シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

朝はマルコメ『料亭の味』+冷凍ネギに限る

 
 
anond.hatelabo.jp
 
 ダシをとって作った味噌汁が美味いのは当然だが、独り暮らしでは味噌汁が余ってしまい、残りを温め直してもあまりおいしくない。
 
 なので、独り暮らしの味噌汁はインスタントが正解……なんだけど、永谷園の「あさげ」「ゆうげ」あたりは美味いっちゃ美味いけれどもコスパがあまり良くない。
 
 コスパと美味さをインスタントで両立させるなら、「マルコメ」の料亭の味に冷凍ネギや冷凍あさつきを入れるのが一番手っ取り早いんじゃないか、と思う。
 
 

マルコメの即席味噌汁は最高

 
 
 マルコメの味噌汁は大学在学中に覚えた。
 

マルコメ だし入り料亭の味 750g

マルコメ だし入り料亭の味 750g

 
 私は北陸出身なので、もともとは「日本海味噌」のファンだった。石川県人と富山県人にはおなじみの、「ゆきちゃんのたよりの麹味噌」ってCMを小さい頃から聴き続けてきたのだから当然だろう。
 

【懐かCM】日本海味噌 春夏秋冬フルバージョン【CM特集】
 
日本海 雪ちゃん こうじみそ カップ 1kg

日本海 雪ちゃん こうじみそ カップ 1kg

 
 
 ところが長野県に来てマルコメの味噌に出会い、即席味噌汁の「料亭の味」を覚えてからは、これに鞍替えしてしまった。あらかじめネギを刻んで冷凍庫に大量保存しておき、「料亭の味」にお湯を注ぐ際に刻んだネギをまぶすと、即席味噌汁としては十分すぎる。ぜいたくではないが、独り暮らしの朝食にはこれで十分だ。いろいろ試したけれど、市販の乾燥野菜を入れるよりは、冷凍ネギのほうが断然いい。
 
 かつて、ある先輩が「朝、味噌汁を飲むと血圧が上がってシャッキリするぞ」と言っていたので私も真似するようになったのだけど、実際、この習慣が身に付いてからは午前中にボヤボヤすることが減ったように思う。そんなこんなで、私はマルコメの即席味噌汁のファンになった。ファンだから、こうやって宣伝している*1
  
 
 マルコメの「料亭の味」には、いくつもの美点がある。 
 
マルコメ 生みそ汁料亭の味しじみ 152g

マルコメ 生みそ汁料亭の味しじみ 152g

 
 美点その1。価格が安いこと。
 
 Amazonで買ってさえ、一食あたり20円もしない。スーパーで安売りしている時には、一食あたり10円程度で手に入ることもある。一カ月欠かさずに飲んでも300円。永谷園の「あさげ」やクノールカップスープも安いのだけど、本当に安売りしている時のマルコメには一歩及ばない。
 
 この程度の出費で午前中のクオリティが大きく変わるのだから、安いものである。電子レンジで温めたご飯と冷凍ネギさえ揃っていれば、朝食のコストパフォーマンスはほとんど最高レベルに到達する。それでいて満足がある。バッチリだ。
 
生みそ汁 料亭の味とん汁 4食×12袋

生みそ汁 料亭の味とん汁 4食×12袋

マルコメ 生みそ汁料亭の味わかめ 216g

マルコメ 生みそ汁料亭の味わかめ 216g

 
 美点その2。
 
 ふたつ。種類が多いこと。
 
 激安な即席味噌汁にも関わらず、「料亭の味」にはそれなりバラエティがあるので、ローテートさせるとなかなか飽きない。月曜日はわかめ、火曜日はしじみ、水曜日は赤味噌、木曜日はあさり……といった風にやれば永久機関である。ネギをちゃんと入れればどれもおいしい。
 
 どうしても飽きが感じられた時や、「今日は気合を入れていきたい」と思った時にはとん汁の出番だ。「料亭の味」シリーズのなかでは少し値段が高いけれども、具材には力が入っている。このとん汁をローテーションに時々混ぜてやることで、独り暮らしの味噌汁永久機関は完璧になる。
 
 
マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩しじみ 8食×12個

マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩しじみ 8食×12個

マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩わかめ 12食×12個

マルコメ 生みそ汁 料亭の味減塩わかめ 12食×12個

 
 美点その3。
 
 減塩バージョンがあること。
 
 味噌汁は素晴らしい日本の文化だが、塩分が嵩むのが欠点だ。しかし「料亭の味」には減塩バージョンがあり、欠点をある程度は補える。わかめやしじみを買うなら減塩バージョンをお勧めしたい。値段も味もそこまでは違わない。売っていたら即ゲットだ。
 
 

マルコメ味噌は信州の味でもある

 
 ちなみに、マルコメ味噌は長野県長野市が本社の「地方企業」だ。長野県の大学を出た私としては、マルコメの「料亭の味」シリーズを買い続けることで、ほんの少しだけ、長野県を応援している気持ちになれるので、いつでもどこでも買っている。長野県を応援したい人にもオススメだ。おいしい味噌汁を飲んで、元気出していきましょう。
 
 

*1:注:別にお金をもらっているわけではありません。ファン活動です。

「超自我」は滅びんよ、何度でも甦るさ

 
 フロイトは、自我とイド*1と超自我の三つの概念を用いて精神機能を説明した。「精神分析なんて古い」と考えている人にとって、この精神機能のモデルはいかにも古風に聞こえるだろうし、時代遅れにも感じられるだろう。
 
 わけても、時代遅れに聞こえそうなのが超自我だ。
 
 自分の行動が社会のルールからはみ出さないか、禁じられた行為をしていないかを自己検閲し、自分自身の行動どころか思考にまでブレーキをかける、そういう精神機能のことを超自我と呼ぶ。
 
 昔、超自我はしばしば性的な取り決めと関連づけて語られていた。精神分析が生まれたころのヴィクトリア朝時代のヨーロッパ、とりわけフロイトが顧客とした中~上流階級の子弟においては、性についての社会のルールは厳格をきわめていた。とりわけ女性は、その厳格な性的な取り決めによって束縛されていた。
 
 当時の女性たちは、ジェンダーやセクシャリティについて、実社会で束縛を受けていただけではなかった。女性たちへの束縛は、物心つく頃までにはプリインストールされていて、意識すらされないような、内面化された規範意識や常識のレベルにまで及んでいた。彼女たちは厳格な性的取り決めを内面化していて、しかも、それを意識することすら難しかったからこそ、束縛は逆らい難いものだった。本来なら奔放な性衝動がある女性でも、その衝動には無意識の水準でブレーキがかけられ、それが葛藤を、ひいては神経症症状を生み出す──というわけだ。フロイトが活躍したフィールドには、そのような葛藤を抱え、神経症症状を呈していた女性が珍しくなかったことを思えば、フロイトが持論のとっかかりとして性の問題に着眼した(というより着眼し過ぎてしまった)のはわかる気がする。
 
 むろん、当時の男性も「男性かくあるべき」という規範意識や常識を内面化していたし、当時は男性役割についての取り決めも現在よりも厳格だったから、これは女性だけの問題ではなかった。まとめると、「19世紀のヨーロッパの中~上流階級に広まっていた規範意識・常識が、物心つくまでにプリインストールされ(=超自我)、自分自身の衝動や境遇との間に齟齬が生じていれば、葛藤や神経症症状を起こす余地がある」となるだろうか。
 
 

21世紀に「超自我」はあるやなしや

 
 それから長い歳月が流れて、社会は大きく変わった。
 
 19世紀には厳格だった性的な取り決めは、20世紀をとおして大幅に緩和された。21世紀の先進国では、「男性かくあるべき」「女性かくあるべき」を個々人に押し付けることは好ましくないこととみなされている。個人の自由や個性が尊重され、自主的選択にもとづく多様性が尊重される社会では、フロイトが論じた頃と同じような超自我も、それに起因する葛藤や神経症症状も、そう滅多にお目にかかれるものではなくなった。
 
 では、「超自我」は無くなってしまったのだろうか。
 
 すなわち、「物心つくまでにプリインストールされ、意識すらされないけれども、自分の行動が社会のルールからはみ出さないか、禁じられた行為をしていないか検閲して、自分自身の行動どころか思考にまでブレーキをかける、そういう精神機能」はもう無くなったのだろうか。
 
 私の記憶が間違っていなければ、20世紀後半の精神分析方面の論者のなかには、「現代人には超自我があまりみられない」「超自我に束縛される精神性より、歯止めのきかない精神性のほうが今日的だ」といった論調の人ががいたように思う。
 
 フロイトが活躍した頃と同じ内容の超自我がみられなくなった・フロイトが語ったとおりの葛藤や神経症症状が少なくなったという意味では、それは間違っていないだろう。
 
 では、現代人には本当に超自我は無くなったのだろうか?
 
 私にはそうは思えない。
 
 たとえば、少し前に人気を博した漫画『東京タラレバ娘』の内容は、「女性の生き方かくあるべし」を強固に内面化したいまどきの女性たちを描いたものだった。
 
 [関連]:『東京タラレバ娘』という神経症的葛藤 - シロクマの屑籠
 
 彼女たちのような「女性の生き方かくあるべし」は、2018年現在、早くも時代遅れになりつつある感はあるし、女性がみな同様の「かくあるべし」をプリインストールされているとは思えない。だが、この漫画がそれなりのセールスを記録したということは、「かくあるべし」を多かれ少なかれ内面化した女性がそれなりいたことを暗に示しているように、私には思われた。
 
 のみならず、現代社会には現代社会なりに、たくさんの「かくあるべし」が存在している。いくつか挙げてみると、
 
 ・私達は自己主張し、自己決定して、独立した意志にもとづいて生きるべし。
 ・私達は資本主義のロジックに基づいて考え、行動すべし。
 ・私達は多様化した社会に相応しいモノの考え方と言動を心がけるべし。
 ・私達は街で他人に迷惑をかけないように行動すべし。
 ・私達は他者から承認される個人たるべし。
 
 19世紀の日本と21世紀の日本を比べると、これらの「かくあるべし」は、21世紀のほうが段違いに強力で、幅広いものとなっている。たとえば、大都市圏のホワイトカラー層の家庭で生まれてきた子どもが、こういった「かくあるべし」をプリインストールされることなく成長することは、おそらく不可能だろう。20世紀後半に生まれてきた子どもらも、多かれ少なかれ、こうした考えをプリインストールされていた側面はあろうけれども、これらの「かくあるべし」が社会のなかで当然視されている度合いは段違いである。これらの「かくあるべし」に関する限り、21世紀は20世紀よりも「かくあるべし」が強固にプリインストールされ、自明とみなされやすい社会だ。
 
 言い換えれば、これらの「かくあるべし」から本当は逸脱したい個人や、逸脱することしかできない個人にとって、神経症的葛藤や罪悪感が生じやすい社会だとも言える。そこまでいかなくても、「かくあるべし」によって生き方や社会適応のありかたを制限され、不自由な状況に甘んじている人が生じやすい社会だとは言えよう。
 
 だとすれば、21世紀において超自我について考える際には、フロイト時代の「かくあるべし」に基づいて考えるのでなく、21世紀ならではの「かくあるべし」に即して考えるのが妥当ではないだろうか。
 
 フロイト時代の論説をそのまま現代人に当てはめるなら、「精神分析は時代遅れ」「超自我なんて時代遅れ」というのはそのとおり。
 
 だが、今日の社会に蔓延している常識やルールを踏まえて、それなら今日の超自我とは何なのかをキチンと考えられるなら、葛藤まみれで自縄自縛な現代人について考える際にはいぜん有効ではないだろうか。
 
 あるいは、現代人の精神の自由について考える際には、あったほうが良い思考モデルではないだろうか。
 
 尤も、超自我という概念は無意識を前提としていて、この、無意識というやつが、現代人にはすこぶる受けが悪い。現代人の大半は「無意識なんて考える必要はない、すべては意識的に、自分で考え自分で決めたとおりのことだ」と考えたがる。本当はそんなはずが無いのに。それもまた、今日の「かくあるべし」のひとつかもしれないし、現代人にとっての躓きの石たりえるのかもしれない。
 
 

*1:またはエス

「あの頃の秋葉原」として眺める『シュタインズ・ゲート』

 

STEINS;GATE ELITE - Switch

STEINS;GATE ELITE - Switch

 
 
 2018年も3カ月を切って、秋アニメが始まった。そのため、連休中に『シュタインズ・ゲート ゼロ』の録画を慌てて見て、秋という季節のせいか感傷的な気分になった。というか、最近どうも感傷的になりやすく、思い出話ばかりブログに書いている。良くない傾向だ。
 
 
【アニメ版『シュタインズ・ゲート ゼロ』そのものについて】
 
STEINS;GATE 0 - PS Vita

STEINS;GATE 0 - PS Vita

 
 
 アニメ版の『シュタインズ・ゲート ゼロ』は、かなり頑張っていた。
 
 予習としてゲーム版をプレイしてはいたけれども、正直、2009年の『シュタインズ・ゲート』の正統な続編というにはシナリオが弱いというか、元気の出ない岡部倫太郎と、その周辺の鬱々とした物語を魅力的にみせるだけの精緻さを欠いているように思われた。ファンディスク『比翼恋理のだーりん』では許容されたシナリオのユルさも、正統な続編ではちょっと許容しづらい。個人的には「これなら初代だけで美しく完結していたほうが良かったのでは?」と思わなくもなかった。
 
 それでも、アニメ版は頑張っていた。
  
 おそらく制作予算にそれほど余裕は無かっただろう。にも関わらず、できるだけ美しく、できるだけ面白くしようと工夫した跡がたくさんみられたし、端折って構わないところはできるだけ端折り、補うべきものを補っているように見受けられた。もちろんゲーム版が一方的に劣っているわけではなく、ゲーム版のほうが描写の細かい部分もあるが、マルチエンディングなゲーム版と一本ルートなアニメ版の違いをカバーした「移植」はたいしたものだったと思う。
 
 
【ガラケーからスマホに持ち替えても、雰囲気は00年代】
 
 それより本題に移ろう。
 
 かつて、ガラケーに向かって「エル・プサイ・コングルゥ」とつぶやいていた岡部倫太郎は中二病をやめ、『シュタインズ・ゲート ゼロ』ではスマートフォンに持ち替えていた。ラボメン同士の連絡もメールではなく、LINEを使っている。
 
 ところが『シュタインズ・ゲート ゼロ』が2010年代風かというと……そんなことはない。ゲーム版がリリースされたのが2015年だが、体感的には、00年代後半の雰囲気にみえてしまう。
 
 リリースが2015年で舞台が2011年だから、懐かしい雰囲気になるのは不思議ではないし、そうでなければ『シュタインズ・ゲート』っぽくもないのだろう。良きにつけ悪しきにつけ、『シュタインズ・ゲート』シリーズは2011年以前の雰囲気、もっと言えば00年代の秋葉原の雰囲気から逸脱していない。
 
 スマホやLINEを使うようになっても、結局、ラボメンは00年代の雰囲気を手放さなかった。コスプレ。メイド喫茶。2ちゃんねる用語。そしてダルという「変態紳士」。初代『シュタインズ・ゲート』では、そういった00年代のオタクカルチャーやオタク仕草がストーリー進行に不可欠な要素として描かれていたが、10年代の『シュタインズ・ゲート ゼロ』でも基調は変わらない。
 
 秋葉原の描かれかたにしてもそうだ。『シュタインズ・ゲート ゼロ』で描かれる秋葉原もまた、00年代後半っぽい、「オタクの街」としての面影が残っている頃のものだ。ダルと阿万音由季のデートシーンあたりは「普通の街」になりつつある秋葉原を連想させるけれども、それでもなお、作中の秋葉原は「普通の街」や「観光の街」にはなっていない。
 
 『シュタインズ・ゲート ゼロ』のストーリーでは、その秋葉原で第三次世界大戦が始まり、平和だった世界は失われていく。そういう筋書きのせいか、いよいよもって私には「あの頃のオタクと秋葉原」がノスタルジックに、失われゆく世界に感じられた。ラボメンたちの奮闘が、失われゆく一時代に拘泥している自分自身、あるいは周囲の中年(元)オタクにダブってみえることもある。
 
 ラボメンたちの奮闘が、私自身の懐古の気分と混じり合って、なんとなく混乱してしまうのだ。世界線だのタイムマシンだのが登場する作品だけに、その混乱も楽しみのうちなのかもしれないが。
 
 現実世界では第三次世界大戦は起こっていないが、それでも秋葉原の街並みは変わり、オタクもオタク仕草も変わっていった。今となっては、『シュタインズ・ゲート』シリーズで描かれる諸々は思い出の領域だ。それだけに、00年代のオタクや秋葉原に思い入れのある人にはたまらないものがある。
 

 
 2010年代からみた『シュタインズ・ゲート』シリーズは、在りし日のオタクにとっては素晴らしいタイムカプセルだ。そういう意味でも、『シュタインズ・ゲート エリート』初回版特典としてファミコン版がついてくるのはいかにもお似合いだった。『シュタインズ・ゲート』シリーズは、在りし日を懐古するためのタイムカプセルという位置づけに(少なくとも現在は)おさまっているのだろう。
 
 
 
【10年代と「中二病」の死】
 
 で、岡部倫太郎、である。
 
 『シュタインズ・ゲート ゼロ』では岡部倫太郎がすっかり普通の大学生になっていて、初代『シュタインズ・ゲート』で「鳳凰院凶真」を名乗っていた面影が失われている。
 
 ストーリー上、ほかのラボメンたちは「鳳凰院凶真」の復活を望んでいるのだが、2018年から眺めると、これがちょっと奇妙にうつる。というのも、中二病を捨てた岡部倫太郎だけが10年代風の雰囲気をまとっていて、他のラボメンたちが00年代のオタクの雰囲気を引きずり、その古いありように岡部倫太郎を引きずり戻そうとしているようにもみえるからだ。
 
 『シュタインズ・ゲート』シリーズは、中二病的なパワーが物語の駆動力になっているから、ラボメンたちが「鳳凰院凶真」の復活を望むのはおかしくない。
 
 ところが、現実世界における中二病の位置づけが変わってしまったことで、『シュタインズ・ゲート』で描かれる中二病を、00年代の頃と同じ風には見られなくなってしまった自分自身に気づいてしまった。
 
 
 一般に、「中二病」という言葉は伊集院光のラジオ番組が初出とされている。いくらかニュアンスの変化はあったにせよ、その後、この言葉は広く知られるようになり、今ではそこらのママさんや小学生でさえ「中二病」という言葉を知っている。広く知られてしまったことによって、中二病概念は良くも悪くも陳腐化してしまった。小学生のうちから中二病という言葉を知り、それが滑稽な仕草だと世間に知られてしまうと、もはや、中二病はかつてと同じようには存在し得ない。
 
 中二病は、あまりにも広く知られてしまったことで神秘性を失い、ベタにやるものではなく、メタかネタとしてやるものになってしまった。
 
 そうした社会変化のもとで眺める「鳳凰院凶真」は、まだ中二病という言葉が死んでいなかった頃の「鳳凰院凶真」とは違った風にみえる。岡部倫太郎というキャラクターの面白さは、ある部分で中二病という言葉の尖り具合に依存していたというのが、今ならよくわかる。中二病という言葉が陳腐化し、すり減ってしまった2018年において、「鳳凰院凶真」とは、戻らぬ輝きだ。その戻らぬ輝きを、時間遡行によって取り戻そうというのである。
 
 このあたり、ゲーム版ではちょっと食い足りない感じがあったけれども、アニメ版は精一杯「鳳凰院凶真」の輝きを描こうとしていて好感が持てた。その輝きには「残光」という言葉がよく似合うようには思われたが。
 
 
【過去を思い、時の流れに思いを馳せる】
 
 『シュタインズ・ゲート』と『シュタインズ・ゲート ゼロ』は00年代後半の雰囲気をまとっているが、見る側は歳を取り、平成の世も終わりを迎えようとしている。今、このシリーズを鑑賞し直してつくづくわかるのは、時間は流れていくということ、私達も時代も街も変わっていくということだ。
 
 それだけに、タイムカプセルとしての『シュタインズ・ゲート』シリーズには記念碑的な価値があるともいえるし、時間遡行という作品のテーマにもよくマッチしていたようにみえる。
 
 今後、このシリーズがどのように変わっていくのかはわからないけれども、今は「あの頃の秋葉原の思い出」として大切にしておこうと思う。エル・プサイ・コングルゥ。
 

『ドラクエ』当時のRPG体験談集&私の思い出

 
 
 
  
 2018年10月、インターネットの一角で、80年代のコンピュータRPGの話がとつぜん盛り上がった。
 
【ゲーム文化】俺たちをなかったことにするのヤメロ【1980年代】 | 触接地雷魚信管


昔の子供って海外PCでしかプレイ出来なかった頃からウィザードリーとかウルティマを知ってたよね - Togetter
 
 これらを起点に複数のゲーム体験談がアップロードされた(下記リンク先参照)。ひとつのきっかけから複数の証言や意見が集まるのは、インターネットの楽しいところだと思う。
 
俺たちは何故、周囲で誰も持っていないパソコンのゲームについて知っていたのか: 不倒城
1978年生まれのクソガキraf00がPCゲームを知っていたという証言 | memo@raf00
『周囲で誰も持っていないパソコンのゲームについて知っていた』のは、あなた方がそれなりの都会で育ったからですよ! - 自意識高い系男子
「マイコンゲーム耳年増」だった頃のこと - いつか電池がきれるまで
30年前のPCゲームを取り巻く環境の話。 - トイボックス エンヂニアリング
1975年生まれのPCゲームに対する証言 - novtanの日常
 
 
 並べてみると、世代や立ち位置によって体験の違いはあるにせよ、パソコンのロールプレイングゲームを意識していた小学生~中学生はそれなりに存在していたようにみえる。
 
 

意外にパソコンゲームは知られていた

 
 この機会に、当時の思い出話を書いておく。
 
 私は北陸地方の田舎出身だったが、同級生男子のうち、初めてのRPGが『ドラクエ』以降だった人はだいたい7~8割ではなかったかと思う。
 
 『ドラクエ』以降にRPGを知った同級生が多かったのは事実ではある。ただし、そういう同級生はゲーム世界のレイトマジョリティというか、比較的遅くにファミコンを買い、比較的遅くにRPGを知った、そういう小学生たちだった。彼らは情報源をジャンプとファミマガに頼っていて(当時、私の周囲ではファミ通よりファミマガのほうが情報誌としてあてにされていた)、ファミコン以外のコンピュータゲームには関心を示していなかった。
 
 対照的に、今ならアーリーアダプターと呼びたくなるような小学生もいた。ファミコンでいえば、『ロードランナー』ぐらいからファミコンで遊んでいたような小学生だ。あるいは、なんらかの事情で自宅にパソコンが据え置かれている小学生、父親や兄がパソコンを使いこなし、ベーシックマガジン(ベーマガ)やログインが自宅に置いてあるような小学生だ。
 
 ある高学歴一族の同級生などは、小学生時代からPC8801系のゲームを違法コピーしてみせていた。私の周囲では「終盤の攻略は不可能」とみなされていた『ブラックオニキス』の最深部も、彼は突破していた。
 
 そういう意味では、田舎とはいえ恵まれた環境だったのかもしれない。公務員系の家庭や、中小企業の経営者の家庭などにはパソコンが置かれがちで、それなり興味を持つ機会があったからだ。
 
 

『ザナドゥ』と『ドルアーガ』の衝撃

 
 私自身は、そういう状況のなかでゲームに飢えた小学生だった。ファミコンが自宅に来たのはファミコン版『ゼビウス』の頃だったし、もちろん、自宅にはパソコンなんて無かった。 
 
 近所にPC8801mk2SRを持っている同級生がいて、高校生の兄がいたためか、『マッピー』や『ヴォルガード』などが置かれていた。それからしばらくして、黎明期のロールプレイングゲームである『ドラゴンスレイヤー』や『ハイドライド』なども置かれるようになったけれども、その段階では、ロールプレイングゲームにはあまり興味が持てなかった。
 
 『ドラゴンスレイヤー』はわかりにくかったし、『ハイドライド』もつまらなそうだった。「同じ動作を繰り返して経験値を稼いで強くなる」というコンセプトが、当時の私には受け入れられなかった。
 
 私が初めてロールプレイングゲームに惹かれたのは1985年だった。

 ある日、パソコンゲームにもアーケードゲームにも詳しい小学生の家に『ザナドゥ』というゲームが来たという話を聞いて、何人かの小学生でそれを見に行った。
 

ザナドゥコンプリートコレクション with マップ&データ ([バラエティ])

ザナドゥコンプリートコレクション with マップ&データ ([バラエティ])

 
 
 『ザナドゥ』は、それまでのロールプレイングゲームとは全然違っていた。道場やお店を訪れるたびにファンタジー世界っぽい挿し絵が表示される──まず、その演出に目を奪われた。
 
 そして広大な地下世界と、さまざまなモンスターとアイテム! 『ハイドライド』などとは違って、『ザナドゥ』のモンスターは序盤から種類が多く、いろいろなアイテムを落とすのだった。地下世界のところどころに「ダンジョン」が存在し、その最深部には巨大なボスが待ち構えていた。まだデカいキャラクターが動くだけで価値があった時代のことである。
 
 このように、インパクトだらけな『ザナドゥ』ではあったけれども、パソコンごと『ザナドゥ』を借りることは不可能だった。
 
 しかし幸運なことに、私は『ザナドゥ』の取扱説明書を借りることができた。この取り扱い説明書には、イラスト付きの全モンスター解説と「こんなキャラクターを作ったら、こんな風に冒険が進んで、こういう最期を迎えました」という冒険譚が掲載されていて、一冊の本のような呈をなしていた。
 
 『ザナドゥ』をプレイできた時間は短かったけれども、取扱い説明書を読んだ時間は長く、脳内で膨らませたファンタジー妄想はものすごく大きかった*1
 
 ちょうど同じ頃、私はベーマガでアーケード版『ドルアーガの塔』の攻略記事を見かけて、これにも強い魅力を感じた。『ドルアーガの塔』も、それまでのロールプレイングゲームではあり得ない種類のアイテムとモンスターを擁していて、しかも誌面の大半は「宝箱の出し方」という神秘的な解説に費やされていた。
  
ドルアーガの塔

ドルアーガの塔

 
 
 当然ながら、のちにファミコン版が遊べるようになったとたん、私は『ドルアーガの塔』を猿のようにやり込んだが、それまでは、ベーマガなどから得られた断片的情報をもとに、私はひたすらファンタジー妄想を脳内で膨らませ続けていた。就寝前のひとときは、必ずといっていいほど『ザナドゥ』や『ドルアーガの塔』の二次創作的空想に耽っていたぐらいである。
 
 私自身のロールプレイングゲーム原体験にして、ゲーム的妄想力の鍛錬所となったのは、間違いなくこの二作品だった。
 
 

『ドラクエ』が本当に流行ったのは2や3から

 
 で、1986年に初代『ドラゴンクエスト』が発売されると、さすがに人気があって、学校では「太陽の石」や「ロトのしるし」の話が盛り上がった。それでも『スーパーマリオブラザーズ』ほど圧倒的ではなかった。アドベンチャーゲームブックもまだ流行っていたし、PC派は『破邪の封印』や『イース』へと向かっていった。私がPC98版の『ウィザードリィ』を見せてもらったのもこの時期だ。
 
 初代『ドラクエ』はPC派の牙城を崩すには力不足だった。
 
 私の周囲で『ドラクエ』シリーズが本当にブレイクし、いよいよRPG=家庭用ゲーム機という構図ができあがったのは、『ファイナルファンタジー』シリーズや『女神転生』シリーズなどが揃ってからだった。1980年代後半はテーブルトークRPGも流行したし、もちろん『ロードス島戦記』や『ドラゴンランス戦記』なども読んでいたけれども、圧倒的な普及率を誇る任天堂ハードと、黄金期を迎えたスクエア・エニックスに比べれば、マイナーという印象は否めなかった。メガドライブの『ファンタシースター2』などは、セガハードでRPGを遊ぼうなどという酔狂な人々の専有物だったことは言うまでもない。
 
 

個人の体験を集まって、当時の風景を思い出した

 
 以上は私個人の思い出話だけど、冒頭リンク先の話題や体験談と照らし合せると、パソコン側のロールプレイングゲームの流れと、『ドラクエ』周辺の任天堂ハードのロールプレイングゲームの流れが重なり合った、当時の風景が思い出された。
 
 それらを歴史のページにどう綴じていくのは研究家に任せるほかないけれども、とりあえず、当時を憶えている者の一人として、自分が見聞きした体験は書き残しておきたいと思う。
 
 

*1:ちなみに、私自身が『ザナドゥ』そのものを自力でクリアできたのは、それから数年後、MSX版の『ザナドゥ』が発売され、それをMSX2ごと借りてからのことだった。

あの頃を無かったことにしないためにブログを書く

 
 時代は移ろい、人は昔のことを忘れていく。
 

 

目で見る新宿区の100年―写真が語る激動のふるさと一世紀

目で見る新宿区の100年―写真が語る激動のふるさと一世紀

 
 この写真は『目で見る新宿区の100年─写真が語る激動のふるさと一世紀』から抜粋したものだ。版元は郷土出版社、郷土の風景や文学をおさめた書籍を多数出版していたが、2016年に廃業となってしまった。この出版社のこと自体も、やがて忘れられていくだろう。
 
 2018年も、2068年には50年前のことになり、2118年には100年前になる。記録されないものは速やかに忘れられ、無かったことにされる。無かったことにされないためには、まず、記録しなければならない。
 
 私がブログを書いている理由は複数あるが、「あのことを無かったことにしないために書く」というのは重要度が高い理由のひとつだ。
 
 西暦2006年。
 
 インターネットの片隅では、「脱オタクファッション」や「非モテ」を巡って喧々諤々の論争があった。「脱オタクファッション」「脱オタ」という言葉を覚えている人は、今のインターネットに一体どれぐらいいるだろうか。
 
 西暦2008年。
 
 秋葉原の日曜歩行者天国は、コスプレをはじめ、様々な演し物で賑わっていて、その賑わいをいいことに、過激なパフォーマンスをする者や狼藉を働く者が問題になりはじめていた(参考:1. 2.)。個人的には、秋葉原が、最も無秩序で熱量のあるオタクカルチャーの焦点と化していたのは2007年ぐらいだと思う。そして2008年の夏に連続通り魔事件の起きて以降、あの頃の無秩序さと熱量はいよいよ失われた。
 
 西暦2010年。
  
 気の早いネットユーザーはtwitter上で新しい楽しみを享受していた。今日の、あまりにも多くの人が参入して、あまりにも政治的な言論装置と化してしまったtwitterとは異なっていたあの景色。あの景色を、みんなは覚えているだろうか。
  
 

 
 諸行無常は世のならい。
 
 そうこうするうちに、はてなユーザーには馴染み深い「はてなダイアリー」も、いよいよサービス終了を迎えることになった。
 
 ブログと一言で言っても、「はてなダイアリー」はひとつの世界だった。むろん、「アメブロ」や「FC2」もひとつの世界なのだが、ともかくも、「はてなダイアリー」というブログサービスがあり、はてなブックマークという仕組みが乗っかっているおかげで、「はてなダイアリー」はひとつの世界たりえた。
 
  オフ会や揉め事をとおして、多くのブロガーが気脈を通じあわせて、あるいは敵愾心を燃やし合った。対立やトラブルに倦んでブログを閉鎖した者もいた。それ以上にたくさんのブログが、自然消滅していった。
  
 そういう営みの是非については、人によって色々な意見があるだろう。しかし、さしあたって私は「はてなダイアリー」のことを忘れたくないから、その時のことはこれからも書き続けるだろうと思う。00年代に定番となった「男の娘」のことだって、2010年代の『まどか☆マギカ』や『艦これ』や『スプラトゥーン2』のことだって、とにかく、書かなければ後には残らない。
  
 そうこうするうちに、たくさんのウェブサイトを擁していたジオシティーズが閉鎖されるという報せが舞い込んできた。
 
 
 
 ブログが台頭する以前はウェブサイトの時代だった。自分が書きたいことを延々と書き綴るウェブサイトもあれば、BBSを使った内輪のコミュニケーションに耽るウェブサイトもあった。あの時期こそが一番インターネットに熱気があったと記憶している人もいるだろう。
 
 だが、それらも過ぎ去ってしまったインターネットであり、散逸しかねない記憶でもある。
 
 ある時期、インターネットが「永遠に残る記憶」であるかのように語られていた時期があった。ところがサービス終了することを知っている現在の私達は、インターネットの記憶が簡単に風化してしまうことを知っている。
 
 そのために書くわけではないにせよ、私がブログを書き綴る理由の一部は、そうした風化を少しでも先送りにするため・自分が過ごした時間が無かったことにされてしまうのを引き延ばすためである。このブログに、昔を思い出す内容の記事や、過去と現在を比較して未来を想像するような記事が多々あるのもそのせいだ。
 
 「あの頃を無かったことにしないためにブログを書く。」「あの頃を忘れてしまわないための文章を綴る。」
 
 人間は、過去を忘れてしまう生き物だ。だから書き残されていないものが忘れられてしまうのは必然。
 
 だったら書き残すしかないではないか。
 
 このブログもいつかは電子の海の藻屑となり果てるだろう。だとしても、その日までは、ウェブサイトの時代やブログの時代に起こったこと書き留め続けつづけるつもりだ。私は、あの頃のことを忘れたくない。