シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「見えない通貨=信用」にはメンテナンスが必要。だから挨拶や礼儀作法は超重要

 
 
syakkin-dama.hatenablog.com
 
 
 借金玉さんのブログ記事は、世間の人があまり意識していない、けれども社会適応を大きく左右するような“法則性”を見抜いたものが多いと思います。今回の「見えない通貨」のお話も、古代社会から現代社会にまで通用する、深甚な内容だと思いました。
 
 通貨の歴史を遡って考えるなら、「見えない通貨」と喩えるより、そもそも通貨とは「信用が可視化され、しかも譲渡可能なかたちになったもの」と言い直したほうが事実に即しているのかもしれません。
 
 [参考]:https://hikakujoho.com/manekai/entry/20160809
 
 しかし、お金の価値を誰もが信用し、当たり前のように使っている現代社会では、通貨=信用という前提は意識されにくいでしょう。だからコミュニケーションに媒介される人と人の間の信用を、「見えない通貨」と表現するのは、現代人にはわかりやすい比喩だと思います。
 
 

「見えない通貨=信用」は目減りする。だからメンテナンスする必要がある

 
 借金玉さんは、そんな「見えない通貨」について、

 こないだツイッターでちょっと触り程度に話した話題なのですが、人間が集まった集団というのはもうその時点で部族なので、ある種の部族ルールが発生します。
(中略)
 特に、公務員系の職場の皆さんはわりとハードなルールが存在する場合が多いと思います。なにせ、仕事の成果が「利益」というモノサシで計れない場合が多いですからね。「結果を出す」ということの定義がわりと不透明になります。この辺、バリバリの営業部族なんかだと話はまったく別で、「とにかく数字上げる奴が偉い」みたいな世界観だったりもするんですが、明確な評価の尺度が存在しない部族ほど、部族ルールは難解さを増します。
 仕事の根回し、事前確認、終わった後のお礼回り、この辺を外すと大変危ないですね。また、明文化されていない職場の序列なども存在し、「誰から話を通すか」などの順番をミスった時点で全てが終わっているなどの現象も割と発生します。大学のサークルなんかも利益を目指す集団ではないのでわりと部族化しやすく、明文化されていない謎の風習が発生しやすいですね。あなたがサークルに溶け込めない理由はこれです。

 こうした具体例を挙げておられます。そのうえで、この「見えない通貨」をうまくコミュニケーションでこなせれば「人間の間で流通する金ではない何か」が決済される、といったことを仰っています。

 これって、「お金=信用が具現化した媒介物」と考えると、まさにお金と同じ動きなんですよね。仕事の根回し、事前確認、終わった後のお礼回りのたぐいも、コミュニケーションを介して個人間で「信用」をやりとりしているという意味では「通貨」と変わりません。現代社会の「通貨」に比べると、これは原始的な「信用の取引」、いわば信用の物々交換に近い形態ですが、ともかくも、そこで「信用」が交換されているわけです。

 でもって、人間は疑い深く誤解を起こしやすい生物なので、人と人の間の「信用」は、時間とともに磨り減っていく傾向にあります。少なくとも、コミュニケーションをとらずに放っておくと「信用」はどんどんなくなるでしょう。だから、挨拶をはじめとするコミュニケーションは、お互いを「信用」しあいながら生きていくためには必須となります。これは、学校でも職場でも家庭でも同じです。人と人の間の「信用」をメンテナンスするためのコミュニケーションを怠っている人は、どこへ行っても信用されにくく、不信の目でみられやすくなるでしょう。
 
 

「見えない通貨=信用」を巡るローカルルール

 ただし、これも借金玉さんが指摘しているとおり、「見えない通貨」のやりとりにはローカルルールがはびこっています。
 
 公務員の世界と営業サラリーマンの世界ではローカルルールが違いますし、学校、企業、年齢、地域によっても微妙に異なります。信用関係を保って気持ち良くコミュニケーションする際の難点のひとつは、こうしたローカルルールが少なからず幅を利かせ、しかもわかりにくいことです。

 現実の通貨に関しては、為替サービスやクレジットカード支払い等が充実しているので、ドルを持っていようが、ユーロを持っていようが、円を持っていようが、決済に困る場面はあまりありません。とはいえ、為替やクレジットカードが使えないローカルな店舗では、「現地で流通している通貨」を用意しなければ取引が成立しません。

 それと同じで、A大学では「信用」を獲得するのに有効だったローカルルールが、B社では通用しないか、むしろ「信用」を損ねてしまうものだった……ということは往々にしてあります。このあたりを勘違いしてしまうと、「信用」を稼げそうなコミュニケーションをしているつもりで大失敗することがあり得るので、その組織・その場ならではのローカルルールはなるべく早く察知するのが望ましいのだと思います。
 
 

“基軸通貨”に相当するコミュニケーションの作法を押さえよう

 
 それでも、日本国内にいる限り、ローカルルールの違いはそれほど顕著ではありません。ローカルルールの習得にエネルギーを費やすより、どこへ行っても人と人の間の「信用」を媒介できるような、“基軸通貨”に相当するような作法やプロトコルを押さえておけば、どこへ行っても役立つはずです。
 

認められたい

認められたい

 
 
 先日出版したこの書籍では、コミュニケーション能力を身に付けるための基礎として、「挨拶や礼儀作法」「ありがとう」「ごめんなさい」についてそれなりページを割きました。
 
 

 コミュニケーションに苦手意識を持つ人が「コミュニケーション能力が高い」と言ってまず連想するのは、魔法のように場の空気を操る人や、やたら人に好かれやすい人かもしれません。
 でも、そういった「コミュニケーションの派手な効果」はコミュニケーション能力が発揮されている状況のごく一部、いちばん目立ちやすいものでしかありません。サッカーの試合に喩えるならゴールの瞬間やドリブルで三人抜きを決めた瞬間みたいなもので、もっと地味なディフェンスやパスワーク、泥臭く走り続けることだって本当は重要なわけです。「高いコミュニケーション能力」=「派手な成功・誰にもわかるモテやすさ」と考えてコミュニケーション能力を高めようとするのは、地味なプレーを無視してスーパープレーだけを“上手なサッカーのお手本”とみなすのと同じく、間違っています。
 そしてどんなスポーツにも地味な基礎練習が必要なのと同じように、コミュニケーションにも基礎の基礎に相当するものがあります。挨拶と礼儀作法は、その最たるものです。
 「挨拶と礼儀作法なんて誰でもやってるじゃないか」と思う人もいるかもしれません。確かに、挨拶が全くできない・礼儀作法が全然なってない人は少ないでしょう。ですが、いつでも挨拶がきちんとでき、礼儀作法を自由自在に使いこなせる人は、実のところ、決して多くはありません。十代~二十代前半の、まだ社会経験の乏しい年齢のうちは特にそうです。いつでもどこでも出来るようになりたいなら、この基礎を練習する必要があります。
   『認められたい』より抜粋

 
 挨拶や礼儀作法、「ありがとう」「ごめんなさい」は、誰が相手でも頻繁に用いるものです。コミュニケーションの作法やプロトコルとして、これほど汎用性が高く、これほど頻繁に用いなければならないものも無いでしょう。さきほどから述べている「見えない通貨=信用」をメンテナンスするためにも必須です。

 だから、「コミュニケーション能力を向上させたい」と思っている人が最初に着眼すべきは、「見えない通貨=信用」をメンテナンスするのに必要不可欠な、挨拶や礼儀作法のたぐいではないでしょうか。
 
 もし、あなたが挨拶や礼儀作法をあなどり、「ありがとう」「ごめんなさい」もキチンと言えない人だとしたら、日常的なコミュニケーションのなかでどんどん「信用」のメンテナンスに失敗して、あなたの「信用」はボロボロに剥げ落ちるでしょう。「信用」の低下は、集団内での立ち位置を悪くし、情報や技能を融通してもらうチャンスを低下させ、人間関係のトラブルやストレスが生じるリスクを増大させます。

 もちろん、こういった基礎だけでコミュニケーション巧者になれるわけではありませんし、ローカルルールが強い集団内では、ローカルルールにも注意を払うべきでしょう。ですが、挨拶や礼儀作法、「ありがとう」「ごめんなさい」のたぐいは、人間同士が「信用」をやりとりする際の“基軸通貨”に相当するものですから、これらをスキルアップせずに放置しておいて、やれ、人間関係がうまくいかない、コミュニケーション能力が身に付かないと嘆くのは、筋の悪い悩み方だと言わざるを得ません。
 
 

「信用」のショートカットはいつかメッキが剥げる

 
 こういう事を書くと、「そんなコミュニケーションはだるい」「メンテナンスフリーに「信用」を勝ち取りたい」といった声が聞こえてきそうです。
 
 なるほど、世の中には、基礎的なコミュニケーションの作法やプロトコルを押さえずに、人気者になったり、「信用」をかき集めているようにみえる人物もいるでしょう。
 
 しかし私は、「信用」の獲得やコミュニケーション能力の向上に都合の良いショートカットは無いと思っています。時間をかけ、実践を積み重ねてゲットするのが正攻法で、それ以外は邪道だったりインチキだったりするのではないでしょうか。

 むろん、ある種の対価を支払えば、「信用」に値する、コミュニケーション能力の高い人物の装いを一時的につくりだすことはできます。
 
 ここで言う対価とは、先行者利益とか、若さや時間とか、特殊な才能とか、そういったものです。そういった対価を支払う意志と能力のある人は、正攻法によらずに「信用」を稼げるかもしれません。
 
 ですが、正攻法によらない「信用」の稼ぎ方は、先行者利益がなくなってしまったり、若さや時間が失われてしまったり、才能が枯れたりすると通用しなくなってしまいます。とりわけ、先行者利益や若さを「信用」に両替して調子に乗っている人は要注意です。
 
 また、インターネットの片隅で、一時的に・局所的に「信用」を稼ぐだけなら、プライバシーや社会的信用を切り売りするのも有効で、現に、やっている人を見かけます。ですが、そういった人々の末路については、述べるまでもないでしょう。

 結局、「信用」をショートカットして獲得しているようにみえる人の大半は、「信用」の目利きが利かない人間を幻惑し、彼らから一時的な「信用」を集めて砂上の楼閣を築いているに過ぎません。そういう“やくざな商売”で生計を立てたいならともかく、まっとうに人の間で生きていこうと思うなら、真似するべきではないでしょう。
 
 

挨拶や作法は、若いうちから身に付けておいたほうがいい

 
 私は、借金玉さんのブログに挨拶や作法についての言及が多いことに、すごく納得感を覚えます。私もそういった部分が全然ダメで、30代になる直前になって、やっと重要性に気づいたクチですから。
 
 「信用」も、コミュニケーション能力も、一朝一夕で得られるものではありません。それだけに、日頃の積み重ねや実践がモノを言いますし、挨拶や礼儀作法のような基礎的な作法やプロトコルの精度によって、意外なほど人生は左右されるのだと思います。