人を好きになる、技術。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
「人を好きになる技術。」
“技術”という言葉をあてがって良いのかわからないけど、大切なことが書いているように思った。
幸福を追いかけるにあたって、他人に認められたがる・好かれたがること自体は間違っていない。承認欲求を充たして幸福感を感じ取れる主体は、どこまでいっても自分だけだからだ。けれども、その発想だけで幸福になれるかといったら……なかなかそうもいかない。
「他人から承認されたいと思う者は、どこかで他人を承認できていなければならない。」
承認欲求には「承認は天下のまわりもの」みたいなところがある。多く与える者には承認が集まりやすいが、ちっとも与えない者には承認がなかなか集まらない。ためしに、身の周りにいる承認上手な人達――周囲からよく認められ、承認欲求に飢えていなさそうな顔をしている彼/彼女のことだ――を思い出してみて欲しい。そのような人達は、周囲から認めてもらったり肯定されたりしているのと同じかそれ以上に、周囲の多くの人達を(自然なかたちで)認めたり肯定したりしているはずだ。
ただし、この“承認のお返し”を計算ずくでやろうとしてもうまくいかない。
頭で考えただけの“承認のお返し”は、なかなか相手の心を浸透しない。上辺だけの賞賛はすぐ見抜かれるし、心のどこかで見くびっている相手にはまず届かない。対して、相手の心に浸透する“承認のお返し”には、なにかしら、凄いと感じた・リスペクトを払いたくなった・ありがたいと思った etc ……といった本物の肯定的感情が伴っている。
だから、他人に対して肯定的感情を感じられるか否かは、承認欲求を求めてやまない人間にも死活問題となる。他人を好きになれる頻度が高い人は、それだけ相手の心に“承認のお返し”が届く確率が高いのだから、お互いを承認しあうような人間関係も作りやすい。そして他人をなかなか好きになれなかったり、すぐに嫌悪したり見下したりしてしまう人は、お互いを承認しあうような人間関係に恵まれにくい。
いわゆる「モテる人」のたぐいも、自分自身が褒められるスペシャリストである以前に、他人の美質・面白さ・感心点をたくさん見出すスペシャリストなのかもしれない。他人に沢山の美質や面白味を見出せる人間は、そのぶん他人にも好かれやすく、人間関係をスタートするきっかけにも人間関係を維持する潤滑油にも恵まれるのだろう。
そんなわけで、「認められたい」「承認欲求が欲しい」とお嘆きの諸氏は、自分が認められたり褒められたりするための技芸に没頭するばかりでなく、他人の美質や妙味に気づいて好きになるための技芸や、他人を認めるノウハウも磨いたほうが良いと思う。もし、本心では他人を認めているのに“練習”が足りなくて上手く表現できていないのだとしたら……勿体ないことだ!せっかく他人に好意を抱いていても、かたちにしなければ伝わらない。