シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

運命と自由意志のアマルガム。

 
 http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2012/11/14/155049
 
 リンク先を読みながら、運命、を思った。
 
 噂の小学生・はるかぜちゃんに限らず、現代の子ども達は、皆、21世紀の新しい環境に曝され生きている。生まれた時からインターネットがあり、三歳、四歳の頃からスマートフォンをいじり、小学生時代からアカウントやパスワードといった概念に親しんで育つのだろう。彼/彼女らのネットライフは、心無い大人達によるコミットメントや、キュウべぇのようなシステムからの誘惑に満ちたものになるとも推測される。
 
 私個人は、はるかぜちゃんという人物の情況は、結果としてひとつの社会実験になっている、と思って眺めている*1
 
 第二次性徴にも到達しない年頃から、有史以来あり得なかったほどの不特定多数の大人にまなざされ、好悪様々のコメントを投げかけられた子どもが、どのように成長していくのか?それとも心理的な偏りを余儀なくされるのか?私は、この公開モデルケースともいうべきはるかぜちゃんの“なかのひと”の未来が望ましいものであって欲しいと願う。将来のことは誰にも分からない。だが、はるかぜちゃんという飛行機は離陸してしまっているらしいので、外野の一人としては、墜落せずに飛び続けるなり穏やかに着陸するなりして欲しいと祈るほかない。
 
 ところで、インターネット use も含めた子どもの行動選択というやつは、どこまで1.自由選択で、どこまで2.親の意志で、どこまで3.システムや社会環境に因るものだろうか。
 
 短期的に眺めるなら、子どもが親に強いられることなく選んだ行動選択は、すべて子どもの自由選択の所産、ということになる。けれども少し時間軸を長めにとって眺めると、子どもの自由選択は、親から受け継いだ遺伝的傾向・親が用意した生育環境からの影響・親の欲求といったものの色彩を強く帯びている筈である。保育園や小学校の友達からの影響や、メディアからの影響も無視できない。
 
 ということは、子ども自身の自由意志とは一体何なのか?その意思決定の傾向を左右する因子が、意思決定の前段階に彼/彼女に刷り込まれた材料でもってつくられているとしたら、これは自由というより、ほとんど運命の類ではないのか?
 
 これは、子どもに限った話ではない。
 
 現代社会では、成人すれば一応自由意志を持った individual とみなされる、ことになっている。しかし現実の大人達だって、どこまで自由でどこまで運命なのか区別しきれない、自由と運命のアマルガムのような生を生きている。
 
 もし、暮らしてきた環境・社会システム・時代といった、娑婆の大河の波間に漂う小さなボートにも自由意志があるというのなら……確かに私達は自由……だろう。いや、自由である。少なくとも、自分の乗っているボートを動かせる範囲で動かすぐらいの自由はあるかもしれない――たとえそのボートの船底に、業という名のフジツボがびっしり張り付いていたとしても。
 
 しかし現実を省みるに、大の大人でさえ、自分の乗った小さなボートを自由に操れているとは言いがたい。ある者はソーシャルゲームに大金を費やし、ある者はインターネットで炎上し、ある者は一時の快感のために大切な人間関係を喪い、後悔に打ちひしがれたりもする。
 
 それも自由である。自由かもしれない。だが、ソーシャルゲームに出遭うということ・そのソーシャルゲームに免疫を持たずに育ってしまったということ・ソーシャルゲームに大金をつぎ込むシステムが与えられていたということは、やはり運命ではないか。
 
 同様に。Mさんは自由意志によってコンビニ店長になるかもしれないし、Aさんは自由意志によって漫画家になるのかもしれないし、Hさんは自由意志によって放送作家になるのかもしれない。それらは全て、尊い意志決定の産物であると私は認める。と同時に、彼らがそういう職業に就いた背景には、無数の前段階なり環境因子なりが準備されていた筈で、その無数の前段階や環境因子を度外視し、すべて自由意志の産物であるかのように錯覚するわけにもいかない。
 
 私は仏教が好きなので、こういう自由意志と運命とのアマルガムについて、「因縁」という考えで納得つけようとする。以下に、天台宗の公式ページから抜粋してみる。
 
 天台宗 > 天台宗について > 法話集 > 果報とは
 

 あらゆるものが成り立つには、必ずそうあらしめる要因があり、これを因縁と言います。因とは、ものが成立する直接的原因、縁とは、それを育てるさまざまな条件のことです。例えば、花が咲くには、種がなければなりません。それが花の因です。しかし、種があっただけでは、花は咲きません。土や水、光や気候、その他さまざま、花を咲かせるのにふさわしい条件が整った時に咲くのです。因と縁が実ると、それに合った結果が出ます。その結果のことを果報と言います。

http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=53

 コンビニ店長になりたい・漫画家になりたい・放送作家になりたいと思っても、意志という名の種があっただけでは花は咲かない。その花を咲かせるに相応しい条件が揃ってはじめて、花は咲くのだろう。
 

 さて、因縁の結果である果報は、必ずあらわれます。しかし、何時かは分かりません。花の場合は、時期が決まっていますので、比較的簡単に結果を知ることができますが、人間の行いに関しては、いろいろな条件が絡(から)んでいますので、いつ結果があらわれるか明らかではありません。何十年たっても兆候(ちょうこう)すらあらわれないことだってあります。したがって、思いも寄らないいい結果に恵まれたとしたならば、「運が良かった」と思うことでしょう。
(中略)
果報なんか忘れて日々の行いに勤(いそ)しむ心掛けが大切です。幸運は偶然なのだから、何もしなくても巡り合えると言う考えは、仏教的ではありません。 

http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=53

 ただし、いつなんどき花が咲き、実が実るかは本当は誰にも分からない。また、ツンドラの大地に種を植えても小麦が実らないように、相応しくない環境に蒔いた努力は、実を結ばず腐っていくかもしれない。とはいえ、総論としては、何がいつ幸いし、果報に転じるかは分からないので、とにかく自分の知恵の及ぶ範囲で「人事を尽くして天命を待つ」しか無いのだろう、とも思う。
 
 因縁とは「運命にただ流されるしかない」的なものではない。森羅万象の原因/結果という、人間には運命としか捉えようのない流れ*2のなかで、それでも少しでも望ましい方向へと自分の意志や行いを積み重ね、少しでもマシな方向へと進んでいきたいものですね、という姿勢なのだろう;少なくとも私はそんな感じに解釈している。
 
 現在のはるかぜちゃんにしても、現在のはるかぜちゃんとして活動している背景には、それ相応の因縁があったことだろう。今、花を咲かせているはるかぜちゃんには、本人の意志という種があっただけでなく、その種を(現在の)花へと咲かせる諸条件が揃っていたのだろう。そして将来、どんな実が実るのかは現在までの積み重ねによって左右される。当人や周囲の大人は、とにかくも良かれと思う行いを日々積み重ね、少しでも良い実を実らせるべく努めているのだろう。願わくは、好ましい未来を。
 
 同じく、現在各方面で活躍している人達にしても、そうやって活動している背景には、それ相応の因縁があったのだろうし、今まさに花を咲かせようと頑張っている人達・まだ双葉が開いたばかりの人達も、現在の境遇のなかで、良かれと思う行いを粛々と積み重ねていくほかないのだろうと思う。皆、それぞれの事情や過去を抱えながら、現在を積み重ね、未来へと歩き続けていく。それは大人も子どもも同じだろう。
 
 もちろん、世の中には「運命ですね」で済ませるわけにはいかない理不尽もたくさんある。例えば、19世紀末のイギリスにおいて、裕福ではない家の子どもが炭鉱労働に従事するのは半ば「運命」だった。けれども、そうした「運命」が非常識になっていったように、ある時代・ある共同体・ある個人において「運命」とみなされていた理不尽が、多くの人達の尽力によって「運命」ではなくなっていく可能性は残されている。仮に、自分達が生きている間には果報が訪れず、自分達の世代の蒔いた種が実らない場合にも、後の時代に咲く花の肥やしになることがあるかもしれない。
 
 だから果報に焦れることなく、ただ、日々の行いに勤しむほかない、と思う。そしてその日々の行いに関しては、個人の自由意志が介在する余地があるし、個人の知恵が試される余地もある。できるだけ聡くあれ、できるだけ勤めてあれ。この娑婆世界には、奇跡も魔法もないのだから。
 

*1:もちろんこれは、心理学者が自ら実験してみせることの許されないような、そういう社会実験の類である

*2:その、森羅万象の原因/結果の因果関係を観じることができるのは、如来や帝釈天といった、形而上の存在だけ、ということになる