シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について

 
fujipon.hatenablog.com
 
 リンク先のブログ記事をtwitterに流したら、
 


 
 zomzom1974さんから「自分のような中途半端になってしまった人にもぜひ言及して頂きたいです。」というコメントをいただいたので、少し言及してみる。なお、ここから先に書く「何者」の定義は、fujiponさんのブログ記事と一致しているわけではないし、なにか役に立つことを言ってみたいわけでもないことは断っておく。
 
 

「何者かになれた/なれない」はニーズの一致・不一致次第

 
 
 fujiponさんのブログ記事でいう「何者」のなかには、界隈の第一人者とか、名声を獲得したとか、そういったニュアンスが含まれているように読めた。そういうニュアンスで考えるなら、第一人者にもなれず、名声を獲得してもいない人が、「自分は何者にもなっていない」「自分は何者にもなれなかった」と言うのもわからなくもない。
 
 このニュアンスの「何者」なら、ごく一握りの有名人やアスリートや成功者だけが「何者かになった」ことになるし、本人の要求水準いかんによっては「何者かになった」という実感はどんどん遠ざかることになる。あるジャンルで日本の第一人者とみなされている人ですら、主観的には「何者にもなれなかったなぁ」と思っていることだってあるかもしれない。
 
 そのことを裏返しに考えてみよう。この主観的な「何者かになった」は、あくまで主観次第ということでもある。界隈の第一人者にならなくても、名声が得られなくても、何者かになった実感ができあがることだってあり得る。たとえば、地域コミュニティのメンバーに自然におさまっていて、無名ではあっても「何者かになった」という実感のなかで生きていく人もいる。あるいは、誰かの配偶者として・親としての生活が「何者かになった」という実感の源になっている人もいる。
 
 このことを踏まえて「何者かになれたか・なれないか」を考えると、人は、自分自身のニーズに見合った社会的役割が与えられているときに「何者かになれた」と実感して、そうでないときに「何者にもなれていない」と感じる、と考えられる。
 
 だから主観レベルの「何者かになれたか・なれないか」は、客観的な立場や状況だけで考えては片手落ちだ。現在の立場や状況が自分自身のニーズと一致しているか否かという、合致性のほうが重要ではないかとすら思える。
 
 たとえば、世の中には医者になりたくてしようがない人が存在する。彼らが医者になり、天職であると実感すれば、彼らは「何者かになれた」と実感するだろう。
 
 反面、職業人としては一人前なのに「何者にもなれていない」と感じる人が多いのもまた、医者の世界だ。世間的には、医者になれば「何者かになった」と思う人が多いかもしれないが、少なからぬ医者は、現在の立場や状況が自分自身のニーズと一致していないと感じている。
 
 ニーズが一致しない背景には、もっと有名になりたい・もっと偉くなりたい・もっと違った仕事がやってみたかった、等々の執着があるのかもしれないが、ともかく、世間的には「何者かになった」と思われがちな医者という立場でも、ニーズが一致していなければ「何者かになった」という実感には辿り着かないのである。
 
 だから、「何者かになる/なれない」といったアイデンティの問題は、自分自身の能力開発や進路選択だけではマルッと解決しない。
 
 ものすごく高学歴な20代前半の若者のような、非常に可変性の高い状況の人なら、この問題を自分自身の能力開発や進路選択とイコールで結んでおいて構わないかもしれない。しかし、そこまで可変性の高い状況は例外なので、現在の自分自身の主観的なニーズをよく心得たうえで、自分自身の持ち札・立場・今後の見通しでできることとの摺り合わせが、いつも重要になる。
 
 自分の持ち札・立場・今後の見通しでは到底不可能なニーズを、変形させることなく野放しにしておくのは、世渡りとしては上手くない。能力開発や進路選択によって自分自身のニーズに近付いていくことも大切だが、自分自身の主観的なニーズを把握したうえで、そのニーズを自分自身の持ち札・立場・今後の見通しに近づけていくこともまた大切だ。能力開発や進路選択にはそれほど優れていなくても、自分自身の主観的なニーズを変形させ、自分自身の持ち札・立場・今後の見通しに近づけていくのが巧い人なら、「何者かになる」のはそんなに難しいことではない。なれるものになってしまえば良いのである。
 
 

第三者からみれば、中年は全員「何者かになっている」

 
 ここまでは主観的なアイデンティティの話をしたが、第三者からみた中年は、全員何者かになっている、ともいえる。
 
 壇上で喝采を浴びるような中年も、うだつのあがらないサラリーマン人生の中年も、サブカル畑で生き続けてこれからどうしようか考えている中年も、第三者からみれば全員そのような中年なのであって、「何者でもない」なんてことはない。
 
 トートロジーめいているが、偉くても偉くなくても、幸福でも不幸でも、そのようなものとして出来上がっている中年は、そのような存在なのである。
 
 これが、人生の余白がたっぷり残されている思春期の若者ならそうでもない。のろのろした幼虫がサナギになり、脱皮して蝶になるような可能性があるのが若者だ。心のどこかでそういう可能性を信じている若者は、現在でもそんなに少ないわけではない。
 
 だが中年は違う。中年にも人生の余白は無いわけではないが、半分ぐらいは既に生きてしまっている。これから起こる変化は、基本的に、これまでに自分が敷いてきた人生の延長線上で起こることになる。蝶の幼虫が成虫に変わるような、劇的な変化はあまり起こりそうにない。
 
 顔の表情や皺もそうである。
 
 自分自身が年を取るにつれて、若者や子どもの顔には歴史が刻まれていないことが多い、と感じるようになった。もちろん、極度に過酷な環境で過ごしてきた若者や子どもの場合、早くも、その痕跡が表情や皺となって刻まれていることはある。けれども大半の若者の顔には、人生の履歴としての表情のクセや、皺がそれほど深くは刻まれていない。
 
 対して、中年~高齢者の顔には、人生の履歴が深く刻まれている。これまで何十万回、何百万回と浮かべてきた表情が、顔面表情筋の偏りや皺といったかたちで顔にこびりついている。そういう意味では、若者の顔よりも中年~高齢者の顔のほうが情報量が多い。
 
 だから、主観的に「自分は何者にもなれないまま中年になった」と思っていたとしても、第三者から見ればそうもいかない。これまでの履歴の積み重ねによって、すべての中年は、そのような中年として出来上がっている。少なくとも若者と比較すれば、そのように考えられる余地が大きい。
 
 自称「何者にもなれなかった中年」は、第三者からみて、悩める中年にみえるかもしれないし、まっとうな中年とみえるかもしれないし、フットワークが軽いことを座右の銘にしている中年にみえるかもしれない。いずれにせよ、「何者にもなれていない若者」と同列にはできない履歴の蓄積が存在していることは、ときどき意識してもいいんじゃないかと思う。
 
 でもって、その自分自身の履歴の蓄積を愛したり許したりできるかどうかが、中年のQuality of Life を左右する課題であり、中年期危機が深まるかどうかを左右する課題でもあるのだと思う。ああ、そうなると結局、「何者かになれる/なれない」の主観的なニーズの変形がここでも問題になるわけか。
 
 主観的なニーズの変形は、渡世のスキルとしては最重要のひとつだと思われるけれども言語化が難しい。ので、今日はここでやめにしておく。