シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

アイデンティティを購入しづらくなった後の世界

 
昨日、Xでアイデンティティと消費個人主義についてしゃべった内容をまとめることにしました。
 
 

1.アイデンティティが消費活動として、商品として贖われる時代があった

 
20世紀の後半から21世紀の初頭にかけ、日本では個人が「私はこういう人間だ」「これって私!」と思える宛先として、もっと言えばアイデンティティの宛先として、商品の選択や消費活動が今よりも重要で、旺盛な一時代があった。『なんとなく、クリスタル』に登場するクリスタル族、好きな趣味ジャンルに耽溺するオタク、商品選択能力の優越性を他人に見せつける新人類たちはその先駆けだったと言える。そうした消費個人主義は90年代には大衆化し、地方都市の学生までもが海外ブランド品のバッグを持ち歩く風景を生み出すに至った。
 
でも、商品選択や消費活動がアイデンティティの宛先としてはじめから重視されていたわけではない。クリスタル族らが登場した頃には「シラケ世代」という言葉も登場した。シラケ世代がシラケと呼ばれるのは、政治に関心が乏しく、消費活動に親和的な個人主義者だからだった。逆に言うと、それ以前の世代はそうじゃなかったということでもある。
 
実際、シラケ世代が語られるより前の1950-60年代には政治活動がアイデンティティの宛先として(一時的なものかもしれないが)ある程度のウエイトを持っていた。大学卒業後は勤務先がアイデンティティの宛先となり、モーレツ社員が誕生する。中卒や高卒のブルーカラー層は古典的な労働者階級に近い文化を持ち、中流階級(プチブル)的な上昇志向にとりつかれていなかった。
 
ところが高度経済成長をなしとげた日本は1980年代に“一億総中流社会”とも呼ばれる、中流階級の分厚い──その実態は中流意識の分厚い──社会状況をつくるに至った。この、誰もが中流階級になりおおせたかような意識は経済上の豊かさに加えて消費生活の豊かさによっても支えられていた。三種の神器に始まり、自動車、エアコン、ビデオデッキ、さらにグルメブームやレジャーブームにまで消費の対象が広がり、消費のエスカレーションを私たちは豊かさとして受け取った。
 
この頃、「モノより心」というキャッチコピーが流行していたが、2025年から見ればちゃんちゃらおかしい話である。今の私が思うに、当時の「モノより心」というキャッチコピーの正体は、飽食の果てに消費個人主義に倦んだ人々が、次の消費の対象を、ひいては次のアイデンティティの宛先を求めて貪欲に食指を動かす、そういうものではなかっただろうか。この時期は心理学ブームや心療内科ブームが起こった時期とも重なる。フロイトやユングといった精神分析家の言葉がメディアに踊った時代だ。そうした心理学や精神分析の言葉も、結局のところ、消費個人主義の趨勢に沿った「流行の商品」でしかなかったようにみえる。
 

 
社会学者のボードリヤールが書いた『消費社会の神話と構造』は、そうした消費個人主義のメカニズムを紐解いた本だ。この本は、消費個人主義社会を生きる個人が商品選択をとおしてアイデンティティを購買することを主題にしている「わけではない」。そうではなく、消費活動をとおして私たちがいかにお互いに差をつけたがろうとしているのか、そして差をつけたがる性質じたいが消費社会の体系に呑まれたうえでの振舞いであるさまを活写している。ボードリヤールは社会のメカニズムを書きたかったのであって、個人のアイデンティティの獲得の話をしたがっている風にはみえず、むしろ冷淡であったことを断っておきたい。
  
しかし同じく社会学者のバウマンが『リキッド・ライフ』で記したように、その消費個人主義社会の内側で生きている私たちは、実質的にはアイデンティティの宛先として消費活動や商品をあてにしている。先に挙げた心理学ブームや精神分析ブームが示していたように、差異化の記号としてクローズアップされ得るものはことごとく商品として記号化され、選択され、消費され、個人のアイデンティティの宛先としてあてにされる。「商品や消費活動がアイデンティティの宛先になっていく」だけでなく「アイデンティティの宛先が商品化・消費活動化していく」側面も見逃せない。で、そうなってしまったら、あらゆるアイデンティティの宛先は究極的にはカネ次第、になる。アイデンティティの宛先としてふさわしい肩書き・趣味・アクティビティが商品や消費活動としてことごとく記号化され、カネ次第になってしまったら、カネのない者のアイデンティティの宛先はどこになるだろう?
 
高度経済成長期以前の日本社会だったら、カネのない者のアイデンティティの宛先はイエだったり地域共同体だったりしただろう。宗教やナショナリズムだったかもしれない。たとえば創価学会などの新宗教は高度経済成長期に共同体としてもアイデンティティの宛先としても大きな存在感を示していた。政党組織だが、共産党もそうした側面を持ち合わせていたことは記憶されていいように思う。
 
ところが1970年代から先、イエや地域共同体が急激に希薄化していった。しがらみを廃し、プライバシーを守り、個人主義に傾倒していく時代の流れは、クリスタル族やオタクや新人類の出現と矛盾しないものだった。いち早く個人主義に馴染んだライフスタイルを選択した人々は、イエや地域共同体といった昔ながらの集団にアイデンティティを預けている人間をダサいとみなし、自分たちの優越性を誇った。昔ながらの若者組や地元を愛する不良、暴走族のたぐいはダサいものとレッテルづけられ、求心力を失っていった。
 
 

2.就職氷河期と、その後のアイデンティティの購入について

 
そうして消費個人主義に国全体が飲み込まれ、市井の人々も商品選択や消費活動をアイデンティティの宛先にし慣れていく最中にバブル崩壊が起こった。しかし日経平均が値下がりし、若者の就職先が厳しくなってもすぐには社会風潮は変わらなかったと記憶している。社会風潮まで変わったのは、1995年、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起こったあたりだっただろうか。
 
いわゆる就職氷河期に突入した後も、商品選択や消費活動がアイデンティティのよすがになる傾向はあまり変わらなかった。バブル期のように羽振りの良いことはできないとしても、デフレ経済と円高の状況下では、商品選択や消費活動をやってのけ、それらをアイデンティティの宛先にするのは難しくなかった。新人類が過去のものになってもサブカルという、やはり商品選択をとおして差異化に励む趣味人は存在していたし、オタクも増え続けていた。低価格で海外旅行に行き、その海外旅行をアイデンティティのよすがにすることも簡単だった。00年代~10年代の商品選択や消費活動はバブル景気の頃に比べてしみったれていたかもしれないが、20世紀に比べて洗練され、こなれていた一面もある。
 
就職氷河期は経済的に停滞した時代だったが、デフレ経済と円高のおかげ(?)で商品選択や消費活動をアイデンティティのよすがにするのがそこまで難しくない時代だったよう回想される。家庭を持たず子どもをもうけないライフスタイルが好ましいこととみなされ、そのように語るオピニオンリーダーたちがこの時代を牽引していたことも、その傾向に拍車をかけていただろう。結婚や挙児を諦め、それらに要したはずのお金を商品選択や消費活動に回せば、収入面でふるわなくても中流階級をまねた生活をエンジョイできる。親の資産や収入があてにできるなら尚更だろう。
 
だが、それも過去の話だ。
株価だけ見れば日本経済は立ち直ったように見えるが、中流階級は没落し、やれ格差社会だ、やれアンダークラスだといった言葉が聞こえてくるようになった。デフレ経済は終焉を迎え、インフレや円安が進行していくなかで、00年~10年代と同じようには生活できなくなった。いや、今日でもブルジョワやアッパーミドルなら商品を買い、消費活動に励んでアイデンティティとするのは不可能ではない。むしろ経済格差が大きくなっている今だからこそ、商品選択や消費活動をとおして自分が何者であるのかを見せびらかす効果は強いのかもしれない。
 
2025年の日本においても、『消費社会の神話と構造』で語られた消費個人主義の機構が失われたわけではない。今でもお金のある人は消費個人主義のメカニズムに沿って悠々とアイデンティティを贖うことができる。あるいは「推し活」もそうした一形態かもしれない。そこまで経済的に豊かでない人でも、「推し活」という消費活動をとおして自分が何者なのか、ひいては自分のアイデンティティの宛先がどこなのかを指さしすることは可能だし、現にそうしたアクティビティは流行っている。そうは言っても、デフレ経済の頃やバブル景気の頃と同じわけにはいかない。「推し活」といえど、それは商品選択や消費活動の一環であって、ボードリヤールが種明かししてみせた消費個人主義の機構から逃れられているわけではない。そして00年代や80年代に比べれば日本社会は間違いなく経済的に沈下し、インフレが進み、中央値ベースでみれば購買力は低下しているのである。
 
 

3.帰るべきイエや地域共同体はない

 
インフレが進み、購買力が低下してもなお、アイデンティティを商品として購入・選択し続けるしかないのだろうか。
 
消費個人主義社会が到来する以前の社会では、アイデンティティは地域共同体といった資本主義の外側の人間関係によって成り立っている部分が大きかった。だから経済的に衰退しても昔に還ればアイデンティティの宛先には困らない……ようにみえる。しかし、実際の私たちはすっかり個人主義化してしまったし、実際の社会は資本主義のロジックによって舗装され尽くされたから、もう一度地域共同体やイエにすがれるとは考えられない。日本人が地域共同体やイエに再びすがれる日が来るとしたら、それは個人主義に基づいて暮らせなくなり、プライバシーも守りきれなくなった社会、お互いに厳しいしがらみを守らなければ生存すら難しくなってしまった社会だろう。大規模核戦争でも起こらない限り、百年以内に社会がそこまで後退するとは考えられない。
 
それよりずっとあり得て、現実のものになりつつあるようにみえるのは、大文字小文字のさまざまな政治、あるいはナショナリズムをとおしてアイデンティティを獲得するというものだろう。アイデンティティに飢えきっている人が特定の政党や政治活動に入れ込むだけでなく、商品選択や消費活動と同じノリでごくカジュアルに特定の政党や政治活動に参加する、または特定の勢力を「推し活する」というのは十分に起こり得ることだし、これは2010年代よりも2020年代において成功しているようにもみえる。アイデンティティ・ポリティクスという言葉もあったが、それとはまた別のかたちでアイデンティティのための政治、アイデンティティの獲得のためのナショナリズムが要請される可能性は、あると思う。というより、そういう風景がげんにできあがっているのではないだろうか。
 
他方でボードリヤールの論述を思い出す時、その政治やナショナリズムすら消費個人主義の機構から切り離して考えにくいように想像される。「政治とカネ」と言った時、大政治家のスキャンダルだけを連想するのは無邪気に過ぎるだろう。カネと政治とナショナリズムがべったりと結びついたこの社会で、帰るべきイエや地域共同体を失ってアトム化した個人が「ピュアな気持ち」で政治家や政治活動を推すなど、本当に可能なことだろうか。差異化を促し、資本主義のあぎとに繋ぎ止める機構に逆らうことがどこまで可能だろうか。もうさんざんカネにまみれたアイデンティティが、カネと政治にまみれたアイデンティティに格変化するだけの話でしかない、と言ったら悲観的過ぎるだろうか。
 
何かうまくまとめようと思ったが、考えているうちに憂鬱になってきた。
地縁や血縁といった”腐れ縁”に根差したアイデンティティから、商品選択や消費活動をとおしての個人的なアイデンティティへ。金回りがいいうちはそれこそが正解で、その弊害も少なかったのかもしれないが、金回りが悪くなればそうもいかない。今日ではカネもアイデンティティの宛先も乏しい人間は簡単に動員されるだろうし、動員されるのと引き換えにアイデンティティの構成要素を一部、または全部獲得するのだろう。政治活動にアイデンティティを完全に仮託してしまえばファナティックにもなろう。私たちが今眺めているのは、きっとそんな世の中だ。人間をひたすら個人へと解体して、人間をひたすら消費個人主義社会のユニットとして利用した結果がこれである。と同時に、私たちが消費資本主義に乗っかって、いっときの豊かさにもたれかかった結果がこれである。 これは、目指すべき豊かな社会だったのだろうか?