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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「スマホやSNSが生み出した権力」と、その行方

コミュニケーション

 
 こういう問題は誰かがまとめていそうだけど、それらしい文献を知らないので書く。
  
町山智浩 共和党大会とオルタナ右翼とゴーストバスターズ出演者ヘイトを語る
 
 上記リンク先は、町山智浩さんによるアメリカのレポートだ。
 
 これが、アメリカだけの出来事ならまだいいが、対岸の火事にはみえない。日本もヨーロッパ諸国も、それぞれの“お国事情”に沿って不安定な政情になっている。たぶん、こうした運動に賛成している人も反対している人も、「何かがひっくり返るかもしれない」という気持ちは持っていると思う、それが期待か不安かはさておいて。
 
 どうして世の中はこうなってしまったのか。その背景には、グローバリゼーションの浸透とか、パックスアメリカーナの後退とか、いろいろな要因があるんだろうけれど、インターネットやSNSもまた、今日の風景をつくりあげた重要なもののひとつだと思う。
 
 

インターネット、SNS、権力

 
 まず、権力とは何か。
 
 突き詰めて考えると、「人に何かを語って聞かせられること、人に影響を与えられること、人を集められること、人を束ねられること」が権力だ。この原理は、人類が棍棒を持ってうろついていた頃も、特権階級が記念碑を立てていたころ頃も、活版印刷が発明された頃も、新聞やテレビやインターネットが普及してからも、全く変わっていない。
 
 政治家だけが権力者なのではない。影響力や伝染力や説得力を獲得するにつれて、テレビタレントや弁護士や宗教家のたぐいも権力者としての性質を強めていく*1。また、逆のことも言えて、影響力も伝染力も説得力も持たなければ権力から遠くなるし、過去に権力を独占していた勢力ですら凋落を免れない。
 
 で、インターネットとSNSの時代がやってきて、誰が権力者になったのか?いや、インターネットとSNSによって、どういう新しい権力が生まれたのか?
 
 政治家を除いて、インターネットやSNSが普及する直前に権力者だったのは、メディアにかかわる仕事をしている人達だった。20世紀後半の、あの肩で風を切って歩くようなメディア業界の栄華は、経済的成功だけでなく、彼らの絶大な影響力にも支えられていた。出版や放送に携わる人達によって、人に何かを語って聞かせる力、人に影響を与える力、人を集める力、人を束ねる力は寡占されていた。
 
 ひとことでメディア業界と言っても、もちろん右派や左派*2といった思想信条の違いはあった。ただし、留意しておかなければならないのは、メディアにかかわる仕事をしている人達とは、少なくとも20世紀後半においては、中産階級的な価値観をよしとするホワイトカラー層によって占められていた、ということだ。当時も低俗なゴシップ誌や怪しい番組はあったにせよ、それでも思想信条のある次元において、おおむね均質な人達によってメディアは営まれていた。言い換えると、メディアは中産階級的な価値観のフィルターに濾過されるものだったとも言い換えられるし、中産階級的な価値観によって権力が寡占状態に置かれていた、とも言える。
 
 ところがインターネットやSNSが普及したことによって、この権力の寡占状態が破壊されてしまった。
 
 人に何かを語って聞かせる力、人に影響を与える力、人を集める力、人を束ねる力は、メディア関係者の寡占物から、ネットユーザーそれぞれに分け与えられることになった。特にスマホとSNSがもたらしたインパクトは大きい。
 
 「スマホやSNSで生み出される権力」の特徴は、「シェア」ボタンや「リツイート」ボタンで誰もが権力の分け前に与れることだ。
 
 SNS以前のインターネットでさえ、そこでなんらかの権力を獲得するためには、言語や文章に親和性が高くなければならなかった。「一定以上の文章を読み」「一定以上の文章を書ける」ような、いわば学校制度のなかで十分以上の成績が取れそうな人達によって権力が寡占されがちだった。当時のインターネットで持ち得る権力など、たかが知れていたが、それでもネットで生起する権力には《読み書き能力という意味の》リテラシーがしっかり結びついていた。
 
 
2chでさえそうだ。2chが権勢を誇示する「祭り」は、読み書き能力のある人間がスレッドに何かを書き込まなければ起こらない。「祭り」を支えていたのは「少なくとも何かを書ける、文章にできる」人間だったことを忘れてはならない。
 
 だが、SNSは違う。「シェア」ボタンや「リツイート」ボタンには「何かを書ける、文章にできる」能力も、手間暇も要らない。ボタンひとつで気に入った発言の拡散に参加できる。気に入った発言の拡散に参加できる=モノが言えるということであり、言葉が飛び交うメディアに権力を投射できる――あるいは“投票できる”と言い直すべきか――ということでもある。これまでメディアの傍観者になるしかなかった人達も、SNS時代には「シェア」や「リツイート」によって、簡単にメディアに参画できる。
 
 もちろん、「シェア」や「リツイート」で最も大きな権力を獲得するのは、相応の文章やメッセージを作成できる人間だが、それだけではなくなったのだ。「シェア」や「リツイート」は、ボタンを押す人間に少なくともボタン一回分の“投票権”を提供する――これは、既存メディアにも00年代前半のインターネットにも無かった機能だ。今までは声をあげようにもあげられなかった人、学校制度のなかで劣等生のレッテルを張られていた人も、メディアに参画し、なにが正当でなにが不当なのか、なにがアリでなにがナシなのかの議論に参加できるようになった。また、忙しすぎてメディア空間からもデモンストレーションからも遠ざけられていた人達も、隙間時間でメディアに参画できるようになった。
 
 だから、スマホとSNSが普及した社会は、「言論の自由」を謳いながらも専ら中産階級的なフィルター越しにメディアが営まれ、読み書き能力や時間に恵まれた人に権力や影響力が寡占されていた社会よりも、ずっと「言論が自由」な社会だとも言えよう。
 
 

本当に「言論が自由」になった顛末

 
 それで何が起こったのか? 
 
 はじめのうちは、好ましい兆候が大きく報道された。
 
 「オバマ大統領がインターネットを活用した」「インターネットがイスラム国家の民主化を促した」――そういったニュースが世界を駆け巡った。これらは、これまでメディアを寡占していた人達にも心地よいものだったろう。
 
 ところが今はそうでもない。
 
 インターネットの権力やSNSの権力は、先進国の秩序*3に挑戦する人達にも、人に何かを語って聞かせる力、人に影響を与える力、人を集める力、人を束ねる力を与えてしまった。危険なテロリストも、過激な主張を繰り返す政治家も、いまではインターネットやSNSを使って人を集めるテクニックに長けている。
 
 そして、彼らを支えているのは、従来なら何も言えなかったであろう人達だ。まともなメディアが決して取り合わなかった意見や、中産階級的なフィルターで濾過されていたであろう意見までもが、「シェア」や「リツイート」によってダイレクトに集合し、集まっただけの権力をつくりあげるようになった。そして東京オリンピックのロゴ問題が象徴していたように、ネットメディア上でできあがった権力のクラウドは、一昔前ならひっくり返るはずがなかったことまでひっくり返してしまう。
 
 [関連]:私は、弾劾のプロセスとネットの性質に戦慄したんですよ - シロクマの屑籠
 
 スマホやSNSが普及し、メディアに参画するためのハードルが徹底的に下がり、ノンフィルターでメディアが駆動するようになったことで、権力は多様化した。その結果として、既存の先進国の秩序からみて不安定な社会ができあがった。繰り返すが、私は「シェア」や「リツイート」が2010年代の混沌の主因であるとは思わない。しかし、スマホやSNSの普及、メディアに参画するためのハードル低下、中産階級によるメディア寡占状態の終焉が、現況の基盤のひとつになっていること自体は見過ごしてはならない。
 
 

じゃあ、どうすれば良いの?

 
 では、20世紀後半のような、平穏な先進国の秩序を取り戻すにはどうすれば良いだろうか。
 
 最もシンプルな方法は、メディアに参画するためのハードルを再びあげることだ。リテラシーのしっかりした、学校制度のなかで優等生になれそうな人達にだけスマホやSNSを与え、そうでない人からは取り上げてしまうのである。たとえば「シェア」や「リツイート」を資格制度にしてしまえば、先進国の秩序に反抗する者・疑問の声をあげる者は、うまく寄り集まれなくなるだろう。いっそ、インターネットを禁止してしまうか検閲制にしてしまうのも手だ。少なくとも国内のメディア空間は、これで既存の秩序をある程度取り戻せる。
 
 だが、これは禁忌の方法だ。自国民のメディア使用をひどく検閲している国のような、悪い例に倣ってはならない。
 


 こういう冗談を本気にしてはいけない*4

 
 いったん隅々にまで行きわたったメディアへの参画と権力を、人々から取り上げることなど不可能である以上、私達は、この、20世紀後半よりもずっと「言論が自由」になったメディア空間に立ち上がってくる新しい意見や権力を見て見ぬふりをするのでなく、条理を尽くして議論や衝突を繰り返し、相応の合意形成を目指していかなければならないのだろう
 
 残念なことに、現実のインターネットでは、合意形成のための議論よりもいがみ合いとセクト化のほうが目立っている。これは人間にありがちな性分にも因るだろうが、「見たいものしか見えない」SNSやインターネットの性質にも因っているのだろう。あるいは皆、社会不安の高まりのせいで、落ち着いた議論よりも感情的な非難によって精神的安定を求めたくなってしまうのかもしれない。これは、褒められた状況ではないと思うし、まして、「言論の自由」がテロや脅迫や拘束などによって妨げられることは絶対にあってはならない。
 
 スマホやSNSを作った人達が、権力を巡るこの状況をどこまで予測していたのかは、私にはわからない。どうあれ、時計の針は戻れない。これまではメディアの相手にもされなかった意見にも「言論の自由」が本当に行き渡った現在の状況は、少なくとも「言論の自由」という観点では喜ばしい事態のはずだ。その喜ばしい事態を、喜ばしい社会の構築に役立てられるのか、それとも社会の破壊に使ってしまうのかが、目下、私達に問われているのだろう。
 

*1:この観点で考えると、タレント政治家とは実に自然な存在だとわかる。彼らは政治家として立候補する前から影響力や伝染力や説得力を、つまり権力をかき集めているのだから。

*2:混沌とした2016年の社会では、もはや死語に等しいカテゴリである

*3:これは、中産階級~上流階級の人達に必要不可欠なものだ

*4:無粋な補足ですが、「では、20世紀後半のような、平穏な先進国の~」っていう上の文章も本気じゃありませんからね。私は禁止や検閲に反対です。