シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

釣られたかどうかよりも大切なこと

 
ネットで議論する相手を判断する基準 - ARTIFACT@ハテナ系
 
1.
 そりゃ私だって、釣られた時に「こん畜生!釣られちまったっ!」と思うことはある。散々議論を重ねた相手に、突然「ネタでした〜べろべろば〜!」とやられたら「なんだこいつは」とも思うだろう。とはいえ、釣った相手に怒りをぶちまけるよりも、そんな相手に対して労と情念を費やした自分自身の愚かさや軽挙さを呪うのが私の流儀だ。幾ら彼がずるかろうが卑怯だろうが、それに釣られて憤怒する自分は華麗でも壮大でもあるまい。
 
 釣られたり梯子はずしされたり罵倒されたりして猛り狂わなければならないなら、どんな相手が釣りを仕掛けそうか、どんな相手なら梯子はずしをしそうか、見極めてリスクを回避しろってもんだろう。「誰が悪いのか」という悪者探しをするのも結構なことだけど、自分自身の人間鑑識眼を少しでも精錬することにエネルギーを使ったほうが、反省を生かして今後のリスク管理を推進する上で向いている。
 

 2.
 そして何より、釣られたかどうか・罵倒されたかよりも余程大切なことがあるんじゃないかと私は思う。
 

釣られても構わない、問題はどう釣られるかである。
(セネカ 賢者の不動心について)

http://bokukoui.exblog.jp/4563699

 
 「釣られたかどうか」よりも、釣られるという出来事に際して自分がどう振舞うのかや、釣った側と自分との関係がどのような影響を後日に遺すのか、のほうが私にとって気になるポイントだ。匿名の相手の時はともかく、ハンドルネームに一定以上の人格的担保が形成されている人に罵倒された場合には、釣られた・梯子外された・罵倒されたという出来事に際して衆目に曝されるのは釣られる側の人格・心証だけでなく、釣る側の人格・心証でもある。故に、衆人評価が「釣った・罵倒した=評判良くなった!」「釣られた・罵倒された=評判下がった」とは限らないところに、着眼のしどころがある。
 

シロクマさんみたいにある程度ネット上の人格を担保にしている人が相手なら、そういった梯子はずしがあったら、それなりの対応を取ればいい、という感じ。これは信頼の問題ではないか。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20070210/netdiscussion

 
 もし、ハンドルネームに人格表象が十分形成されている人が酷い振る舞いを仕掛けてきたなら、釣られること自体は必ずしも悪いことではない。むしろそのシチュエーションを周りの人に観てもらって、相手のネット人格の品位なりデリカシーなりが際立つように振舞えば復讐戦略が成立する*1。釣られたことを奇貨として「僕は気の毒な被害者、あの釣り師はろくでなし」という構図を形成すれば、あなたは相手の未来のコミュニケーションに*2影を落とすことが出来る。私の場合、直接自分が相手を罵倒し返したり非難し返したりしなくても、この応報戦略だけで十分に復讐心を満たすことが出来る。せいぜい、上手に釣られたり罵倒されたりして、やった側の惨めさや狭量さが引き立つように振舞ってやるのだ。また逆に、そういった悪漢に対して毅然と振舞うことが出来れば、周囲から好意的な評価を頂くことも出来るだろうし、より一層信頼されることもあるかもしれない。要は、あなたの振る舞いが相手の振る舞いよりも「ちゃんとしているようにみえればいい」というシンプルな話である。
 
 尤も、「罵倒に対してもっと感情的な罵倒で応じちゃった」「トンデモ理論で迎撃しようとした挙句返り討ちに遭っちゃった」といったミスを犯せば、上記復讐戦略は成立しない。罵倒側・釣り側の評判が落ちず、むしろ罵倒や釣りもやむなしというアングルが出来上がってしまう可能性すらあり得る。罵倒や釣りによって自意識がチクチク刺激されすぎてしまい、己の自意識が逆上状態になってしまった人のなかには、こういうミスを犯してしまう人が少なくない。顕名ハンドルネームからの罵倒や釣りは、とりわけそれが理不尽でインモラルなものであればあるほど相手を貶めるチャンスともいえるのだが、己自身の自意識憤怒をコントロールできないあまり、「まぁ○○さんはいつもああいう罵倒ばかりしている人だけど、今回は罵倒されている側も罵倒されて仕方ないよね」というコンセンサスを形成するに至るのはあまりに無残すぎる。
 
 「じゃあそれぐらいならスルーしたほうが安全確実だ」という事になるわけだけど、これはこれで、あなたのスルー力が盛大に試されることになる。スルーするという選択肢は、disった相手に反撃してベソをかかせる事に比べると自意識の疼きを癒しにくいため無視されがちだが、釣り師や罵倒者の愚かさ加減を強調するにも彼らの自意識に一矢報いるにも案外優れた方法だったりするので、もし、罵倒や釣りに伴う自意識の疼きを堪えられるなら、スルーしてしまうのは十分効果的だと思う。尤も、釣る側・罵倒する側はターゲットの自意識を見通した上で石を投げてくることが多く、自意識のセキュリティホールを突かれた場合にはスルーが非常に難しく、ついついキーボードカタカタやって反撃したくなってしまいがちだ。困ったことに、上級釣り師・手練れの罵倒者の類は、こうした事態を計算のうえで「釣ったうえでこいつを悪者に演出してやろうぜクックック」と縦深陣を構えている場合がままあるので、スルー力の脆弱な人はやっぱりスルーしきれずに簡単にやりこめられてしまう可能性が高いが、精進するにこしたことはないだろう。まぁ、いわゆる「気の毒な人」というのはスルー力も適切な反撃も出来ないからこそ気の毒、というのも娑婆の厳然たる事実ではあるけれども…。
 
3.
 よって、ネット上に「人格担保」が十分形成されている人から釣られたり罵倒されたりした限りにおいては、私は(あなたは)上手い復讐法なり対処法なりが幾らでもある、といいたいわけだ。要は、釣ったり罵倒したりした側がかえって不利になるよう注意深く振舞えば良いのである*3。kanoseさんが仰る「それなりの対応を取ればいい」という言葉には、こういう政治的状況のコントロールも含まれているんだと思う。コミュニケーション空間においては、罵倒されたり釣られたりした事が問題なのではなく、罵倒されたり釣られたりした過程で自分(と相手)の評価なり表象なりがどう変化したのかのほうが重要で、ここらを適切にコントロールできる限りにおいては、自分を悪者にすることなく相手のハンドルネームやウェブサイトや自意識に反撃することが出来る。最も愚かな罵倒者や釣り師は、釣られた側・罵倒された側の応報戦略の積み重ねがボディーブローのように効いてくることに気づかないものだけれど、そんな人の場合は放っておくだけでも構わない。あなた自身が業罰を与えるまでもなく、「あの人はそういう人だからまともに相手するだけ無駄」「かわいそうな人」という最低なコンセンサスが自然形成され、やがて彼は自滅と炎上の道を歩むだろう*4。そこまで極端な状況でなくても、釣りや罵倒に際しても毅然とした対応をとったあなたの背中をみている人はみているものなので、毅然とした対応をとればとるほど、釣った側や罵った側の惨めさを相対的に浮き彫りにすることはやはり可能だ。引用したセネカのパロディにあるとおり、「釣られても構わない、問題はどう釣られるか」この一言に尽きると思う。
 
4.
 ただし、このようなネット処世には少なくとも二点、留意しなければならない問題がある。
 
 まず一点、ネット上の「人格担保」が明確でない対象・匿名の投稿に対しては、こうした応報戦略・復讐戦略は通用しないということだ。「ハンドルネーム○○さんはかわいそうな子」というダメージを相手に与えようにも、もともと捨てハンだったり匿名だったりした場合にはそもそも貶めるべき人格が存在しない。2chなどからの匿名罵倒・匿名釣りは、相手にしても失うものが大きく得るものは少ないし、そもそも匿名であるが故にハンドルネームの後ろ側に流れる文脈や人格も捉えようが無いのでディスコミュニケーションの可能性も非常に高い。
 
  よって、釣りか否かを判断する材料も乏しい匿名からのコメントは、私は完全に無視しているし、そもそもわざわざ読もうとも思わない。どうしても匿名を罵倒したり匿名に罵倒されたりしたいなら、ブログよりも遥かに好都合な掲示板に行けばいいのだろうし。
 
 もう一点は、「罵倒や釣りを行われて然るべき状況が、既につくりあげられていたらどうしようもない」という問題である。もしもあなたがネット上で不誠実・無責任・狼が来たぞ・ダブルスタンダードなどの悪徳を積み重ねていた場合、あなたのハンドルネームやネット表象はひどい有様になっているかもしれない。「こいつは罵倒の対象にしても全然ノープロブレムです」「こいつははてな上の悪漢賞金首です。やっつけた人は、5000エゴーを自意識に対して獲得できます」という空気が出来上がっていたら、もう手遅れだ。日頃の行いが十分に悪い人は、幾らスルー力を発揮しようとも、いかに罵倒者・釣り師を弾劾しようとも、そう簡単にbad imageは改善せず、(むしろ好機とばかり)あなたを罵倒した側を皆が応援しはじめるやもしれない。この場合、あなたはもう既にガソリンをたっぷり吸い込んだ藁人形のような存在であり、全てが手遅れであり、罵倒者も釣り師も、悪行の果てに炎上しつつあるあなたのネット人格に引導を渡すべく来迎した火車以上のものではない。因果応報、というやつである。じたばたしても始まらず、せいぜい無名の存在として2chに落ち延びるほかないだろう。*5
 結局、「こいつなら思う存分罵倒しても困らないだろう」とか「むしろやっつけたほうがいいんじゃないか」というコンセンサスがいったん形成されてしまったら、もう全てが手遅れである。
 
 
 まとめ
 理屈としては、「釣った釣られた/罵倒した罵倒された」という一局面だけに意識を集中するよりも、「己のハンドルネームやウェブサイトにどのような表象が堆積しているのか」という文脈のなかで釣りや罵倒を位置づけていくことが肝心なんだよ、という一文に集約されるんじゃないかと私は考える。別に釣られたっていいし、罵倒されたっていい。極論を言えば釣ったって罵倒したって構わない。けれども、それら一つ一つのアクション・スルーが自分と対象とのハンドルネームやウェブサイトに何を堆積させるのか、には意識的であったほうが良さげだ。こと、ネット上の人格担保がある程度期待できる相手の場合には、かえって罵倒した側・釣った側の心証が悪化し、自分の心証が良くなるという事態は十分あり得るし、そうしたエピソードの一つ一つは、(少しづつとはいえ)まなざす第三者のなかで蓄積していく点に留意しなければならない。真に問題になるのは(そして常に気にかけるべきは)、あなたが釣られたか罵倒されたか勝ったか負けたかではなく、その釣りや罵倒のエピソードを通して、あなたのネット表象がどのような評価を蓄積させたか、ではないだろうか?
 勿論、自分が釣ったり罵倒したりする側のときも、自らの行動によって自らのハンドルネームやウェブサイトに降り積もったイメージなり表象なりがどのような影響を蓄積させるのかに自覚的でなければならず、罵倒合戦に勝とうが釣りが大漁ろうが、「あいつ、あんなにひでぇ奴なんだぜ」と周囲に思われたなら損をするのはあなた自身でしかない、ということは肝に命じておくべきだろう。
 
 そして、匿名の相手には上記原則が通用せず、匿名者は幾らおこがましい振る舞いをしようとも(人格担保、ハンドルネームに纏わりついた表象などの)失うべきものが無い、ということにも再度注意を促してみる。匿名者という存在は、顕名者を一方向的に賞賛することも罵倒することも釣りあげることも出来るが、そうした匿名者にはそもそも蓄積すべき人格担保なりハンドルネーム表象なりが無いので、政治的に追い詰めたり復讐したりすることが出来ない。私個人は、そんな匿名者と「対等な議論」なるものを期することは難しい、と思っている。たとえ匿名者が善良な人物だったとしても、“顕名者vs匿名者”“人格担保のある者vs無い者”というアンフェアな構造がある限りは難しそうだ。どうしてもやりたい時は、私は2chで匿名対匿名という条件でコミュニケーションを試みることになるんだろう、と思う*6
 
 自分のハンドルネーム・ウェブサイト・ブログ(と相手のソレ)にどんなイメージ・表象を蓄積させるのか?に意識を向けた時、釣り師や罵倒者に対する対応はおのずと変わってくるだろうし、どんな相手にどんな手を用いるのかも変化してくると思う。また、日頃のネット上の自らの行いを省み、誠実な対応と毅然とした行動を旨とするならば、釣られようと罵倒されようと、あなたとあなたのブログに対する周囲の評価なりは子揺るぎもしない*7。後は、自意識の過剰な叫びに縛られすぎないよう、心静かに日々を過ごすのみ、だ。
 

*1:釣られたり罵倒されたりしたことによる自意識が痛むという点を除けば、だが

*2:というよりも因果因縁に

*3:最低限、釣ったり罵倒されたりした自分が愚かなものを露呈しないように振舞えばよいのである

*4:そのような状況になると、多くの人はブログやウェブサイトを閉鎖するけれども、偶に最低級のコンセンサスを獲得しつつも、その事に気づかなかったり目を瞑ったりしながら長年生き残り続けるスゴい人もいるにはいる。だが、そんな人はまともに相手されていないし、そんな人に罵倒されてもいっそ気分爽快といった感じで完全に無害化されているので多い日も安心。

*5:なお、過去の色々な事例をみる限りハンドルネームを変更しても無駄である。文章をみれば気づく人はすぐに気づいて、振りほどききれない悪縁を、周囲はすぐに察知するだろう。

*6:尤も、わざわざ2chで匿名対匿名という条件下でコミュニケーションを行うことの費用対効果といったものについては、別途検討されなければならない。

*7:勿論、あなたの自意識も大してざわめくまい