タイトルには「思春期のベテラン→壮年期のルーキー」と書いたが、実際の日本の社会病理を考えるなら「壮年期のベテラン→老年期のルーキー」のほうが根の深い問題なのかもしれない。それはさておき。
社会の変化に伴って、人生の区切りや役割変化が曖昧になったのは事実だろう。しかし、本当に人生には区切りや役割変化が存在しないのだろうか?年齢によって社会の側から期待される役割が変化し、身体が緩やかに成長し緩やかに衰弱していく限りにおいて、人が同じライフスタイルに固執することは現代社会でもなお難しいようにみえる。極論なことを言うなら、小学5年生のライフスタイルとメンタリティのままで還暦を迎えるのは殆ど不可能だろうし、そこまでいかなくても、40歳を迎えても思春期のライフスタイルやメンタリティ続けるのは凡人にはいかにも難しい*1。
人は生物学的/社会的に、加齢していかなければならない存在であり、歳月はシューティングゲームのように強制スクロールで進行していく。ひとつの世代のベテランとしてあぐらをかいている境地から、次の世代のルーキーへとジャンプアップする際の“一瞬の宙ぶらりん感”は、まず避けられない。
・「児童期のベテラン→思春期のルーキー」
この移行期は、第二次性徴のはじまりや中学校への入学によって殆ど強制的に、殆ど全ての人に自動的に発生する。時期を遅らせにくいという点で、他のライフスタイル間の移行とは性質がかなり異なる。児童期に通用していた価値観や世界観はもはや通用せず、両親の評価よりも周囲の同世代からの評価にナーバスになっていく。誰もが直面する移行期にも関わらず、難易度は必ずしも低いとはいえず、この嵐の時期に馴染むまでの間に、適応上の問題を呈したりメンタルヘルスを損ねたりする人も少なからず存在する。
・「思春期のベテラン→壮年期のルーキー」
思春期の延長が語られる現代において、思春期のベテランから、壮年期のルーキーへと役割を移行していくことは、思うほど簡単ではない。両親から自立し、思春期モラトリアムの万能感を断念すること、(家庭や社会のなかで)教わる側・養われる側から教える側・養う側へと移行することは、精神的・経済的拠りどころを自分の力で見つけた後でなければ難しいように思える。不幸なことに、自立するための機会をろくに得られない思春期の男女は近年増加している。経済的に自立困難な状況が、ただでさえ困難な壮年期への心理的移行をいっそう難しくしてしまっている。
・「壮年期のベテラン→老年期のルーキー」
自分が晩年を迎えたことを認め、後進にポジションを譲り、自分の身体を労わるようなライフスタイルへとギアチェンジしていくことは、若さに拘る人にとって容易なことではない。高齢化が進み、死の不可視化の進んだ現代においては、[還暦を迎えた=死が間近に迫った]という現状認知は、あまり頻繁に思い出されるものではない。だが実際には、身体は確実に衰え、壮年期のベテランとして振る舞い続ければ続けるほど、心身を壊してしまうリスクは高くなる。そのうえ、子どもを教える側・養う側であろうと固執しすぎると、子どもの心理・社会的性徴を妨げてしまうリスクも高くなってしまう。
こうした、あるライフスタイルから次のライフスタイルへ軸足をうつす時期・どちらのライフスタイルともいえないような移行期は、次の“ライフスタイルの一年生”としての試行錯誤や戸惑いに満ちた時期とならざるを得ず、身体上の変化も相まって、しんどい時期となりやすい。思春期のベテラン・壮年期のベテランとしての生き方を続けることの容易さに比べると、壮年期のルーキー・老年期のルーキーとして新しいライフスタイルを再構築していくのはいかにも億劫だ。若さへの執着も相まって、できるだけ長くベテランとして楽しんでいたい・もっと今を楽しみたいという方向に傾くのも了解可能ではある。
けれども、寄る年並みには誰も勝てないので、現在のライフスタイルのベテランから、次のライフスタイルのルーキーに軸足を移していかなければならない時が、いつか必ずやって来る。児童期→思春期の移行は殆ど強制的で時期もはっきりしているが、他の二つ(思春期→壮年期、壮年期→老年期)は個人の判断や境遇に左右されやすく、適齢期の個人差も大きい。この曖昧さが最もうまくいけば意識しないうちに次世代に移行できるかもしれないし、最も悪くすれば早すぎるor遅すぎる移行によって心身を磨耗してしまうかもしれない。なかには、若いスタイルに拘り過ぎて破綻した結果、精神科や心療内科の門を叩く人もいる。
ライフスタイルが社会制度や慣習によって強制されずに個人の裁量に委ねられるようになったことは、ひとつの福音に違いないが、一歩間違えれば「ライフスタイルの移行に失敗したら、ぜんぶ自己責任」という発想にもなりかねない。実際には、ライフスタイルを移行していく為の社会制度や慣習を失い、ライフスタイルの移行に必要な社会資源もろくに与えられない人びとに対して「ライフスタイルの遅延や躓きは自己責任だ」と説くのは誤りだろう。
制度や慣習や社会の側からのサポートが期待薄ななか、どのようなタイミングで、どのような形で次のライフスタイルのルーキーとしてデビューしていくのか;この問題は、今とても難しくなっていると思う。ライフスタイルの境目で戸惑っている人達・躓いている人達を急かせばいいというものではない。なんのバックアップやリソースも与えずにライフスタイルの移行期をジャンプせよと強制するのは、脚力の弱い人に崖を飛び越えろと強制するのと同じぐらい、無茶というものだ。
つくづく、歳をとるのが難しい世の中になったと思う。
*1:ちなみに画家のピカソなどは、稀有の例外に属する。ただしピカソ自身も、「子どものままの感性を維持すること」は簡単ではないという主旨の発言をしていた筈