シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

そんなに“無難”が偉いんですか?

 
 スーツを面白がって着ている精神科医はどこへ行ったの? - ぼくらのクローゼット
 
 リンク先で、(男性)精神科医の学会ファッションについて書きました。
 
 私の記憶する限りでは、以前の精神科医の集まる学会や研究会には、もっといろんな服装の先生がいたように思います。ほとんどボロのような服装の先生もいれば、奇抜なファッション、妙に艶っぽいファッションの先生も見受けられたのに、ここ2−3年はみんな“無難”な恰好になってしまってウォッチのし甲斐がなくなってしまったと感じるわけです。
 
 そういう精神科医のファッション変化を目の当りにすると、「とうとう、精神科医の世界まで“無難”に支配されちまったのかぁ」と思わずにいられません。精神科医って、ちょっとぐらい世間からズレていても不思議ではなくて、患者さんとの相性次第ではズレているほうが上手くいくことさえある世界だと私は思ってました。そして精神科医のファッションの多様性とは、そうした精神科医のコミュニケーションの多様性をなにかしら反映しているのかなとも思っていたわけです。でもまあ、リンク先でも触れたような諸事情のためか、そうではなくなりつつあるのかもしれません。私はそれが少し寂しいのでした。
 
 ファッションという外面は、一番外側の内面です。少なくとも、相応の費用や時間をかけてつくられるファッションの場合はそうだと言えます。
 
 前にtwitterでちょっとした話題になっていた“童貞を殺す服”なんかもそうで、ああいった服装を相応のコストをかけて購入し、選んでいる以上、そこには必ず「私はこういう人間です」というメッセージや「私はこういう人間としてみられたいです」という願望が絶対に含まれています。「どうしてその服でなければならなかったのか?」「他の、同価格帯の服ではダメだったのか?」を突き詰めて考えれば、そういう結論にしかならないんですよ。何も考えずにユニクロやしまむらの服に袖を通している者とは違って、「わざわざコストをかけてその服を選んだ(または選ばざるを得なかった)」わけで、コストを費やす背景を読み取りやすいとも言えます。こういう場合の服装とは、メッセージにほかなりません。
 
 で、男性精神科医のファッションだけじゃなく、就活スーツなんかも随分前から“無難”になってますよね。皆さん、カラス色のスーツに黒い髪。就活ファッションも相応のコストを支払ってしつらえられているわけですから、“私は無難な人間です”“私は無難な人間でありたい”ってメッセージなんだと思います。フォーマルかつ死活問題の状況下では、そういうコミュニケーション・そういうメッセージを選びたがるのは、わかるような気がします。
 
 しかし、そんなに“無難”って偉いんでしょうか?“私は無難な人間です”“私は無難な人間でありたい”ってメッセージが就活のテンプレートになり、さまざまなファッションが跳梁跋扈していた精神科医の集いまでもが“無難”に染まっていくってことは、現代社会では“無難”とはよほど大切みたいですね。
 
 逆に考えると、“無難ではないこと”“一癖二癖あること”はイケナイって事なんでしょうかね?本当は一癖二癖ある人も服装面では“私は無難ですよー”というメッセージを出さなければならないということは、“一癖二癖はアウト”ってことですよね。そうやって世の中全体が、“私は無難な人間です”“私は無難な人間でありたい”というメッセージを交換し合って、増幅し合って、規格におさまる人間を是とする価値観をジリジリと増幅させているような気がして、なんとなく最近怖いんですよね。
 
 まして、精神科医という“無難”に対して懐の深いところがあって然るべき職業集団のなかでさえ、“無難”というメッセージが(服装というかたちをとって)こだましているのを目の当りにすると、「うーん、今の世の中って本当に“無難”が幅を利かせているんだなぁ」とため息をつかずにはいられません。
 
 私自身は、社会適応に失敗したような人間がかろうじて精神科の世界にぶら下がってサバイブできたような経緯があるので、“私は無難な人間です”“私は無難な人間でありたい”ってメッセージに包囲されてしまうと、なんだかいたたまれないというか、私自身の内側にある“無難とは言い難い部分”がチクチクと痛みます。そしてもし、私があのカラス色の就活スーツの洪水に呑みこまれていたとしたら……本当に社会適応できていたのかと疑問に思わずにいられません。
 
 本当に“無難”な人ってどれぐらいいるんでしょうか?
 いつでも“無難”で居続けることが何%の人に可能なんでしょうか?
 
 平均や標準にもとづいて“無難”な人間像を想定するのは容易いし、産業上の理由から、ある程度は“無難”であって欲しいという要請があるのもわかります。でも、実物の人間の言動もスペックも思想もみんな“無難”なんてことがあるわけがないじゃないですか。どこかしら、はみ出している部分や尖っている部分があるのが人間ってものでしょう?
 
 現代の人々は、口々に“価値観の多様化”や“みんなちがってみんないい”なんて言います。でも、ファッションの次元をみていると、本音の部分では“無難至上主義”が幅を利かせつつあるようにも読めて、どちらが優勢なのか考え込んでしまうことがあります。“無難”があまりにも重視される社会は私のような人間には暮らしづらそうで、おっかないですね。