シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

まっとうな男女交際って、それなりに修練しないと無理じゃね?

 
 日本人のうち、箸が使いこなせない人の割合はかなり少ない。
 
 箸は、様々な動きに対応できる優れた食器だが、指先の力加減が意外と難しい。2〜3歳の頃の記憶が残っている人は、習熟するのにかなり時間がかかったことを思い出せるんじゃないだろうか。慣れていない人にとって、箸を使いこなすのは苦痛ですらある。
 
 箸のほかにも、修練が必要とされる道具は色々ある。自転車然り、キーボード然り、フライパン然り。どれも、マスターしてしまえば手足のように使いこなせるが、習熟するまでは失敗しやすく、自然な感じなど望むべくもない。これらの道具は、多少は失敗も経験しながら根気良く付き合っていくなかで、ようやく自然な感覚を身につけられるものだ。
 
 

コミュニケーションは常に修練されている

 
 同じことをコミュニケーションの分野で考えてみる。
 例えば、趣味のサークル内の男女の会話や、会社での先輩/後輩のやりとり。
 さすがに会話できないという人はいなくて、みんな、ある程度は出来ている。
 
 けれどもコミュニケーションというやつは、話し言葉の内容だけでなく、ボディランゲージ、目線の取り扱い、空気の読み具合などの加減が意外と難しい。コミュニケーションの作法を勘違いして大失敗した経験の一つや二つぐらい、誰にでもあるんじゃないだろうか。大人と呼ばれる年齢になってさえも、コミュニケーションにまつわる悩みは尽きることがない。
 
 幸い、コミュニケーションは小さい頃から間断なく行われているし、[家族関係]→[保育園や近所]→[小学校]→[中学校]といった具合に修練のフィールドが少しずつ広がっていくため、たいていの人は何らかの形でノウハウを身につけることが出来る*1。つまりコミュニケーションの修練は、殆ど全ての人に、小さい頃から半ば義務的に課せられ続けるので、特別に意識しなくてもある程度までは勝手に修練されていく。
 
 しかし極端にコミュニケーションから遠ざかっていた人達*2が示しているように、この修練を怠りすぎると日常的なやりとりにさえ支障をきたしてしまうようになる。普段、あまりにもコミュニケーションに囲まれて生活しているので気付かないが、私達は日々のやりとりのなかで絶えずコミュニケーションを修練され続けている。この修練がしばらく断たれただけでも案外困ってしまいやすく、もともと話好きだった人でさえも、数年間引きこもってしまった後のコミュニケーションに際しては非常な苦痛と困難を自覚するものだという。
 
 

まっとうな男女交際も、修練や経験蓄積がなければ難しいのでは?

 
  
 この話の延長線上として、“まっとうな男女交際”“こなれた男女交際”といったものも、それなりの修練や経験蓄積が無ければ難しいんじゃないだろうか?
 
 中学生には中学生の恋が、高校生には高校生の恋が、大学生には大学生の恋があるだろう。若くて修練が少ないほど、露骨な自分本位に傾きやすいかもしれないし、エゴと正義感を混同しやすいかもしれない。デートに際してのエチケットや感情面での機敏といったものも、経験蓄積が少ない年頃には望むべくもない。
 
 むろん、例外的素養を持った人がいないわけではない。しかし大抵の人の場合、“パートナーの意志を汲み取りながらの対等な男女交際”に辿り着くだけでもかなり大変で、それなりの修練や経験蓄積を必要とするんじゃないだろうか、とも思う。試行錯誤と幾らかの苦い経験、そして経験や修練を教訓へと生かすことも無しに、“パートナーの意志を汲み取りながら意志を尊重しあえるような男女交際”や“いわゆる大人らしい男女交際”といった境地に到達できるものなんだろうか? 難しそうだなぁと思わざるを得ない。
 
 
 ところが、箸やコミュニケーションがほとんど“義務教育的に”修練が課せられるのに対して、男女交際にはそのような“義務教育”的に学ぶ機会*3が無い。
 
 このため、思春期が始まっても全員一律に男女交際のノウハウを蓄積しはじめるわけではなく、自主的に男女交際にエネルギーを差し向けた人だけが、ノウハウを蓄積することになる。スポーツや学問に一生懸命にのめりこんだ人は、男女交際に関してはまったく経験蓄積しないかもしれず、もちろんそれはそれで思春期のあり方として間違ってもいるとも思えない。
 
 だというのに、箸やコミュニケーションと同じく、男女交際のノウハウもまた「この年齢ならこれぐらい出来て当然」と期待されやすいきらいがある。例えばいい歳した社会人が高校生のように振る舞えば、おそらくドン引きされるだろう。特に男性の場合、年齢とのギャップが激しい振る舞いは歓迎されない。「学生生活の大半をスポーツや学問に打ち込んで過ごしていたんです」などと弁明してみたところで女性陣が納得してくれるわけもなく、ただシビアに「この年齢ならこれぐらい出来てていいよね」と期待されるばかりだ。年齢相応のノウハウを欠いていればいるほど、赤い糸の強度を保つのに苦労しなければならない。
 
 思春期における男女交際は、箸やコミュニケーションほど義務的なものではなく、やりたい人だけがノウハウを蓄積する、いわば選択科目のようなものだと思う。にも関わらず、異性から期待される際には、あたかも必須科目ごとく「この年齢ならこれぐらい出来てていいよね」などと期待されてしまうというのが厄介だ。
 
 かと言って、必須科目・義務教育的に「男女交際を義務付ける」なんてことは出来そうにないし、そもそも誰かに惚れたわけでもないのに「修練のために、とりあえず付き合う」とか「教育機関が推奨する男女交際」とかいうのも間違っている気がする。このあたり、結局、なるようにしかならないんだろうけれど、だとすれば男女交際が衰微していくのも無理もないことだなぁと思わざるを得ない。
 

*1:ただし、すべての人がこのフィールドの拡大に乗り切れるかと言ったらどうやらそうでもないらしいということ・初期の親子関係のコミュニケーションに難がありすぎて初手で躓くと結構大変っぽいこと、などはあるにせよ。

*2:例えば『社会的引きこもり』が数年続いたような人達

*3:あるいは学ぶよう強制される機会