 
 となると、この現状分析から導かれる帰結は「ごく少数のアタマが良くて商売センスのある人ばかり高収入になって、そうでない大多数は低収入に甘んじるしかない」というものである。
 
 昨今の世帯年収の中央値を思い出すにつけても、ここでいう低収入とは、昭和時代末期の「中流意識の家庭」よりもずっと少ない水準を想定せざるを得ない。
 
 もはや中流意識を持つことすら困難な、息子や娘を大学に送り出すことも困難な──それどころか、結婚や子育てを夢見ることすら許されないような──世帯収入に甘んじる人がどんどん増える未来が透けてみえる。実際問題、昭和時代まで中流意識を持っていた家庭の子女の少なくない割合が21世紀には"下流"へと流れ着き、"失われた20年"をたまたま生き残った者たちが、減りつつある"中流"の席を奪いあっている。
 
 そして稀有な才能やコネクションに恵まれ、マーケティングにも通じているごく少数が、資本主義の果実のジュッとした部分を頬張っているのである。 
 
 21世紀の資本主義の状況として、橘玲さんが記すようなビジョンを否定することは難しい。
 
  
【そんな社会を認めて構わないんですか?】
 
 現状がこうである、と分析するのはいい。
 だが、その現状を是とするか非とするかは、また別の問題である。

 日本は資本主義の国であるとともに民主主義の国でもある。
 
 成人すべてに投票する権利が与えられ、デモクラティックに意思決定が進んでいく日本において、そんな、ごく少数の人間だけが資本主義の果実のいちばんおいしいところを持っていってしまう社会をしかと認識し、それをそのままにしておく道理はあるものだろうか。
 
 アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとって、21世紀の資本主義の状況は天国も同然である。グローバリゼーションは、アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとってうってつけの状況を提供している。
 
 だが、国民の大半はそんなにアタマは良くないし、マーケティング適性も持ち合わせていない。そして高騰する大学教育が象徴しているように、高度なスキルを次世代に授けるためのハードルも高くなりつつある。次世代に高度なスキルを易々と身に付けさせられるのは、すでに高度なスキルやマーケティングセンスを手中におさめた少数派の家庭だけだ。もし、政府なり財界なりが高度なスキルの人材が欲しいというのなら、低収入の家庭の子女が高度な教育を受けやすいようなパスウェイの整備に予算と情熱を傾けるべきだろうに、実際にはまったくそうなっていない。"下流"的な家庭からアタマが良くてマーケティングセンスにも恵まれた人材を輩出することは、昭和時代よりも困難になっている。
 
 だったら革命しかない!
 
 ……というのは冗談としても、この民主主義の国において、ごく少数の人間だけが資本主義の果実を堪能し、大多数の人がそれを指をくわえてみているしかない状況は、かなりおかしい。少なくとも、中流的な生活が困難になる人がドシドシ増えざるを得ない状況を静観するばかりで、それが世間だと開き直る人々ばかりの社会状況を是とするのは奇妙なことのように私には思える。
 
 これは、民意が反映されていない状況ではないだろうか。
 
 もちろん、民意が反映されれば万事うまくいくというわけではない。アタマが良くてマーケティングのわかる人々の言うとおりにしたほうが、国民総生産が上昇しやすい、といったことはあるかもしれない。でもって、アタマが良くてマーケティングのわかる人々はプレゼン能力にも優れているから、「自分たちの言うことをきかないと結果として国全体が貧しくなって、あなた達はもっと貧しくなるんですよ」的なことを滔々と語ってみせるだろう。今、流行のエビデンスというボキャブラリーを交えながら。
 
 だが、国全体が貧しくなるかどうかなんて、大多数の人は興味の無いことである。ましてや、「事業」をやってのけられる人々の都合を気に掛ける必要性なんてどこにもない。大多数の人が気に掛けるのは、自分や近しい人が豊かと感じられているかどうか、そして「自分が決してなりようのない連中」との差異、あとは「連中」が自分たちのことを大切にしているか馬鹿にしているか、である。
 
 EU離脱したイギリスやトランプ大統領が当選したアメリカで起こったことの一側面は、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い政治状況や社会状況に対する「そんな社会は要らない」というメッセージではなかったか。
 
 英米の有権者の選択が、最終的にそれらの国の大多数への福音になるのかは、私にはわからない。しかし民主主義を良いものとみなす限りにおいて、有権者にはそのような選択をする権利があり、それらの選択はやはり尊い。そして日本国民だって本当はそうしたって構わないはずなのだ。
 
 私はいちおう医者だから、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い社会でもなんとか生きていけるだろう。むしろ、この筋のブルジョワ社会化がますます徹底してくれたほうが、私のような立場は社会適応しやすくなるはずである。
 
 だが、そのような社会が大多数にとって望ましいものだとは思えない。資本主義の果実がもっと広い裾野に広がって、中産階級的な人々が増えることを多くの人が期待しているなら、そのために声をあげても構わないのが民主主義ではなかったか。
 
 21世紀の資本主義の現状を醒めた目で分析した後、私達はどう考え、どう立ち回るべきなのか。
 
 アタマが良くてマーケティングのわかる人々だけがおいしい果実をむさぼり、そうでない大多数が貧困に甘んじることの是非について、少なくとも英米の大多数と同じぐらいには日本の大多数も声をあげていいのではないだろうか。ごく少数の人間だけが稼げて、そうでない大多数が低収入に甘んじるしかない社会に、「そんな社会は要らない」というメッセージを出していっていいのではないだろうか。
 
 たとえそれが、英米で起こったこと同様に、相応の副作用を伴うものだとしても。
 
 現状を現状として分析するのは分析家の仕事だ。
 
 だが、現状を分析した後、その現状の是非について考えるのは、政治家の仕事であり、ひいては、有権者である私達の責務である。だから一有権者としての私は、アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会に対して、「そんな社会は要らない」と声をあげておきたい。少なくとも、稼げない大多数が世代再生産もままならない状況へと追いやられる前提のもと、ごく一部のアタマが良くてマーケットのわかる人々が大多数の成り行きを黙って見ているばかりの社会には、それっておかしいんじゃないかと考える一人でいたいと思う。
 
 

一切が過ぎ去っていくインターネットに、念仏を

 
 三十代後半になったあたりから、ときどき「歳月!」と叫びたくなるようになった。
 
orangestar.hatenadiary.jp
delete-all.hatenablog.com
 
 昨日から今日にかけてインターネットの歳月について考えさせられる文章を立て続けに読んで、まさに私は「歳月!」と叫ばずにはいられなくなった。
 
 今をときめくバーチャルユーチューバー。リンク先でorangestarさんが書いているように、最近のインターネットの流行り廃りは早い。ニコニコ動画の生主が輝いていた時代も、もう遠い昔のことのように感じられる。そういえば、Ustreamもなくなってしまったのだった。
 
 そしてDelete_Allさんが書いているように、金銭欲に流されていったブロガー達の行方は知れない。一時期はそれなりに繁栄していた「金銭欲をモチベーション源とするブロガーたち」は、その頭領たちも含めて勢いを失ってしまった。
 
 もともと早かったインターネットの栄枯盛衰が、いよいよもって加速しているようにみえる。
 
 インターネットにへばりついて思春期を過ごしていた私のような人間は、そのインターネットの流行によって思春期をかたちづくり、折々の流行を魂に刻み込んできた。私の場合、『セカイ系コンテンツ』とか『テキストサイト』とか『はてなダイアリー』あたりがまさにそうで、それらは意識するまでもなく自分自身の魂に入り込んできて、私の歴史の幹になっていった。
 
 だが、そうやって既に歴史の幹をつくりあげてしまった私という存在にとって、2010年代後半のインターネットの栄枯盛衰は魂に刻まれることの少ない、通り過ぎていくものになってしまっている。その時々のコンテンツやオモシロ人間は勿論面白いとしても、それらは魂に刻まれることなく、たちまち飛び去ってしまう。
 
 ネットで流行のコンテンツをたまたまフォローできたとしても、あるいは人生を火の玉にして燃え尽きていく勇者が現れたとしても、以前のように、骨までしゃぶることはなくなってしまった。私の執着が薄れたから? そうではあるまい。流行りのコンテンツも、火の玉になって燃え尽きる勇者も、ひとときのものだとわかってしまったから。あっという間に消えてしまう可能性の高いものに、以前ほどの興味を感じなくなってしまったから。
 
 それでも元気の良い時期には、新しいものを楽しむことはできる。燃えゆくインターネットの勇者は美しいし、散りゆく花には格別の趣もある。
 
 けれども冬至が近づいている今の時期の私には、そうした新しさを楽しむ気持ちより、一切が過ぎ去っていくことへの寂寥感が勝ってしまう。こういう心境を、ほかの同世代のインターネット愛好家や、元愛好家の人達も経験しているのだろうか。それとも、私がdepressiveになっているだけなのか。
 
 

過ぎ去っていくネット=忘れられていくネット

 
 なにもかもあっという間に過ぎていくネットは、忘れられていくネットでもある。ひいては、自分自身がどんどん忘れていくネットとも言える。
 
 忘れること・忘れられることにはポジティブな側面もあり、それはインターネットにとって必要なことでもある。それでも、今、目の前で繰り広げられているインターネットの景色があらかた忘れられ、自分自身も忘れていくとしたら、その営みにどのような意味があるのだろうか。
 
 もちろん若い人には意味があろう。今まさに流行を魂に刻み込んでいる人達にとっては、かように流速の速いインターネットも空しくはあるまい。だが私はもう若くはないし、今、栄華のきわみにある人々もいずれ色褪せ、消えていくことを知ってしまっている。この厳粛な事実を前に、私は念仏をとなえたくなる。一切が過ぎ去っていくインターネットと、そこで渦を巻く人の業に対して、念仏に勝るものが果たしてあるのだろうか。愛好家のみなさんは、こういうニヒリスティックな気分をどのように取り扱い、対処しているのだろうか。
 
 

「街角の自己実現人間」にあなたは気づいていますか

 
Point of view - 第123回 熊代 亨|人事のための課題解決サイト|jin-jour(ジンジュール)
 
 
 リンク先の寄稿文章で触れた、自己実現の境地に辿り着いた人について、こちらでも少し捕捉を。
 
 かつて、自己実現という言葉が若い世代に持てはやされたことがあったけれども、「なりたい自分になる」とか「自分発見」みたいな自己願望成就のニュアンスに傾いてしまっていた気がする。
 
 それとは別に、マズローの欲求段階説のてっぺんを目指す的な向きもあった。自己実現という、モチベーションの至高に辿り着くことをありがたがっていた人達だ。インターネットのある界隈を眺めていると、どうやら、今でもそういう向きは残存している。承認欲求や所属欲求を下等なものとみなしながら、自己実現欲求・自己実現、といった言葉にこだわる人々が。
 
 たぶん、「自己」という語彙が良くないのだろう。
 
 現代社会においては、「自己」とは各人の中心であり、各人にとっての世界の中心でもある。自分がかわいい、という意味だけでなく、他人に迷惑をかけてはいけない、という規範意識も含めて、現代人は「自己」を神聖な冒すべからざるものとみている向きがある。
 

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

 
 自己実現・自己実現欲求は、この「自己」という語彙の現代的解釈の影響をモロにこうむって、「世界の中心の、冒すべからざる自己(自分)の目指すもの」といったニュアンスに巷では変質してしまっている。
 
 それゆえ、そのように語られる自己実現・自己実現欲求という言葉には、自分自身への強い執着がついてまわっていて、これらの言葉を持て囃している人からも、だいたい同じ気配が感じられてならない。
 
 

「街角の自己実現人間」は、たぶん天命を知っている

 
 自己実現の境地に辿り着いた人について、私は以下のようなことをリンク先で書いた。
 

自己実現の境地にたどり着く人は、その性格上、比較的人生のキャリアを重ねた人が多いように見受けられます。ただし、役職の高い人とは限りません。案外、事務のおばさんがそのような境地にたどり着いていて、周囲の人々を導いている……なんてこともあったりするのです。

 
 自己実現の境地に辿り着いている人というは、なにも、偉い人ばかりではない。つい、偉い人・業績をあげた人・有名になった人を想像したくなるかもしれないが、そういうものではない。
 
 もっと目立たない場所、小さなコミュニティのなかにも、自己実現の境地に辿り着いている人はいる。包容力のある立ち振る舞いで職場のムードメーカーになっているおじさんやおばさん、地道にコミュニティをメンテナンスしている年長者といった人々に、私は自己実現の境地を見出さずにはいられない。
 
 「街角の自己実現人間」は、承認欲求や所属欲求にガツガツしている素振りがまったくみられない。他人に褒められれば喜ぶし、自分の居場所やコミュニティを大切に思っているふしもみられるが、そういうものでは彼等の行動原理はほとんど説明できない。好奇心や知的探究心といったモチベーションでも彼らの行動原理を説明づけることは難しく、なにやら、確固とした行動指針のコンパスがあるようにもみえる。
 
 もう少し踏み込んだ物言いをするなら、“「街角の自己実現人間」は、己の天命をきき、それにしたがって生きているようにみえる。”たとえ、著名人のようなスケールのでかさや派手さは無いとしても。
 
 

「上を見上げるより周りを見ろ」

 
 自己実現・自己実現欲求という言葉には、いまだ、きらびやかな印象がこびりついているし、そのような言葉を口にする人々は上を見上げて歩いているようにみえる。
 
 でも、それはハイレベルな承認を求めているだけの話でしかなく、実際に自己実現の境地を目指すのなら、「街角の自己実現人間」のほうを向き、そういう人の生きざまを知っておくべきではないだろうか。
 
 つまり、己の天命をきいてそれにしたがっているような人々、確固とした行動指針のコンパスがあって、みだりに承認や所属の欲求に流されない人々を、間近の生活圏で探して、そういう人の生きざまを頭の隅に入れておくのも案外大切なことなんじゃないかと、私は思う。
 
 だからといって、上を向いて歩くべきではない、と言いたいわkではない。特に伸び盛りの年齢の人は、自己実現の境地なんて考えずに、承認欲求や所属欲求のおもむくまま、上を向いて歩いたって構わない。
 
 というより、そういう気持ちの時期は上を向いて歩いたほうが絶対にいい。
 
 だけど、上を向いて歩くこと、あるいはインターネットスラングでいう「何者かになること」と自己実現という語彙をイコールで結びつけるのは、ちょっとおかしいんじゃないか、とは申し上げておきたい。
 
 上昇志向の結実と、いつか辿り着くかもしれない自己実現の境地は、必ずしもイコールとは言えない。どれだけ偉くなってもちっとも自己実現の気配が感じられず、我執・妄執にみちた人間というのも実際にはごまんといる。他方で、それほど偉くなっていない「街角の自己実現人間」もちまたには存在している。
 
 我執・妄執を突き詰めるのもそれはそれで良いけれども、そのことを自己実現というワードで糊塗し、怪しげな正当化をするのはたぶん自分自身のためにもならないと思う。でもって、自己実現の境地について本当に知りたいのなら、「街角の自己実現人間」を探し出して、そういう人の背中から学ぶべきことのほうが多いのではないかと思う。「街角の自己実現人間」に、あなたは気づいていますか。
 
 

最近、「あの頃のはてな」に色んなところで出会う

 
 
はてなダイアリー、2019年春に終了 「苦渋の決断」で「はてなブログ」へ統合 - ITmedia NEWS
2019年3月27日(水)「はてなハイク」サービス終了のお知らせ - はてなハイク日記
 
 はてなダイアリーとはてなハイクが店じまいするという。00年代のはてなのサービスが、記憶になっていく。
 
 
 *     *     *
 
 
 ここ数年、私はいろいろな場所で「あの頃のはてな」や「あの頃のテキストサイト」に出会ってきた。
 
 どういうことかというと、「はてなブックマーク」「はてなダイアリー」「はてなハイク」「はてなブログ」といったサービスを使ってきた人と意外なところで知り合ったり、「若い頃はテキストサイトに夢中になっていた」という人に、オフラインの色んな場所で遭遇するのだ。
 
 あるはてなユーザーは、紆余曲折を経てネットメディアの最前線で活躍するようになっていた。ああ、こんなところに「あの頃のはてな」を知っている人がいるのかと驚かされた。
 
 別のはてなユーザーは、マニアックな方面でちょっと知られた存在になっていた。彼はもう、何者でもないはてなユーザーではない。すでに出来上がった何者かである。
 
 非常に堅い業種で、非常に堅い仕事に就いている人と知り合った際に、テキストサイトの思い出が滔々と流れてきてびっくりさせられたこともあった。ああ、こんなところにもテキストサイト愛好家がいたのか! しばし昔話を楽しみ、打ち解けるまでの時間が短くて済んだ。
 
 今はもう、「はてな村」という言葉に象徴されるような、「あの頃のはてな」に相当する(株)はてなのコミュニティは存在しない。
 
 少なくとも、小島アジコさんの『はてな村奇譚』以前のコミュニティは消滅してしまったかにみえる。ひょっとしたら、(株)はてな は、そういったローカルコミュニティをあまり良く思っておらず、忌まわしい黒歴史として忘却してしまいたいのかもしれない。
 
 まして、大昔のテキストサイトはジオシティーズ等の閉鎖も相まって痕跡すら乏しくなってきた。
 
 

はてな村奇譚

はてな村奇譚

 
 しかし、「あの頃のはてな」「あの頃のテキストサイト」が消えてしまっても、そこにいた人々までもが消えたわけではない。
 
 当時、それらのネットコミュニティに夢中になっていた人々は、社会の色んなところに散っていって、歳を取り、色んなかたちで活動している。活動的な人間は、けっして立ち止まることを知らないから、あの頃のはてなやテキストサイトが衰退していくのは必然だ。しかし、なにもかも滅んだわけではない。
 
 あの頃のはてな、あの頃のテキストサイトは、私達の思い出となって沈潜しているだけでなく、社会のあちこちで新しい生活を実践していて、ところどころに花を咲かせているのだと思う。
 
 
 *     *     *
 
 
 ところで、今、「あの頃のはてな」や「あの頃のテキストサイト」に相当するネットコミュニティはどこにあるのだろう?
 
 つまり、これから各方面に散っていって活躍するであろう、20代~30代前半の前途有望&無望な若者が集まっているネットの"場"として、どこが想定されるのだろうか?
 
 twitterやインスタグラムがそうだという人もいるだろうし、実際、面白そうなことをやっている20代~30代の姿が私の視界にも入ってくる。けれども、これらのネットサービスは歴史が古く、なにより、あまりにも規模が大きい。あの頃のはてなやテキストサイトのような、適度な「狭さ」は伴っていない。
 
 SNSのたぐいは、サービス全体としては広大でも、近しいもの同士で繋がりあい、網の目のような縁を作っている。それでもネットサービスとしてはあまりにも規模が大きいので、「あの頃のはてな」や「あの頃のテキストサイト」のようなローカルコミュニティの共体験にはなりにくかろうとは思う。ちょうど、「あの頃のmixi」や「あの頃の2ちゃんねる」が茫漠として響くのと同じように。
 
 今の若い人々も、ネットのどこかで繋がりあい、影響を与えあい、十数年後には意外なところでお互いが出会い、驚いたりもするだろう。2010年代を思い出して、懐かしく思う日だって来るはずだ。ネットのコミュニティは新陳代謝が早いが、縁のあった人同士の記憶は長く残る。あの頃のはてなやテキストサイトも、これからのインターネットも、それはきっと変わらない。
 
 

ネットde政治闘争がとまらない背景心理

 
 2010年代に入って、インターネットで種々の政治闘争を見かける頻度が激増したように感じる。
 
 2000年代においても、いわゆる「ネトウヨ」は話題になっていて、匿名掲示板ではそういった人々とおぼしき書き込みは目に付いた。また、はてなブックマーク・はてなダイアリーあたりでも、極左的な政治闘争を叫ぶ人々の姿を目にしなくもなかった。
 
 そうはいっても、当時のネット政治闘争はまだしも限定的だった。2010年代に入ると、東日本大震災後の原発/反原発を皮切りに、ジェンダー・国政・表現・道徳秩序といったものについて、あちこちのアカウントが自分の声をあげはじめ、論争に飛び入った。そうやって声をあげはじめた無数のアカウント同士は、シェアやリツイートや「いいね」といった手段を使って繋がりあい、派閥というには曖昧とはいえ、ともかくも、ひとつのオピニオンの塊を為して激しくぶつかり合い、いがみ合うようになった。
 
 ネットでは、極端な主義主張を持った者の声が大きくなりやすい、と言われている。その実感もあるし数字としても裏付けられている。しかしそれだけではなく、2000年代には「ノンポリ」にみえたアカウントが、2010年代ではさまざまな政治闘争に繰り返し言及している、そんな風景を頻繁に見かけるようになった。
 
 そんな風景を十年前の私は予想していなかったし、望んでもいなかった。あの人も、この人も、なんらかの政治闘争に言及・コミットし、なんらかのポジションにもとづいてポジショントークを繰り広げている。そんな風に見えるインターネットが到来した。
 
 どうして、こんな風になってしまったのだろう?
 
 まさか、誰もが運動家になりたがったわけでもあるまい。そういう闘士気質の人なら、十年以上以前から闘争に参加しているだろう。そうではなく、およそ政治闘争など望んでいなかったはずの「市井の人々」までもがこぞって政治闘争に参加し、ときに、口汚いボキャブラリーを用いながらシンパの擁護とアンチの排斥にのめり込んでいるのは何故なのかを考えているうちに、一側面として思い当たるものがあったので、書き残しておくこととした。
 
 

消極的理由──不安や憤りを払いのけるための闘争

 
 誰もがなんらかの政治闘争にコミットするようになったのは、「みんなが政治闘争をしたくなった」といったポジティブな理由だけではあるまい。
 
 インターネットにありとあらゆる人が集まり、繋がり過ぎてしまったがゆえに、自分の思想信条や生活実態とは相いれないオピニオンが視界に入るようになってしまったからなのだろう。自分とは相いれないオピニオンが、一人や二人の発言ならまだしも、シェアやリツイートや「いいね」で繋がりあった、何百人~何万人ものオピニオンの塊をなして眼前にあらわれた時、その心理的な圧迫感・存在感を無視するのは難しい。大人数の政治闘争に慣れていなかった人々においては、とりわけそうだろう。
 
「自分の思想信条や生活実態に否定的な、巨大なオピニオンの塊が、大きな声で、きつい口調で、自分に向かって批判や非難を投げかけているような状況」に不安や憤りを感じないのは、なかなかに肝のすわった人物か、よほどメディア慣れしているプロな人物か、どちらかだろう。
  
 それ以外の大多数の人が、不安や憤りといったネガティブな感情にとらわれ、自分に近しい思想信条や生活実態を持った者同士で繋がりあい、対抗できるオピニオンの塊をつくろう・その一部に所属しようとするのは、動機としてはナチュラルなものだ。
 
 少なくとも私が観察している限りでは、そういった不安や憤りを動機として、政治闘争に口を出すようになっていったアカウントはそんなに珍しくないように思う。
 
 スマホでSNSを眺めている時の私達は一人きりだが、その際、対抗的なオピニオンの塊は何百~何万人もの大集団をもって目に飛び込んでくる。本当は、それは心理的にイージーな状況ではないはずなのである。
 
 そんな折、自分の思想信条や生活実態を代弁してくれるかのような別のオピニオンの塊が目に飛び込んでくれば、そちらに参加したくなる──というよりすがりつきたくなる──のは人情としてよくわかる。実のところ、政治闘争がやりたくて参画している人は少数派で、不安や憤りといったネガティブな感情にとらわれ、やむを得ず声をあげて群れるに至った人のほうが多いではないだろうか。
 
 

積極的理由──承認と所属

 
 とはいえ、不安や憤りが全てというわけでもない。
 
 現在のインターネットでは、どのような思想信条や生活実態の人でも、かならず近しい立場のアカウントやオピニオンの塊にどこかで出会える。政治闘争に参加し自分の意見を述べてみれば、稚拙な内容でもシェアやリツイートや「いいね」が獲得できる。というより、いくらか稚拙で極端な物言いのほうが歓迎されるふしすらある──自分では極端なことは言いたくないけれども、誰かに代弁してもらいたい人々だってインターネットにはたくさんいるからである。
 
 シェアやリツイートや「いいね」が絡んでくる以上、ネットの政治闘争に参加する者には承認欲求や所属欲求がついてまわることになる。
 
 反原発であれ、政治的な正しさについてであれ、表現を巡る諸問題であれ、それらについての自説を述べ、近しい立場のアカウントやオピニオンとシェアやリツイートや「いいね」で繋がりあえば、承認欲求や所属欲求が充たされる。ネットで政治闘争に参加すると、そういったソーシャルな欲求が必ずといって良いほど充たされてしまうのだ。
 
 かつての「ネトウヨ論」でも語られたことではあるが、そうした政治闘争への参加によるソーシャルな欲求充足は、日頃、そういった欲求に飢えている人や、充足の強度・純度が足りないと感じている人にはまたとない機会となる。日常では得にくい欲求充足を政治闘争の場で知ってしまって、なお節制をきかせるのは簡単ではないだろう。とりわけ、ハイレベルな承認や所属でなければ要求水準をみたせないような人*1にとっては、政治闘争の最前線で極論を繰り返すことが、最も簡単で現実的な欲求充足の手段たり得る点には注意しなければならない。
 
 よく、オンラインゲーム依存者やソーシャルゲーム依存者へのインタビューに「何者でもない自分でも何者かになれる」といった言い回しが登場するけれども、これは、ネットでの政治闘争にも適用できよう。ネットの政治闘争は、何者でもない人間を、なんらかのポジションを主張する何者かに仕立て上げる。たとえそれが、大多数からみれば燃え続ける泥人形だとしても。
 
 少なくともそういう論法が当てはまるとおぼしきインターネットアカウントは存在する。だからやめにくいし、エスカレートしやすいし、制御しにくい。ともすれば、政治闘争の悪鬼羅刹のようなアカウントになり果ててしまう。
 
 

繋がり過ぎてしまうネットメディアは人類には早すぎた

 
 不安に動機づけられるのであれ、欲求に味をしめてやめられなくなるのであれ、結局、この問題の根底には、あまりにも繋がり過ぎてしまうネットメディアの性質と、そうしたメディアの進化に全く追いついていない人間の心理構造とのギャップがあるのだろう。
 
 人間は社会的生物だから、他人の意見には敏感だし、ソーシャルな欲求をとおして不安も憤りも充足も感じる。その性質そのものは、太古の昔からほとんど変わっていない。
 
 しかし、SNSをはじめとするネットメディアは、あまりにもたくさんの人を繋ぎ過ぎてしまう。自分の思想信条や生活実態に敵対的なオピニオンが、毎日のように何千何万と群れているさまが可視化され、と同時に自分のシンパの巨大な集団がソーシャルな欲求を充たしてくれる状況が十年足らずでできあがったものだから、その政治闘争の磁場にあらゆる人が引きずり込まれ、不安と憤りと充足の坩堝にとらわれてしまった。
 
 2010年代以前は、「ネトウヨ」をはじめとする比較的少数の人々と少数のポジションがこの構図に当てはまっていたが、SNSが普及した2010年代以降、もっとたくさんの人々がインターネットに参加するようになると、より多くの立場のより多くの人々が政治闘争の磁場に呑み込まれていき、インターネットはあらゆるポジションのあらゆるポジションに対する闘争の舞台となり果てた。
 
 そうしたネットでの政治闘争の陰には、もとから政治闘争に血道をあげていた人々の姿が見え隠れすることがあり、もちろん彼らの"努力"もこうした状況に一役買っているのだとは思う。けれども、こうも収拾のつかない政治闘争の常設戦場と化してしまった背景には、あまりにも繋がり過ぎてしまい、あまりにも可視化され過ぎてしまうネットメディアというツールが、不安や憤りや充足によって動機づけられる人間の心理構造には早すぎた、という側面も多分にあるだろう。
 
 かくも過熱してしまったネットでの政治闘争の現状に、参加者の大半が不安や憤りや充足に動機づけられながら参加しているとしたら、そうした政治闘争が妥協点の摺り合わせや合意形成に向かわず、欲求充足に都合の良い、排他的で攻撃的なものになってしまうのは仕方のないことではある。もし、この構図をどうにかする余地があるとしたら、ネットアーキテクチャの変更や制御、制限のたぐいということになりそうだが、そんなことを誰が望み、誰がやってのけられるだろうか?
 
 一昔前までは、ノンポリのようにみえたあの人も、あの人も、みんな政治闘争の磁場に吸い寄せられ、運動家クローンのようになった姿を見て、私は寂しく思うことがある。しかし私とて他人事ではなく、現在のインターネット、ありとあらゆる思想信条や生活実態が衝突するこの環境のなかでは、多かれ少なかれ人はそうならざるを得ないのだろう。使い古された表現をするなら、「人間にはインターネットは早すぎた」、ということなのだろうけど、この構図は、いったいどのような結末に辿り着くのだろうか。
 
 

*1:ハイレベルな承認や所属でなければ要求水準を充たせない人については、拙著『認められたい』を参照。ナルシシズムの要求水準が高い人、と言い換えることもできる