シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

土人というより「土人的な」。ヤンキーというより「ヤンキー的な」。

 
 http://marginalsoldier.blogspot.jp/2013/12/blog-post_25.html
 
 リンク先の文章は、日本の地方の生活から目標が失われ、刹那的な欲求によって衝き動かされる生活が蔓延しつつあると指摘している。正午さんは厳しいレトリックを用いてらっしゃるが、論旨そのものはそんなに間違っているとは思えなかった。
 
 地方で暮らす多くの人々、いや、地方民に限ったことではないけれど、目標や希望や理念を持たぬまま、3cm手前の欲求をトレースする毎日を積み上げ、よしとしている人は多いと思う。若手の社会学者さんが書いた「現代の若者の幸福」についての文章を読んでいても、なるほど皆さん今を大切に、ジモトを大切に頑張ってらっしゃるんですねと思う反面、そうした若者達がなんらかの展望や理念を持っているかといったら、そんなものは持っていないような気がした。
 
 希望や理念や展望が無いからといって、なんら考えが無いというわけでもない。損得を見極め、快楽や利得を効率的に集めようとする計算は、ほとんどの人には具わっているだろう。成否はさておき、そういう意図はあるようにみえる。
 
 それと「若者達が展望や理念を持っていない」といって若者を叩くのも筋違いだろう。もし、若者が展望や理念を持っていないことが批判に値するような出来事だとしたら、順序から言って、その若者の先輩格の人々や、その若者を育て上げてきた人々がまず批判されなければならない。子どもや年少者は、成人や年長者を見て学ぶ――若い衆に展望も理念も示さず、ただモノを買い、消費さえしていればオーケーだと示し続けてきた世代には、「今時の若者が展望や理念を持っていない」などと言う資格は無かろう*1
 
 ともあれ、目標や希望や理念といった「何のために」を欠いたまま、とにかく欲を充たしておこう、得をしておこう、という発想が先行している人はとても多いと感じる。というかそんな人間ばかりじゃないか。『北斗の拳』で言うなら、種籾に未来を託して死んだ爺さんよりも、ヒャッハーな連中に近い人間の多い時代がやってきたというか。相応の知的訓練を受けているであろう人間、未来を展望しなければならない立場の人間でさえ、展望するという行為そのものを忌避しているケースは案外多いようにみえる。
 
 そうした「何のために」の希薄化は、リンク先で“土人”と評されている人々だけの問題ではない。例えばSNS、例えばブログ、例えばニコニコ生放送。そこには、人気を集めて名声を得たい、承認欲求を充たしたい、アフィリエイトを稼ぎたい、といった欲が渦巻いている。私は、欲があること自体はいけないとは思わない。しかし、なんのために名声を得たいのか?承認欲求を充たしたハートで何を暖めたいのか?何をやるために“有名”になりたいのか?
 
 「アフィリエイト以上に金銭を稼げる効率的手段を持ち合わせていない」人の場合は、まだわかる。シンプルで譲れない目標がそこにあるからだ。しかし、twitterの被followers数に一喜一憂している人、ブログのPVを渇望する人、視聴者数やコメントを気にしてやまないニコ生主……といった人々の過半数が、飢えと闘うためにアフィリエイトに賭けているわけではあるまい。
 
 そこには欲がある。欲があること自体はよろしい。だが、無目的に欲求充足の拡大再生産だけを追いかけるのは、後先も考えずに餌を食らって増殖し、やがて自分自身を養いきれなくなって共食いせずにいられなくなるアメーバやゾウリムシのように単純で、無意味で、考えようによってはニヒリスティックなことではないか。
 
 人間は欲を抱き、その欲を叶えようとするプロセスのなかで技能を磨いたり、ステータスやアイデンティティを手に入れたりする生き物だ。だから、特に思春期の人は少し欲深いぐらいがちょうど良いのだろう。しかし、「なんのために」を欠いたまま欲を追いかけるのは、目的と手段の顛倒を招きやすく、たぶん危険だ。
 
 

ヤンキーは絶滅し「ヤンキー的な。」が残ったのではないか

 
 そうじゃなくて。
 「ヤンキー」と「ヤンキー的な。」について頭を整理したかったのだった。
 
 ヤンキーは、かつての不良やツッパリや暴走族を総称する、90年代あたりから使われ始めたらしきスラングだった。昨今は、そのヤンキーがファスト風土の、ひいては日本のサブカルチャーの本流という扱いをする論者も多い。
 
 ただ、不良やツッパリが(首都圏のイイトコロを除く)ほとんどの中学校に棲息し、校内暴力が吹き荒れていた頃と、21世紀の、特に最近ヤンキーと呼ばれ得る文化表象は相応に違っていて、前者には対抗文化としてのフレーバーがあり、後者には対抗文化のフレーバーが欠けていると感じる。20世紀末は、そうした対抗文化的なヤンキーから、非-対抗文化的なヤンキーへの過渡期だったと思う。70年代とは違い、21世紀のヤンキーは大人になってもヤンキーをやめないし、親子揃ってヤンキースタイルというのも珍しくない。「何かが決定的に変わってしまった」。
 
 それどころか、ヤンキー的な文化表象がマジョリティのような顔をして流通している――流通しているのは、あくまでヤンキー的な文化表象を帯びたコンテンツであり、スタイルとして本気でヤンキーをやっている人は特別天然記念物並みに珍しいが。少なくとも、ファスト風土のラーメン屋や居酒屋を闊歩している人々の過半数が、マジでヤンキースタイルを貫いているわけではない。
 
 マイノリティとしてのヤンキー、ヤンキースタイルはもう死んでいるのではないか。サブカルやオタクが死んだ以上に深刻に、ヤンキーは死に、ヤンキー的なコンテンツ、ヤンキー的な記号、ヤンキー的なシミュラークルだけが残ったのではないか。
 
 かつての不良やツッパリには、卒業があった。ある時期までのヤンキーもそうで、一定以上の年齢になったら足を洗うのが普通で、足を洗った人間は、ともあれ成人としての自覚を持ち、地域の職場で活躍する人が多かったと思う。学校文化や警察権力には反抗的でも、地元と不良、地元とヤンキーは底で繋がっていて、サブカルやオタクには縁が無いタイプの成長や社会経験の道筋があったと思う。そういう意味では、ツッパリやヤンキーには(昔の地域社会でいう)若者組的なニュアンスがあった*2
 
 もちろん、そうした道筋はきれいごとばかりではなく、身を持ち崩すリスクや犯罪に接近するリスクを含んでいたし、家父長的システムにありがちな抑圧を前提としたものだから、戦後民主主義的な視点や個人主義的な視点からは批判の対象になるような何かだとは思う。そうしたシステムと人々を、欧米の近代的な価値観から俯瞰した時、あるいは(消費個人社会の申し子ともいうべき)オタクやサブカルの視点から眺めた時、「土人」というフレーズはしっくりするところかもしれない。しかし呼び名はさておき、そこにはローカルな成熟の道筋、エディプスコンプレックス的なテーマを土着的なかたちで折り合いづけ、社会化していくプロセスが存在していたはずだ。ところがヤンキーが死に、ヤンキー的な記号やシミュラークルだけが残った時、そうした土着の社会化プロセスは剥離したか、控えめに言っても変質してしまった。
 
 私は、リンク先の正午さんの言葉にだいたい同意しつつも、ヤンキーとヤンキー的なものの差異には注意を喚起してみたいと思った。そのような言及をしたくなったということは、私は案外ヤンキーが嫌いじゃないのかもしれない。これはちょっとした発見だった。調べられる範囲で調べてみようと思う。
 

*1:いや、個人レベルにおいては、そうした理念や展望を示してくれた人もいるだろうけれども、世代平均としてみた時、どうなんですか、という思いは拭えない

*2:より正確には「少なくとも地方の場合、若者組的なニュアンスを伴っていることが多かった」と言い直すべきか。