シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

遅れてやってきたポストモダンをどうすべきか?って?

 
週末に、はてな匿名ダイアリーに「要するにエコチェンバーこそが現実になってしまったんやな」というフレーズが書きこまれて、はてなブックマークが集まった。
 
ちなみに、このフレーズは「日本人ファースト勢に見えている世界」というはてな匿名ダイアリーの文章についたもので、その文章はさらに遡ってtopisyuさんの文章をリファレンスして書かれたものだったりする。
 
これらのどちらかが正しい/間違っているとは私は考えない。topisyuさんはファクトを検証できるような報道をすべきと言っているし、はてな匿名ダイアリーの長文は報道をとおしてファクトを検証しなくなった人の出現を指摘している。どちらも現代社会の一隅を照らしているのは間違いない。ただ、論旨の重心はそれぞれ異なるので、二項対立的に読むよりも、違った論旨のものとして読むのが好ましいように私は思った。
 
ところで、冒頭のフレーズについたはてなブックマークを眺めてているうちに、言語化したかったことが思い出された。それは、最近の私がオフラインの時間にずっと考えていることだ。
 

元増田「自分の妄想にとらわれて他者の妄想をわかろうとしないから無力になってる」みんなそれぞれ自分のエコチェンの中にいるとか遅れてきたポストモダンみたいな事をドヤ顔で言われても。それでどうするがないのよ

https://b.hatena.ne.jp/entry/4775078551363369793/comment/donovantree

スタート地点として、「ポストモダンみたいなことをドヤ顔で言われても。それでどうするがないのよ」というこのコメントを選びたい。
 
まず、誰もがエコチェンバーのなかにいるというポストモダン、あるいは近代の極相林的な現状は、個人の力で改変できないと私は思う。革命家がそれをひっくり返す、といったことすら想像できない。ただし私は、この文脈でいわれるポストモダン=近代の極相林的現状は、ひとつにはメディアの進歩によって、もうひとつには人文社会科学的に推し進められた社会の資本主義的・社会契約的・個人主義的な進展によるものだと理解しているから、それらを台無しする社会変化が起こればポストモダン的状況は終わると理解している。
 

 
でも、それが大規模核戦争やオーウェル『1984』的な独裁社会といった終わりかたでは、たぶんほとんどの人が納得しない。そんなものは回答と言えたものじゃない。
 
じゃあ、そうした破局に至らないかたちで、この、世界全体を覆ってしまっている構図について「これをこうすると解決するよ」と言えますか? と問われると。
 
私にはまだアイデアはない。なにしろ、これは世界的にみられるほど広くて深い状況だからだ。この社会状況について、核戦争や独裁によらない解決策を提言するなど一体誰に思いつくのだろうか。「それでどうするがないのよ」とはおっしゃるけれども、それが思いつくなら苦労しないだろう。
 
今日の体制の中枢に位置する各界の叡知たちは、当然この状況を憂い、エコチェンバーにまみれた現状をどうにかする答えを探し求めているはずだ。それでもなお、ゴールドスタンダードと言える答えは聞こえてこない。そして私自身、このエコチェンバーにまみれた現状でエコチェンバーにまみれてしまっている。私は自分自身が近代人の模範でないことをよく知っているが、それでも現在、あてにしてよさそうに思えるのはNHKやCNNといったテレビニュース、新聞、信頼している学者さんの書いた本などだ。そうした情報源にも立場に由来するバイアス、もう少し踏み込んで言えば「体制側の言葉遣い」が含まれているものだろうが、SNSでよくわからないインフルエンサーが拡散している言葉に比べれば発信者側のリテラシーが期待できるので、それらをあてにするしかない。
 
 

「近代とは何か」を再履修すること

 
2010年代のある時期から、私はポストモダンなる言葉が派手に流通していた20世紀よりも、SNSが世界じゅうに普及してからのほうがずっとポストモダン的に見えるようになった。近代的な社会体制や世界レジームも、1990年頃より現在のほうがグラグラしているとも感じるようになった。はじめ私は、現代人に課せられている課題の重たさやハードルの高さに直結する問題としてそれらを感知した。19世紀の日本の生きづらさと21世紀の日本の生きづらさは、量的な違いだけでなく質的な違いを含んでいる。その質的な違いは、近代的社会体制の発展・普及・徹底というプロセスと、それに追随することに疲弊している現代人のギャップから来る部分もあろう。
 
でも、それだけじゃない。近代の行き詰まり感、近代が極相林的な状況になった感はあちこちの領野にみられることだ。世界各国の政治と国際情勢はごらんのありさまだし、エコチェンバーの話は混乱していて根が深いようにみえる。今、ポストモダン的な状況があるとして、それが私たち一人一人の生きづらさや課題の重たさだけの話に回収できるわけがない。この状況はもっとたくさんのことと連動している。さきほども触れたように、そうした連動のかなりの部分は、SNSをはじめとするネットメディアが普及したことにも依るだろう。
 

これは少し違うと思っていて、今までもエコーチェンバーが現実だったけど、最近は違う場所からも生まれるようになっただけ(そしてそれを異端だ異端だと喚いている)

https://b.hatena.ne.jp/entry/4775078551363369793/comment/by-king

 
ネットメディアの普及前と後で、エコチェンバーが異なるのかどうか。
私は、異なると思う。ある内輪だけで流通する社会的ファクト、といったことは昔にだって起こってきた。オウム真理教の事件の最中、教団信者はたぶんそうだっただろうし、それ以前にもカルト宗教が集団自殺をする、といった現象はときどき起こったからだ。寒村に排他的なローカルルールが残っていて、それが法律の決まり事をこえて遵守される、なんてのもエコチェンバーっぽい現象だったかもしれない。
 
しかし、ネットメディア以前の社会的ファクトの生産と流通は、二つの制約を持っていたように思う。ひとつは拡散性。カルト宗教は確かに小さなエコチェンバーをつくりきってみせたが、不特定多数に距離や時間をこえて飛び火する力はそれ自体には乏しかった。たとえばオウム真理教は国政選挙に打って出ているが、結局議席を抑えることはできていない。
 
もうひとつは権威性だ。カルト宗教は内輪に対してオルタナティブな社会的ファクトを浸透させられても、その外側の社会的ファクトにほとんど影響を与えられなかった。社会の大多数にとっての社会的ファクトはマスメディアや学界、ひいては支配階級がしっかり握り続けていた。SNS以前の近代社会でエコチェンバーが誕生しても、そのエコチェンバーが支配階級や主流派、学界をおびやかすオルタナティブとなることはなかった。ときに、思想や社会的ファクトが修正されることは当時もあり得た。しかし「何が修正されるべきか」という議題設定機能も含めて、修正権は学術界や行政当局やマスメディアが第一に握っているもので、いわば無位無官の人間が簡単に関われる問題ではあり得なかった。
 
話が少し逸れるかもしれないが、ルターらの宗教改革についてはちょっと気にしている。活版印刷は、当時としては伝染力の高い新興メディアだった。ただし識字率が低く、本やパンフレットを作成すること自体、知識階級の特権だったから、誰でもSNSにポストできてポストができない者ですら「いいね」や「シェア」で“投票”できる21世紀のSNSとまったくイコールでもあるまい、とは思う。それから今日は動画というメディアがある。動画は書き言葉が伝える以上のメッセージを、いや書き言葉とはちょっと異なったメッセージを媒介する。今日のエコチェンバー形成に動画が果たしている役割は軽視できない。
 
宗教改革の話はここまでにする。 
とはいっても、メディアの進歩だけでポストモダンっぽくなっていると考えるのも正しくないだろう。今の社会状況を理解するためには、近代が改修に改修を重ねて、より正しく理想的な社会に向かって邁進してきた、その歩みと蓄積についても考えなければならない。近代とは何だったのか、その近代にどんな思想が宿っていてどんな思想がまき散らされたのか、逆に、どんな思想が宿っていなくてどんな思想がまき散らされなかったのかも、あわせて知っておかなければならない。
 
私が学生だった頃、「社会が近代化する」と言って連想されたのは、蒸気機関、電信電話、電力網、人工衛星といったテクノロジーの産物だった。でも、社会人になってから次第にわかってきたのは、近代化は人文社会科学の領域でも同時進行している、ということだった。同時進行とは言っても、国によって歴史的経緯が異なるから日本がイギリスやフランスと全く同じように進展していったわけではない。たとえば家族観は欧米諸国に比べて日本は旧態依然としたまま今日に至っているとはしばしば指摘されることだし、韓国ではそれが一層顕著だとも言われている。
 
近代化に際して、社会的ファクトと、その社会的ファクトを巡る基準や制度が変化してきたのは間違いない。メディアの進歩もそこらへんと関連づけて論じられるべきだろう。で、そうなるとそもそも近代とは何だったのか、近代とはどんな時代でどんな思想だったのかを、私はもっと知らなければならないと思うようになった。
 
だから私は、近代についての再履修を迫られている。近代のルーツにあたる人々の本を読むこともあれば、ポストモダン(ポスト近代やポスト構造主義についての本を含む)や後期近代について論じた人の本を読むこともある。20年ほど前の私は、ポストモダンについての本をポストモダンについての本としてしか読んでいなかった。ところが今、ポストモダンについての本を近代についての本として再読すると、びっくりするほど近代について書かれていて、なおかつ、近代の思想を理解する補助線があちこちに引いてある思いがして興奮する。そして、いかに自分が思想としての近代、時代精神としての近代について知らなかったのかを痛感する。
 
このエコチェンバーまみれの2025年、近代の極相林的状況としての2025年をポストモダンだと言ってしまうのはたいして難しいことじゃないと思う。けれどもそれ以上のことを知ろうと思った時、ましてやソリューションや出口戦略に相当する何かを想像する時、色々なものが足りていない、もっと知りたいことがあると私は思う。その知りたいことのひとつが近代だ。この先も、たいしたことは思いつかないかもしれないけれども、近代についてもう少し知っていれば、もう少し現状への解像度もマシになるかもしれないし、ソリューションはともかく出口戦略や成り行きについて考えやすくなるかもしれない。なので「ポストモダンみのある現代社会をどうするか・どうするべきか」については、そのヒントをくれそうな本を読むのが先決だろうなと私自身は思っています。
 
 

 
※たとえばこの本とか面白かったです。これがすべてじゃないとしても、こういう一面あるよねと。