シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

前向きに年を取る限り、人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先の文章を読んだ時のファーストインプレッションは、「カリスマ女子高生って、楽しそうだな」というものだった。
 
 渋谷の女子高生として「全盛期」を過ごすのは素晴らしい体験だろう。男性はもちろん、女性でもそういう風に十代を過ごせる人は多くはない。若い頃の「全盛期」を、「全盛期」として受け取ること自体はぜんぜん間違っていない。
 
 その一方で、若い頃の「全盛期」で時計の針が止まってしまい、何をするにも物足りない現状が語られているのは悲しいことだとも思った。
 
 

  • 人生の「全盛期」は年齢とともに変わっていく

 
 人間は、生物としても社会的にも必ず歳を取っていくので、年齢によって「全盛期」の内容も違っている。小学校時代に迎える「全盛期」と、高校時代の「全盛期」、20代になってからの「全盛期」と、40代の「全盛期」はだいぶ違うし、「全盛期」を迎えるための条件も違う。
 
 たとえば小学生男子が「全盛期」を迎えるためには、足の早さや球技の活躍っぷりなどがかなり重要だが、それらは、40代男性が「全盛期」を迎える条件としてはあまり重要ではない。
 
 おなじく、女子高生が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることと、30代女性が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることも、共通しない部分がいろいろあるだろう。
 
 もちろん同じ年齢層でも個人差はあり、たとえば40代の場合、子育てや後進の育成に忙しい「全盛期」もあれば、趣味の洗練や社会参加を中心にした「全盛期」だってある。だが、さしあたって忘れてはならないのは、ライフステージが進むにつれて、自分自身も周囲の環境や目線も変わっていくから、「全盛期」と感じるための条件も変わっていく、ということだ。
 

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

 


※参考:『自我同一性-アイデンティティとライフサイクル』P216および『カプラン精神医学 第二版』P226 を参照。筆者による表現のアレンジ含む

 この表は、エリクソンの発達課題を並べたものだ。これは古き良きアメリカの時代に作られた一つのモデルに過ぎないけれども、子どもと若者と大人で人生の課題が違っているという考え方そのものは、現代にも通用する。
  
 ある年頃で「全盛期」を迎えたからといって、そこに固執していては次の年頃での「全盛期」を逃してしまうことが往々にしてある。学生時代にスクールカーストの頂点にいたけれど、その後は精彩を欠く人は珍しくない。逆に、学生時代は不遇と言って良い状態だったけれども、年齢が上がるにつれて「全盛期」を迎えてくる人もいる。
 
 この、「年齢が上がってライフステージが変わるにつれて、「全盛期」の条件も変わる」という、当たり前なのに意識されにくい社会現象が私は大のお気に入りで、『「若作りうつ」社会』からこのかた、ずっと書き続けてきた。
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

認められたい

認められたい

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 ライフステージの変化に伴って「全盛期」を迎える条件が変わっていく以上、現在に固執するよりは次のライフステージをも意識して、生き甲斐や人生哲学を軌道修正していったほうが生きやすいはずだ。そして年を取ってからの「全盛期」は若かった頃のソレとは異なっているので、いつも新鮮で、退屈している暇など無い。ところが「全盛期」を若い頃に経験した人は、しばしばそこに固執してしまい、次のライフステージへの移行にもたついてしまう。それこそ、冒頭リンク先の話のように。
 
 

  • 人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 人間の一生のなかで、若者時代が彩りに満ちた季節なのは事実だし、そういう時期に充実した生活をおくっていた人が「全盛期」を謳歌すること自体は素晴らしい。
 
 さりとて、人生の「全盛期」が若者時代で打ち止めとみなすのは、あまりにもったいなくて、「自分の人生を使い切る」という意味においては旨味が少ない。
 
 若者時代に似つかわしい「全盛期」は、30代にもなれば終わりを迎える。それは仕方のないことではある。しかし、30代以降に充実した生活をおくっている人も、世の中には案外たくさんいる。そうした人達の「全盛期」は、若者時代の「全盛期」とは中身が違っているので若者サイドからみると、何がどう充実しているのかピンと来ないかもしれない。だから、若者時代が終わってしまうと自分の人生の「全盛期」がもう打ち止めであるかのように諦めてしまう人もいる。
 
 だが、実際には人生の「全盛期」は若者時代で打ち止めではない。それぞれの年齢には、それぞれの年齢ならではの生き甲斐ややり込み甲斐がある。ライフスタイルが多様化した現代では、中年の生き甲斐も多様化しているため、中年の「全盛期」は意外とバリエーションが豊富だ。自分に見合った中年期を見つけ出して、そこに夢中になれる限りにおいて、中年はぜんぜん悲観的な時期ではない。ただ、若者的なライフステージから眺めると、そのことが直観しにくく、つまらなそうにみえるだけである。
 
 

  • いちばん大切なのは「新しい年齢に対して開かれていること」

 
 人生の「全盛期」を一度きりで終わらせないための条件はいろいろあるだろう。さきほど述べたように、来るべき次のライフステージを意識して、生き甲斐や人生哲学を少しずつ軌道修正していく姿勢はあって然るべきだと思う。
 
 だが、それ以前の条件としてたぶん一番大切なのは、「これから迎える年齢に対して開かれていること」ではないだろうか。
 
 自分が年を取っていくことに対して後ろ向きになったり、落胆するだけでは、結局は過去の「全盛期」を懐古するか、現在を劣化再生産する生き方しかできない。
 
 そうではなく、せっかく自分が年を取っていく以上、これからの年齢を真正面に見据え、これからの年齢だからこそできること・やっておくべきことを積極的に見出し、そこに向かって進んでいかなければ、二度目三度目の「全盛期」は望むべくもないのではないだろうか。
 
 リンク先の3ページ目の小見出しは「見えきった未来をつまらないと思う」と書いてあるけれども、これからの人生を精一杯生きる限りにおいて、未来が見えきった、などとはなかなか言えないはずである。現在の自分の境遇を真正面に見据えず、後ろ向きになっているから、未来が見えきった、などという知りもしないことが想起されるのではないだろうか。
 
 ライフステージの変化にあわせて生き甲斐や人生哲学をアップデートさせる知恵が、本当は、もっと世間に行き渡っていなければならないのではないだろうか。人生の「全盛期」が、若いころのたかだか数年だけというのも寂しい話だ。現代人の人生は、若者基準のまま生き続けるにはあまりにも長すぎる。