シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

非モテメンタリティからの脱却に寄与しそうな体験とは

 
 
男女交際は非モテメンタリティを払拭させるか - シロクマの屑籠
 
 男女交際が出来たからといって、必ず非モテメンタリティから脱却できると決まっているわけではないことを上記リンク先では書いた。では逆に、どういう体験であれば非モテメンタリティから脱却する芽となり得るのか?以下に、それを書き出してみることにしてみた。
 

  • 男女交際:男女交際のすべてが非モテメンタリティを軽減させるというわけではないだろうけれど、やはり多くの男女交際は非モテメンタリティの改善に幾らかの効果があるのではないか、とは思う。ただ、その為には、能動性の無いメンタリティやウジウジしたところも含めて異性に理解してもらう必要があるのではないか、とは思う。非モテメンタリティが厳しすぎる場合には、理解するばかりでなく、非モテ等身大の自分自身を受容して貰わなければ*1効果が乏しいかもしれない。非モテ側が、異性の前で格好と体裁を繕うことに終始したままの関係の場合は、おそらくこの効果は期待できず、男女交際のなかで、少しづつではあっても自分自身のメンタリティなり弱点なりも含めて許容・理解されることが必要と思われる。もちろん、一定以上の時間なり期間なりが続くことが望ましいと推定される。

 
 逆に、異性に奴隷のように傅くだけの日々では、非モテメンタリティはおそらく悪化するだろうし、異性に小馬鹿にされ続けるような関係であってもおそらくダメだろう。先にも述べたが、自分自身の諸々を格好つけで糊塗しつづける交際が続いた場合も、男女交際が緊張の強いものになってだめになってしまいやすいだけでなく、自信の無さ・受動性・低い自己評価などといった非モテ・非コミュにありがちな心的傾向にあまり好影響をもたらしきれないのではないか、と考える。
 

  • 仕事:実は、仕事において認められるという体験は、隠れた非モテメンタリティの改善の筋道なのではないかと私は思っている*2。仕事において、等身大の自分自身を許容される機会というのは流石にないだろうけれども、自分自身が丹精込めて行った仕事が良い評価を受けるという体験・経験が蓄積すれば、これはこれで非モテメンタリティに大きな影響を与えることだろう。自分で収入を稼いでくるという次元で、「あなたはクリエイティブだ」「よく出来る人ですね」という評価を与えられ、それがリターンとなって返ってくるような軌道に乗ってしまえば、非モテメンタリティは大きく後退するだろう。ただし仕事で認められる為には、多くの分野の場合、コミュニケーションの実行機能や能動性が求めらがちで、結局非モテにはないものねだりな能力を要求される場合が少なくない。とはいえ、この仕事という次元が真っ暗なままにしておいて、なおかつ非モテメンタリティを何とかしようと思っても容易ではないように思え(特に男性の場合)、今まで無視されがちだったけれども仕事の可否というのは重要なファクターではないかと私は疑っている。そして、就職超氷河期世代においては、この仕事の次元で評価されることが非常に難しくなっており、これが非モテ・喪男・非コミュ問題に大きな影を落としているのでは、と疑わずにはいられない。

 

  • 趣味:仕事ほどダイレクトなものではないけれども、趣味の世界で高い評価をいただくということが非モテメンタリティの改善に幾らか寄与する可能性はある。けれども仕事で評価されることに比べると、個人に自信や能動性を与える割合が少ないように思われ、ともすればその趣味の狭い範囲のなかでだけふんぞり返るという事態を招きやすく、結果として趣味世界とコミュニケーションや仕事世界との間で、態度の乖離を引き起こすだけに終わってしまう可能性も高い。ただしある種の趣味は、それ自体がコミュニケーションや仕事の補助戦力となる可能性はあるし、そうでなくても、日々のしんどい生活に彩りや気分転換を与える手段としての趣味には適応上、一定の価値はあるとは推定される。

 

  • 友人関係:意外と重要なのは、この友人関係なのではないだろうか。お互いに空気を読みあうばかりの交友関係ならともかく、自分自身の非モテ的なメンタリティも含めて共有することの出来る交友関係が長期間成立するとすれば、それはある種の突破口になるのではないか?自信や能動性や活力というものは、別に異性でなければ与えてもらえないものではなく、友達同士でお互いを尊重しあいながら、長い年月に渡って付き合い続ける経緯のなかからもある程度得られるものなのではないか、と個人的には感じている。

 
 ただしここでも注意しなければならないのは、どこまで等身大に近い自分を友人関係のなかで許容されることが出来るのか、という点。非モテメンタリティが強いと、ついつい友人関係までもが、格好つけと優越感ゲームの戦場と成り果ててしまいがちだが、それではあまり効果が無いように思える(いつまでも格好つけをお互いにし続ける友人関係!だなんて!)。友人関係のなかでまで、格好つけられる所ではふんぞり返り、そうでない所では空気を読むことに徹するという状況だとすれば、友人関係を通して非モテメンタリティを軽減させるのも難しくなるのではないか、と思う。
 
 「今日日の友人関係のなかで等身大に近い自分なり非モテメンタリティなりを表出できるのかよ」という疑問を持った人は、おそらく正しく問題を認識している。友人関係であれ、男女交際であれ、自分自身の諸々を表出するにはある程度のコミュニケーションの蓄積が必要で、出会ったその日からいきなり全てを曝け出すなどということは基本的には許容されない。しかし、だからと言って体裁と格好つけに終始していた人が徐々に非モテメンタリティを表出するにしてもある種の器用さ*3が必要で、とりわけ、体裁と格好つけで見せていた部分と非モテメンタリティの“素”の部分とのギャップが激しい人においては特に問題になると推測される。
 
 

どのタイプでも、経験や体験の蓄積が必要

 そして、仕事や趣味で頑張った成果を認められるにせよ、友人関係や男女交際で自分自身の非モテメンタリティな所も含めて理解・許容されるにせよ、これらは継続的な営みのなかでようやく成立し、蓄積するものではないかと思う。評価の瞬間最大風速だけが高くても多分ダメで、認められるにしても理解・許容されるにしても、ある程度の期間にわたって維持されなければ、個人のメンタリティのつくりに影響を与えるものではないような気がしてならない。受動的で自信に乏しく自己評価の低いような非モテメンタリティが、そのメンタリティを軽減させていくには、応分の時間と体験の蓄積が求められると私は考えている。しかし、その体験蓄積の筋道はひとつ男女交際だけに限定されるものではなく、友人関係や仕事や趣味の領域をも含むものに違いなく、今回挙げた以外にも幾つかの経路があるだろう*4。優越感ゲームの罠や格好つけの罠にさえハマらなければだが、同性同士のコミュニティのなかでも非モテメンタリティに好影響を与える道筋というのはあるのではないかと思う今日この頃だ。
 

*1:しかし、異性の側からすれば、それは相当に高い要求水準であることは注意しなければならない。おそらく、極めて高い何らかの素養なり特質なりがなければ、そのような高い要求水準を満たしてくれる人物が現れないとは思われる。

*2:脱オタク恋愛講座のmoteo氏も、そういえば仕事の重要性を説いていたことを思い出す

*3:言い換えれば、ある種のコミュニケーションの実行機能

*4:より細かく言えば、今回挙げた経路すべてが同時にメンタリティの継続的変化に影響を与え続けると考えるのが筋で、どれかを選択してというよりも、そのすべてが同時に遂行されるなかで、どこか好循環があれば良いのかな、と推測する次第