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“蛙化現象”について、アジコさんが漫画+文章を描いてらっしゃった。漫画パートでは昔からの意味である「好きな相手が自分のことを好きだと知った瞬間に恋が醒める」が記されているけど、文章パートでは最近の意味である「相手のさりげない仕草で一気に恋が醒める」現象について書かれている。
私には読みづらい文章だった。なぜなら自己肯定感という言葉の意味がわかったようなわからないような印象を受けるからだ。最近出版された斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』にも、この自己肯定感という言葉の、世間での使われ方への疑問が記されている。これは私も同感だ。
18年近く書き続けているこのブログでも、「自己肯定感」という言葉を使ったことは一度もない。よく知らない言葉をよく知らないまま用いるのは落ち着かないから、この文章では、蛙化現象の最近の意味である「相手のさりげない仕草で一気に恋が醒める」現象について、自分の使い慣れた言葉で書いてみたい。
相手のさりげない仕草で恋が醒める・好きな人に幻滅するとは、まあ珍しくもない現象だ。RPGゲーム『ファイナルファンタジー』シリーズには「ライブラ」という魔法があって対象の全情報を入手できたし、そうでない多くのRPGゲームにもそれに近い機能があったりする。ところが人間はいつまで経っても全情報がみえるわけでなく、みえないからこそ人間は面白くもあり、恐ろしくもある。等身大の相手以上に期待してしまうことも、幻滅してしまうこともあるだろう。
では、どんな時に「相手のさりげない仕草で一気に幻滅する」が起こるのかを整理してみよう。
相手に重大な欠陥や自分が受け入れられない一面が見えてしまった場合、私たちは相手に幻滅したり失望したりする。「ライブラ」が存在しない以上、付き合ってみた相手がとんでもない欠陥や許容不可能な一面を持っていたと後から気づく可能性はゼロとは言えない。どんな性質や属性が許容不可能とみなされるのかは人によって異なるが、後付け的にそのような一面がみえてしまった時、私たちはしばしば幻滅する。これは、幻滅する側の心理的な事情よりも幻滅される相手の側のあまりに受け入れがたい性質や属性に由来する出来事だ。
でも、一般に蛙化現象として問題視されるのはそうではあるまい。相手の些細な欠点、一般的にはそこまで毛嫌いするほどではない一面で幻滅が起こってしまう、その幻滅しやすさのほう、幻滅する側の心理的な事情のウエイトが大きいタイプの出来事だろう。相手のことが本当に好きなら、ひとつやふたつの欠点、それも些細な欠点でいきなり幻滅してしまうのでなく、むしろ些細な欠点でも相手のことが好きだからまあまあ許容できてしまう、それが恋の力ではないか、などと私は考えてしまいがちだ。いわゆる「あばたもえくぼ」ってやつである。
蛙化現象はそうではない。「あばたもえくぼ」と正反対の出来事が起こっている。「好きな相手だから許容できる」ではなく、「好きな相手だから許容できない」。好きな相手の些細な欠点までもが許容できないとは、本当にその相手のことが好きなのか少々疑問ではあるが、ともあれ些細な欠点のない相手であって欲しいと願っているわけだ。または、些細な欠点のみえない相手を好きになりたがっているか、些細な欠点のみえない相手しか好きになれない、ってわけだ。
こう書くとパーソナリティに問題があるんじゃないかとか、要求水準が高すぎるんじゃないかとか、いろいろ思いつくことだろう。確かにそうだ。でも人間、ある程度はそうだとも言える。私たちはどこまでありのままの他人をみているだろうか? 私は、ありのままの他人なんて見ているわけがない、と思う。人間は他人のことを願望・思い入れ・偏見・期待・不安ごしに見ていて、完全に客観的に・ありのままの相手をみることができない。それがいけない、と言うつもりはない。人生にこなれている人なら、たとえありのままの他人を見ることができなくても、付き合いをとおして自分がみている他人像を逐次修正していって、付き合い方もその修正にあわせてアレンジメントしていけるものだからだ。
ところが人生がこなれていない人は、ありのままの他人と自分がみている他人のギャップが大きすぎて絶交してしまったり、付き合いをとおして自分がみている他人像を逐次修正させていくのがうまくなかったりする。相手と付き合いが始まった段階で過剰評価していれば、恋の始まりは大恋愛のように感じられるかもしれないが、そのぶん相手のちょっとした仕草にも大きく幻滅しやすくもなる。恋に限ったことではないが、他人への評価を過剰にしたり過小にしたりすれば人間関係はおかしくなりやすい。ところが人生がこなれていない人は人付き合い、特に恋のような思い入れの激しくなりやすい人付き合いに際して他人への評価を過剰に振ってしまいやすい。そのような恋は、交際相手が過剰に素晴らしくみえるから燃えるように始まる反面、その過剰に素晴らしくみえる部分は幻想と思い込みによって成り立っているから早晩崩壊する。自動的に、必ず、崩壊する。
人生のはじめの頃の恋は、不慣れなぶん、こうした過剰な期待と自動的な崩壊を経験しやすいかもしれない。たとえば十代の人が蛙化現象を体験するのはそんなにおかしなこととは思えない。そうやって過剰な期待と幻滅を繰り返しながら、私たちは恋に慣れていく。いや、友達付き合いや先輩後輩だって同様だ。素晴らしいという思い込みから始まった人間関係が幻滅によって終わりやすいことを知るにつれて、人は、人間関係のスタートの切り方や進行の仕方、そして本質的に不可視である他人全般についてのアセスメントの仕方を少しずつ学び、巧みになっていく。もちろん、そうした他人全般への見方の最初期は(親子に代表される)養育者との関係によって形成されていくだろう。でもそれだけじゃない。幼児期、学齢期、思春期、壮年期にもそうした機会は無数にあり、人は生涯にわたって人間関係と、他人全般についてのアセスメントの仕方を修正していく。そういう成長過程のある時期に蛙化現象が起こるのは、そんなものじゃないかなと思う。
ただ、世の中には幾らかの割合で蛙化現象がいつまでたっても起こり続ける人もいる。他人と付き合うにあたって、はじめはいつも過大な期待にもとづいて相手のことをみて、相手を理想視し、やがて激しい幻滅と不満に到達する、そのような人にはなんらかの問題があるだろう。その筋の言葉を借りるなら「境界性パーソナリティ障害に似ている」と言えるかもしれない。そういう人の人生はジェットコースターのように激しい起伏があろうし、人間関係は基本的に長続きしない。三十代、四十代になってもなお蛙化現象が起こりやすい・起こり続ける人がいるとしたら、確かにそれは問題視するに値する。それって人間関係や他人全般についてのアセスメントが進歩していないってことだろうから。
どういう理由で人間関係や他人全般についてのアセスメントの進歩が止まっているのか、その際、何が病理性として抽出可能なのかはケースバイケースだろう。ともあれ、持続可能で融通のきく対人関係は難しい。しかしそうでない若い世代の人については、蛙化現象に相当する幻滅を経験することは、それほど異常ではないと私はみている。男女交際でも友情でも先輩後輩でも、特に若いうちは幻想を持ったり理想化しすぎたりすることがあるし、そうした幻想が後日の幻滅を招くことは思春期あるあるだ。だから蛙化現象については「まあそれも経験だよね、でも次は同じ轍は踏まないように工夫してね」と思う気持ちが優勢だ。
ここまでが「蛙化現象」についての私のだいたいの見解です。
以下、自己愛という単語に沿って少し書いてますが、常連さん以外は読みたがらない気がするので有料記事領域にしまっておきます。
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