シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

神経症的葛藤についての殴り書き

 

  

ところが、奇妙なことに、心理学的、医学的観点に立って、神経症とは何であるのかをのべるのは、決して容易ではないのである。とにかく、表面に現れたものだけ調べていたのでは、すべての神経症に共通する諸特徴を発見するのはむずかしい。病的恐怖とか、抑うつ状態とか、身体の機能障害など、症状を基準に使うことはむろんできない。症状が全く存在しないばあいもあるからである。制止は(後に述べるような理由で)何らかの形でつねに存在するが、あまりに微妙すぎたり、よくかくされていて、補油面だけの観察では認められないことがある。性的関係の障害も含めて、他人との関係の障害を、表面に現れたものだけから判断しようとすると、全く同じ困難が生ずる。他人との関係の障害は必ずつねに存在するが、それを見分けるのが非常に難しいばあいがある。しかし、人格構造についての詳しい知識が無くとも、すべての神経症の中に認められる特徴が、二つある。それは、反応におけるある種の硬直性と、潜在能力と実際の業績との間の不一致である。
 ――ホーナイ全集第二巻『現代の神経症的人格』 吾妻洋訳 誠信書房、1973より

 
 精神分析的なものの考え方に対しては色々な批判があり、あって然るべきだが、「精神分析はAもnon-Aも神経症だと指摘する。だからダメだ」という批判は的外れな部類に入る。というより、ほとんど誤解に近い。コミュニケーション場面のようなA~non-Aまで幅のある態度を取り得る状況下で、きまってどちらか両極端な態度に終始する状態や、両極端のはざまで融通が利かせられない状態こそ、神経症的であるというのに。

 ある対人関係の瞬間にAやnon-Aな素振りがあったとしても、それだけでは神経症だと言うには当たらない。A~non-Aの数直線を、状況や相手に合わせていつでも変更できる人は、(少なくともその分野では)神経症的とは言えない。Aばかりかnon-Aばかりか、あるいは白か黒かへの過剰な拘りや融通の利かなさのほうが、態度や素振りのひとつひとつよりも神経症的徴候としてはあてにできる。あるいはAからnon-Aへの極端な跳躍、白か黒しか想像できず、あたかも灰色の状態など存在しないかのように振る舞う状態も*1

 だから「精神分析はAもnon-Aも神経症だと指摘する。だからダメだ」という思考態度そのものが、ときには神経症的だ。控え目に言っても、幅広いグラデーションが想定されるにも関わらずAとnon-Aしか念頭に置けなくなっているような質問者には、神経症的というレトリックがよく似合う。Aとnon-Aの間のグラデーションを想定できないこと、中間的な態度や思考を選択できないこと、そして両極端を揺れ動くこと――これらは多分に神経症的であり、古典的なエディプス神経症にも、その後のパーソナリティ障害的な性格傾向*2にも共通している特徴なのだから。凝視してみる必要がある。
 
 Aとnon-Aの間を揺れ動いてばかりの人、Aとnon-Aの両極端しか想定できない人は、もちろん社会適応に特有の歪みというか、偏りが生じやすい。世界や人間はもっと曖昧にできている。そのことに気づき、そのことに納得し、そのとおりに振る舞えるようになったら、神経症は「治る」。もちろん、そこまでの道のりが短い人もいれば、果てしなく長い人もいるが。
 

*1:もちろん、陽性か陰性かで十分に構わない一部の科学的領域などでは、そのように振る舞ったからといって神経症的云々ということはない。問題は、対人関係のような曖昧さを含む領域でこれが現れてくることだ

*2:ここでは特に境界パーソナリティ障害、自己愛パーソナリティ障害、依存性パーソナリティ障害、回避性パーソナリティ障害、などに近い性格傾向を指している