金曜ロード―ショーで『天空の城ラピュタ』が報道されるたびに、「バルス!」という決まり文句がtwitterに木霊するようになってだいぶ経つ。
知っている人がほとんどだろうが、「バルス!」とは、『天空の城ラピュタ』の最終盤に、主人公達が唱える滅びの呪文だった。この呪文によってラピュタは急激に自己崩壊し、ムスカ大佐の世界征服の野望は阻止されたのだった。
ところで、twitter上で「バルス!」と声をかけあうようになったのはいつからなのか。
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上記リンク先のブログ記事にまとめられているところによれば、2009年頃はtwitterもニコニコ動画もまだまだ人が少なくて盛り上がっていなかったという。その後、元旦の挨拶と良い勝負を繰り広げた後、2013年頃から、本格的にtwitterで「バルス!」と一斉にツイートするのが主流となっていったらしい。瞬間ツイート世界一を記録したのもこの年だ。
それ以後、「バルス!」は急激に知られて、テレビ局側も意識するようになった。「バルスまでカウントダウン!」などという局側の“お節介”に白けてしまった人も多かろうけれど、少なくとも数年間にわたって、「バルス!」はtwitterの風物詩として君臨し続けた。
「バルス!」と所属欲求
なぜ、皆はtwitterで「バルス!」と言ったのだろうか。
「バルス!」と書き込んでお金が儲かるわけではないし、承認欲求が充たされるわけでもない。サーバが落ちるかどうかを試す好奇心ならあったかもしれない。
だが、人々を「バルス!」へとかきたてた一番の心理的欲求は、所属欲求ではなかったろうか。
人は、自分が評価されたり注目されたりすることによっても心理的欲求(=承認欲求)を充たされるが、他人と群れて何かを一緒に達成しても心理的欲求が充たされる。これが所属欲求だ。
所属欲求は、もともとは地域社会のメンバーシップに所属することで、しがらみや摩擦が付随するかたちでながら、充たされてきた。しかし、20世紀の後半からは、しがらみや摩擦が伴うかたちのメンバーシップ自体が少なくなり、承認欲求のような、個人単位で心理的欲求を充たしていく形式がクローズアップされたことで、あまり目立たなくなっていた。
しかし、その間に所属欲求が消失したなんてことはない。スクールカースト内の微妙な派閥のメンバーシップといったかたちをとったり、部署ごとの身内意識といったかたちをとったりすることで、世の中に遍在していた。流行りが承認欲求サイドに傾いたから目立たなくなっただけのことである。
また、インターネットのほうでも、2ちゃんねるはスレッドごとにローカルルールが強く、匿名性が高いため、承認欲求ベースでスレッドに定住するというより、所属欲求ベースでスレッドに定住する感が少なくなかった。世にいう「ゲハ論争」にしてもそうで、あれは、ゲーム機をネタにして敵と味方に分かれて、それぞれの陣営が所属欲求を充たし合えるレクリエーションの意味合いを伴ってると思いながら私は眺めていた。扇動によってつくられた論争に過ぎず、大半のゲームファンには鬱陶しい以外の何物でもない争いだったが、ゲーム会社を旗印として、陣営にわかれて言葉の砲弾を飛ばし合うのは、所属欲求を充たせるレクリエーションとしてはわかりやすかった。
また、「バルス!」がムーブメントになっていく前段階にも、たとえばニコニコ動画のコメント弾幕などは所属欲求によってドライブされていたし、それに先んじて、2ちゃんねるの実況板ではたくさんコメントが連なってホカホカしていたのだった。たとえば私なども、ドラマや時代劇を眺めながら2ちゃんねるの実況板を開きっぱなしにしておいて、みんなとコメントを共有して楽しんでいた。自分自身が承認されていなくても、ひとつのコンテンツをみんなでシェアして、気持ちもシェアできる瞬間というのは、とても気持ちの良い体験だったし、その気持ち良さは、SNS上のリツイートやシェアにも引き継がれている。
金銭的欲求も承認欲求も充たしてくれない、「バルス!」のようなアクションに何十万何百万もの人々が集まってくるのはそのためだろうし、そういったことは『君の名は。』や『シン・ゴジラ』をテレビ朝日が放映した時にも、『けものフレンズ』が大ヒットした時にも当てはまる。大河ドラマのtwitter実況も、ハッシュタグを用いたソーシャルゲームのイベントの盛り上がりも、だいたいそういうものだ。群れる楽しみ。群れる喜び。承認欲求では説明できない心理的欲求が間違いなくドライブしている。
「バルス!」そのものは二番煎じ三番煎じを繰り返したので、これからは下火になっていくことだろう。だが、ムスカ大佐の台詞を借りるなら「「バルス!」は滅びんよ、何度でも甦るさ。それが人々の欲求だからだ」とは言える。げんに、なにかしら話題性のある出来事があるたび、所属欲求を充たすべく人々が集まり、しようもない話で盛り上がっているではないか。承認されるだけが気持ち良いのでなく、群れること、所属することにも気持ち良さがある――人がその先天的な性質を捨てる日が来ない限り、第二、第三の「バルス!」は生まれてくる。それが人々の欲求だからだ。