実名・匿名論争が論じるべきテーマはたった一つ: 304 Not Modified
実名匿名論争じゃないけど: やまもといちろうBLOG(ブログ)
ハンドルネームか実名かを問わず、誰もがインターネット上でごく当たり前に名乗っている「なまえ」。普段は「なまえ」の役割を振り返ってみることなど無いけれども、上のリンク先などを読んでいるうちに、「なまえ」ってすごく大事だよなぁとしみじみと感じたので、振り返ってみようと思う。
幸い、日本のネットコミュニケーションは『2ちゃんねる(以下、2ch)』のような「名無し」が占める割合がかなり大きいので、逆に「なまえ」を欠いている時にどんな出来事が発生するのかを比較するためのサンプルを簡単に見繕うことができる。以下、『2ch』の匿名コミュニケーションを参照しながら、話を進めていこうと思う。
「なまえ」がなければ発言は誰のものにもなれない
まず、当たり前のことだけど、「なまえ」のついていない発言は、誰のモノにもなれない。発言する「なかのひと」が総理大臣であろうが実の妹であろうが、「名無し」はあくまで「名無し」であって、特定の誰かに帰属する発言ではない。内容が立派であろうが、惨めな誹謗中傷であろうが、である。
その代わり、名無しの発言は「場所」に帰属し「場所」のモノになる。「なまえ」さえあれば、それが実名であれハンドルネームであれ必ず特定の個人に帰属するけれども、2chのような匿名空間では、すべての発言は「場所」に帰属するようになり「場所」に宿るようになる。例えば、「2chの○○という板の××スレッドの発言」といった具合に。
“良スレ”“糞スレ”というネットスラングは、このことをよく反映していると思う。“良スレ”であれ、“糞スレ”であれ、スレッドに書き込んだ個々人はけっして評価の対象にならない。評価の対象にされているのは「場所」である。“スレが荒れる”というネットスラングも、いかにも2chらしい。スレッド内部に書き込んでいる人間同士の揉め事であっても、荒れるのは「個人」ではなく「スレッド」というわけだ。
「なまえ」がなければ手柄は誰のものにもなれない
「なまえ」がなければ発言の帰属先が個人のモノにならない……ということは、その発言の手柄は誰のものにもならないということになる。どんなに素晴らしい発言をしようとも、「なまえ」を欠いていれば、その手柄が個人に帰属することはない。2chをはじめ、インターネットの匿名空間には素晴らしいコンテンツが名無しのままで転がっていたりもするが、それらは実際につくりあげた特定個人に帰属しないで「場所」に帰属している。
このことを避けるには、「名を名乗る」しかない。素晴らしい成果や手柄をあげたのは自分だと表明し、その後の成果や手柄をも「個人」に蓄積させるには、「なまえ」が絶対に必要になる。もともとは匿名性が高かった筈の『ニコニコ動画』でも、幾つもの優れた作品を作り出す造り手に「なまえ」が生まれるようになったのも、当然の帰結かもしれない。「なまえ」がなければ、優れた造り手としてアイデンティファイされることが無いのだから。
なお、「なまえ」には手柄というプラスの評価だけでなく悪名というマイナスの評価も帰属するため、優れたアウトプットの多い人物ならともかく、ろくでもない事を書きたがる人や品位を疑うような罵倒しか書けないような人は、「なまえ」を与えられてもメリットが少ないかもしれない。このことを反映してか、最も品位を欠いた書き込みはしばしば匿名で行われ、blogの匿名コメント欄や2chなどに汚らしい誹謗中傷が吹き溜まっているのをみかける。
「なまえ」がなければ承認欲求や自己愛充当は誰のものにもなれない
手柄や名声を「個人」に帰属させることが出来なければ、承認欲求なり自己愛の充当なりを自分自身に帰属させるのも実は難しくなってしまう点に、注目してほしい。「なまえ」があれば、褒められて満足な気分になるのも、自分自身の自己愛を充たすのも、あくまで個人のこととして受け止めることが出来る。けれども「なまえ」がない場合にはこの限りではなく、「みんなのもの」になってしまう。
もちろん、これが全く悪いことかというとそうでもなく、賞賛されたスレッド単位/掲示板単位で、誰もが承認欲求や自己愛を充せるような互助的な状況が生まれることもあり得る。2chでときどき見受けられるこの現象は、昭和時代、日本企業という「場所」を介して「社員」が集団的に承認欲求や自己愛充当を達成していた構図を彷彿とさせるものがあって、時代が変化しても未だ根強いメンタリティを想像させる。
けれども、このような「場所」に承認欲求や自己愛充当が帰属してしまうような形式は、いったんその「場所」を離れてしまうと効果が急速に薄らいでしまうという欠点を持っている。その祝福された「場所」にいる限りは、メンバーは承認欲求なり自己愛なりをたっぷり充たせるかもしれないが、「場所」に承認欲求や自己愛充当が帰属しちゃっていると、個人での“持ち出し”が困難になりがちである。このことは、企業に滅私奉公していた社員が、定年を迎えて一気にアイデンティティの危機を迎える構図にも似ている。特定の「場所」に承認欲求や自己愛をアウトソースしすぎた人間は、その場を離れると、自信に満ちた振る舞いもアイデンティティも維持することが出来ない*1。
「なまえ」がなければ誰かの友達になることすらできない
そして「なまえ」がなければネットコミュニケーション上で誰かの友達になることが出来ない。「名無し」でありつづける限り、2chのスレッドを形成する一ピースになれても、個別の人物としてアイデンティファイされることは無い。「なまえ」と、その「なまえ」に属する発言や履歴があってはじめて、友達として選び得る個人が浮き彫りになってくるんであって、「なまえ」が無い限りはこういったことは不可能だ。
2ch系のオフ会の場合でさえも、個人をアイデンティファイするためには何らかの「なまえ」が必要になってくるし、オフ会の後も交流を続けようと思ったら、なおのこと「なまえ」が必要になってくる。スレッドを形成する断片で満足しているうちはともかく、個人と個人とのコミュニケーションというものを意識しはじめるなら、結局のところ「なまえ」を欠くことなど出来ない。
まとめ:「なまえ」を大切に
こんな具合に、「なまえ」の役割は個人のネットコミュニケーションを考えるうえで無視できるものではない。「なまえ」の有無によって、ネットコミュニケーションを介して得られるモノの質は全然違ってくるし、「なまえ」にどのような発言・手柄・カルマ・承認欲求といったものを蓄積しているのかによって、ネットコミュニケーションの心象風景は随分と違ったものになるだろう。
有意義なネットコミュニケーションのためにも、「なまえ」はくれぐれも大切に。
[関連:]みんなの怨恨が独り歩きする“ネット地縛霊” - シロクマの屑籠
*1:これは、ハンドルネームを名乗った場合にもある程度は起こりえることではある;例えばネトゲのプレイヤーキャラクターを介してしか自己愛を充たせないような人は、ネトゲを離れたところでは、自信の欠片も無い境遇に陥らざるを得ない。この問題を軽減するためには、単に「なまえ」を名乗るだけではなく、ネット上で名乗っているハンドルネームなりキャラなりと素の自分の統合性を極力維持しなければならず、両者の乖離がひどいほど、自己愛や承認欲求の“持ち出し”は困難になることを付け加えておく