シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

記事『参政党に投票した人を馬鹿にする人々』で書かなかったこと

 
 
yoshikimanga.hatenablog.com
 
よしきさん(id:tyoshiki さん)こんにちは、シロクマです。私がbooks&appsさんに寄稿した文章に言及してくださり、ありがとうございます。こういうブログフォーマットの文章同士を連鎖させるようなやりとり、最近は経験できないので嬉しかったです。私の文章の大枠は読み取っていただけたと感謝しています。よしきさんが私が書いた範囲を絞っているとお気づきになったのは、第一にブロガーだからだと思います。
 
ちなみに、私がbooks&appsさんにお届けした時点では、その文章の仮タイトルは「参政党に投票した人を馬鹿にする人々」でした。これにbooks&apps編集部さんが正規のタイトルをつけてくださった格好です。
 
 

よしきさんへの私信として書いていきます

 
自分の書いたブログ記事や寄稿記事に、書いた当人が解説をするのは恰好の良くないもの。ですが、ブロガー同士で意見交換する、という体裁ならいいでしょう。昔はコンビニ店長、最近だと小島アジコさんがそうした意見交換のありがたい相手でしたが、店長はもうブログを書かないし、アジコさんは連載が始まってお忙しいはずです。
 


 
ちなみに最近の小島アジコさん、ダジャレ2コマをたくさんSNSにアップロードしていますが、あれは気分が乗っているサインだと私は理解しています。『不動産斜路の冒険』の連載、がんばって欲しいですね。
 
で、久しぶりによしきさんから言及いただきました。ありがとうございます。でも先に一点だけ、よしきさんのブログ記事に誤解を招くかもと思う表現がありましたので指差し確認させてください。
 

ただ、シロクマさんが「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」と提案するとき、そこにはまだ、「賢さ」という単一の物差しで他者の行動を測ろうとする視点が残存しているかもしれません。
引用:https://yoshikimanga.hatenablog.com/entry/2025/07/23/202853

ここですね。
books&appsさんの寄稿記事を再確認しましたが、私は参政党に投票した人を安易に馬鹿にするなとか、有権者として対等に見よ、とは書いていますが「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」とは書いていないと思います。また、あの記事のなかで私は「賢い」という言葉をあくまで参政党に投票した人を馬鹿にする人々に向けてはいても、参政党に投票した人に向けてはいません(もう一度お読みになって確認してみてください)。しかも、ここでいう「賢い」とは鍵括弧付きの賢いです。踏み込んで言えば、参政党に投票した人を馬鹿にする人々とその仕草を、私自身は賢いとみなしているわけではありません。
 
 

マクルーハンに根ざしたごちゃごちゃした話

 
しかし、あの文章にまぎらわしいセンテンスが混じっていたのも事実です。少し長いですが、以下のセンテンスがよしきさんの読み筋に影響した可能性はあるかもしれないと思っています。
 

ここで私がいうSNSに根差して構築される知の地平とは、活版印刷に根差して構築される知の地平とは異なった知の地平だと思ってもらいたい。20世紀に生まれ育ち、大学など出ている人の知のありようは書籍や新聞といった静的かつ詳細なテキストに(究極的には)根ざしている。
ところがSNSやショート動画が普及して以降の知のありようは、たぶんそうじゃない。動的で疎な情報量からなる、かつてポスト構造主義者が述べていたシミュラークルとシミュレーションのそれになるだろう。というか、SNSにはシミュラークルとシミュレーションしかない。
参政党の選挙活動やマニフェストは、活版印刷に根差した知の地平で眺めれば支離滅裂かもしれないが、SNSやショート動画に根差した知の地平でみれば、案外、問題にはならないかもしれない。
参政党は、バラエティに富んだマニフェストをばらまくだけばらまいて、有権者にそのなかから自分好みのストーリーを持ち帰らせているようにも見えた。それは、SNSやショート動画がますます台頭し、新聞や書籍を読む人が減っていく時代に適したやりかただったのではないか?
引用:https://blog.tinect.jp/?p=89940

このセンテンスを、「参政党に投票した人には既存政党に投票した人とは異なる賢さがある」と私が主張しているように読むのは、読解ミスではないと思います。正直、そう読まれてもまあいいか……という気持ちはありました。ここで活版印刷時代の知の地平と表現しているものは、学校で学び社会のなかで従来必要とされてきた知識、というより知識のフォーマットを指していて、SNS時代の知の地平と表現しているものは、そうではないなんらかの知識のフォーマットを指しているつもりです。後者のうちに前者とは異なる情報処理の形態を見出すことを賢いというなら、確かに私は後者に馴染んだ人に賢さを見出しているのかもしれません。
 
寄稿記事のなかで「少しごちゃごちゃとしたことを書くが」と断ったとはいえ、このセンテンスは寄稿記事にふさわしくない不明瞭さ、曖昧さを含んでいると自覚しています。そして私が書きたいように書き散らした部分です。ここがよしきさんの読み筋に変な影響を及ぼし過ぎたとしたら、それは悪いことをしてしまいました。
 
ここの元ネタはマクルーハンの『メディア論』とボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』です。それから活版印刷についての検討。
 

 
私たちの時代の知識のフォーマット、何かについて合理的に考えたり情報を取捨選択したりすること、ひいてはリテラシーと呼ばれるものは基本的に活版印刷時代の技術のそれに根ざしていて、たとえば口伝文化のそれや、写本時代のそれとは異なっています。そして活版印刷時代の知識のフォーマットは黙読に向いていて音読を要請しない。それは、歌って踊ることが期待されるような知識のフォーマットではないでしょう。
 
他方、ここで私がSNSやショート動画が普及して以降の知識のフォーマットと言いたいものは、ひょっとしたら歌って踊ることが似つかわしいようなフォーマットかもしれません。また、SNSも正確な情報を静的に伝達するのに適したメディアではありません。SNSやショート動画は、活版印刷時代の知識のフォーマットのようには情報を伝達しません。マクルーハンの言葉を借りるなら「クールなメディア」でもあるでしょう。
 
「ホットなメディア」である新聞やNHKニュース*1とは異なり、SNSやショート動画は、疎な情報量に対して視聴者が脳内補完や二次創作を働かせやすいメディアでもあります。あいまいだ、とも言えるし、好き勝手に思い入れできる、とも言えるでしょう。活版印刷時代の知識のフォーマットに基づくなら、これはリテラシーとしてデタラメです。ユーザーひとりひとりのリテラシーが問われる以前に、まず、メディアそのものが活版印刷時代の知識のフォーマットに合致していないとみるべきです。
 
現在の私は、そんなSNSを活版印刷時代の知識のフォーマットとして欠格とみていて、たとえ行政などの公式機関が情報を流している場合でも、SNSだからという理由でなるべくあてにしないように意識します。「SNSでは情報リテラシーが問われる」ではなく、「SNSというメディアは旧来からのリテラシーに元々適していない」と考えるのがマクルーハン的な理解として適切なんじゃないか、というのが現在の私の受け取り方です。
 
しかし、新しいメディアが勃興してくると、そこに新しい知識のフォーマットが生まれてくるのも事実でしょう。活版印刷時代の知識のフォーマットにしても、活版印刷の登場と普及をとおして全世界に広まり、標準化したわけですから、SNSやショート動画に慣れまくった世代が台頭してきた時、私のような人間にはよくわからない知識のフォーマットが台頭してくる蓋然性はあります。
 
この話は、よしきさんがリンク先でおっしゃっていた「『賢さ』からの離脱」の話とも種類が違うように思います。もちろん、よしきさんやdankogaiさんがおっしゃるような向きもあるでしょうし、それはどちらかといえば『ハマータウンの野郎ども』なども連想させる向きです。もちろん、参政党とその支持者を論じる際に、この方向性で一席ぶってみる手もあるでしょう。
  
でも、現在の私はマクルーハン的な、メディア論的な背景を意識していたのでした。反学校文化的な切り口で参政党を論じるのは、別に私じゃなくてもやりたい人はいくらでもいるでしょうし。
 
 

ただ、そこはハイパーリアルっすねっていう。

 
それからボードリヤールの話。
さきほどの引用センテンス中にも書きましたが、SNS時代の知識のフォーマットと書いたとしても、それがSNSの情報断片みたいなものをめいめいが脳内補完&二次創作しているような状況って、およそファクトとフェイクの区別がつかないような不確かな状態じゃないですか。
 

 
今のSNSの状況、ひいてはSNSという情報環境がつくりだしている一連の磁場は、ボードリヤールが論じたハイパーリアルだと私は強く感じます。2025年にハイパーリアル? と首をかしげる人もいるかもしれませんが、現代のSNSで起こっているハイパーリアル感は20世紀に起こっていたハイパーリアル感よりもずっとヤバくて身近で大規模です。拙著『ないものとされた世代のわたしたち』の終わりのほうでも少し書きましたが、本当にやってきたポスト近代とは、20世紀のそれではなく今だと私は直観しています。
 
別の記事でいつか書きたいですが、『機動戦士ガンダムジークアクス』の11話ぐらいが放送されていた2025年6月下旬に、『セカイ系とは何か』の前島賢さんから「『ジークアクス』の消費状況は東浩紀のデータベース消費よりも大塚英志の物語消費だ」的なご指摘を(Xで)いただきましたが、『ジークアクス』全体の消費状況を思い出すと──というより私のタイムライン全体の状況を思い出すと──やはりデータベース消費的であるように思われました。ジークアクスの消費状況は、近代に根ざした物語消費というよりポスト近代的なデータベース消費、記号との戯れ、めいめいがジークアクスをとおして見たいジークアクスを読み取る、そのようなものに傾きがちだったと記憶しています。前島賢さんのタイムラインには昔の宇宙世紀ガンダムシリーズとの丁寧なすり合わせに基づいて鑑賞している人が多かったのかもしれません。が、私のタイムラインではもっとメチャクチャに視聴されていました。
 
でもって、ジークアクスならまだいいんだけど、ロシア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナ、アメリカ、どうですか。どうですかと言われても困るでしょうけど。
  
ボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』は、正直言って本としての完成度はぜんぜんダメですが、でも、この本の旨味成分は、2020年代の情報環境を経由して視界に入ってくる*2国際情勢の視野とも重なります。さまざまな事実が厳然と存在するのとは別の話として、現在の情報環境のなかで社会的事実とは一体何なのか、、さらに情報の受け手それぞれにとっての事実とは一体何なのかを真剣に考えなければならない状況だと思います。でもって、そうした2020年代の情報環境のなかでファクトとフェイクが判然としなくなっているのは、さきほど挙げた、SNS的な知識のフォーマットとたぶん表裏一体なんですよね。
 
じゃあ、SNSやショート動画を禁止するべきなのか。そうするとしたら、それは活版印刷が登場した頃に「みなさん勝手に聖書を読むのはやめてくださーい」「はいこの本は発禁です禁書目録に入れておきます」とやっていた人たちと、どこまで同じでどこまで違うでしょうか? 活版印刷が登場した頃にそれを制限したかった人たちの知識のフォーマットは、たぶん写本文化の知識のフォーマット、修道院の知識のフォーマットでしょう。SNSやショート動画を禁止したがる人は、後世から見て、16世紀の旧知識階級のようにうつるかもしれません。
 
 

……といった話を寄稿記事に載せるわけにはいかないのです

 
こうしたことを考えながら私はあのbooks&appsの記事を書いていました。でも、ここで遠慮なく書いたような話をひとつの寄稿記事に詰め込むのはナンセンスです。books&appsさんは、割と何でも寄稿記事を受けてくださる場所ですが、それでもやりすぎでしょう。
 
参政党に投票した人、参政党に投票する人を馬鹿にする人、参政党が台頭してきたこと、どれもとても興味深い現象で、それぞれにさまざまな論点があるでしょう。選挙が終わるまでは沈黙していましたが、私は、強い関心をもって一連の現象を眺めてきました。参政党は、2020年代の政党です。である以上、今という時代、今という環境を理解するヒントの塊だろうというのが私の見立てです。
 
だからといって、その参政党とその周辺について、私が全部を論じる必要はないし、論じられるわけがありません。他にも多くの書き手が参政党とその周辺に関心を持ち、縦横に論じてくださると期待しています。よしきさんは、私が書いたことにまず物足りなさを感じて、そのうえでご自身の所感を書いてくださいました。同じように、自分が感じたこと、考えたことをこれから色々な書き手が書いてくれることを希望します。
 
私たちは2025年の書き手なのですから、2025年に起こったことの所感をリアルタイムに書ける立場にあります。それは、書き残してみるに値することだと私は思っています。昨今、オンライン空間に書いたものはすぐに朽ちて忘れられがちですが、それでも誰かの記憶から記憶へと巡り、誰かが次に書くことに影響を与えたとしたら、書く、という行為は成功です。それは、オベリスクの時代も、活版印刷の時代も、SNSの時代も変わらないはず。
 
そうしたうえで、あの記事で私が一番言いたかったのは、そんなに簡単に人や人の集まりを馬鹿にしちゃいけないよ、ということでした。シンプルなことですが、大切なことです。特に影響力や政治力を巡ってしのぎを削り合う集団同士の間で、その構成員の多寡を争っているイシューに際しては重要でしょう。
 
もうひとつ付け加えると、馬鹿にすることをとおして、その対象の分析が甘くなったり、その対象を過小評価してしまうことってあると思います。慢心にもつながるかもしれません。もし、人の集まりが馬鹿っぽく見えた時にも、馬鹿じゃんと断定するのは最後にすべきだと思います。一般論としては、まだ自分にはよくわかっていないことがあるかもしれないと留保しておくのが安全ではないでしょうか。
 
その、一番言いたかったことを優先させるために色々な要素を捨てて書いたのがあの寄稿記事でした。3000字ちょっとのボリュームに絞れたのは良かったと思います。こうした私信の往復書簡的な文章ならいざ知らず、主旨の単純な文章を引っ張りすぎるのは良くないでしょうからね。
 
以上、よしきさんへの私信というかたちで色々と書いてみました。
よしきさんのブログライフもすっかり長くなりましたね。今後もご健筆をふるってください。今回はありがとうございました。
 
 

*1:マクルーハンはテレビをクールなメディアと呼んだが、それはマクルーハンが生きていた頃のショボかったテレビがそうなのであって、現在の解像度が高いテレビ、わけても誤解の余地なく届くニュース番組などはホットなメディアだと思う。細かいことを言えば、ワイドナショー的な番組は現代のテレビのなかでもクールなメディアに近い位置づけとみていいんじゃないだろうか

*2:または、2020年代の情報環境を経由して何も見えなくなっている