2015年のインターネットを振り返って、お互い反目しあい、貶しあい、誰かにNoを突きつけあう風景ばかりを思い出した。異なるルールや価値観を信奉しあう個人と個人、グループとグループが理解しあう――せめて相手の存在を許容しあう――ツールとしてtwitterやSNSやブログが使われた風景は稀だった。2015年のインターネットは、わかり合えない人間同士のディスコミュニケーションを映し出す道具だったと思う。
もちろん、ルールや価値観をシェアする者同士は、自分(達)を肯定するために「いいね」の輪を広げあっていた。だが所詮は「わかっている者同士の「いいね」」であり、「自分の似姿に対する「いいね」」であって、自分と違ったルールや価値観に対する「いいね」ではなかった。
社会には、異なるルールや価値観を信奉している人間やグループが無限に存在している。昨今のインターネットは、そのことをよく教えてくれると思う。
twitterやブログでは、特定のテーマや議題に対して異なるルールや価値観を持った者同士が言葉を尽くしあう姿を見かけた。だが、言葉を尽くせば尽くすほど反目が広がり、お互いが嫌悪と失望を深め合う、そんな風景が大半だった。そんなディスコミュニケーションも、グループ内外に対する政治的得点・ポジション争いの点数稼ぎとしては有効なのかもしれない。だが、それは他者とのコミュニケーションのための行為ではなく、他者を踏み台や踏み絵として自分自身の利得を獲得するための行為でしかない。
そういう内向きのコミュニケーション・政治的得点やポジション争いのためのコミュニケーションツールとして、インターネットは(多分に刹那的な効果とはいえ)役に立っていたと思う。しかし、良くも悪くもそれだけである。違和を含んだ他者への接近の手段としてインターネットを使う者はあまりいなかった。そもそも、そんな事をインターネット上で試みようと発想すること自体、もはや稀だ。「コミュニケーションで大切なのは、わかり合うことではなく、得点を稼いでポジションを確立することである」。
醒めた人は「そんなのは、インターネットに限った話じゃない。人間のコミュニケーションとは、政治的得点とポジション争いのための手段でしかないよ」と言い放つかもしれない。
然り。人間とは、共鳴はできても、わかり合えないものなのかもしれない。コミュニケーションとは、政治でしかないのかもしれない。インターネットによって、私達の本性がいよいよ露わになっただけなのかもしれない。
それでも、これだけたくさんのトラフィックが飛び交い、空恐ろしいほどの摩擦熱が生じ、しばしばアンコントローラブルな状況を引き起こしている現状に、今年の私は悲しみと怖さを感じた。そうか。こんなに人と人とはわかり合えないものなのか。こんなに人と人とが衝突し合うためにネットを使うのか。
そして異なるルールや価値観がぶつかり合った結果、摩擦熱がじりじりとネットに籠もっていく。そのことに疑問を感じる人もあまりいない。
今更だが、インターネットがこんなにわかり合えないということに、諦念以上の何かを感じる一年だった。そして、そのような状況に無意識に適応している自分自身にも。
来年のインターネットでも、私達はぶつかり合い、いがみ合い、棲み分け合うばかりなのだろうか。