シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『ひきこもりの国際比較 欧米と日本』を再公開しました

 
blog.tinect.jp
 
 先日、books&appsさんに寄稿した上記記事について、「フランスのひきこもりってどうなのか?」「日本のひきこもりと異なる概念ではないか?」といった質問がはてなブックマーク上にみられたので、2011年の精神神経学会のシンポジウム『ひきこもりの国際比較 欧米と日本』についてのhtmlファイルを再度公開することとしました。
 
 
『ひきもりの国際比較 欧米と日本』を見てきた――汎用適応技術研究

日本のひきこもり、ヨーロッパのひきこもり――フランスとイタリアの現状に触れて――汎用適応技術研究

アメリカから見た日本のひきこもり――汎用適応技術研究

フランスの「ひきこもり」の現状について&ドイツにひきこもりはいるのか――汎用適応技術研究

日本のひきこもりの公的支援の動向と課題をさぐる――汎用適応技術研究
 
 
 これらのファイルは2011年にウェブサイト上で公開していましたが、ワードプレスの取り扱いに失敗し、ウェブサイトを潰してしまって読めなくなっていました。最新ではない内容であり、一参加者が速記したものを書き起こしたものではありますが、「こんな議論が学会であったんだ」的にご参照いただければ幸いです。
 
 議論をみてのとおり、日本のひきこもりとラテン語圏のひきこもりには相違点があり、ドイツやアメリカでは、ひきこもりを自国の問題としてみるより、日本の現象としてみているふしがうかがわれました。今、読み直して改めて私が思ったのは、「ひきこもりには、文化症候群としての性質が濃厚にあり、文化や時代背景の影響を強くうける」ということです。
 
 これらのシンポジウムが行われた2011年から約7年の時が流れ、日本の社会・文化的状況や精神医療のトピックスも移ろっていきました。当時に比べても、日本では発達障害が注目される度合いが高まり、と同時に、90年代~00年代に比べると「学歴さえあればコミュニケーション能力に難があっても何とかなる」的な期待は親の側からも子の側からも無くなり、学歴に関してもAO入試等の占める割合は高くなりました。
 
 7年ぶりに読み返して、私は、当時のアメリカメディアが日本のひきこもりに対して抱いていたのに近い印象を現在の自分が持っていることに気付きました。日本社会が幾分にせよアメリカ社会に近付いたからこそ、そういう印象を持つようになったのかもしれません。また、昨今の高齢ひきこもりへの注目は、このシンポジウムの後の出来事として整合性のある流れであるなぁ、とも感じました。
 
 ともあれ、ご興味のある方は読んでみてください。
 
 ※精神神経学雑誌がpdfで読めるようになったので、シンポジウムについてのテキストがそのままネットで読めるようになりました。afcpさん、ご指摘ありがとうございます。
 
 
 

ゲームを眺める・ゲームを囲むのもまた楽し

 
 
anond.hatelabo.jp
mubou.seesaa.net
 
 はてな匿名ダイアリーに投げつけられた「他人がゲームしてるの見てそんなに楽しいか?」という釣りに対して、ブロガーのしんざきさんが「俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ」と応じているのを見て、強いシンパシーを感じると同時に逆張りをしてみたくなったので、逆張りディベートごっこをしてみる。
 
 いきなり脱線するが、私は「ブログで逆張り」が好きだ。
 
 大学受験の小論文の練習をしていた時、どこかの参考書で「逆張りできるテーマなら、みんながやりそうにない逆張りをやったほうがウケるよ(意訳)」というアドバイスを見かけた。当時の私はそれを真に受けて、受験勉強と称して逆張りの練習を繰り返していた。幸い、大学には受かったけれども、あれは危ないアドバイスだったかもしれない。
 
 たぶん、この逆張りの練習はブログを書く際にすごく役に立っているし、そういえば一昔前のアルファブロガーにも、逆張りの名人がいた。逆張り小論文の練習を繰り返すと、たぶんブログが楽しくなるよ!
 
 それはさておき。
 
 私は、しんざきさんが「俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ」と書いていて、社会全体はともかく、御本人自身は見るゲームの楽しみに否定的なのに驚いた。
 

ただ、それとは全く別問題、別会計として、私の中には「ゲーム実況」を楽しむというチャネルが存在しないのだ。これはむしろ、私がゲームを遊ぶ際のキャパシティがより偏狭であるということに他ならない。例えば私は、長男がゲームを遊ぶところを観察するのは好きだが、それは飽くまで「子ども観察」であって「ゲーム観戦」ではないのだ。ゲーム観戦に限っていえば、私はただひたすら「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」と思うばかりなのだ。

 
 しんざきさんは、子どもがゲームを遊んでいるのを眺めているのは「子ども観察」であって「ゲーム観戦」ではないと書いている。だが、私はそうではない。子どもがゲームを遊んでいるのを眺める時、私ははっきりと「ゲーム観戦」を楽しんでいる。たとえば我が家の『スプラトゥーン2』で射撃がいちばん正確なのは子どもで、バイトが一番巧いのは嫁さんだ。どちらのプレイも眺めていて楽しいし、「さっきのガチエリアは、ジェットパックからのトリプルキルが勝因だね」といった話がよく弾む。
 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)  - Switch

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

 
 「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」という気持ちはもちろん私にもあるけれども、誰かがゲームの腕をふるっているのを眺めるのも、それはそれで楽しく、ゲーム観戦という意味合いは必ずある。
 
 動画のゲーム実況に心惹かれる瞬間もある。ゲームの動画は、今でも「参考資料」的に視ることが多いけれども、実況者やプレイ内容によっては心が躍る瞬間がある。達人級のプレイヤーの動画よりも、自分の腕とどっこいどっこいなプレイヤーのほうが心が躍るかもしれない。
 
 

「ゲームを眺める」「ゲームを囲む」のルーツ

 
 私が他人のゲームを眺めて楽しいと感じるルーツを振り返ると、それは駄菓子屋とゲーセンにあったと思う。
 
 小学生の頃、駄菓子屋で夢中になって見つめていた、年上プレイヤーのゲームプレイ。小学校低学年では、ゲーセンのゲームに100円玉を入れるのはおいそれとできることではなく、たとえ入れたとしても長く遊べるものでもなかった。対して、年上のお兄さんは100円玉をたくさん持っていて、しかもゲームが上手くて先のステージまで進めていた。アーケード版の『ムーンクレスタ』や『ディグダグ』などは、自分でプレイするのと同じかそれ以上に年上のお兄さんがプレイしているのを楽しみにしていた。
 
 高校生時代や大学生時代のゲーセンでも、他人のプレイを結構楽しみにしていた。自分にはできない連続技が得意なプレイヤー、自分と同等以上のスコアを出せるプレイヤーのプレイを眺めながら、技能を盗もうとしたり、うっとりとしたりしていた。また、ゲームに疲れて一服している時に他のプレイヤーのプレイを眺めるのも好きだった。『戦国ブレード』『ライデンファイターズJET』のような、自分が絶対にやりがたらないゲームに打ち込んでいるプレイヤーを眺めるのも案外楽しかった。そういう「眺めるゲーム」もひっくるめて、ゲーセンでのゆったりとした時間が流れていたのだと思う。
 
 そんな私が、自分がゲームを遊ぶほどではないにせよ、ゲームを眺めたり、家族や知人とゲームを囲んで談笑したりするのは、とても自然なことではある。
 
 

そうなると、しんざきさんのゲーム哲学が気になってくる

 
 さて、そうなった時に気になるのがしんざきさんのゲームライフである。
 
 しんざきさんは、『ダライアス外伝』の全一を獲るほどのプレイヤーで、当然、ゲーセンには少なからぬ縁があり、そこにゲームライフの心臓部があると推定される。
 
 [関連]:「人生の息抜きにゲーム」ではなく、「ゲームの息抜きに人生」を送っていた時期の話。 | Books&Apps
 
 この記事にもあるように、しんざきさんは『ダライアス外伝』に心臓を捧げていた時期があり、ハイスコア目指してPDCAサイクルをガンガン回していたという。その最中において、ゲームは自分でやるもの・自分で戦うものという意識が強まっていたことに疑問はない。
 
 それでも、『ダライアス外伝』とそこまで向き合う前後の時期に、ゲーセンなり駄菓子屋なりで仲間のプレイを観戦したり、年上のプレイヤーに憧れたりした時期はなかったのだろうか?
 
 上掲リンク先を読む限り、しんざきさんが『ダライアス外伝』をやり込んでいたゲーセンは、ハイスコア狙いがそれほど盛んではなかったけれども絶無でもないように読めた。絶無でないなら、ゲーセンで仲間ができた可能性や、巧いプレイヤーのプレイに見惚れる可能性はあったかもしれない。
 
 それとも、しんざきさんは他者に全く見向きもせず、非常にストイックにゲームをプレイしていたのかもしれないし、そこまでストイックになれなければ、有名店でない場所で『ダライアス外伝』で全一を獲ることなど、不可能だったのだろうか?
 
 いや、自分が知っている全一プレイヤーのなかには、他者に見向きもしないわけではないプレイヤーも確かにいた。だから全一を獲ったことがあるか否かがことの分水嶺、というわけでもないように思う。
 
 ここまで書いてみて、ゲームについての一般論をしんざきさんから演繹するのは意味がないような気がしてきた。それよりも、しんざきさんという一人のゲームプレイヤーのゲーム観やゲームモチベーションをもっと伺いたいとか、その異質性の成り立ちを知ってみたい気持ちが湧いてきてしようがない。
 
 しんざきさんのゲームモチベーションの構成と成り立ちは一体どのようなものなのか? ゲーオタにおいて、ゲームの道、ゲーム哲学は全ての道に通じているので、おそらく、そこにしんざきさんの奥義がある。いつかお目にかかる日があったら、そこのところは是非うかがってみたい。
 
 

「小さなてのひら」

 
 とはいえ、大半のゲーム愛好家は、修行僧のように自分のプレイだけに没頭しているわけでも、「ゲームを見る専」でもない折衷的なゲームライフを楽しんでいるのだろう。
 
 私も、しんざきさんに比べて微温的ではあるけれども、「ゲームはプレイしてナンボ」「プロスポーツのような感覚でゲーム観戦する気にはなれない」という気持ちのほうが強い。シューティングゲームの二周目に挑む時や、『スプラトゥーン2』のガチバトルに挑む時の、あの真剣な時間がゲームの真骨頂という気持ちがなかなか捨てられない。
 
 けれどもこれから歳をとっていくなかで、自分自身がゲームをプレイするだけでなく、観戦する方向にシフトしていく予感もある。
 
 こないだ出版した「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?に、私はこんなことを書いた。
 

 自分が愛したジャンルを引き継いでいる人が間近に存在するというのは、なかなか気持ちの良いものです。たとえば私はゲーム専攻のオタクでしたが、よく知っている年下の人がゲームに夢中になり、コミュニティに参加していくのを視ていると、それだけでかなり満足できてしまいます。SNS上で、たくさんの若者がゲーム談義に花を咲かせているのを見ているのも好きです。「文化はこうやって引き継がれていくんだな……」という実感が湧きます。あなたがたにも、そういう境地がいつの日か訪れることでしょう。 

 
 長らく私は、ゲームプレイ至上主義者でいつづけてきた。けれども、たとえば子どもがスプラマニューバで次々に敵を撃ち抜いていくのを眺めていると、いつか自分を追い越していく子どもの可能性を直感せずにはいられない。いわば、『CLANNAD』の「小さなてのひら」の心境だ。こうしたことが、ゲームでも、ゲーム以外でも起こっていくのだろう。ゲームは、いつだって人生の大事なことを教えてくれる。
 

CLANNAD-クラナド- ORIGINAL SOUNDTRACK

CLANNAD-クラナド- ORIGINAL SOUNDTRACK


小さなてのひら
 
 それでも。
 それでも私は、ゲーオタで、ゲーム愛好家であり続けたい、と願う。
 
 「ゲームはプレイしてナンボ」という気持ちが磨り減っていくとしても、ゲームを眺めて、ゲームを囲んで、そうやって楽しむ道筋を膨らませて、ゲームライフ自体は趣味生活として守っていきたい。それは、しんざきさんの現在のゲーム哲学とは異なる何かかもしれないけれども、そういうのもいいんじゃないか、と思うのだ。
 
 以上、本当は「ゲームはプレイしてナンボ」という気持ちがまだまだ強い40代ゲーオタからの逆張りでした。ザトウマーケットで会いましょう。
 

ヤン・ウェンリーが「なろう小説」の主人公に思えて仕方がない

 

 
 新アニメ版の銀河英雄伝説、『銀河英雄伝説 Die Neue These』を楽しみにしているけれども、タイトルに書いたように、最近、ヤン・ウェンリーが「なろう小説」の主人公みたいに思える病気にかかってしまった。
 
 原作を読んだのも旧アニメ版を観たのも二十五年以上前で、当時は「小説家になろう」なんて存在していなかった。web小説どころかライトノベルというジャンル名すら存在していなくて、ノベルスと呼ばれていたように記憶している。
 
 それはともかく、新アニメ版のヤン・ウェンリーが、今は「なろう小説」の主人公みたいに見えてしまう。
 
 アスターテ会戦でもエル・ファシルでも、ヤンは奇跡のような活躍をみせていたが、その背景として戦史や歴史についての膨大な知識があることが仄めかされていた。そのうえ、新アニメ版では図書館で読書に耽るヤンの姿がしっかり描かれてもいた。このあたり、原作のヤン・ウェンリーと矛盾していない。
 
 ところが、2018年に私がこのヤンを眺めると、彼が歴史読書の知識で無双しているようにみえてしまう。もちろん、ヤンは異世界にオーバーテクノロジーを持ち込んで無双しているわけではないけれども、「みんなが軽んじている歴史知識を使って無双」しているようにはみえる。そうやって無双を繰り返すうちに「魔術師ヤン」なんて呼び名がつくのも、どこか「なろう」じみている。
 
 それと、これも気のせいだとは思うのだけれど、新アニメ版のヤンが勝利のカラクリを語ったり歴史的知識に則った発言をしたりしている時に、ドヤ顔っぽいというか、「さすがお兄様」的な語りというか、そういう兆しを私は感じてしまう。ぐうたらで、読書家で、世間擦れしていないヤンが活躍し、周囲の人物から珍重されているあたりも、どこか「なろう」の主人公っぽい。そんな風にヤンのことを観てしまっている自分がいる。
  
 今にして思うと、『銀河英雄伝説』の各陣営では自由惑星同盟が一番「なろう」っぽかった。
 
 帝国側は、美貌の天才的主人公・ラインハルトの配下に一癖二癖ある将官が集まり、倒すべき敵としての皇帝や門閥貴族が幅を利かせていた。ラインハルトには悲劇の英雄としての趣もあって、このあたりは「なろう」で無双する主人公のテンプレどおりではない。
 
 対して自由惑星同盟のヤンの周辺人物は、だいたいヤンの無双を際立たせるか、ヤンの無双をサポートするために配役されている感じが否めない。「さすがヤン提督!」と言わんばかりのユリアンやフレデリカは言うまでもなく、第十三艦隊の幕僚たちも含めて、ヤンのための配役感があって、なんとなく「なろう」を思い起こさせるものがある。ラインハルトのような万能型の美貌天才ではなく、特化型でぎりぎり美青年というあたりも「なろう」じみている。
  
 断るまでもないことだが、『銀河英雄伝説』というビッグタイトルの新作アニメが「なろう小説」に寄せてつくられているとは思えない。こういう感想をヤンに抱いてしまうのは、ひとえに、2018年に新アニメ版を視聴している私自身が、勝手に「なろう」小説のテンプレートを連想して、勝手に「なろう」の色眼鏡でヤンのことを見ているに過ぎないのだろう。
 
 『銀河英雄伝説』やヤンが変わった以上に、私自身が変わってしまったのだろう。まあでもヤンの活躍を視るのは楽しい。こればかりは今も昔も変わらない。
 
銀河英雄伝説 Blu-ray BOX スタンダードエディション 3

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FGOでゴールデンウィークが溶けた

 

マンガで分かる! Fate/Grand Order(1) (角川コミックス)

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 FGOでゴールデンウィークを溶かしてしまった。
 
 2016年頃から、私のtwitterのタイムラインにはFGO中毒者が続出し、2017年8月には、小島アジコさんが「シロクマさんもFGOをやろうよー」と悪魔の誘いをかけてきた。周囲の評価から、絶対に自分好みの、ヤバいゲームだとはわかっていたが、これ以上ゲームをしょい込むのは避けたかった。ところが『アズールレーン』をやめて『ポケモンGO』も停止させて心の隙が生まれたのか、つい、出来心で『FGO』をインストールしてしまった!
 
 もう、タイムラインには1~2年前の賑わいは無いし、3年遅れてソーシャルゲームを始めるのもなんだなと思っていたけれども、はたして、『FGO』は3年遅れても面白いゲームエンターテイメントだった。みんながグルグル目になって熱狂していたのもよくわかる。この喜びを書き留めたくなったので吐きだしてみる。
 
 
 

ビジュアルノベルの末裔としてのFGO

 
 2018年にもなって、キャラクターの「立ち絵」が表情をコロコロ変えたり動いたりする姿に喜びを感じるとは、全く思っていなかった。
 

 
 『FGO』のご先祖様は『Fate stay/night』というエロゲーにしてビジュアルノベルだが、その頃の息遣いがしっかり残っていて、TYPE-MOONのビジュアルノベル遺産の全部ではないにせよ、相当部分が『FGO』に受け継がれたんだなぁと感心させられた。
 
 今から十年以上前、「最近のエロゲープレイヤーは3行までしか読めない」と揶揄されたことがあった。ビジュアルノベルの『雫』や『街』、それらよりも後発の『ひぐらしのなく頃に』あたりは、1ページにかなりの長文が表示されていたが、画面下方のテキストウインドウに表示される「エロゲ―にありがちなスタイル」の作品は一度に3行しか表示されなかった。
 
 さて、『FGO』はなんと2行である!かつてのエロゲープレイヤーが「3行しか読めない」と馬鹿にされていたなら、『FGO』をやっている最近のソーシャルゲームプレイヤーはどれだけ馬鹿にされなければならないのだろうか?
 
 ……と言いたいところだが、テキストを2行に短縮したのはスマホというコンソールを考えれば適切なのだろう。スマホの狭い画面で3行読むのは結構辛そうだ。シナリオ製作者は、2行に最適化されたテキストを組んでいると思われる。それはそれで技術的洗練に違いない。
 
 2行でも、『Fate』、いや『月姫』以来のTYPE-MOONらしい言い回しは健在で、自分のなかの中二病が気持ちよくドライブしていく。歌舞伎役者のような、ひとつの様式美と言っても過言ではないサーヴァント達の物言いは、嫌いな人はとことん嫌いそうなものだけど、TYPE-MOON作品で馴らされた私にはご褒美でしかない。迸れ!中二病!
 
 それと、『FGO』はどんなに残虐なお話を書いていても、どこか人間賛歌的な雰囲気が漂っていて、それがとても嬉しかった。自分が知っている奈須きのこさん達の文章も、『月姫』以来そうだったような気がする。うんうん、こういうのでいいんだよ。
 
 ストーリーパートのあちこちに戦闘シーンが挿入されるのも良い。
 
 ビジュアルノベル時代の戦闘シーンは紙芝居みたいなものだったが、『FGO』では実際にサーヴァント達が戦闘画面を動き回り、自分もマスターとして指示を出したり、令呪を使ったりもする。これは、ビジュアルノベル時代には望むべくもなかったものだ。こんなのをやってみたかった!
 
 ストーリーのクライマックスに敵サーヴァントと戦って盛り上がるのは当然として、ストーリーの合間に雑魚をあしらう戦闘があるのも案外楽しかったりする。
 
 昔だったら三行ぐらいで省略されていたであろう、雑魚掃討がバトルとして挿入されているおかげで、ストーリーに納得が伴うと同時にサーヴァントの強さを実感する機会にもなっている。それと、テキストを読むのにダレてきた頃に戦闘が挟まるおかげで気分転換にもなる。
 
 宝具のエフェクトもいい。各章のクライマックスに宝具を撃ち合うのは、かつての『Fate/Staynight』時代の紙芝居のような戦闘シーンよりもずっと興奮する。あの出来の良かった『Fate Zero』の戦闘シーンともまた違った魅力がある。
 
 「今という時代に、スマホというプラットフォームで『Fate』のビジュアルノベルを作ってみました」と言わんばかりの内容に、ただただ喜び、読み進めるしかない。このビジュアルノベルとしての『FGO』のおかげで、ゲームに馴染むのが早くなり、周回を繰り返す苦痛がだいぶ緩和されたと思う。こういうのは『パズドラ』には望むべくもなかったものだし、『アズールレーン』や『艦これ』にすらあまり無かったものだ。ビジュアルノベルとしての『FGO』ならではのご褒美だと思った。
 
 

ソーシャルゲームとしてのFGO

 
 

 
 『FGO』は、なかなか売れているソーシャルゲームらしいけれど、とにかく、ガチャをまわしたくなる動機の導線がしっかりしていて、感心させられる。
 
 別に積極的にガチャを回さなくても、wikiなどを参考にしながらレア度の低いサーヴァントを手堅く育てても先に進めるのは察せられる。けれども、高レア度のサーヴァントを早い段階から育ててしまえば戦闘に幅ができるし、後で不要になるかもしれないサーヴァントを育ててしまうロスを回避できる。だからガチャをまわして高レア度のサーヴァントをあらかじめ手に入れてしまってから育成を始めたほうが都合が良さそうに思えて、つい、ガチャをまわしたくなってしまう。
 
 なにより、フレンドシステムがガチャを回す導線として機能していて、小賢しいとさえ感じる。
 

 
 戦闘のたびにフレンドのサーヴァントを一体借りてくるわけだが、これがもう、破局的に、猛烈に強くて、実質、フレンドのサーヴァントに依存した戦い方になる。星5サーヴァントの、圧倒的な戦闘力と絢爛とした宝具にすがりながら戦うこと自体が、ガチャの宣伝になっている!「ほらほら、フレンドの星5サーヴァント強いでしょう?恰好良いでしょう?さあ、あなたもガチャで手に入れなさい!」というわけだ。
 
 『パズドラ』にもフレンドシステムはあったけれども、『FGO』のほうがフレンドのサーヴァントが活躍するウエイトが大きく、宝具をぶっ放したりド派手に立ち回るものだから、ガチャをまわしたくなる誘惑は比較にならない。なにしろ、強いサーヴァントへの憧れが募るのである。そこに焦がれるほどの夢を見る!くっそ、これは罠だ!
 
 しかし、そうやってフレンドのサーヴァントが活躍してくれるおかげで、私のような後発組が助けられているのも事実だ。『FGO』は既に約3年の月日が流れていて、ソーシャルゲームとしては色々と難しくなってくる時期のはずだけど、フレンドのサーヴァントのおかげか、後発組がゲームを進めていくのになんの支障も無い。よく、「ソーシャルゲームにはシーンがある」というし、実際私はtwitterのタイムラインが『FGO』で熱狂していた場面に居合わせることができなかったわけだけど、今、独りでやっていてもちゃんと面白い。たいしたものだと思う。
 
 イベントも、『艦これ』に比べたら初心者への門戸が広いのではないか? ゴールデンウィーク中、事実上はじめてのイベントに参加したが、AP*1回復のリンゴのおかげもあって、目を見張るようなスピードでレベルアップできた。まあそのせいで、ゴールデンウィークを溶かしてしまったわけだが。
 

 
 成長システムは、成長素材を集めてレベルアップさせるタイプのもの。素材を集めるには周回が必要で、これが面倒きわまりないけれども、素材を集めてレベルアップさせた時の見返りがしっかりしていて、報われた気持ちになれる。そして自分の手持ちサーヴァントがレベル上限を解放するたび、できることも増えて、戦闘の幅が広がるわけだから、まるでドラクエで船を手に入れた時のような気持ちになる。サーヴァントを育てるほど先に進めて、先に進むとまたサーヴァントを育てたくなる無限循環。
 
 やっていることは不自由なはずなのに、サーヴァントのレベルが上がると自由度が高くなったような錯覚を覚えてしまう。この錯覚は、かけだしの今だけかもしれないが、楽しんでおくことにしよう。
 
 

カードゲームとしてのFGO

 

 
 戦闘が始まってしまうと、やるべきことは割とはっきりしている。カードの配牌やスキル、宝具ゲージを意識しながらゲームを組み立てていく手触りがとても気持ち良い。スキルまわりも行き届いていて、使い方をマスターするまでのプロセスも楽しく、わかってくるにつれて、スキルの重ねがけや使用する順序を工夫するようになり、勝てなかった戦いにもちゃんと勝てるようになる。
 
 これらの喜びは、あらかじめゲーム製作者側がプレイヤーを楽しませることを前提に仕掛けた「おもてなし」のたぐいだろうけれど、そういう「おもてなし」のもと、スキルを何重にもかけ、順序よく発動させて、戦闘をコントロールして悦に入る自分自身がいる。「ひとり上手」を満喫させようという、製作者側の強い意志を感じさせるカードバトルだ。こういうの、ゲーム冥利に尽きる。
 
 『FGO』のカードバトルを悪く言う人を過去に見かけたように記憶しているし、実際、昔はもっとひどかったのかもしれないけれども、2018年からはじめるぶんには、十分快適で、練り込まれた戦闘システムだと思う。
 

 
 でもってこのゲーム、戦闘が始まる前のほうが重要で、どういうサーヴァントを選抜し、どういう概念礼装で補強するかで勝負が半分決まっているわけか。この組み合わせの妙が、手持ちサーヴァントや概念礼装が増えるにつれて広がっていくのが感じとれて、なかなか飽きそうにない。少なくとも一年以上、マンネリすることなく楽しめそうな気がする。
 
 ちなみに『FGO』のカードバトルをやっていると、『Fate/hollow ataraxia』のオマケとしてついてきた花札ゲームのことを思い出す。あれも配牌を意識しながら宝具を打ち合うような花札で、使い勝手の微妙だったメデューサがかわいいゲームだった。『FGO』のメデューサも使い勝手が微妙で、ああ、相変わらずだと思いつつも生暖かく見守っている。がんばれメデューサ!
 
 もし『FGO』のカードバトルに欠点があるとしたら、戦闘のロード時間が長いことと宝具エフェクトが飛ばせないことだろうか。ここらへんはもっと短時間にできたら、どんなに素晴らしかっただろう、と思わなくもない。
 
 ただ、宝具が飛ばせないのはカードゲームとしては欠点でも、ビジュアルノベルとしてのFGOを支える道具立てとして欠かせないところでもあり、省略させないのは英断のようにもみえる。
 
 もっともこれは、私が始めて時間が経っていないからそう思えるだけで、2年以上心血を捧げているベテランプレイヤーも同じことを思うのかはわからない。それでもビジュアルノベルパートが私のような新参者の導線になっていることを思えば、宝具エフェクトはそれなり有意味な気はする。
 
 

こんなに優れたエンタメだとは思わなかった

 
 『FGO』は、ビジュアルノベルとしての末裔としても、いまどきのソーシャルゲームとしても、カードゲームとしても、よくできている。なにより、ビジュアルノベルとしての魅力とソーシャルゲームとしての魅力とカードゲームとしての魅力が噛み合っていて、総合的なエンタメとして信じられないほど完成度が高い。これが大ヒットしたのも、twitterのタイムラインに中毒者が続出したのも、よくわかる気がする。
 
 しかし喜んでばかりもいられない。おかげで、私のゴールデンウィークはすっかり溶けてしまった。どうしよう? こんなに面白いゲーム見つけてしまったら人生が短くなってしまうぞ。えらいことになった。
 
 

*1:『パズドラ』でいうスタミナに相当

「中年の心の闇」がイマイチわからない

 



 
 ときどき、「中年の心の闇」について考えることがある。
 
 先だっても、タレントの誰それが未成年に犯罪行為に及んで書類送検された、というニュースが流れた。いっぱしの立場を獲得した中年が、ある日突然、大きく道を踏み外して回復不可能の傷を負う。その背景の心理や動機は、第三者にはさっぱりわからないことが多い。
 
 メディアでは、よく「青少年の心の闇」という言葉が語られるが、実のところ、「青少年の心の闇」を説明する理路は色々ある。
 
認められたい

認められたい

 たとえば、承認欲求や所属欲求が未成熟なままの青少年が、それらに振り回されて悲喜劇を招いてしまうパターン。つい先日、自転車の暴走運転の動画を公開してしまった人なども、その暴走運転を行い、ネットに動画を公開した動機として、承認欲求が占める割合は大きいだろう。若年者のネット炎上の典型例には、コントロールできていない承認欲求の存在がチラついている。
 
※なお、上掲『認められたい』が重版となりました。皆さんありがとうございます!
 
 また、もっと深刻な問題として、あれこれの精神疾患や家族病理が見出されることもままある。精神医学や心理学には、そういった病理を説明するための用語がたくさんあって、かなりのレアケースでさえ「その背景として○○障害があった」とフォルダ分けできることがある。その際、意外に無視できないのは知的障害だ。「青少年の心の闇」と称される出来事の背景として、軽度~中等度の知的障害が関連していることは珍しくない。ともあれ、「青少年の心の闇」を語るための用語は無数に用意されていると言っても良い。
 
 しかし、中年の場合はそうでもない。
 
 もちろん中年の乱心にも、精神医学や心理学の用語がしっくり来る事例はある。たとえば慢性精神疾患に罹っている人の犯罪などには、その背景として精神疾患の関与が読み取れることはある。ただ、中年ともなれば、そういう精神疾患の既往が明るみになっているので、識者も世間も、そういうものをいちいち「心の闇」などと呼んだりはしない。
 
 ところが中年のなかには、それまで順風満帆な人生を歩んできたはずなのに、唐突に身を持ち崩す人がいる。
 
 愛人。セクハラ。投資。自殺。失踪。殺人。
 
 富も名誉も手に入れた中年、家族円満で職場でも評価の高い中年が、突然に人生の滝壺に飛び込む。その人の来歴を考えるなら、リスクについて知らないはずはなく、知らなければとうの昔にドロップアウトしていたはずの人物が、40代や50代になって人生を棒に振るようなことをやってしまうのを見ると、私は「中年の心の闇だ!」と叫びたくなる。
 
 そうした中年も、ある程度までは精神医学や心理学の言葉でフォルダ分けできてしまうことがある。
 
 たとえば元々エネルギッシュに活動していた人が、同年齢で双極性障害(躁うつ病)を発病し、躁状態になって異常な行動を起こしてしまった……というのは精神科で見かける定番だ。精神科では定番だが、世間の実数はそれほど多くはないかもしれない。しかしエネルギッシュに活動している人は世間的には目立つので、このような人が躁状態になって人生の危険運転を始めると、多くの人が巻き込まれると同時に、多くの人の目に留まることにはなる。
 
 もうひとつ、中年期危機という言葉がある。この言葉は、中年期の社会的・生物学的変化を背景として、抑うつ、仕事や人生の急激な変化、アルコール等の増加、別離などに直面するものを指すが、行為にあらわれることのない、内心の動揺や変化を指していることもある。この言葉は全般にうすらぼんやりとしているため、「○○さんは中年期危機」と言っただけでは殆ど何も言っていないに等しい。中年期危機かどうかが問題なのでなく、どういう中年期危機が問題なのかを具体的に述べないとはじまらない。
 
 だから、中年発症の双極性障害のような「わかりやすい」ものでない限り、「中年の心の闇」はいつもわからない。
 
 

気を抜いたら無が迫ってくるのはわかる

 
 ただし、冒頭ツイートに書かれていた「でかい無」に相当するようなニヒリズムが、伏流水のように自分の足元を流れている予感はあり、「中年の心の闇」が他人事と思えない。中年は、習慣や惰性や立場によって思春期より安定したライフスタイルを構築しているようにみえるが、万物流転、諸行無常のならいのなかでは、しょせんは砂上の楼閣でしかない。
 
 ・命の儚さ。元気に活躍していた才気に溢れる人も、案外あっさり死んでしまう。そういうことを実感する機会が20代の頃より増えた。これから年を取るにつれて、その実感は増えることこそあれ、減ることは決してないのだろう。いずれは自分も死んで、おおむね無になってしまう未来が、少しずつ間近に迫ってくる。
 
 ・立場の儚さ。学歴・経歴・評判。そういったものを何十年も積み上げてきても、小さな選択ミスによって瓦解することが周囲の人生を見ていてわかってくる。それどころか、偶然や運命によって唐突に失ってしまうことさえある。それでも積み上げてきたものを守り続ける大人達の、背中を丸めた小市民性! イワシの群れのような膨大な数の小市民のなかの一人が倒れても、世間は微動だにしない。
 
 ・遠ざかる学生時代の記憶。20代の頃は学生時代と現在が隣接していてシームレスな感覚があった。ところが中年ともなると、自分の学生時代が遠い過去として思い出されて、当時と現在との間に30代の記憶が挟まるようになる。と同時に、昭和時代のことを知らない人がどんどん増えていく。ということは、自分が子どもだった頃に戦前の話をしていたおじさんやおばさんと、現在の自分とは、たぶん同じなのだ。自分という存在の少なからぬ部分が「過去」によって構成されていることを思い知る。
 
 ・習慣の代償と健康の喪失。メタボリックシンドロームのようなものであれ、飲酒喫煙のようなものであれ、ギャンブルやセックスや趣味のたぐいであれ、習慣的に続けてきたものの目に見えない負債が少しずつ露わになってくる。20代の頃は歯牙にもかけていなかった問題や、20代の頃の社会適応を助けていたはずの所作が、人生の借金取りから取り立てられはじめると気付く。習慣の修正は難しい、とりわけ、それまでの人生の助けになっていたものを修正するのは難しい。そうやって身から錆が出て来るが、割とどうしようもない。
 
 ・それでいて人生は終わらないし終えることもできない。儚い立場で身を固めることで、中年は思春期に比べれば安定した生産的な時間を過ごせるとはいえ、身を固めることによって、あるいは身が固まってしまうことによって、自分はもうこの人生を降りられないし、なるようにしかならないという諦念が脳裏にこびりついてもいる。思春期にあった実存の問題とはまた違った、マラソンランナーのように生きていくなかで、ふとした瞬間に感じる無意味さ。仕事や家族や趣味によって生かしてもらっているという恩恵と、生きていかざるを得ない・生きなければならないという重荷は、本当は紙一重で、その紙一重が狂うと中年の人生は転覆してしまいそうだ。
 
 
 こういったことを立ち止まって考えると、だいたい気が滅入る。中年の日常に実存を問い直す猶予は乏しいけれども、日常の隙間にふと考え直すと、真っ暗な一本道を習慣と惰性と立場をともしびに歩いているような、言い知れない不安に襲われることがある。ほんの少し道を踏み外して、ほんの少し歯車がズレたら、闇に呑まれて帰ってこれなくなってしまうだろう。
 
 こういう感覚は私だけのものなのか。それとも、平穏に暮らしているようにみえる他の中年の皆さんも普遍的に抱えているものなのか。「中年の心の闇」はイマイチわからないけれども、それはきっとすぐ傍に潜んでいて、こちらを凝視しているように思う。