シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「キャラへの愛」を担保にクレジットカードから銭を引き出す錬金術

 
 先日、知人のA氏に久しぶりに会ったら、「ソーシャルゲームのキャラクターコンテンツに何万円も費やしている」ことを誇らしげに話していてビビった。曰く、「キャラへの愛」があるからいいんだそうな。愛、ねぇ…。
 
 しかし私の知っているA氏は、こんな人では無かった筈だ。「ネットゲームに何万円も費やすなんて馬鹿げている」「課金ゲーム産業はボッタクリだ」みたいなことを口泡を飛ばして非難していた筈である。そんなA氏が「キャラへの愛」と称してニコニコしながら銭を突っ込んでいるんだから、これはもう、魔術としか言いようがない。現代の錬金術だ!
 
 

「愛」のハッキングは工業化している

 
 それにしても、「愛」って、怖い。
 
 「愛は盲目」というけれど、要は心のセキュリティホールである。ふだん冷静で「悪い女に騙されるなんてまっぴらごめんだ」だと主張していた人が、「キャラへの愛」を口にした瞬間、だらしないほどカネをつぎ込んで、痛みを忘れて喜んでいるぐらいには、「愛」というのは目を曇らせるものらしい。なに?「レアアイテムはそれだけ利便性が高い」ですって?しかし、その金額で『Skyrim』*1が何本買えるのかを思い出すと、金銭感覚が麻痺している感は否めない。
 
 こうした「愛」のハッキングは、もちろん「キャラへの愛」が元祖ではなく、水商売周辺をはじめ、男女の間には数多繰り広げられてきたことだ。現在進行中の木嶋被告の裁判も、そのようなものかもしれない。しかし、「キャラへの愛」は生身の人間が身体を張ってハッキングをかけているわけでなく、一対一の人間関係のなかで起こっているわけでもないあたり、今風だな、とは思う。
 
 一度人気を博したキャラクターには、「キャラへの愛」を溢れんばかりに持ったファンが必ずくっついている。だから人気キャラクターのグッズであれば、通常の金銭レートを度外視した、言い値でも買ってくれるファンがいて、“期間限定”“描き下ろし”といった要素さえ抑えておけば盲滅法にガチャを回してくれる――「キャラへの愛」の名のもと、ファンの口座からたっぷりカネを引き落とすノウハウは既に確立しており、ルーティン化している。
 
 もうほとんど「愛」の大量生産、大量消費だ。いったん人気キャラクターを手中におさめたら*2「キャラへの愛」を前提として、言い値でグッズ・データを売りつければいい。「キャラへの愛」はファンの財布を緩ませる魔法を帯びているので、損得勘定は通常のソレとは次元が違うし、ファンの100人に1人しか買わないであろう酷い値付けのアイテムでも、ファンが100万人いれば1万個ぐらいは売り捌ける。しかも、男女の揉め事のような後腐れの心配も無い。
 
 「愛」は人の心に強い力を及ぼす。それを奇跡と呼ぶべきか、呪いと呼ぶべきかはともかく、「愛」によって心のセキュリティホールをこじ開け、カネを巻き上げる手法が工業化しているのは、恐ろしいことだなぁと思う。冒頭で紹介したA氏のように、普段、「愛」とは無縁の生活を送っているような人間でも、容易く「愛」に懐柔されることを思えば、その威力は猛烈である。メディア企業の錬金術師達は、「愛」の耐性が乏しい人を日夜探しているのだろうし、その手管手練を日々洗練させているに違いない。
 
 

「愛」が換金されていく…。

 
 統計によれば、今、この国の若者は、男女が結婚しない・恋愛すらしなくなっているという。
 
 一人の人間が一人の人間に夢中になるという「愛」は、少なくとも流行ではないようだ。一方で、メディア企業が創りあげたキャラクターに、不特定多数の人間が熱を上げるという「愛」はすこぶる好調で、キラキラした男の子や女の子の出てくるゲームのCMをゴールデンタイムにも見かけるようになった。
 
 本来、「愛」とは人と人との結びつける感情であった筈なのに、今では、その「愛」という感情が経済活動の駆動力として動員されている。本当に、それでいいのだろうか?
 
 個人においては、それは代償行為では無いのだろうか?
 人と人との結びつきが得られない代わりに、「キャラへの愛」にリソースを集中させれば、他の事に手が回らなくなる。のみならず、「キャラへの愛」は独占・所有という、愛のなかでも最も原初的な形態に留まってしまいやすいという問題もある。どれほど「キャラへの愛」に習熟しようが、対等な二者関係のノウハウは得られないし、自分とは異なった考えの人間と一緒に暮らす喜びに辿り着くこともない。ただ、キャラというアイコンに自分の欲求を投影し、キャラの愛玩を介して自己回収するナルシシズムがあるだけである。それだけで、構わないのだろうか。
 
 社会においては、「愛」という、本来、人と人とを結びつける駆動力となっていたエモーションが換金されている事態を喜んでいいのだろうか?現状を、「愛」が経済に喰われていると解釈すべきか、行き場を失った「愛」が換金されている、と解釈すべきか、私には分からない(両方の側面があるような気がする)が、とにかくも、人と人とを結びつける駆動力が、本来の機能とは異なったところに動員され、本来の機能を果たしていない点には注意が必要だと思う。
 
 「愛」というエモーションがキャラのほうを向いていて、そこにリソースが吸い込まれていくという事態は、とどのつまり、「愛」が人と人との結びつきに役だっていない・人と人との間に行き渡っていない、ということだ。これでは、天下のカネの回りは良くなっても、人と人との間の結びつきは弱くならざるを得ない。
 
 社会全体の「愛」のうち「キャラへの愛」の占めるウエイトが「人への愛」に比べて大きくなれば、必然的に、人と人との間の「愛」のウエイトは少なくなる。その事に思いを馳せると、「キャラへの愛」の台頭する社会は、あまり幸福そうに見えないし、人間関係に熟達しにくい、未熟な人間関係のはびこりやすい社会、という風に予感される。
 
 「キャラへの愛」を使った金儲けは、多少はあって良いと思うけれど、これが上手く行き過ぎてしまい、カモ相手にボロ儲け出来てしまう情況は、冷静に見れば、やっぱりお寒い情況だなぁと思う。人々の「愛」の終着駅がメディア企業の金庫室だなんて…。
 

*1:『Skyrim』:2011年に発売されたロールプレイングゲーム。発売されるや、瞬く間に1000万本以上を売り上げた。期間限定で一本3000円でストリーミング販売されていた時期があった。

*2:自分で人気キャラクターが創れない会社は、キャラの版権を借りてきてやるという手もある