シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

私が不登校から精神科医になるまで

 
 今でこそ私は、精神科医という、他人の社会適応やメンタルヘルスを気にする仕事に就いているが、かつては自分自身の社会適応やメンタルヘルスにこそ問題があり、学校生活から落伍していた。いや、本当は今でも自分自身の社会適応に問題はあるだろうし、だからこそ人間の社会適応を学び、実践することに拘っているのだろう。
 
 
1.私はもともと古い地域社会の出身で、そのコミュニティのなかでは概ね上手くやっていた。私は我の強い、そのくせコミュニケーションの機敏に疎い子どもだったと思う。しかし地域の年長者達はそんな私の取り扱い方をよく心得ていて、私のほうも彼らを慕っていたので、コミュニケーションに困ったことはあまり無かったと思う。私は小学校に行くのを楽しみにしているような子どもだった。
 
 しかし幸せは長く続かなかった。中学校に入り、地域社会の外側の生徒にまみえるようになると、私は年長者の保護を失った。“よく知らない同級生との人間関係”は、私でもどうにかクリアできる課題だったが、“よく知らない年長者との上下関係”は対応困難な課題だった。小さい頃から一緒にいた年長者との付き合いと、未知の上級生との付き合いは、似て非なるものだったが、その違いを理解していなかった私は、疎まれやすい・目をつけられやすい道へと突き進んでいった*1。程なく私は複数の年長者に目をつけられるようになり、いじめに遭った、ということになる。
 
 暗がりに連れていかれ、複数名の上級生からサンドバッグにされる、という経験は、当時、それほど珍しいものではなかったと思う。奴隷剣闘士のごとく、どちらかが動けなくなるまで殴りあうよう強要されるような経験も、よくあったのではないかと思う。私自身がそういう状況に置かれる前にも、同級生達がそのような状況に瀕しているのを私は見て知っていた。ああ、中学校とはなんと恐ろしい世界だ!さりとてそれを教師に伝えたところで何の抑止力にもならないばかりか、自分自身がターゲットにされることが分かっていたので何も出来なかった。薄々、次の犠牲者はおそらく自分だという予感はあったけれども、状況を打開する手段は思いつかなかった。
 
 そうこうするうちに、悲惨な目に遭っていた同級生は精神と身体を壊して不登校になり、予想に違わず、今度は私自身がターゲットになった。
 
 
2.不登校になる前の私は学力テストも高得点で、たぶん自分は大学に進学するんだろうなと思っていた。しかし、日常的なリンチと弄びに晒されていては、勉強などまともに出来るわけがなく、たちまち成績は下がっていった。間もなく私は英語と数学が授業についていけなくなった。さりとて遅れを取り戻す余裕もなく、無理をして通学を続けているうちに私は病気になった。
 
 病気になって本当に良かった。学校に行かなくて済む大義名分を得たからだ。病気というのはラクなものではなかったし、暫くの間、ハンディを背負うことにもなった。けれども、病気のお陰で思春期の精神を潰されずに済んだとも思っている。
 
 学校を休む大義名分さえ得てしまえば、家族や学校にも“事情”は話しやすい。何をやったって、どうせいじめの構造は変わらないし、私が不登校になった後には、次の誰かが犠牲者になったのだろう。けれども私はもう学校に行かなくてもいいのだから、大人達に事情を話したところで報復される心配も無い。
 
 親や教師に“事情”を伝えた後は、気兼ねなく休んでいられるようになった。以後、主治医が処方する薬のなかに抗不安薬とスルピリド*2らしき薬が添えられたが、ストレスの源から開放された私には、効果のほどはよく分からなかった。
 
 不登校中は、朝の十時に起き、朝食を食べた後はRPGゲーム『ウィザードリィ』ばかりやっていた。親からは勉強しろと言われていたが、同級生のいない環境で勉強できるほどのタフネスを当時の私は持ち合わせていなかった。誰にも邪魔されずに宝探しが出来る『ウィザードリィ』は、私が自由になれる唯一の箱庭であり、救いだった。何百回とダンジョンに潜り、“カシナートの剣”や“村正”を求めて徘徊した。今にして思えば、『ウィザードリィ』で良かったな、と思う。現代の洗練されたネットゲームやソーシャルゲームに手を出していたら、私はゲーム廃人になっていただろう。幸い、キャラクターレベルが200に到達する頃にはダンジョン探索も一段落し、体調も回復してきたので、私は学校に戻ることになった。
 
 
3.上級生達が高校受験に忙しくなり、ほぼ存在感が無くなった頃、私はそっと復学した。元々、同級生とのコミュニケーションには困っていなかったので、学校生活はだいたい元の調子に戻ったが、それでも一部の人間は「あいつは元不登校だから」と以前より強気な態度に出るようにはなっていた。復学したとはいえ、体力が低下し、なにより気弱になっていた私には、そうした“砲艦外交”を仕掛けてくる同級生に対してなすすべが無く、土下座外交を余儀なくされた。状況が変わると態度が変わる人がいるということを、このとき思い知った。対抗するためのなんらかの力が無い限り、そうした圧力には屈するしかない。
 
 それでも私は復学したのだ!私がターゲットになる前にいじめられて不登校になっていた子は、いまだ復学していなかった*3ことを思えば、まだしも幸運な部類だったと言える。学校は依然として不自由で恐ろしい場所だったけれども、付き合いの続いている友人も少なからず存在したし、自分には可能性の蜘蛛の糸が残されている、と感じた。
 
 「この、『蝿の王』みたいな世界からオサラバしたい」
 「土下座外交をしなくていい、自主権のある生活を手に入れたい」
 「そのために、何が出来るのか・何をしなければならないのか?」
 
 この時点で私が思いついた当座の対策は、「進学校に進むこと」だった。暴力や脅しで他人をコントロールするような人間に遭遇する確率が低い学校を選ぶとしたら、できるだけ偏差値の高そうな、あまり暴力的な人間のいなさそうな学校を選ぶべきだろう;中学生の私は、そのように考えた。
 
 しかし、約一年の不登校生活の間に、私は数学と英語がさっぱり分からなくなっていた。学力テストは、せいぜい中堅進学校に行けるか行けないかの偏差値を示していて、基礎からやらなければならなかった。蛇蝎のように嫌っていた塾にも仕方なく通った。勉強は嫌いだったけれども、この戦いには自分の自由と未来がかかっていると感じた。その甲斐あってか、意中の進学校に私は滑り込んだ。
 
 
4.進学校に進むと、そこは別世界だった。自由な校風と非暴力的なクラスメートに恵まれ、ゲーセン仲間や麻雀仲間もすぐ見つかった。授業についていくのは大変だったが、中学校の頃の不自由で恐ろしい境遇に比べれば天国も同然だった。
 
 とはいえ私は、中学時代に刻み付けられた社会適応への不安を忘れることは出来なかった。どれだけ楽しくとも、高校生活はたった三年で終わってしまうのだ。その後の人生を、一人でも生き抜いていけるだけの力が欲しい――いい大学に入りたいという希望だけでなく、できるだけ安定性の高い社会適応を手に入れなければ自分はまた地獄に逆戻りかもしれないという不安が、怠惰な私の受験勉強を支える一助になっていたのは確かだ。そのためもあってか、よく捗った。
 
 当時の私は、そういう汎用性の高い社会適応を授けてくれそうな大学はどこなのか・望ましい学部・学科はどこなのかをよく想像したものだった。けれども社会経験の足りない身では、雲を掴むような、よくわからない話だった。哲学や心理学がそれに相当するような気もしたし、外国語大学ならコミュニケーションの練習が出来るのかな、という気もしなくもなかった。結局、消去法に近い形で医学部を選択し、私は医学の道に彷徨いこむことになった。医学部に入る前、何か医学に興味を持てる本でも読もうかと思って手にしたのは、なぜか精神医学の本ばかりだった。この時点で、精神科医になる運命は定まっていたのかもしれない。
 
 
5.医学部に入った私は、程なく、単位取得とゲームの腕前をどうやって両立させるかばかり考えるような、そういう学生になっていった。大学という時間と空間は、コミュニケーションや社会適応に対する危機感をぼやけさせる程度にはフリーダムで、のんびりしていた。医学実習の類はサボれなかったけれども、そうでない多くの授業では、クラスメートと共同して要領の良い勉強法を模索した。夏休みや春休みには、決まって東京の友人宅に滞在し、シューティングゲームを学んだ――渋谷会館、プレイシティキャロット巣鴨、スポーツランド新宿西口店といった東京のゲーセンは、田舎のゲーセンとは雰囲気が違っていて、特別な空間だった。書籍にしても、アニメにしても、東京には私の好きなガジェットが揃い尽くしていた。定期的に東京に滞在する習慣は、この頃に身についた。
 
 今にして思えば、このだらしない大学生活も、これはこれで私の社会適応に必要不可欠なプロセスだったと思う。中学後半〜高校時代の私は、とにかく受験勉強をクリアして、それでもって自分の身を守ることにウエイトを置きすぎていた。しかしそういう発想だけでは世渡りは覚束ない――「どこで手を抜くか」「どうやって要領を利かせるか」のスキルを磨き、正解の用意されていない課題に対処する術を身につけ、苦しんで100点を取るよりも最低限の労力で70点を取っておくようなスタイルを身につけるには、大学生活は最適だった。一部の教官からの「ちゃんと遊んでいるか?」という問いかけに「はい、遊びすぎています!」と回答できる程度には遊んでいたと思うし、神経質で不安の強かった私の性格は、大学生活のなかで大分和らいだと思う。
 
 
6.大学生活にも終わりがある。どこの科に所属するのか、選ばなければならない日が近づいてきた。親は、私に内科医になるよう期待していたらしく、当時の私自身にも、学問としては内科が一番面白そうに見えた。たぶん私は内科系に進むのだろう;そんな風にぼんやり思っていた。
 
 そんなある日、精神科のガイダンスがあるという知らせを耳にした。高校時代、自分が哲学や心理学に漠然と憧れていたことが思い出された。なにより、オタク大学生として遊び呆けているうちに、異なる趣味・異なる世代の人とのコミュニケーションに苦手意識を抱くようになっていた私は、自分が内科医としてマトモに務まるのか、まったく自信が無かった。
 
 「内科医になっても、コミュニケーションに苦労するんじゃないか?」
 「それぐらいなら、精神科に入って、コミュニケーションを教わればいいんじゃね?」
 
 そうと決まれば善は急げ。さっそく私は精神科の医局を見に行った……そこは、不思議な世界だった。不思議な世界だったというほかない。イメージとしては、「満月の夜、百歳の妖猫がワルツを踊り、スフィンクスが静かに神託を語り、アヌビスがビールを呑みながら「それが先生の病理ですねハハハ」と笑っているような、そんな空間」だった。何が言いたいのかというと、誰もがバラバラの個性を持ちながらも、それでいて誰もが神通力を宿しているような、そういう集団が眼前に現れたのだ。「ああ、自分はここで修行しよう、修行するしかない」 私の未来は、そのガイダンスで決まった。
 
 精神科に入ってからは、ハプニングの連続だった。未熟でセカイ系っぽかった私は、もちろん境界パーソナリティ障害の患者さんに振り回され、先輩達に迷惑をかけまくった。また、PCのスクリーンセーバーを「新世紀エヴァンゲリオンの惣流アスカ」にしたままにしていたところを、件のアヌビスな先輩に見つかってしまい、心の底まで見透かされたような思いをして震え上がったこともある。いや、心の底を見透かされるという点では、精神科に入った時点で諦めていたし、「この人達を前にして、どう隠し事をしたって無駄」と割り切ってはいた。「自分に嘘をついたところで、どうせ他人にはそれが読まれている、という前提で行動する」という現在の行動様式が身についたのは、研修医時代の生活による。
 
 
7.それから幾年。果たして私は「社会に適応する」という悲願を達成したのだろうか?精神科医として働けるようになり、昔よりも広範囲の人と、さほど問題なくコミュニケーションがとれるようになった、という点ではその通りかもしれない。
 
 しかし私は、今でも社会適応に対する執着・執念のようなものを燃やし続けているし、『汎用適応技術研究』を書かずにいられないぐらいには切迫感に囚われている。私は確かに成長したし、不登校の頃に予想していたよりは社会適応の巧い大人になれた。けれども、不登校時代の爪痕は今でも消えておらず、だからこそ人一倍、適応というものに意識と情熱を傾けずにいられないのだろう、と自覚する。その爪痕は、良くも悪くも精神科医としての私のフレーバーを決定付けているのだろう――順風満帆な生育歴の精神科医達とは異なった、不登校から再出発した者だけが持つようなフレーバーを。
 
 そして、後年努力して身につけたコミュニケーションの技術と技法も、所詮は付け焼刃でしかない。パソコンに喩えるなら、私のコミュニケーションの技術や技法などは、エミュレータを使ってソフトウェア上で動かしている、ごまかしのようなものだ。グラフィックボードやマザーボードのレベルでコミュニケーションを自動制御している“天然のリア充”達が無意識にこなしている身振りを、私はかなりのところまで意識してエミュレートしなければならない。だから私は、彼らよりも早く消耗する。それでも、必要時にコミュニケーションをエミュレートでき、ごく短時間ならクロックアップ出来るようになったことは嬉しく思う。永年の努力は完全ではなかったが、無駄でもなかった。
 
 私は、自分の感情が表出できないこと・束縛されること・社会と折り合いをつけられないことを長く悩み続けていたし、今でもそうした事態を恐れている。だからこそ、自分の感情が表出できること・感情が妨げられないこと・最小限の摩擦で最大限のコミュニケーションが出来ることをかけがえないと思う。私は生涯かけて、人間の適応というものをつきつめたい。
 
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*1:こうなった原因のひとつには、おそらく当時の私の成熟不安に由来する、小学生のロールモデルへのしがみつきもあったのではないかと思う。この頃、私は子どもでいたかった。だから中学生らしく振舞うことに不安を感じて、小学生の頃の身振りを色濃く引きずっていた。これも、中学校への社会適応の足を引っ張っていたのではないかと推定している

*2:スルピリドSulpiride:もともとは胃潰瘍の治療薬として開発されたが、抗うつ効果などが認められ精神科領域でも用いられるようになった。昔はメジャーだったが最近は処方例数が減っている

*3:結局彼は、二度と学校に戻って来なかった