シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

藤野恵美『おなじ世界のどこかで』巻末解説を担当させていただきました

  

おなじ世界のどこかで (角川文庫)

おなじ世界のどこかで (角川文庫)

 
 本日発売の藤野恵美さんの作品『おなじ世界のどこかで』で、巻末解説を担当させていただきました。
 
 本作は、もともとNHKオンラインで公開されていた作品を文庫化したものだそうです。これからスマホやSNSを本格的に使っていく方を主な想定読者として、インターネットやSNSのいろいろな側面を見知っていけるような話の筋になっています。と同時に、インターネットとは人と人とを繋ぐ媒体であって、人こそが肝心なのだということを思い起こさせてくれる作品でもあります。
 
 作者の藤野恵美さんは、数多くの児童向け作品をはじめ、幅広い活動をされている作家さんです。私が初めて読んだ藤野さんの作品は『ハルさん』でしたが、そこで描かれる娘と父の物語の温かさに心動かされました。同じカドカワから出版されている青春三部作*1も、思春期のスピード感が気持ち良い作品なのに似たような温かさが根底で共通していて、本作品にもそういう部分があるように思われます。
 
 他作品を読むにつけても、藤野さんは人の明るい部分だけを見ているわけではなく、いろいろな年頃の、いろいろな問題を視野におさめておられるのでしょう。インターネットに渦巻く悪や危機管理の問題についても、知らないわけではないと思います。
 
 しかし本作品はインターネットの悪についてはそれほど掘り下げず、人と人がインターネットで繋がることの可能性を描き出すことに重心を置いていて、それで良かったのだと思います。いまどきの小中学生はインターネットについて沢山の警告や広告に曝されていて、ある面では意外といって良いほど"インターネット慣れ"しています。いやだからこそ、本作品のような、インターネットの向こう側に人肌が感じられるような切り取りの作品も世の中にはあったほうが良いように思われるのです。その点において、藤野さんは最適の人選だったのではないでしょうか。
 
 ちなみに、巻末解説の末尾には、「どうか皆さんも、良いインターネットと、良い人生を。」というフレーズを用いました。このブログの常連さんのなかには、これが旧ニュースサイト『まなめはうす』管理人の、まなめさんの言葉によく似ていることに気づいた人もいるかもしれません。執筆中に私も気付きましたが、これ以外のフレーズはあり得ないと思って、そのまま採用しました。私がこの言葉を想起したのも、過去に『まなめはうす』を読んで影響を受けていたからに違いなく、それは『おなじ世界のどこかで』で描かれたインターネットの縁と同質のものだと思います。この場を借りて、まなめさんと『まなめはうす』に改めて御礼申し上げます。
 
 個人的には、これからインターネットを始める人や、悪いインターネットばかり見つめ続けて擦れてしまった人に、おすすめの作品だと思います。
 
 
 
※いいなと思った方は、藤野さんの他作品もどうぞ
ハルさん

ハルさん

わたしの恋人 (角川文庫)

わたしの恋人 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ふたりの文化祭 (角川ebook)

ふたりの文化祭 (角川ebook)

 
 
 

*1:『わたしの恋人』『僕の嘘』『ふたりの文化祭』

恋愛は「集団攻撃魔法」が大切だと俺は思う

 【COI開示】編集者さんをとおして著者(トイアンナさん)から献本していただきました。
 

モテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門 (文庫ぎんが堂)

モテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門 (文庫ぎんが堂)

 
 かつて、「脱オタ」系ウェブサイトをやっていた身として、また、私自身も「モテたいわけではないけれども彼女が欲しい」と思っていた身として、頷きすぎて顎がガクガクになるような、なんとなくムズ痒くなるような、そういう書籍だった。
 
 過去の私などもそうだけど、恋愛経験の乏しい人は、意中の女性に対して一騎打ちのような、硬直した考えかたをしがちだ。不特定多数にモテようとするのは良くない・それは誠実ではないといった考えで、みずから視野狭窄してしまう。
 
 ガツガツ女性を追いかけたいわけじゃない。意中の女性が現れたらいいなとも思っている。けれども具体的に何をすればいいのかわからないし、いざ、意中の女性が現れたとしても手の打ちようがない――たぶん、そういう男性は今も昔も多いだろう。
 
 本書はそれに対するアンサーと言えるもので、「ファッション」「メンタル」「コミュニケーション」「深い付き合い」の四単元にわけてアドバイスしている。本来、こういうことは社会のどこかで教育しなければ身に付かないはずなのだが、学校では恋愛基礎教育をしてくれないため、メソッドを記した書籍の需要は絶えることはないだろう。実際、そういったメソッドとして優れた本書は売れているらしく、早くも重版が決まったそうだ。
 
 それはさておき。本書の前半パートにかこつけて、”恋愛は「集団攻撃魔法」が大切”という与太話を書いてみる。
 
 

「集団攻撃魔法で恋愛成就する」

 
 恋愛に、男女の一騎打ちのような側面があるのは否めないとしても、それはあくまで中盤~後半の話。序盤において役に立つのは、一騎打ちのような意識ではない。
 
 ドラクエ風に言うと、恋愛は、単体攻撃魔法のメラやメラミやメラゾーマで決まる部分よりも、集団攻撃魔法のイオやイオラやイオナズン、グループ攻撃魔法のヒャダルコやヒャダインやマヒャドで決まるものではないだろうか。
 
 たとえばファッションやルックス。
 
 俗に「ただしイケメンに限る」とはいうけれども、そうしたイケメン性やファッションの無難でこざっぱりとした心証づけは、特定女性だけを狙い撃ちにしたものではない。まあ、なかには奇抜なファッションで意中の女性の心だけを撃ち抜く人もいるかもしれないが、ほとんどの場合、ある女性を惹きつけるファッションやルックスと、不特定多数の女性を惹きつけるファッションやルックスは共通している。
 
 だからファッションやルックスは「全体攻撃魔法」みたいなものだと私は思う。意中の女性だけに効果があるのではない。意中ではない女性にも、街ですれ違った見知らぬ女子高生にも、食堂のオバサンにも効く。
 
 これは、会話についてもある程度は当てはまることで、ある女性にとって望ましいコミュニケーションの態度と、女性全般にとって望ましいコミュニケーションの態度は、(全部ではないにせよ)かなりの部分まで共通している。トイアンナさんは、女性とのコミュニケーションの練習として

 Lv.1 コンビニの店員さんに道を聞く
女性へ話しかける訓練をしたいとき、いちばん簡単なのは業務上相手が絶対に対応してくれる場所を選ぶことです。コンビニの店員さん、警察官の女性などへ道を聞きましょう。最寄り駅の向かい方など、誰でも答えられそうな場所への道を教えてもらうのが王道です。
 これなら「3日間お風呂に入っていない」「パンツ一丁」などよほどの事情がなければ拒絶されません。強いて言うなら、混雑している時間帯にお願いすると嫌がられるのでレジが空いているか確認してからにしましょう。

 と書いていて、その次のステップとして飲み屋やイベントを挙げておられる。こういう経験蓄積のフィードバックはけして小さくない。業務で女性と会話する時でさえ、そのときの言動によってポジティブ~ネガティブまで、いろいろな反応が返ってくる。そういった反応の違いを検分しながらトライアンドエラーを繰り返していけば、女性全般にだいたい通用する振る舞いが少しずつわかってくる。そういうノウハウは女性全体に効果があるので、いつまでも役に立つ。
 
 また、女性は、男性全般の評価や評判を、仲間内のグループや社会関係のなかである程度シェアしていることが多い。だからコミュニティのなかの女性Aと恋仲になりたいと思った時、彼女と親しくしている女性Bや女性Cからの評価が悪ければ恋愛はなかなか上手くいかない。女性Aが信頼しているオバサンDから目の敵にされていても、仲良くなるための難易度は高くなるだろう。
 
 そういう意味でも、「一人の女性と一騎打ち」のような恋愛観は危ない。あるコミュニティ・ある場において女性と仲良くなるためには、その女性だけと仲良くなろうとメラやメラミやメラゾーマを唱えても、たぶんうまくいかないのだ。それよりは、全体攻撃魔法のイオやイオラやイオナズン、それかグループ攻撃魔法のギラやベギラマやベギラゴンを――つまり、女性全般に効果のあるようなアプローチや、グループ全体の心証を改善するようなアプローチ――を必要とするのだと思う。
 
 「将を射んとせばまず馬を射よ」という言葉がある。
 
 私は、恋愛もたぶん同じだと思っている。意中の女性と仲良くなる際には、その意中の女性と仲の良い別の女性や、その意中の女性に影響力のあるオバサン*1と仲良くなるぐらいの意識のほうがうまくいく。よしんばうまくいかなくても、そのプロセスのなかで対女性ノウハウが鍛えられるので、損をすることはない。
 
 「意中の女性と10喋るなら、その周りにいる女性たちと50以上は喋る」ぐらいの意識でだいたいOKなんじゃないだろうか。
 
 

「まだ、意中の女性なんていないんですけれど」に対する回答

 
 こう書くと、「まだ、自分には意中の女性なんていません」という答えをする人がいるだろうし、それはそれで、よくある話ではある。
 
 これに対する答えは、「いつでも意中の女性が現れても構わないように、女性とのコミュニケーションのノウハウをとりあえずで蓄積させておいてはどうですか」だ。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 恋愛が始まってからアタフタコミュニケーションを始めても、間に合わないことが多い。それなら恋愛が始まる前から準備を整えておいたほうがいいんじゃなかろうか、という発想だ。
 
 最初から特定女性を意識する必要なんてどこにもない。後付け的に誰かのことを好きになったって構わない。むしろ、あらかじめコミュニケーションの土台ができあがったうえで後付け的に誰かのことを好きになったほうが、その恋愛の成就確率は高いはずだ。惚れるのは、仲良くなってからでも遅くはない。
 
 本書の後半パートは、そうやって一定の仲まで進んだ男性へのアドバイスへと進んでいく。でも、それは一定の成就をみた後の話であり、手前の段階では「将を射んとせばまず馬を射よ」、とどのつまり、「集団攻撃魔法」のロジックでいいんじゃないかと思う。
 
 モテたいわけではない人でも、いつか誰かと仲良くなるための橋渡し的なノウハウはあったほうがいいと思う。備えあれば憂いなし。
 
 

*1:しかも、オバサンはしばしば女性としての社会関係スキルが滅茶苦茶高いので、オバサンから学べることは無限にある。オバサンとのコミュニケーションは本当に重要。あれはコミュニケーションの技能の宝庫ですよ。

アニメ見放題時代の、オタクおじさんの行く道

 


 
 上掲のツイートをした方は、たぶん、私よりも幾分年下のオタクなのだと思う。そんな彼がこのように書いているのを読み、それを肯定したくなったので、今、反射的にこれを書いている。
 
 

どうにも趣味が古くなったことを否定できなくなった

 
 最近はアニメやドラマが見放題になるサービスがいろいろあって、オタクなら一つや二つぐらいは加入しているだろう。かく言う私もアマゾンプライムには常時お世話になっていて、ときどき、他のサービスに課金したりもしている。
 
 で、そういう見放題サービスで何を観ているのかというと、新作アニメを観るために使っているつもりだけど、うっかりすると過去の作品をゲロゲロ眺めてしまうことがあり、先日もつい、初代『ガンダム』に出てくるジムの雄姿を確かめるために一時間も突っ込んでしまった。
 

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 00年代懐古用のマイリストを覗くと時間が溶ける。「萌える」という言葉が生き残っていた時代の思い出に首まで浸かっていると忘我の境地になる。しかしそれは青春時代を懐かしむ中年であり、NHKの火曜コンサートを楽しみにしている高齢視聴者とたいして変わらない。
 
 かろうじて私がオタクの残骸ではないと自覚できる瞬間があるとしたら、新作のゲームやアニメを楽しんでいる時、だろうか。
 
 ゲームに関しては私はまだ息が続いていて、今は『スプラトゥーン2』をさんざんやりまくっている。生活と趣味の兼ね合いを考えるなら、今、私はあまりゲームをすべきではないのかもしれないが、こと、ゲームに関しては貪欲さを失っていない。人生の残り時間の何%かをゲームに費やすことに躊躇いがなく、ゲームは自分の人生の必須アミノ酸だと思っているふしがある。
 
 だが、アニメの新作を選ぶ際には「古い趣味だ」と自覚することが増えた。
 
 今季のアニメも、視聴継続が確定しているのは『シュタインズ・ゲート ゼロ』と『銀河英雄伝説 Die Neue These』。そのほかは模様眺めとなっている。前季のアニメでは『りゅうおうのおしごと!』という、ある方面のテンプレートを洗練させきった、しかし00年代じみたセンスの作品が肌に合っていると感じてしまった。
 
 どんなに新しいアニメに触れているつもりでも、チョイスに長年の嗜好が染みついていて、自分が疲れないアニメ・異物が入ってこないアニメを、どこかで選びたがっている。ゲーオタがメインでアニオタがサブという位置づけの私にとって、アニメ視聴はオタク=アイデンティティの大黒柱ではないから、アニメに存在理由を求めているわけでもあるまい。だとしたら、私は思春期以来の惰性と習慣にもとづいてアニメを視聴し続けているのだろうか──。
 
 

マーケットは、そういうオタクおじさんを上手に回収している

 
 とはいえ、現在のオタクおじさんにとって、ゲームやアニメの近況は悪くない。むしろ非常に恵まれている。
 
 『カードキャプターさくら』『ゲゲゲの鬼太郎』『キャプテン翼』などは、21世紀に蘇るとは思ってもみなかった。今更『ガンダムW』が再放送されているのも、要はそういうことだろう。数年前にヒットした作品の続編やスピンオフまで含めると、後ろ向きな中年でも楽しみやすいタイトルが、結構な割合で放送されている。こうした状況が若いアニメファンにとって好ましいものなのか、疎ましいものなのかは、私にはわからない。どうあれ、いくらか年を取ったオタクおじさんには手を出しやすいレパートリーではある。
 
 ゲームの世界でも、オタクおじさんが喜びやすい作品は少なくない。『ドラゴンクエストビルダーズ』のような作品は、感性がファミコン時代に止まってしまったドラクエファンでもマインクラフトっぽい遊びができる(しかも、イコールではない)ゲームとして、やりやすいものだと思う。また、我が家では、『ドラゴンクエストビルダーズ』や『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』などを通して、耳馴染みのゲームBGMが子ども世代に継承されている。それはおじさん冥利に尽きることだ。
 
 『FGO』にしたって、エロゲー時代の遺産がこんなに立派に復活して、それでいて『パズドラ』風の……というより『ビックリマンチョコ』風のテイストをも取り込んでいて、老若男女が遊んでいるのを目にしていると、「これでいい、これでいいんだ……」という奇妙な安堵感に包まれる。
 
 また、Nintendo SwitchやSteamには、レトロなゲームを遊び直したり、レトロなゲームをリファインした新作に触れたりする機会がたくさん取り揃えられている。オタクおじさんやその錆びた残骸が、認知症になるまで懐古し続けても遊び飽きないぐらいにレパートリーが整備されつつある。
 
 私は、現在のアニメ界隈やゲーム界隈をこんな風に体感している。おじさんでも楽しみやすく、それでいて若い人にも何かを提供している作品が界隈に溢れているのは、本当にありがたいことだ。そういうご配慮(と言う名のマーケティング)のおかげで、私は安んじてゲームを遊び、アニメを観ていられるのだろう。
 
 

「俺のようにはなるな」とは言わない

 
 こういう後ろ向きな趣味生活に対して、若い人のなかには「こんなオタクおじさんにはなりたくない」と思う人もいるかもしれない。正直に言うと、私も若い頃は、年上の錆びた残骸を反面教師のように捉えていたふしがある。けれども今の私は「俺のようにはなるな」などと言うつもりはない。
 

 このような保守的で、時計の針が止まってしまったかのような愛好家の姿は、新しいコンテンツにも目を通している若い愛好家からはまったく誉められないものでしょうし、反面教師にしたいと感じる人もいるに違いありません。
 ですが、サブカルチャーを心底楽しんでいた青春時代が終わって、もっと他のことにも目を向けなければならない年頃になってからの落としどころとしては、いちばん無理がありませんし、そういった道を選んだからといって、人生の選択を誤っているとは私には思えません。むしろ、自分にとって本当に大切なコンテンツに的を絞ることで、最小の労力で自分の趣味の方面のアイデンティティをメンテナンスし続けられているとも言えます。
 『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』より

 
 どだい、三十代や四十代にもなって、十代や二十代と同じ感性・同じ態度でアニメやゲームに接しているほうが、中年のありかたとしてはどこかおかしい。いつまでも続く夏休みなんて存在しないのだ。
 
 それよりは、精神的・肉体的な加齢にあわせて趣味生活を軌道修正していくほうが、人として無理が無いだろう。過ぎていくものを嘆くより、来るものを喜び、あるがままに生きたほうが人生はきっと生きやすくなる。それは、アニオタの道やゲーオタの道だって同じではないか。
 
 思春期に思春期らしいオタクライフを過ごすのは、もちろん素晴らしいことだ。そういう時期に出会ったアニメやゲームは魂の一部になる。でも、そういう時期が終わった後も人生は続くし、魂の特等席をなにがしかの作品が占拠してしまった後も趣味生活は続く。私はそういうのを投げ捨ててしまうのでなく、ぎりぎりまで楽しんでいきたいと思う、たとえそれが、後退戦のような趣味生活になったとしても。
 
 

「その日、自分は何を思い、何をしたか」

 


 
 上掲ツイートがたまたま目に飛び込んできて、ああ、そういえば意外と覚えているなぁと思い、書きたくなったのでブログにメモっておく。
 
 
【911が起こった時】
 
 この頃の私は、夜の10時までに帰宅できていればテレビ朝日の『ニュースステーション』を観ているることが多かった。唐突に「ビルに飛行機が衝突した」というニュースが報じられて、はて、変な事故もあるものだなぁと思っているうちに二機目衝突が報じられて驚き、テレビに釘付けになっているうちにビルがガラガラと崩れ落ちていくのを信じられない光景として眺めていた。ニュースの最中にも「テロではないか」というコメントが流れていたような気はするが、当時の私には、イスラム勢力がアメリカの中心部大規模なテロをやるということがさっぱり信じられなかった。
 
 約18年経った今から思い返せば、00年代~10年代を象徴する出来事であったのだけど、もちろん私はそのようには捉えていなかった。他の人々もたぶんそうだっただろう。その後、世界じゅうでテロが起こり、中東情勢が“混迷をきわめる”と、あの時に見通していた人なんていたのだろうか。
 
 
 【松本サリン事件が起こった時】
 
 地下鉄サリン事件が起こった時の印象は、あまり覚えていない。自分にとってインパクトが大きかったのは、ごく近くで起こった松本サリン事件のほうで、地下鉄サリン事件のニュースを観て最初に思ったのは「これでやっと松本サリン事件の犯人がわかる」だった。当時は、河野さんという近隣に住んでいる人を容疑者のように見る向きもあったが、自分には、河野さんのような人物に有機リン系の有毒ガスが作れるとは思えなかった。地下鉄サリン事件が起きて、ああ、やっぱり河野さんではなかったんだなと確信した。
 
 松本サリン事件が起こった時、私は信州大学の2年生で、早朝にかかってきた親族からの電話で事件を知った。「信州大学の近くで毒ガス事件があったけど、大丈夫け?」
 
 テレビをつけてみると、当時の私の住まいから2kmほどの場所で7名の死者が出ていると報じられていた。そのなかには、信州大学医学部の5年生も混じっていた。同級生は誰も被害に遭わなかったが、非常に近い場所に住んでいた者もいて、その日はその話題で持ちきりだった。やがて、信州大学附属病院のドクターが「有機リン系の薬物中毒、ちょっと考えられない」と言っていた話が流れてきて、実際、そのとおりの報道が流れた。
 
 ただ、事件があまりにも唐突過ぎて、不可解な出来事だったので、じきに私達はこの事件のことを忘れていった。地下鉄サリン事件が発生する、その時まで。
 
 
 【東日本大震災が起こった時】
 
 東日本大震災が起こった瞬間のことは、非常にはっきり覚えている。
 
 その日私は、いつものように精神科の外来診療を行っていた。地震が起こった午後2時過ぎは少し難しい診療面接をやっていて、私も患者さんも楽な気分ではなかった。気の乗らない面接をどうしようか、と思っていた時に私はめまいを覚えた。
 
 「すみません、ちょっとクラクラして」「今、めまいが……」
 
 私と患者さん、めまいを訴えたのはほとんど同時だった。同時だったから、めまいではないことを知った。地面が、大きく揺れている。
 
 大きな船にでも乗っているような、うねりがいつまでもいつまでも続いた。これは絶対に大きな地震に違いない。こういうのはtwitterが一番速いと思ってタイムラインを覗くと、東北で巨大地震が起こったと誰かがつぶやいていた。患者さんとの話し合いは有耶無耶に終わって、その日はそれでお開きになった。
 
 自宅に帰る途中、珍しくカーナビでニュースが見たくなった。コンビニの駐車場で津波の映像を見て、すぐさま気分が悪くなった。福島県の海岸沿いを上空のヘリコプターが映した映像で、今まで見たこともない、日本の風景とは思えない、焦げ茶色の海岸線だった。なぜ気分が悪くなったのかはわからないが、ニュース報道を見てこれほど気分が悪くなったことは前にも後にも無い。あれは何だったんだろう?
 
 
 【「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」を観た時】
 
 1997年7月19日は、惣流アスカラングレーの命日である。他にも、葛城ミサト、赤木リツコそのほか多くの人が死んだ。いや、死んだと言って良いのだろうか? さしあたり、その後、惣流アスカラングレーが蘇ったのは間違いない。
 
 これに先だって公開された『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』で、テンションは十分に高まっていた。そのラストシーンから、惣流アスカラングレーが危機的状態に置かれていることも承知していた。で、『まごころを、君に』を観て、私の頭のなかはゴチャゴチャになった。私達のよく知っている惣流アスカラングレーは死んだ。ストーリーの必然として死んだようだった。たが、赤く染まった海岸線のラストシーンで蘇った、ようにみえた。到底元気の出る終劇ではなかったけれども、ともかく、惣流アスカラングレーは蘇って「気持ち悪い」と言い残した。
 
 当時、エヴァンゲリオンに熱狂していた人のなかには、いわゆる「謎解き」に夢中なタイプもたくさんいた。人類補完計画、セフィロトの木、最後の使徒、サードインパクト、そういったボキャブラリーを舐め回して、その意味を深読みするようなタイプだ。時の風化を経た今になってみると、1997年のサブカルチャー作品には、そういう深読みがいかにも似合うように見えてしまう。
 
 いっぽう私は、碇シンジ、惣流アスカラングレー、綾波レイといった、キャラクターそれぞれの行く末に関心のウエイトを置いていた。アニメに出てくる個別のキャラクターに対して、これほど身を案じていたことはそれまで無かった。無かったからこそ、『まごころを、君に』の結末を気にしていた。
 
 『まごころを、君に』を見終わった瞬間は、なかば茫然自失だった。一緒に映画を観に来ていたオタク仲間は、お気の毒に、といった表情を浮かべていた。そのとき私は、クックックと反動形成的な笑みを浮かべていた。まあ、ショックだった。
 
 それでも、惣流アスカラングレーは死んで蘇ったのである。そのことに重大な意味があるように私には思えた。庵野監督がどのような意図であのようなストーリーにしたのかはわからないし、別に、わかりたいとも思わなかった。だが、さしあたって私に重要だったのは惣流アスカラングレーが死んで蘇ったという、公式作品内での事実だった。
 
 私の人生にとって、惣流アスカラングレーが死んで蘇ったという作品内事実はひとつの転帰だった。現在の私の社会適応、その相当部分は惣流アスカラングレーの死と再生から始まったと割と本気で思う。おかしな話に聞こえるかもしれないが、死んで蘇った惣流アスカラングレーを観た時、私もそのようでありたいと思ったからだ。
 
 『まごころを、君に』のことを書いたらおなかが減ってきたので、このお題について書くのはこれでおしまいにします。
 

ネットの正論や世論に包囲されても、言いたいことは言うべきだと思い出した。

 


 
 かわんごさん(ここでは、かわんごさんという呼び名で通す)の上掲ツイートには、例によってはてなブックマークコメントが沢山くっついていた。私も含め、「それは時代錯誤だ」「立場というものを考えろ」的なコメントが多い。
 
 しかし以降のツイートを読んでみると、かわんごさんは「ネットを公共の場として責任を求める風潮」が既にできあがっていることを知悉したうえで、それでも「ネットでは自分の言いたいことを言いたいように言っていく」というスタンスを考えている様子だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 かわんごさんは、「今日のインターネットは正論の巨大な同調圧力の場と化している」と記している。そのうえで、そのような正論の同調圧力の場、あるいは公共空間へとネットが変容していくことは、私達の生活空間(あるいはコミュニケーション)全般がそれらに呑みこまれていくことである、とも危惧している。
 
 こうした変化は、インターネットを長くやっている人なら肌で感じ取っているだろうし、私も例えばこのブログ記事で所感を書いたことはある。メイロウィッツ『場所感の喪失』に書いてあることがインターネットで起こっている、と言い直すこともできるだろう。
 
場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響

場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響

  • 作者: ジョシュアメイロウィッツ,Joshua Meyrowitz,安川一,上谷香陽,高山啓子
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 だから、今回のかわんごさんの話自体はそれほど目新しいものではない。
 
 

「もうそうなってしまったから」で何もしないのはどうなのか

 
 しかし私は、一連の文章を読んで割とハッとさせられた。ここ十数年のインターネットの変化を踏まえて、もう変わってしまったのだから何もしない・みんながそうだと決めているとおりに唯々諾々と従うしかないのは、本当に良いことなのか?
 
 インターネットが公共空間寄りのメディアに変容し、21世紀の権力分配のシステムの一翼として機能しはじめている現状のなかで、その現状を追認する行為に終始して、それで私は満足なのか。
 
 「現在の世の中がこうである」「現在のインターネットはこうである」という命題と、「世の中にはこうであって欲しい」「インターネットはこうであって欲しい」という命題には、何かしらのズレがある。そして現状のなかで最大のベネフィットを得たいなら、こうであるべきは引っ込めて、現状追認に徹するのが利口だろう。そして私自身も含めて、インターネットで長く暮らしている人は多かれ少なかれ現状追認になびいていて、それで適応している。
 
 多かれ少なかれ現状追認になびくのは、適応していくための手段として仕方のないことだし、それを非難してもはじまらない。第一、私だってそうしている。
 
 しかし、もし本当に「世の中にはこうであって欲しい」「インターネットはこうであって欲しい」と願うのなら、現状追認に徹するのでなく、必要とあらば現状に抵抗する・現状とは違ったカラーを出していく姿勢があってもおかしくない……と、私はかわんごさんの文章を読んで思い出した。
 
 かわんごさんの“なかのひと”は、社会的には軽視されないポジションにいて、それゆえ、公共空間寄りになったインターネットにおいては相応の態度を期待されがちだ。少なくとも、そういう風に期待する向きは一定割合で存在する。
 
 にもかかわらず、かわんごさんは、損を承知のうえで、現状のインターネットの正論・定法に逆らうようなことを(今回に限らず)書き込むことがある。もしそれが乱心のたぐいでなく、かわんごさんなりのスタンスであるとするなら、私は「面白いな」と思う。
 
 本当は「面白いな」ではなく「素敵だな」とでも書きたいみたいが、私は臆病で、インターネットの正論に攻囲されるのがおっかないので、今回は「面白いな」という表現に留めておく。
 
 そういえば、かわんごさんは皆が正論や常識だと思っていることでも、自説を曲げずにぶつけてくることのある人だった。
 
 5年ほど前に、私が『"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点』というブログ記事を書き、はてなブックマークで割とバッシングされた時も、かわんごさんは「ブコメで普段から”正義の虐め”を実践しているひとたちが憤慨していて笑える。」と書いておられた。
 
 思えばこの時も、「正論や常識の名のもとに」がテーマだった。だから私は、かわんごさんのなかでは、正論や常識によって言説空間が窮屈になっていく問題に対して、首尾一貫した考え方があるのだろうと推測することにした。
 
 少し話が逸れたので戻るが、とにかく、今回のかわんごさんのツイートを観て、私は自分が忘れていた何かを思い出した気がした。自分自身の対外評価がいくらか下がるかもしれないけれども、自分が思っていることを思っているようにインターネットに書くということを忘れてしまったら、一体何のためにインターネットをやっているのかわからない。何のためにはてなブログを続けているのかもわからなくなってしまう。そういう根っこのところを、私は思い出すことができた。
 
 

どんなインターネットを自分がやりたいのか思い出した

 
 もちろん、既存のインターネットの正論や世論を無暗に逸脱してもしようがない。たとえば、自分があまり関心を持っていないジャンルの政治的正しさに対して、考えもなく逆らってみせたところで、無意味に政治的失点を重ねるだけだろう。
 
 けれども、政治的失点を回避することに汲々として、正論や世論からはみ出したものをバッシングしてまわって“得点稼ぎ”に満足するインターネットライフというのも、それはそれで虚しい。インターネットには、そうやって正論や世論からはみ出したものをバッシングし、得点稼ぎに明け暮れている人々が、それなりの割合で存在するけれども、彼らと同じようなマイクロ権力屋に成り下がった未来に、私がやりたいインターネットがあるとは思えない。
 
 たとえインターネットが、その正論や世論からはみ出した者に強い圧力をかける社会装置になったとしても、自分自身がその社会装置と同一化しなければならない道理はなかったのだ。そのような社会装置と同一化したくないなら、心のどこかでキチンと線引きはしておいて、本当に主張したいことがあったら主張すべきなのだった。
 
 そのような、当たり前だったはずのことを忘れてしまう程度には、私はインターネットの正論や世論におもねってしまっていた。そのことを恥じたい。と同時に、来るべき時に、インターネット正論や世論から攻囲されることを恐れずに主張していく勇気を養いたい。