シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「大人だって生きていてうれしい」とちゃんと伝わっているのか

 
 子どもが「将来やりたい職業」や「大きくなったらやりたいこと」を問われるのをしばしば目にする。
 
 将来を聞かれても、社会にどんな仕事が存在し、どれぐらい遣り甲斐があるのかを子どもはあまり知らない。いや、大人だって案外知らなかったりするのだから、きちんと答えるのは難しそうだ。
 
 うちの子どもの場合、はじめは日常生活やテレビで見かけた職業を「将来やりたいこと」として答えていた。しかし少しモノがわかるようになってからは「テンプレを書こうと思えば書けるが実際にはわからない」と答えるようになった。
  
 精神科医として働く私の姿は、子どもの目には「将来やりたい職業」とうつらないらしい。親が働いている真っ最中の様子を知る機会が限られているのだから、無理もないことだろう。そのくせ帰宅した後の疲れた姿はよく見知っている。
 
 これは他の職業にも言えることで、子どもは大人たちの働く様子を片鱗しか知ることができない。駅員も、プログラマも、Youtuberも、子どもは目に付く側面しか知らないし、知りようもない。
 
 職業の楽しそうな部分だけに目を向けて「Youtuberになりたい」と志望するのは、単純だがわかりやすい。しかし子どもがちょっと単純ではなくなった後、つまり、職業は楽しそうな部分だけで判断できないと理解できるようになった後は、Youtuberはもちろん、ほかのありとあらゆる職業も謎めいていて、なりたいと思うに値するものなのか、自分に適性があるものなのか、とたんにわからなくなる。
 
 「自分たちが見ている職業は、どれもその職業全体のほんの一部分でしかない」と理解できるようになった子どもが、その不可視性を踏まえたうえで「将来やりたい職業がわからない」と答えるのは健全でまっとうなことだろう。
 
 子どもは学校へ、大人は職場へ通うようになって久しい。大人と子どもの日常が、時間的・空間的に切り分けられるようになって久しいということでもある。にも拘わらず、大人が子どもにこうやって尋ねる慣習が続いているものだから、子どもはテンプレ的な回答を身に付けていく。もしかしたら、子どもにテンプレ的回答をつくらせること自体、学習のうちなのかもしれないが。
 
 

せめて「大人だって生きていてうれしい」と伝わって欲しい

 
 ところで、親をはじめとする大人たちの姿をみて、今の子どもは「大人だって生きていてうれしい」というメッセージを受け取っているだろうか。
 
 我が身を振り返る。
 まあ……疲れている日があっても、生きていてうれしいという感じに子どもの前で振る舞えているつもりではある。ただ、実際そのように伝わっているのかは疑わしい。
 
 「大人ってのは大変なことばかりで、子どものほうが楽しいんじゃないか」……と、子どもが思っているようにみえる。
 
 私が子どもだった頃、世間には「成熟拒否する子ども」というフレーズがあった。教育研究者や精神科医もそういうことを真面目に論じていたと記憶している。よその子どもはどうだったかは知らないが、少なくとも私は、大人になりたくないと実際に思っていた。
 
 そんな私の子どもだから、遺伝的に似たようなことを考えやすいのかもしれない。しかし。
 
 しかしいまどきの働く大人・家で過ごす大人・メディアにうつる大人は、いまどきの子どもからみて実際楽しそうにみえるものだろうか? 「大人だって生きていてうれしい」という背中を暗に示せているだろうか。重荷にあえぎ、酒や娯楽でどうにか日々の苦痛をしのいでいる存在にみえたりしないだろうか。
 
 ニコニコしている大人、働き甲斐を口にする大人の姿は、メディア上にはそれなり目に付くものではある。他方、親が疲れてかえってくるさまや、満員電車に押されるさまも目に入ってくる。そうやって大人の陰と陽、乖離した姿を垣間見た総体として、世の子どもたちはどのようなメッセージを受け取り、何を考えて過ごすのだろうか。
 

 
 内閣府「平成26年 子ども白書」所収の「今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~」を眺めると、諸外国の子どもに比べ、日本の子どもは挑戦心が乏しく、自分に満足しておらず、消極的で、憂鬱で、未来に希望を持てていない、とされている。
 
 この統計結果を額面通りに受け取るなら、日本の子どもは諸外国の子どもに比べてネガティブに世界をイメージしていることになるし、そのイメージの一端は、大人たちの背中をみて学んだものでもあろう。
 
 先にも触れたように、子どもが実際に目にする「大人たちと、大人たちの営む社会」は、大人と子供が空間的・時間的に切り分けられたうえで垣間見るものだから、これは大人自身の問題であると同時に、大人と子どもの接点の問題、もったいつけた言い方をすれば(空間も含めた)メディアの問題でもある。
 
 「大人だって生きていてうれしい」というメッセージは、今、どこでどれだけ子どもに伝わっているのだろう? 伝えようとしていても伝わっていないとしたら、少し悲しいし、きちんと伝わるよう、工夫をしなければと思ったりする。