シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『パリに咲くエトワール』と近代、それからフジコと作品の二重性

 
3月公開の劇場版アニメ『パリに咲くエトワール』は、同時期に公開された『超かぐや姫!』と並んで大傑作だった。3月22日にネタバレなしの感想文を書いたが、もう一回観たうえで、正規の感想文を書いてみたいと願っていた。
 
ところが地方都市では公開期間が短すぎ、上京しようと悪あがきしていたが忙しすぎて目途が立ちそうにない。そこで、いったん思いのたけを吐き出してしまおうと決めた。
 
 

『パリに咲くエトワール』と「近代」

 
『パリに咲くエトワール』という作品を考えるうえで、20世紀初頭のパリ、という時代と場所は避けて通れない。本作品を本作品たらしめているのはこの時代と場所で、たとえば19世紀のイスタンブールや16世紀のマラッカでは、本作品は本作品たり得なかったと思われる。というより、この時代と場所の設定を踏まえたうえで『パリに咲くエトワール』という作品が彫琢された、と考えたほうが自然だろう。
 
作品冒頭で、「近代」という大きなテーマが提示される。
 
近代は、ひとつの時代であり、ひとつの体制、ひとつの思想、ひとつの姿勢でもある。欧米列強によって幕を開けた近代は、産業革命のような技術的・産業的進歩を生んだだけではない。表現や創作の領域にも及ぶ大きな運動だった。本作にはモネやゴッホ、ミュシャなどの作品が登場している。フジコが旅立ち、彼女自身の表現を模索しなければならなかった戦場は、そのような独創的表現が次々に生まれ、問われる20世紀初頭のパリだった。
 
フジコはパリでたくさんの絵画表現に出会い、影響を受け、一時はすっかり呑まれてしまう。彼女が出会ったのはもちろん近代の、近代的な絵画表現だった。それは教会や神に仕える絵画ではない。聖書やギリシア神話をモチーフとした絵画でもない。風景を写実的に捉えることに徹した絵画でもない。画家が観たものを観たとおりに描く絵画、画家が表現したいものを表現するべく描く絵画だ。だからといって従来の技術や表現技法、絵画というフォーマットを全否定しているわけではない。それらを踏まえつつ、その画家にしかなしえない表現を模索し、達成すること。それが問われ、実践されていたのが20世紀初頭のパリだった。
 
もうひとりの主人公である千鶴は、バレエという近代と対峙していた。長刀の家系に生まれた千鶴がバレエに挑むさまは、欧米列強に追いつき、肩を並べることを良しとする、近代日本の戦いと重なる。もちろんここには人種という問題や、日本の伝統的な女性のありようの問題も重なり合う。千鶴の戦いは長刀からバレエへの戦いであると同時に、日本からフランスへ、日本家庭からバレエへの戦いでもあった。どれも、日本が近代化の過程で直面し、必死で克服していった(ある程度までは克服されたが完全には克服されきっていないとも言える)課題だ。外交官である矢島が千鶴の姿を観て変心するさまは、千鶴の課題が当時の日本全体の課題とも通じていたことをわかりやすく示している。
 
『パリに咲くエトワール』は、アニメ愛好家のなかでもコア層を中心に支持された作品だと思うが、作品冒頭に掲げられた「近代」というテーマと、それをフジコと千鶴の両面から描いた作品であることへの言及は、たとえばXなどを観ていてもけっして多くなかったと思う。本作を本作たらしめている要素のひとつとして「近代」は必須であり、ひとつのキーワードであり、意識するに値するバックグラウンドであることを思えば、理解に苦しむことだ。フジコの戦場も千鶴の戦場も、20世紀前半の日本が戦った戦場、ひいては日本人が戦った戦場と重なり合っているし、なんとなれば今日に至るまで日本人が戦い続けている戦場でもある。『パリに咲くエトワール』とは、日本の近代化と、フジコと千鶴という二人の少女がパリで近代に憧れを抱き、それぞれがアチーブメントにたどり着く物語である。
 
 

2026年の傑作アニメとしての『パリに咲くエトワール』の特長

 
ここまでだけを読んだ人には、本作品がシリアスな作品に読めたかもしれない。
そんなことはない。往年のジブリアニメやハウス食品アニメと同様に、本作は小学生でも安心して楽しめるつくりになっている。『パリに咲くエトワール』のリアリティラインは「絵空事」のレベルなので、逆に、リアリティの高い近代の物語を期待して視聴すると肩透かしを食らうだろう。本作の眼目は、近代化を写実に徹して描くところにあるわけではない。
 
公式ウェブサイトと予告動画からみてとれるのは、本作のマニフェストである「20世紀初頭のパリで憧れを追いかけた少女たちの物語」であること、そして本作品が往年のジブリアニメやハウス食品アニメのフォーマットに基づいてつくられているらしきことだ。それらが本作品の演目、というわけである。
 
事実、本作はリアリティラインという面でもキャラクターの描画という面でも、マニフェストを忠実に守り、フォーマットに基づいてつくられている。これらの演目だけ見れば、本作からは独創性はまったく感じられない。もし、本作の制作陣がマニフェストとフォーマットを守る以上のことをしていなかったら、本作は恐ろしく凡庸な、無害だが無意味な作品に終わっていただろう。
 
ところが『パリに咲くエトワール』の実物はそうではなかった! なるほど、児童向けアニメの安全なリアリティラインで描かれる少女たちの物語という意味では陳腐だろう。普段アニメに関心のない人のなかには「古臭い作品だ」と見間違える人さえ、いるかもしれない。しかし本作は2020年代の劇場版アニメにふさわしい諸力を用いて、まったく古臭くないことをやっている。それどころか、2020年代の日本アニメのトレンドに逆らうような巧さを連発し、2026年の第一クールのアニメ群のなかにあって異彩を放っている。
 
2020年代の日本のアニメ表現は、CGやAIの進歩、資本の流入なども手伝って素晴らしいことになっていると思う。その成果は『鬼滅の刃』シリーズにも『呪術廻戦』シリーズにも『Fate』シリーズにも反映されている。ちょうど同時期に公開され、高い評価を得ていた『超かぐや姫!』のことも忘れられない。現代日本アニメのおいしいところ、映えるキャラクターをしっかりと動かし、アニメ的・漫画的表現を巧みに利用し、視聴者の(脳内補完や二次創作的な)イマジネーションを刺激してやまない作品として、『超かぐや姫!』は最先端かつ最高峰の作例をみせてくれたと思う。
 
『パリに咲くエトワール』は、それとは違う路線の最先端・最高峰をみせてくれた。『パリに咲くエトワール』のキャラクターたちは、『超かぐや姫!』のキャラクターたちほど(脳内補完や二次創作的な)なイマジネーションに開かれてはいない。少なくとも作中の時間内にあっては、作品が描き出している物語を正確に読解させるのに適したキャラクターとして挙動している。『超かぐや姫!』が脳内補完や二次創作に開かれ、東浩紀風に言えばデータベース消費に親和的な作品であるのに対し、『パリに咲くエトワール』はそのような読み筋を許さず、作品が描いているとおりに視聴者が読解し受容するよう、そのためにすべてのキャラクターとキャラクターの関係性が描かれている。
 
制作陣が提示したテクストとして第一に読解すべきで、視聴者の勝手な脳内補完や二次創作に開かれているとは言えないその作風は、脳内補完や二次創作に開かれた現代日本のサブカルチャー作品、たとえば『超かぐや姫!』とそこに登場するオニキスの面々とは対照的で、近代風、そして近代絵画風だ。*1
 
『パリに咲くエトワール』は2020年代のアニメのなかでは、近代絵画っぽく読解するようにつくられた作品だ。ちょうど『超かぐや姫!』と公開時期が重なったから、その違いは私には明瞭にうつった。
 

 
これを、マクルーハンのメディア論になぞらえて言い直すなら、『超かぐや姫!』がクールなメディアなのに対し、『パリに咲くエトワール』はホットなメディアであると言えるかもしれない。マクルーハンのいうクールなメディアとは、情報量が比較的疎で、その疎な余白の部分をメディアの受け手が自由にアレンジできるとも、受け手側が想像力を動員して補って楽しむ(または参加できる)ものとも言える。近代絵画との比較でいえば、アニメというジャンル全体はクールなメディア寄りで、二次創作が行われる作品、視聴者にキャラクター同士の関係性やスピンオフ的ストーリーを連想させる余白を提示している作品はとりわけクールなメディアと言える。『機動戦士ガンダムジークアクス』も、視聴者にさまざまな想像を促し、余白を遊んでもらえるようにつくられた、絶対に意識的にクールなメディアだった。対して、『パリに咲くエトワール』はそのようなつくりになっていない。アニメリテラシーが高くない児童が観ても、アニメリテラシーの高い人が観ても、どちらにせよ制作陣が見せたい・読解させたいと思うとおりに見る・読解するようにつくられている。
 
もちろん、ここでいうクール/ホットを完全に区別することは不可能で、たとえば『超かぐや姫!』にもホットなメディアとしての側面がゼロであるわけではないし、逆に『パリに咲くエトワール』を二次創作的に見ようとする向きはあるだろう、なぜなら2020年代の日本には、クールなメディアとしてアニメを受容することに慣れきった愛好家、そういう風にアニメを受容するのが専らな愛好家がたくさんいるからだ。
 
だが私が観たところでは、本作はどんな時でもすべてのキャラクターが何かメインストーリーの読解にあたって有意味な行動をとっていて、有意味な情報を提示している。それらの行動や情報は視聴者に余白を与えるためでなく、製作者が見せたいもの・読解させたいものを見せるために、あるいはストーリーの情報密度を高める効果のために作中にわざわざ描かれているように見えた。無駄な描写など、寸分もなかったに違いない。*2 作中に次々に登場する近代絵画たちが、こうしたつくりをことさらに意識させていたのはたぶん間違いないだろう。
 
 

フジコのやったことと『パリに咲くエトワール』制作陣がやったことは重なり合っている

 
もう一点、本作に私が胸を打たれた背景というか、構造を紹介したい。
本作に対する揶揄として、「フジコがあまり描かれていなかった」「千鶴の長刀がメインだった」といったものがあった。確かに千鶴のストーリーは魅力的で、見栄えがして、胸がすく場面も多かった。本作のリアリティラインが昔のジブリアニメやハウス食品アニメの水準であることも、千鶴の快進撃を楽しむうえで都合良かった。千鶴の物語は小学生が観ても楽しくつくられていると同時に、長刀のシーンもバレエのシーンも手抜かりせずに作り込む制作陣の鋼の意志をみた気がした。
 
じゃあ、フジコは本当にあまり描かれていなかったのだろうか?
私はフジコのことをずっと見ていたので、そう思わなかった。確かに、フジコが実際に絵を描いているシーンは少ない。しかし絵筆を握っていないフジコはいつも描かれていたし、絵筆を握ることのできないフジコもいつも描かれていた。千鶴をはじめとする多くの人を世話し、人と人とを繋ぐフジコの姿は、絵筆を握っていない・握ることのできないフジコの姿でもあった。一度しか視聴していないので断言する自信はないけれども、私が記憶している限り、彼女の目の動きや小さなリアクション、小さなカットのうちに絵筆を握ることのできない葛藤や逡巡が表現されていたように思う。引っ越しをした後、絵を描けていないことを知られてフジコが泣くシーンは、それが水面下から水面上にあらわれるシーンだった。パリでしのぎを削るたくさんの画家、たくさんの表現、たくさんの前衛の洪水のなかで、フジコは自分が描くべきもの、自分が描く意味を見失っていた。
 
そんなフジコの苦しみは、千鶴の物語が進行する最中も伏流水のように描かれていたと思う。私はそれを観るのが不安でたまらなかったから、千鶴だけを追ってはならない、フジコの挙動をしっかり見ておかなければと思ったものだ。そしてフジコの不安は私の不安でもあった。雄飛する千鶴を見つめ、思い悩むフジコの表情に、私は見覚えがある。
 
本作を称賛する声のなかに、「創作をしている人に深く刺さるものがある」というコメントがあったが、そのとおりだと思う。そういう人たちは、きっとフジコの動きをきっちり目で追っていたに違いない。私は画家でも小説家でもないが、絵筆を握ることのできないフジコの姿がまったく他人事とは思えず、表情やリアクションのひとつひとつに見覚えがあった。自分よりもずっと先に進むライバルたち、すでに独自の表現をなしているライバルたちがひしめくなかで、自分にできることって何だろうか? 自分になら表現できる・自分にしかできない表現って何だろうか? 与えられたフォーマット、課されたマニフェスト、為すべき演目のなかで、自分にはいったい何が可能だろうか?
 

 
フジコは、最終的にこれらのクエスチョンの答えを見出した。それがエンディングで掲げられる彼女の作品群だ。主題歌『風に乗る』の軽快かつ力強いスネアドラムの音のおかげかもしれないが、エンディングで示される彼女の作品群は、誇らしげで、自信に満ち溢れているようにみえる。絵の内容からは、これからの彼女の人生が波乱にみちていると読み取れるが、それはたいした問題ではない。『風に乗る』のなかで、それでも彼女は過去も未来も手放さないと謳われているからだ。未来の彼女が戦火にみまわれようとも、きっと彼女は彼女を生きていく。それは尊いことで、讃えられてしかるべきことだ。
 
それと並行して、2020年代の日本において、『パリに咲くエトワール』の制作陣の人々も、与えられた演目のなかで何が表現できるのかを問われただろう。もし、このクラシックなマニフェストとフォーマットの内側で、最も凡庸に、最もありきたりに、最も手抜かりに作ってしまえば、どこかで見たような凡作ができあがってしまったに違いない。どんなにお金がかかっていても、どんなにキャラクターがグリグリと動いても、新しくないものが豪華にできあがってしまっただろう。
 
しかし、このアニメを作った人々はそうしなかった。近代絵画というテーマで演ることをいいことに、作品そのものも近代絵画寄りにつくりあげた結果、かえってそれが前衛的なトライアルと私にはうつった。一枚絵の効果的な挿入を多用する点も含めて、『パリに咲くエトワール』は2020年代の日本アニメとして主流の作風ではない。だが、そのおかげもあって2026年の大豊作なアニメ作品群のなかにあっても埋もれず、異彩を放っている。本作を作った人々は、今、自分たちにどんな表現ができるのか、この演目のなかで何がアニメの前衛たりえるのか考え、工夫を凝らし、そこに現代のアニメ技術を注ぎ込んだに違いない。その姿勢が反映されている本作全体が、私には、作中に登場する近代画家たちやフジコの挑戦と重なって見えた。
 
私がエンディングでやたら感動したのも、フジコが近代絵画の世界で独自の表現をやってみせた誇らしさと、『パリに咲くエトワール』がクラシックな演目のなかで独自の表現をやってみせた誇らしさが重なり合って見えたからだった。フジコの達成は、この作品の達成、ひいてはこの作品の制作陣の人々の達成でもあるように思えた。そうしたうえで、フジコが皿洗いする姿、狭い部屋に引っ越しながらも絵筆を握れずにいる姿を私は再び思い出す。自分だけの表現を追求したいと願っていても、それが自由自在にできる人なんていない。お金の問題や社会情勢に振り回され、逆風や無理解や差別にも曝され、やりたくないこともたくさんやらなければならず、遠回りだってしなければならない。それでもフジコはパリに留まり、戦った。本作の演目の範囲を超えているが、当然、力尽き敗れる者もいただろう。それだけにフジコの達成は尊い。同じく、今、アニメをつくる世界で戦い、表現をものする人々の達成も尊い。
 
パリを舞台にし、近代をテーマとした作品でなければ、これら三重の達成が重なり合う奇跡は起こらなかっただろう。
 
 

長くなってしまったのでやめます

 
気が付いたら7000字をオーバーしたのでこれでやめます。
『パリに咲くエトワール』を見て本当に凄いと思ったこと、巧みだと思ったこと、二重~三重構造だと思ったこと、近代を描いていると思ったことを、これで言い尽くせたとはいいがたい。なにより、もう一度視聴して、あの時に感じたこと、読み取ったことが本当にこれで良かったのか確かめてみたい。いや、そんなことは二の次だ。この、完成度が高く、クラシックのようで前衛的な作品をもう一回確かめ、そこに注ぎこまれている工夫や努力や技術を再体験したくてたまらない。
 
ここで私が書いたことの何%が正鵠を射ているのか知らないけれど、約3か月にわたって感想文を腹に抱え続けなければならないぐらい私は感銘を受けました。まだご覧になっていない人は、本作がクラシックな演目のもとで前衛的なアニメ表現をやろうと挑戦し、実際やってのけているさまをご堪能ください。田舎からは、以上です。
 
 

*1:逆にいうと、脳内補完や二次創作に開かれた現代日本のサブカルチャー群は、『パリに咲くエトワール』や近代絵画との対比関係においてポスト近代風だとも言える

*2:私が二回目の視聴を希望していた理由のひとつは、そのことに確信を持つには一度だけの視聴では足りなくて、もう一度視聴し、確認したかったからでもある。