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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

現代に生きている原始人・古代人

 
 このタイトルをみて、あなたはどんな人を連想するだろうか。
 ブッシュマンやアマゾンの原住民のような、未開の地の人々だろうか。でも、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しい。私達のすぐ傍や、私達の内側にも、現代を生きている原始人や古代人がいるんじゃないだろうか。
 
 例えば、乳母車に乗っている乳幼児。
 乳幼児は原始を主観的に体験するし、原始時代を前提に反応する。
 
 ハイテク社会に生まれ落ちた彼らは、蛇に噛まれる心配も、肉食動物にさらわれる心配もない。知らないオジサンに連れ去られるリスクも、たぶん割と低めだ。けれども彼らは床*1に置かれ続けることを極度に嫌い、そのことに気付くと泣き始める。母の手のなかで揺られることを好み、抱かれて密着した状態で安心する。
 
 こうした乳児の振る舞いは、社会の進歩や都市空間を踏まえた適応として考えるなら、それほど適応的なものではない。常に母親の抱っこを求めるよりも、世話されるのをおとなしく待っているほうが、ハイテクで核家族な環境にはむしろ適応的だろう。けれども人間の心理的特徴を形成した環境*2に即して考えるなら、床に置かれるよりも大人に抱かれて密着している状態を好むという性向は、たいへんうまくできていると言える。まだ生活空間に危険が多かった頃の乳児にとって、床に長時間置きっぱなしにされるというのは、たいへん危険なことだったに違いなく、空腹や排泄関連の苦痛と同じぐらい、泣いて親の注意を促す必要のある状態だったのだろう。
 
 
 【私達が抱えている原始の心・古代の心】
 
 現代の乳児が生まれてくるのは、ハイテクで核家族な、新しい環境だ。けれども、乳児時代にはその事を知るすべも無いし、新しい環境を前提として振る舞うことも出来ない。彼らが主観的に生き・主観的に認知し・主体として振る舞うのは、古い時代を前提としたものだということを忘れるべきではない。
 
 言い換えるなら、いつの時代の人間であっても、必ず原始時代から生まれてくるということでもある。どれほど環境がハイテク化しようとも、乳児期において私たちは、原始時代に最適化された振る舞いをとる。以後、認知機能が徐々に発達してくるにつれて、私たちは外界がハイテク社会であることを把握していくけれど、その場合も、いきなりハイテク社会の科学的・合理的思考を身につけるわけではない。プリキュアやポケモンを見ている時・DSをいじっている時も、幼児はまだ、古代や中世を生きているようなものだ。適切な学習と経験、認知機能の拡大、行動範囲や体験内容の広がりを経てようやく、近現代の個人としての認知や合理主義的判断や科学的なメソッドを獲得することを忘れてはならない。「テレビを眺めているから科学の子」などと思うのは大変な間違いである。テレビにうつるプリキュアやポケモンは、幼児の主観レベルでは、神話の英雄のように体験されているかもしれない。
 
 大人になるとついつい忘れてしまいがちだが、私達は原始人のように生まれ、古代人のような主観のなかで幼児時代を過ごしてきた。そこから認知の発達に沿うような体験学習が積み重なってようやく、ハイテク社会に相応しい判断能力と、科学の時代に相応しい思考法が培われていくのであって、私たちは生まれながらに現代人というわけではない。そして私達の認知の足もとには、原始人や古代人的なニュアンスや、原始時代には問題になりにくかった盲点が眠っている
 
 自分のなかに眠る原始や古代の心から目を背けるのでなく、むしろ自分のなかに眠る原始や古代の心を前提として、人間を(そして自分自身を)振り返ってみよう;そうすると、一見不合理で非適応的な行動にみえるものに、何らかの理由や事情を見出せるかもしれない。私達は、期待するほど完璧には現代人というわけではなく、少なくとも原始人や古代人のようなメンタリティと無縁ではない。
 
 

*1:布団やマットの上も含む

*2:まず間違いなく狩猟採集社会、EEA:Environment for the Evolutionary Adaptedness