「夫婦に満点を求める社会」の無理ゲー感 - シロクマの屑籠
こちらの記事のさらに元記事の筆者さんから、はてなブックマーク上で、お返事を頂きました。これについて、日頃から思っていることをお伝えしたい気がしたので、以下に記してみます。
元記事の著者です。シロクマさんの趣旨には自分も賛成で、だからこそ「精神科医やスクールカウンセラーなど外部の専門家に相談を」と元記事でも書いたのですが、そこのところは伝わらなかったようで残念です。
http://b.hatena.ne.jp/ganbarezinrui/20150515#bookmark-251601028
と書いてらっしゃいますが、それも含めて、なんだかモヤモヤしているんですよ。このあたりについて補足……というより、まだ書き足りないので、ちょっと補足します。
「家庭外の専門家に相談を」とganbarezinruiさんは書いていらっしゃいます。でも、この手の「だから外部の専門家に相談を」的なソリューションで本当にいいんですか?という疑問がいつも私の頭の中に渦巻いておりまして。
外部の専門家は、核家族やひとり親の子育てに知識やソリューションを授けてくれる可能性があります。だから、多くの人は――私だってそうだし、他の精神科医や教育関係者もまたそうでしょう――専門家に相談をとか、どこそこに受診を、などと口にするわけです。もちろんそれ自体が悪いことだとは思いません。
一方、例えば精神科の現場をみている限りでは、本当に困っている人って、あんまり相談にはいらっしゃらないんですよね。本当に困っている人ほど、種々の事情で専門機関にアクセスしない(というよりできない)。あるいは専門機関にアクセスしたとしても、その専門家による助言を生かしにくかったりします。精神科の場合は、困り具合が一定レベルを超えると措置通報や措置入院といったちょっと特殊な介入が発生することもありますが、これらはあくまで緊急回避的な措置で、普通はそのようにはなりません。
私は、「外部の専門家に相談を」ってのは、相談する主体者の判断力の高低、時間の多寡、経済力の高低にも左右されるものだと思っています。そして本当に困っている人ほど、判断力、時間、経済力といった、外部の専門家に相談し有効な結果を導くためのリソースを欠いているとも感じるんですよ。なんらかの問題が立ち上がってきた時に、適切な専門家を選びアドバイスを咀嚼するのも、専門家に会いに行く甲斐性を発揮するのも、専門家に対価を支払うのも、個人の資質やリソースによって大きく左右されることです。もちろん利口で暇でお金持ちな人には「外部の専門家に相談を」は万能の解決策たりえますが、そんな人は端からあまり困ってないような気がします。本当に困っている人ほど、実際は「外部の専門家に相談を」というアドバイスをスルーしやすく、スルーしなかったとしても空転させやすいじゃないですか。
この「外部の専門家に相談を」系のアドバイスってのは、煎じ詰めれば「おまえ、適切にサービスを買え」に翻訳できちゃうと思うんですよ、内実としては。
専門家に相談するという行為もまた、この個人主義的な契約社会のなかでは、個人の判断に基づいてサービスを購入する行為にほかなりません。少なくとも、似たような手続きで申し込むものではあります。
専門家とは、「選んで」「買う」ものです。公費によって無償扱いされている場合でさえ、手間暇や注意は払わなければならないし、自分の意に添わなければ選ばれ続けません。どんな瞬間も、主体者の選択と判断に則ったかたちで「選択」と「契約」が行われているんですよ――精神科医Aが発達障害論に沿ってアドバイスしているのを気に入らないと思った人は、うつ病ですねと語る精神科医Bをドクターショッピングするかもしれないし、良くない霊魂が憑いていると説く祈祷師Cのところに行ってしまうかもしれません。
選ばれなかった専門家のアドバイスは、耳には入らず心にも届きません。
以前私は、勉強できる人しか便利に暮らせない社会 - シロクマの屑籠という記事を書いたことがあります。
サービスの選択を適切に行うためには「啓蒙あるのみ!」って考え方の浸透したこの社会は、勉強ができる人、判断力をはじめとするリソースに富んだ人にしか優しくないのではないでしょうか。「外部の専門家に相談を」というアドバイスもそうですよね。高学歴で情緒的にも落ち着いた人にはバッチリ有効ですが、悟性や情緒に恵まれない境遇にある人、コンプレックスが色々捻じ曲げている人には、どうしても届きにくい。
このあたりって、「対価を払ってサービスを買う」っていう契約社会の論理の不可避的なロジックと表裏一体で、契約社会のお世話になっている私としては(恩知らずにも)悪口ばかり言うのもなんなんですが、でも、中世の終わり〜ルネサンスの商業革命を経て契約社会の論理が整備・浸透していった副作用みたいなものじゃないかとつい思ってしまうんですよね。
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)
- 作者: テンニエス,杉之原寿一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957/11/25
- メディア: 文庫
- クリック: 20回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
ゲマインシャフトの論理からゲゼルシャフトの論理への社会転換は、経済上、必要だったのでしょう。特に、商売をどんどんやってお金儲けをしたいと思っていた当時の新興階級にとって、必須だったはずです。でも、そうした移り変わりは、恵まれない環境で子育てする家庭の事情を忖度したものだったのでしょうか?*1
まあ、契約社会の論理が徹底していったとしても、お金をたんまり持っていて、判断力にも自信のある人達は、怖い者無しだったとは思いますよ。そういう人達こそ「外部の専門家に相談を」メソッドで、何とでもなっちゃいますからね。乳母や家庭教師を雇い、子育てを丸ごとアウトソースする事もできましたし、寄宿舎付きの立派な学校に任せてしまうことだってできたわけですから。お金と判断力がある人は、契約社会のなかで最善のサービスを選択できるでしょう。しかしそうだからこそ、契約社会の推進者な人達って、たぶんゲマインシャフトのお蔭でどうにか子育てが回るぐらいの家庭の事情なんてロクに忖度してないんじゃないかと疑っているんですよ。教育者やカウンセラーにしたって、「サービスを買ってくれる人」のほうを向きながら発展してきた歴史が連なってきましたし。
だから私は、「外部の専門家に相談を」っていうお決まりのアドバイスに、(特に子育ての分野では)不信感を持っているんだと自分のことを思っています。だから、つい、そういうアドバイスを見かけても「ああ、またか……」って思っちゃうんですよね。臨床上は、そのとおりの言葉を吐いていても、です。
私は私自身のジェンダー的なものの取り扱いや、釣りの仕方、木の登り方、そのほか多くの技能や価値観を地域社会の年長者達から教わりました。それで十分だったかは疑問ですし、それが唯一真正な西洋社会の道理に則ったものなのかも疑問です。しかし、さしあたり私という人間の幼児期や学童期を支えていたのは、両親だけでなく、実にたくさんの人達――地元のゲマインシャフトな環境のなかにいた人達――だったことを思い出すと、契約社会の論理に則ったソリューションが唯一解なのか、つい、疑問を持ってしまうのです。
[関連]:同性から教わる機会の多い男の子/教わる機会の少ない男の子 - シロクマの屑籠
それでも専門家に頼らなければならないところだらけ
これだけ書いておいてなんですが、外部の専門家に頼らなければならない場面は、とても増えていると思います。
現代社会では、誰もが何かの専門家です。医者はもとより、コンビニの店長もサラリーマンも土木作業員も、みな自分の仕事を専攻し、その分野のエキスパートになっています。しかし裏を返せば、自分の専門分野以外では、誰だって素人なんですよね。いわゆる“先生”と呼ばれる職業の人達にしても、子育てが始まっただとか、親の介護が必要になったとか、そういった事が起こるたび、専門家の力を借りなければ難しい世の中にもなっています。
- 作者: ウルリヒベック,Ulrich Beck,東廉,伊藤美登里
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 97回
- この商品を含むブログ (85件) を見る
上の本の話などは、膨らませればスケールの大きな話になるのでしょうが、スケールの小さい間近な問題として考えても他人事とは思えません。私達は、専攻領域では誰でも専門家たりえるけれども、そうであるからこそ、他の領域では専門家たりえません。こういう状況のなかで、ゲマインシャフト的な小さな共同体のなかで、本当にあらゆる事象を適切に判断できるのかって言ったら、答えはたぶんNoでしょう。
だから「外部の専門家に相談を」がイマイチだからといって、私が体験したようなゲマインシャフトに回帰すれば問題が解決するとは、私も考えていません。そんな事を強行したら、しがらみの問題を度外視したとしても、沢山の誤謬が生まれてくることでしょう。
もう、専門家に頼らなくても日常生活や子育てが滞りなく遂行できる時代は来ないのかもしれませんね。
じゃあ、具体的にどうすればいいんでしょう?
さしあたり重要なのは「個々の養育者に積極的に声掛けし」「あちらから相談がある前に動く」「いつでも相談しやすいように体制を整える」といったところでしょうか。「外部の専門家に相談を」の弱点をカバーするには有効な方法です。実際、各自治体の動きをみていると、こういう事にかなりエネルギーを割いていると感じます。必要なサービスや助言を拒否してやまない人達を相手に、怒鳴られながら、頭を下げながら取り組んでいる人達には頭があがりません。
ただ、これだけで良いのか、これがベストなのか、私にはよくわかりません。昔は「親は無くても子は育つ」と言われていました。そのかわり「七つ前までは神のうち」でもあったわけですが。
子育ての歴史は、社会変化を主導する人達と、その周辺の富貴な人達によって水路づけられてきました。それで良かった部分も多いでしょうけれども、いただけない部分もあったかと思います。私は、そのあたりのいきさつを詳しく知りたくて、数年前から個人的に色々と調べてまわっていますが、まだまだ調べ足りません。前回と今回は、ganbarezinruiさんの記事に刺激されて、頭のなかのモヤモヤしたものを吐きだしてしまいました。お騒がせいたしました。
*1:いや、契約社会の論理が透徹していく途上は、さきに述べたような副作用なんて意に介さなくて良かったのかもしれません。いろいろと曖昧で、ゲマインシャフトの名残が巷に残っていた端境期には。でも、ゲゼルシャフトの論理が透徹した後の子育てがどのようなものになるのかなんて、昔の偉い人達は先回りして論議していましたっけ?