シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『ドラクエ』当時のRPG体験談集&私の思い出

 
 
 
  
 2018年10月、インターネットの一角で、80年代のコンピュータRPGの話がとつぜん盛り上がった。
 
【ゲーム文化】俺たちをなかったことにするのヤメロ【1980年代】 | 触接地雷魚信管


昔の子供って海外PCでしかプレイ出来なかった頃からウィザードリーとかウルティマを知ってたよね - Togetter
 
 これらを起点に複数のゲーム体験談がアップロードされた(下記リンク先参照)。ひとつのきっかけから複数の証言や意見が集まるのは、インターネットの楽しいところだと思う。
 
俺たちは何故、周囲で誰も持っていないパソコンのゲームについて知っていたのか: 不倒城
1978年生まれのクソガキraf00がPCゲームを知っていたという証言 | memo@raf00
『周囲で誰も持っていないパソコンのゲームについて知っていた』のは、あなた方がそれなりの都会で育ったからですよ! - 自意識高い系男子
「マイコンゲーム耳年増」だった頃のこと - いつか電池がきれるまで
30年前のPCゲームを取り巻く環境の話。 - トイボックス エンヂニアリング
1975年生まれのPCゲームに対する証言 - novtanの日常
 
 
 並べてみると、世代や立ち位置によって体験の違いはあるにせよ、パソコンのロールプレイングゲームを意識していた小学生~中学生はそれなりに存在していたようにみえる。
 
 

意外にパソコンゲームは知られていた

 
 この機会に、当時の思い出話を書いておく。
 
 私は北陸地方の田舎出身だったが、同級生男子のうち、初めてのRPGが『ドラクエ』以降だった人はだいたい7~8割ではなかったかと思う。
 
 『ドラクエ』以降にRPGを知った同級生が多かったのは事実ではある。ただし、そういう同級生はゲーム世界のレイトマジョリティというか、比較的遅くにファミコンを買い、比較的遅くにRPGを知った、そういう小学生たちだった。彼らは情報源をジャンプとファミマガに頼っていて(当時、私の周囲ではファミ通よりファミマガのほうが情報誌としてあてにされていた)、ファミコン以外のコンピュータゲームには関心を示していなかった。
 
 対照的に、今ならアーリーアダプターと呼びたくなるような小学生もいた。ファミコンでいえば、『ロードランナー』ぐらいからファミコンで遊んでいたような小学生だ。あるいは、なんらかの事情で自宅にパソコンが据え置かれている小学生、父親や兄がパソコンを使いこなし、ベーシックマガジン(ベーマガ)やログインが自宅に置いてあるような小学生だ。
 
 ある高学歴一族の同級生などは、小学生時代からPC8801系のゲームを違法コピーしてみせていた。私の周囲では「終盤の攻略は不可能」とみなされていた『ブラックオニキス』の最深部も、彼は突破していた。
 
 そういう意味では、田舎とはいえ恵まれた環境だったのかもしれない。公務員系の家庭や、中小企業の経営者の家庭などにはパソコンが置かれがちで、それなり興味を持つ機会があったからだ。
 
 

『ザナドゥ』と『ドルアーガ』の衝撃

 
 私自身は、そういう状況のなかでゲームに飢えた小学生だった。ファミコンが自宅に来たのはファミコン版『ゼビウス』の頃だったし、もちろん、自宅にはパソコンなんて無かった。 
 
 近所にPC8801mk2SRを持っている同級生がいて、高校生の兄がいたためか、『マッピー』や『ヴォルガード』などが置かれていた。それからしばらくして、黎明期のロールプレイングゲームである『ドラゴンスレイヤー』や『ハイドライド』なども置かれるようになったけれども、その段階では、ロールプレイングゲームにはあまり興味が持てなかった。
 
 『ドラゴンスレイヤー』はわかりにくかったし、『ハイドライド』もつまらなそうだった。「同じ動作を繰り返して経験値を稼いで強くなる」というコンセプトが、当時の私には受け入れられなかった。
 
 私が初めてロールプレイングゲームに惹かれたのは1985年だった。

 ある日、パソコンゲームにもアーケードゲームにも詳しい小学生の家に『ザナドゥ』というゲームが来たという話を聞いて、何人かの小学生でそれを見に行った。
 

ザナドゥコンプリートコレクション with マップ&データ ([バラエティ])

ザナドゥコンプリートコレクション with マップ&データ ([バラエティ])

 
 
 『ザナドゥ』は、それまでのロールプレイングゲームとは全然違っていた。道場やお店を訪れるたびにファンタジー世界っぽい挿し絵が表示される──まず、その演出に目を奪われた。
 
 そして広大な地下世界と、さまざまなモンスターとアイテム! 『ハイドライド』などとは違って、『ザナドゥ』のモンスターは序盤から種類が多く、いろいろなアイテムを落とすのだった。地下世界のところどころに「ダンジョン」が存在し、その最深部には巨大なボスが待ち構えていた。まだデカいキャラクターが動くだけで価値があった時代のことである。
 
 このように、インパクトだらけな『ザナドゥ』ではあったけれども、パソコンごと『ザナドゥ』を借りることは不可能だった。
 
 しかし幸運なことに、私は『ザナドゥ』の取扱説明書を借りることができた。この取り扱い説明書には、イラスト付きの全モンスター解説と「こんなキャラクターを作ったら、こんな風に冒険が進んで、こういう最期を迎えました」という冒険譚が掲載されていて、一冊の本のような呈をなしていた。
 
 『ザナドゥ』をプレイできた時間は短かったけれども、取扱い説明書を読んだ時間は長く、脳内で膨らませたファンタジー妄想はものすごく大きかった*1
 
 ちょうど同じ頃、私はベーマガでアーケード版『ドルアーガの塔』の攻略記事を見かけて、これにも強い魅力を感じた。『ドルアーガの塔』も、それまでのロールプレイングゲームではあり得ない種類のアイテムとモンスターを擁していて、しかも誌面の大半は「宝箱の出し方」という神秘的な解説に費やされていた。
  
ドルアーガの塔

ドルアーガの塔

 
 
 当然ながら、のちにファミコン版が遊べるようになったとたん、私は『ドルアーガの塔』を猿のようにやり込んだが、それまでは、ベーマガなどから得られた断片的情報をもとに、私はひたすらファンタジー妄想を脳内で膨らませ続けていた。就寝前のひとときは、必ずといっていいほど『ザナドゥ』や『ドルアーガの塔』の二次創作的空想に耽っていたぐらいである。
 
 私自身のロールプレイングゲーム原体験にして、ゲーム的妄想力の鍛錬所となったのは、間違いなくこの二作品だった。
 
 

『ドラクエ』が本当に流行ったのは2や3から

 
 で、1986年に初代『ドラゴンクエスト』が発売されると、さすがに人気があって、学校では「太陽の石」や「ロトのしるし」の話が盛り上がった。それでも『スーパーマリオブラザーズ』ほど圧倒的ではなかった。アドベンチャーゲームブックもまだ流行っていたし、PC派は『破邪の封印』や『イース』へと向かっていった。私がPC98版の『ウィザードリィ』を見せてもらったのもこの時期だ。
 
 初代『ドラクエ』はPC派の牙城を崩すには力不足だった。
 
 私の周囲で『ドラクエ』シリーズが本当にブレイクし、いよいよRPG=家庭用ゲーム機という構図ができあがったのは、『ファイナルファンタジー』シリーズや『女神転生』シリーズなどが揃ってからだった。1980年代後半はテーブルトークRPGも流行したし、もちろん『ロードス島戦記』や『ドラゴンランス戦記』なども読んでいたけれども、圧倒的な普及率を誇る任天堂ハードと、黄金期を迎えたスクエア・エニックスに比べれば、マイナーという印象は否めなかった。メガドライブの『ファンタシースター2』などは、セガハードでRPGを遊ぼうなどという酔狂な人々の専有物だったことは言うまでもない。
 
 

個人の体験を集まって、当時の風景を思い出した

 
 以上は私個人の思い出話だけど、冒頭リンク先の話題や体験談と照らし合せると、パソコン側のロールプレイングゲームの流れと、『ドラクエ』周辺の任天堂ハードのロールプレイングゲームの流れが重なり合った、当時の風景が思い出された。
 
 それらを歴史のページにどう綴じていくのは研究家に任せるほかないけれども、とりあえず、当時を憶えている者の一人として、自分が見聞きした体験は書き残しておきたいと思う。
 
 

*1:ちなみに、私自身が『ザナドゥ』そのものを自力でクリアできたのは、それから数年後、MSX版の『ザナドゥ』が発売され、それをMSX2ごと借りてからのことだった。

あの頃を無かったことにしないためにブログを書く

 
 時代は移ろい、人は昔のことを忘れていく。
 

 

目で見る新宿区の100年―写真が語る激動のふるさと一世紀

目で見る新宿区の100年―写真が語る激動のふるさと一世紀

 
 この写真は『目で見る新宿区の100年─写真が語る激動のふるさと一世紀』から抜粋したものだ。版元は郷土出版社、郷土の風景や文学をおさめた書籍を多数出版していたが、2016年に廃業となってしまった。この出版社のこと自体も、やがて忘れられていくだろう。
 
 2018年も、2068年には50年前のことになり、2118年には100年前になる。記録されないものは速やかに忘れられ、無かったことにされる。無かったことにされないためには、まず、記録しなければならない。
 
 私がブログを書いている理由は複数あるが、「あのことを無かったことにしないために書く」というのは重要度が高い理由のひとつだ。
 
 西暦2006年。
 
 インターネットの片隅では、「脱オタクファッション」や「非モテ」を巡って喧々諤々の論争があった。「脱オタクファッション」「脱オタ」という言葉を覚えている人は、今のインターネットに一体どれぐらいいるだろうか。
 
 西暦2008年。
 
 秋葉原の日曜歩行者天国は、コスプレをはじめ、様々な演し物で賑わっていて、その賑わいをいいことに、過激なパフォーマンスをする者や狼藉を働く者が問題になりはじめていた(参考:1. 2.)。個人的には、秋葉原が、最も無秩序で熱量のあるオタクカルチャーの焦点と化していたのは2007年ぐらいだと思う。そして2008年の夏に連続通り魔事件の起きて以降、あの頃の無秩序さと熱量はいよいよ失われた。
 
 西暦2010年。
  
 気の早いネットユーザーはtwitter上で新しい楽しみを享受していた。今日の、あまりにも多くの人が参入して、あまりにも政治的な言論装置と化してしまったtwitterとは異なっていたあの景色。あの景色を、みんなは覚えているだろうか。
  
 

 
 諸行無常は世のならい。
 
 そうこうするうちに、はてなユーザーには馴染み深い「はてなダイアリー」も、いよいよサービス終了を迎えることになった。
 
 ブログと一言で言っても、「はてなダイアリー」はひとつの世界だった。むろん、「アメブロ」や「FC2」もひとつの世界なのだが、ともかくも、「はてなダイアリー」というブログサービスがあり、はてなブックマークという仕組みが乗っかっているおかげで、「はてなダイアリー」はひとつの世界たりえた。
 
  オフ会や揉め事をとおして、多くのブロガーが気脈を通じあわせて、あるいは敵愾心を燃やし合った。対立やトラブルに倦んでブログを閉鎖した者もいた。それ以上にたくさんのブログが、自然消滅していった。
  
 そういう営みの是非については、人によって色々な意見があるだろう。しかし、さしあたって私は「はてなダイアリー」のことを忘れたくないから、その時のことはこれからも書き続けるだろうと思う。00年代に定番となった「男の娘」のことだって、2010年代の『まどか☆マギカ』や『艦これ』や『スプラトゥーン2』のことだって、とにかく、書かなければ後には残らない。
  
 そうこうするうちに、たくさんのウェブサイトを擁していたジオシティーズが閉鎖されるという報せが舞い込んできた。
 
 
 
 ブログが台頭する以前はウェブサイトの時代だった。自分が書きたいことを延々と書き綴るウェブサイトもあれば、BBSを使った内輪のコミュニケーションに耽るウェブサイトもあった。あの時期こそが一番インターネットに熱気があったと記憶している人もいるだろう。
 
 だが、それらも過ぎ去ってしまったインターネットであり、散逸しかねない記憶でもある。
 
 ある時期、インターネットが「永遠に残る記憶」であるかのように語られていた時期があった。ところがサービス終了することを知っている現在の私達は、インターネットの記憶が簡単に風化してしまうことを知っている。
 
 そのために書くわけではないにせよ、私がブログを書き綴る理由の一部は、そうした風化を少しでも先送りにするため・自分が過ごした時間が無かったことにされてしまうのを引き延ばすためである。このブログに、昔を思い出す内容の記事や、過去と現在を比較して未来を想像するような記事が多々あるのもそのせいだ。
 
 「あの頃を無かったことにしないためにブログを書く。」「あの頃を忘れてしまわないための文章を綴る。」
 
 人間は、過去を忘れてしまう生き物だ。だから書き残されていないものが忘れられてしまうのは必然。
 
 だったら書き残すしかないではないか。
 
 このブログもいつかは電子の海の藻屑となり果てるだろう。だとしても、その日までは、ウェブサイトの時代やブログの時代に起こったこと書き留め続けつづけるつもりだ。私は、あの頃のことを忘れたくない。
 
 

現代アニメときどきエロゲ――『若おかみは小学生』感想

 
www.waka-okami.jp
 

若おかみは小学生!  映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

若おかみは小学生! 映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

 
 今季はソシャゲと読書で趣味生活が荒みきっていて、テレビアニメを見る気が沸かなかった。そんな折、劇場版『若おかみは小学生』をふらりと観に行ったら予想外に琴線に触れてしまったので、あまりネタバレにならないよう注意しながら思ったことを書いてみる。
 
 

エロゲエロゲと騒ぐ前に:おことわり

 
 感想を書く前に、私のアニメの好みや趣味性について断っておく。
 
 最近は、オタク-サブカルという区別も曖昧になってきた感があるが、それでも私はオタク側の人間だと思っている。少なくともアニメやゲームを選ぶ時の選考基準はオタクのままだ。
 
 つまり自分の好みに忠実であるのがオタクとして正しいスタンスなのであって、教養とかポーズとか、そういったものを基準に作品を選ぶのは褒められた仕草ではない、という考えだ。
 
 で、『若おかみは小学生』は、私の好みでは当落線上ギリギリに見えた。
 
 twitterのタイムラインにいる熱心なアニメ愛好家の反応をみる限り、どうやら優れた作品らしかった。キャストの評判も良いと聞いている。だからといって、それで映画館に行くほど私は熱心でもサブカル的でもない。そのうえ私はロリコンではないから、小学生女児が主人公の作品が特別好きというわけでもない。
 
 だからこの映画を見られたのは、たまたま時間が空いていた時に、たまたま映画館の近くに私がいて、満席に近いにもかかわらずチケットが取れてしまったからに他ならない。ところが、これが忘れられないアニメ体験になったので、こんな文章を書き連ねている。
 
 

「現代アニメときどきエロゲ」

 
 とても大ざっぱな個人的感想を書くと、『若おかみは小学生』は、ときどき「エロゲ」っぽいフレーバーの漂う、洗練された現代アニメだった。
 
 ここでいう「エロゲ」*1とは、エロゲがオタク文化圏のなかで先端を担っていた時期の趣向・表現・感性をひっくるめてエロゲと書いている。90年代後半~00年代前半ぐらいの頃に、エロゲというメディアの近辺で流行っていた趣向・表現・感性、とも言い換えられるかもしれない。
 
 もちろん『若おかみは小学生』は2018年に作られた、親子で安心して楽しめるよう作られたアニメ映画ではある。映画館には親子連れの姿が散見されたし、ときおり笑い声や叫び声があがっていた。また、ストーリー的にも脇役配置的にも、親の立場に訴えかけてくるところも多分にあって、青少年のアニメ愛好家だけに訴えかけているわけではないと見てとれた。そういった間口の広さも、この作品の良いところなのだろう。
 
 その一方で、90~00年代のエロゲ周辺の空気を覚えている視聴者に妙に訴えかけてくる作品ではないかとも思った。
 
 このアニメの舞台は田舎の温泉地で、まあその、郷愁を誘うシーンが数多く登場する。神社も温泉街も鯉のぼりの吹き流しも、もはや、現代アニメでは珍しく無い郷愁ではある。が、この作品のソレは、やけにエロゲっぽいと感じてしまったのだった。
 
 私がこの作品からエロゲ的な郷愁を感じるのは何故なのか?
 
 振り返ってみると、いろいろな理由が思いあたる。
 
 ひとつは、この作品があちこちに潜ませている、ロリコンな愛好家へのそれとないメッセージだ。
 
 原作が児童向けの作品にも関わらず*2、この作品、その筋の人達を喜ばせるための仕掛けが随所に施されている。特に前半は、その筋の愛好家を痺れさせそうなカットがたくさん埋め込まれていて、頑張っていると感じた。長らくオタク文化圏にいる人間にはご褒美カットと気付きそうなものが、健全な描写として堂々と表現されている手際には、感服するほかない。
 
 それとサブヒロインたちの登場や物語のなかでの位置づけ。真月にしてもグローリーにしても、彼女らが登場するシーンは、エロゲのサブヒロインが「よくわからない女」という風采で新登場するさまを連想させた。
 
 どぎついキャラの「よくわからない女」なサブヒロインと出会い、フラグが進行し、やがて仲良くなるうちにメインヒロイン(=おっこ)のストーリーも進展していく……という構図もエロゲめいている。鈴鬼・美陽・ウリ坊といった「人ならざる者」が介在し、彼らによっておっこが変わり、おっこが変わるにつれて彼らとの関わり方が変わっていくさまもエロゲ的だ。
 
 ネタバレを避けるために曖昧な表現にとどめるが、メインヒロインのおっこも、シャンパンに溺れていたグローリーも、旅の途中の男の子も、本作品に出てくるキャラクターたちは「変わっていった」。どう変わっていったのかを書いてしまうとネタバレ直球になってしまうのだけど、その変化の内容や、変化のプロセスは、すこぶるエロゲ的、90年代~00年代風だった。そして、おっこ自身も含め、キャラクター達の変化の物語は「春の屋旅館は誰でも受け入れ、誰でも癒す」というキーワードと綺麗に結びついていた
 
 
 私は原作の予備知識無しにこの作品を観たので、10年代のアニメ、それも、小学生女児を主人公に据えたアニメで、こういう「変化」が真正面から描かれるとは予想していなかった。だが、子供向け原作の作品だったからこそ、かつてオタク界隈で大量生産・大量消費されたのと同じタイプの「変化」がてらいなく描かれ得たのかもしれない。青少年や中年をターゲットにした作品では陳腐とみなされかねない「変化」でも、児童向け作品では依然として重視され、正面から切り込まれることは、あってもおかしくなさそうではある。
 
 そう考えると、私が『若おかみは小学生』にエロゲ的な雰囲気を感じた原因のひとつは「本作品が児童向けの出自を持っていて、90年代~00年代にさんざん描かれた『変化』を描いても違和感が無かったから」なのかもしれない。
 
 

『Air』に似ているとも感じる

 
 個人的には、『若おかみは小学生』を(エロシーンのない)エロゲに見立てるとしたら、『Air』っぽくなるんじゃないかと思う。
 
 その場合、メインヒロインはおっこで、グローリーと真月がサブヒロインルートになるだろう。それに峰子さんルートが加わってもおかしくない。鈴鬼・美陽・ウリ坊は、ヒロインにくっついてくる重要な脇役といったところだろうか。
 
 サブヒロインのフラグやストーリーが進行するにつれて、メインヒロインであるおっこのフラグやストーリーも少しずつ進行し、最終的にはおっこ自身が「変化していく」。――ある種のエロゲであれば、そうした変化は男性主人公によってもたらされなければならないが、『Air』になぞらえる限りにおいて、男性主人公は必要とされない。『Air』の後半、男性主人公が傍観者となったのと同じく、視聴者は変わっていくおっこの物語をただ眺めているしかないし、ただ眺めていたって構わない。そういえば、ウリ坊のポジションも、微妙に『Air』のカラスに似ていないとも言えない。このあたりもネタバレを踏みそうなので「観てください」としか言えないのだけれども。
 
 

「よくできたエロゲ」として観る必要はもちろん無い

 
 映画を見終わってからこのかた、私はずっと「『若おかみは小学生』はよくできたエロゲ」という言霊に取り憑かれていた。今もそうだ。おっこの着せ替えシーンをはじめ、2010年代アニメの芳醇な成果をたっぷり採り入れた劇場版アニメだのに、エロゲ的な何かが炸裂しているとは! いや、2010年代の、丁寧につくられた劇場版アニメに、図らずもエロゲ的な文脈を見いだしてしまうとは!
 
 『若おかみは小学生』は、90年代~00年代のエロゲ的文脈を知らない者を拒むようなアニメでは決してない。「よくできたエロゲ」として観る必要性は微塵も無いし、そもそも、制作陣がエロゲを意識してこの作品を作ったとは思えない。
 
 だからこれは、90~00年代にオタクをやっていた者の思い込みではあろうけれども、こういう思い込みは、たとえば『ゆるキャン』や『ガルパン』を観ていても湧いて来るものではなかったし、『花咲くいろは』でも沸いて来なかった。児童向け原作だった点も含めて、私がエロゲ的文脈を思い起こすに足りる条件が、この作品には整っていたとは思う。
 
 そういうわけで、現代アニメのおいしいところをたっぷりと詰め込み、とても丁寧に作られた本作品を、私は「現代アニメときどきエロゲ」と表現したくなった。繰り返すが、『若おかみは小学生』をエロゲの発展物として観る必要性は無いし、そういう客層にアピールしたい作品でも無いはずである。それでも、二十年ほど前、粗末なグラフィックと三行しか表示されないテキストの虜になっていた者の一人として、2010年代の劇場版アニメ、それも、大変よくできたアニメのうちにエロゲ的な筋を見いだすというのは眼福だった。
 
 エロゲに限った話ではないけれども、界隈のエッセンスは有形無形のかたちで受け継がれ、発展しているのだなぁ……と思う日曜日だった。
 
 

*1:以下、鍵かっこは省略する

*2:いや、だからこそ自然に、と言うべきか

恋愛は要らない。ならば、親しさも要らないのか。

 
 恋愛は要らない。これはわからなくもない。
 なら、親しさは要らない。これはどうだろうか。
 

1.若者の恋愛離れが指摘されて久しいが、確かに、恋愛は中学校でも高校でも必須単位になっていないので、やらない人がいることに不思議は無い。
 
 恋愛が面倒くさいからやらない、もよくわかるし、学生生活はいろいろ忙しいんだ、もよくわかる。だが、恋愛は年齢が上がるにつれて男女双方の要求水準や、期待される社会性の内容が変わっていくので、「やらない」を放っておくと「できない」に変わっていってしまう側面がある。そういう意味では、恋愛を若いうちに経験しておかない人は、そのぶん、招来の生き筋を狭めていると言えるかもしれない。
 
 だが、恋愛をしなければならないご時世でもなくなった。いまどき、セックスとか見栄とか、そういうゴリラのような動機にもとづいて恋愛をわざわざやる意義は減ってきているように思う。恋愛とは似て非なる結婚についても同様だ。
 
 社会全体のマクロな目でみれば、恋愛や結婚、もっとあけすけに言ってしまえば生殖や繁殖はきわめて重要なのだけど、現代社会では、個人はそれを無視して構わないということになっているので、やらないからといっていけないないわけではないのである。
 
 ※本来、人間集団や社会体を維持するうえできわめて重要な生殖や繁殖が、20世紀~21世紀にかけて、個人が無視して構わないものとみなされている現状は、22世紀以降にどのように評価されるのだろうか。たぶん、産業革命期にやたらと機械作業に期待が寄せられたのと同じぐらい奇妙な捉え方と捉えられるのではないかと思ったりもする。
 
 
2.では、親しさも不要なのだろうか。
 
 親しさもまた、学校で必須単位になっているようには見えない。学校では、しばしばチームワークや団結、社会性の向上といったことが課題として児童生徒に課されているが、親しさは、必ずしもそうではない。親しさもまた、小学生時分と大学生時分、社会人時分では求められる社会性等が違っているので、「やらない」を放っておくと「できない」に変わってしまうリスクはある。恋愛に比べれば取り戻しがきくようにもみえるが。
 
 そのかわり、恋愛と違って、人と親しくなるノウハウ、親しさに慣れるノウハウはどこでどう生きるとしても結構重要だ。親しさが要らないという人は、恋愛は要らないという人よりも少ないのではないだろうか。
 
 恋愛や結婚に意味を感じない人の場合でも、恋人のような人、家族のような人、長く付き合える友といえる人を持つことには、相応の意味があるように思う。親しいと感じる水準には個人差があり、淡白な付き合いがちょうど良い親しさという人もいれば、かなりの高密度がちょうど良い親しさという人もいる。だが、どのようなかたちであれ、自分にとって最適な親しさを知り、適した相手を探し、そうした相手と親睦を結べるか否かは、その人のソーシャルキャピタルやメンタルヘルスに直結している。 
 
 人間は社会的生物であり、親しさによって人と人とは繋がってきた。いや、過去においては恐怖や暴力もまた人を繋いできたけれども、恐怖や暴力によって人と人とが繋がらなくなった今日では、親しさが、人と人とを繋ぐエモーションとして特権的地位にあると考えざるを得ない。
 




 
 
3.にも拘わらず、親しさが学校教育で必須単位になっているという話は寡聞にして聞かない。文部科学省管轄の幼稚園においてもそうだ。現在、親しさは専ら家庭の問題とみなされている。それは、現行の子育てシステムでは仕方のないことではあるけれども、だからといって、親しさをこのまま家庭任せにして構わないのか、正直、よくわからない。読み書きそろばんよりも、親しさのほうが、よっぽどサバイブには重要なのに。
 
 「親しさは生得的な問題だ」と言う人もいるだろう。が、むしろだからこそ、その人の生得的度合いにとってちょうど良い親しさを学び取り、自分の親しさに見合った相手と見合った親しさをつくりあげなければならないはずだが、その難事業を、核家族という、必ず家庭内病理を含んだ小さな入れ物に任せている現行は、考え直してみるととんでもないことをやっているなぁという気がする。もし父親や母親が授ける親しさが、子どもの生得的な親しさのdegreeと合致していなかったら、「たいへんなこと」になってしまうわけで。
 
 世の中には、まだまだ学校では教えてくれないことがあり、教科書を読んでもわからないことがある。「親しさ」もまた、その筆頭格にして、必須度が高いもののひとつだ。恋愛は要らない、まではいいとして、親しさまでも要らないと言ってしまって良いのか、私にはちょっとわからない。

 

本物の自己実現欲求の人に出会うと、真似たいとは思えなくなる

 

認められたい

認められたい

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

 
 
 ここ数年のインターネットの様子をみていると、承認欲求をモチベーション源として活動するのが、あたかも卑しいことであるかのような言説がまかり通っている。
 
 褒められたい。認められたい。一目置かれたい。
 
 そういった、他者からの承認をモチベーション源にすることは卑しいこと・良くないこと・しようもないことであり、他人の顔色に左右されるという点で不自由である、云々といった感じである。

 私は、こうした承認欲求-批判がぜんぶ間違っていると主張したいわけではない。

 実際、世の中には承認欲求の下僕としか言いようがない人、承認欲求に振り回され、誰のための人生かわからなくなってしまっている人もいる。インターネット上なら、PV数に囚われて自己コントロールができなくなっているブロガーや動画配信者のようなたぐいは、承認欲求の残念な例としてわかりやすい。

 そうは言っても、人は承認によって心動かされるものであり、承認を得たい気持ちと、承認を得た時の嬉しさによってもモチベーションを獲得しているのも、また事実である。

 子どもなどがその典型だが、承認される行為によって、何が社会的に望ましい振る舞いなのかを窺い知り、承認されない行為によって、何が社会的に望ましくない振る舞いなのかを知る。そういったことの無数の積み重ねのなかで、人はスキルアップし、人は社会性を身に付けていく。
 
 承認欲求「だけ」をモチベーション源とするのは良くないとしても、人間のモチベーション源全体のある割合は、やはり、承認欲求とカテゴライズできるもので占められていて、そこを無碍にするのはいかがなものかな、と私は思う。
 
 

自己実現欲求のレベルに辿り着いたとおぼしき人は、実在する

 そんなわけで、私は承認欲求肯定派である。承認欲求の奴隷になるべきではないが、承認欲求とは上手くつきあっていったほうがモチベーションは太くなる。ほとんどの人間は、高尚なモチベーションや自家発電的なモチベーションだけでは駆動力が足りない。

 で、自己実現欲求、である。
 

マズローの心理学

マズローの心理学

 
 
 自己実現欲求は、いわゆるマズローの欲求段階説のピラミッドのてっぺんに位置する欲求で、承認欲求や所属欲求の次元を超えた、より高尚でよりレアな欲求とされている。マズローによれば、自己実現欲求はすべての人が芽生えるようなものではなく、リンカーンやシュヴァイツァーといった人達がその典型とされている。
 
 そういう高尚でレアな欲求ゆえに、私は、青少年向けの自著(『認められたい』)では「自己実現欲求なんて、そんな簡単に目覚めるものじゃないよ、それより承認欲求や所属欲求のレベル(=社会的習熟度)を高めるよう」といったことを書いた。青少年という想定読者に対して、それは妥当な書き方だったと思っている。
 
 とはいえ、自己実現欲求とカテゴライズされそうなモチベーション、自己実現欲求に目覚めているとおぼしき個人が存在しないわけではない
 
 世の中のところどころには、「この人は、自己実現欲求に目覚めているとしか考えられない」というモチベーションをもって活動している人が確かに存在している。
 
 先日私が出会ったご老人にしてもそうで、もう、承認欲求とか所属欲求とか、そういったカテゴリーでは絶対に説明できないような、まさに自己実現欲求によってモチベートされているとしか思えない振る舞いをするご老人で、社会への貢献や組織の発展といったことを真摯に追求しているさまがみてとれた。
 
 私利私欲を感じさせるところがなく、誰に対しても分け隔てなく振る舞い、長年の経験や知識をできるだけ沢山の人の役に立てようとする姿勢を見て、私は感銘を受けずにはいられなかった。ああ、これが、承認欲求と所属欲求の彼岸に辿り着いた人の姿であるか、と。
 
 このご老人ほどではないにせよ、私はこれまでの人生の中で何度か「自己実現欲求まで辿り着いた人」を見かけてきた。それは、地域の医療のために長い努力を積み重ねてきた人であったり、大学医局で教授職に就いた人であったり、後進のために骨折りを惜しまないメディア人士であったり、いろいろである。
 
 ただし、彼らにはある程度共通点があって、

・比較的年齢が高い。若くても30代後半、典型的には60代以降
・自分がすべきことを十分な期間、すでにやってきた
・私利私欲や承認欲求のロジックでは行動が説明できない
・金銭的にも社会的にも不安定な立場ではない
・現在の立場のために汲々としてきた素振りも感じられない
 
 これらの共通点を誰もがみたすのは難しいように思える。
 
 「自己実現欲求まで辿り着いた人」は、私には、カリスマ的な人物とうつる。ここでいうカリスマとは、インターネット上のインフルエンサーにありがちな、ギラギラとカリスマっぷりを自己顕示するような感じのものではない。むしろいまどきのインフルエンサーのギラギラさには、承認欲求の匂いが立ち込めていて、自己実現欲求の匂いがしない。「自分の知名度や金銭のためにインフルエンサーをやっている」というオーラを放っている人々は、私がいう「自己実現欲求まで辿り着いた人」のソレとは全然違う。
 
 

「敬して、自己を慎みたくなる」

 
 くだんのご老人をはじめ、自己実現欲求まで辿り着いた人には、コミュニケーション能力が高いとか、知名度があるとか、センスが良いとか、そういった尺度だけでは説明のつかない、もっと違った魅力が宿っている。彼らを見ていても「俺も有名になりたい」「俺も出世したい」といった気持ちは沸いてこない。ましてや、嫉妬の感情など恐れ多い。
 
 どちらかと言うと、自己実現欲求の人々からは「この人のもとで働きたい」「この人といると、きっと何かが得られる」「この人の爪の垢を煎じて飲みたい」といった気持ちが沸いてくる。「リスペクトを感じる」という言葉では巷のインフルエンサーと区別がつきにくいかもしれないけれども、「敬して、自己を慎みたくなる」という気持ちが沸いてくる点がやっぱり違っている。自己実現欲求の境地に至った人々を真似たいとか、彼らのようになりたいなどと願うのは、私には、不遜なことのように感じられる。だからこそ、彼らが一段と尊い存在にみえる。
 
 自己実現欲求の境地は、がんばって辿り着くものではなく、一部の人がいつの間にか辿り着いているものだと私は思わざるを得ない。凡夫は、承認欲求や所属欲求の次元で生きていくぐらいの気持ちで十分なのだ。
 
 1990年代~00年代にかけて、「自己実現に目覚めよう」的な自己啓発書が大量に出版されたが、ああいうノリも、実在の自己実現欲求にそぐわない。「自己実現したい」と考えているうちは、承認欲求の次元にとどまっているとみて間違いないだろう。自己実現欲求の次元に到達してしまった人々の、どことなく尊い雰囲気を目の当たりにすると、ただ凡人の一人として、彼らの薫陶を精一杯吸い込み、なるべく善く生きていきたいと願うばかりである。