シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

狂気の開陳のつづき(あっはっは、やってしまった!やってしまったぞ!)

 

  • 汎適応論の準備として

 
 一つ前のテキストに書いたようなdiscussionを展開する準備段階として、以下のものが要請されるだろう。実際、私は精一杯かき集めているつもりだ。勿論私は非力なので、全く集まりが不十分だし、まして、本家汎適・はてなで書き散らかしている内容へのフィードバック作業はさらに遅れている。多分、一生かかっても間に合わないだろう。狂っている。
 
1.コミュニケーションに含まれる期待と結果との関連について測定・分析するツールの充実。
 具体的には、心理学や進化生物学は様々なツールを提供してくれるだろう。行動遺伝学や性淘汰/自然淘汰に根ざしたインセンティブを推定するヒントをくれるだろうし、防衛機制をはじめとする心理学の考え方は、そのインセンティブが心的適応とどのように関連づけられるのかを議論するうえでやっぱり幾らか必要になるだろう。
 
2.文化による影響が個体に与える影響の理解。
 性淘汰/自然淘汰が形成された数万年前と現代文明との生存環境(単にクーラーの有無や抗生物質の有無だけではない。社会の規模、価値観、流行、メディアの有無なども生存環境の一である)の乖離について理解しなければならない。特に、文明社会において適応を最大化するソリューションと、数万年前において適応を最大化するソリューションは多少なりとも異なっている点には絶対に注意が必要だろうし、その違いを知らなければ「狩猟採集社会における最適のソリューションを文明社会に提案する愚」は避けられない。
 
3.特にポストモダン的文化多様性の理解。
 また、現代の文化的に多様化した状況は、過去の狩猟採集社会のような“どこの氏族をみても五十歩百歩”にはほど遠く、個々の文化ニッチによって適応を巡る状況が相当に異なった状況を呈するであろう事に注意が必要だ。だとしたら、世間を、娑婆を、人間を、もっと知らなければならない。書斎に籠もらず外に出ろ。頭のいい人の“テクスト”から「娑婆を眺めやる視点」を教えてもらえ。それらを照らし合わせて少しでも「今、個人の適応が直面している状況と、その多様性」を知らなければならない。
 
 最低限これぐらいの準備は必要だ。実際のところは、準備不十分のまま私は突っ走っているが、本当はこれらについて十全な理解が求められるところだろう。分かっていれば分かっているほどいい。また、統合できていれば統合できているほどいい。
 

  • 汎適応論が導けると期待できるもの(実際は平行して考えていくもの)

 
 こうした汎適応論(コミュニケーションと社会適応に関する一般的考察)を推進することによって、私は以下の議論を開始出来るようになるだろう。
 
A.従来の文脈で過剰適応/過小適応といわれるような、一連のコミュニケーション失敗状態とは何かについての考察。また、そのような状態を脱するための処方箋の開発。
B.個人の「コミュニケーション」が性淘汰/自然淘汰に基づくインセンティブを逸脱している状態の検索。そのようなインセンティブを含まない言動は、おそらく(器質疾患を含めた)ホモ・サピエンスとしての機能が障害されている状態とみなすことが出来る。これは、精神疾患の再定義にも直結している。精神疾患を知るにはまず「正常な行動」を知らなければならない。そもそも神経症水準の種々の病態は、防衛機制の概念からいけば「正常圏」という部類に含まれており、個体にとっての旨味に(無意識下にあるいはautomaticに)誘導されたものであるとみなされているわけだけど、汎適応論においてもこうした「一見病的だけれど適応向上を目的としたコミュニケーション的behavior」を再確認できるものと推定する。
C.性淘汰/自然淘汰の原初の姿と、現代社会における適応のギャップについての指摘と、その対応について。人間の行動のうち、性淘汰/自然淘汰に基づく行動のなかには、21世紀の日本において「(文化的側面も含めた)人間」が過不足なく適応していく(コミュニケーションしていく)には時代遅れなものもあるに違いない。例えば、十代で1子どもをつくる事は、殆どの現代女性にとってもはや適応的ではない。こうした、原初理想とされた在り方と現代社会とのギャップを踏まえ、現代人が性淘汰/自然淘汰に基づく本能的・情動的行動選択にいかに引っ張られすぎないようにするかについて検討するには、まず本能的・情動的行動選択について熟知しなければならない。21世紀を生きる「人間」にとって、遺伝子を残すことだけが唯一の正解ではないにしても、遺伝子を残さずに生きる事に伴う(本能的)葛藤は発生しやすい。さぁ、それらを無きものとせずに見据えたうえで適応を論じるには?
D.美学や奇跡の追究。インセンティブや動機の検索を徹底的に行って、なおも何かが残ったら?私はそれを「美」と呼ぶことは出来ないか?美学に合致する恋愛とは?美学に合致する思いやりとは?徹底的にインセンティブを検索し尽くして、それを免れた何かが残された時、それは生物として狂っているかもしれないが恐ろしく美的には違いなく、「美」あるいは「奇跡」と呼び得ないだろうか?それとも、インセンティブや動機にかかわらず「美」や「奇跡」を私はどう見出していくのか?
 
 こんな事が考えられるようになるだろう。なお、不完全な私は、議論が不完全なうちにこのような事を汎適応論に基づいてやらかしはじめている。とても楽しく、とても狂っている。めちゃくちゃ狂っている。
 

  • 狂っていても叫ばざるを得ない

 
 私は、狂っていても叫ばざるを得ない。はてなはともかく、本家汎用適応技術研究では、本気で叫び続けるしかない。声は小さく、誰もサイトをみちゃいない。それでも偶々誰かが覗いてくれた時に、僅かでも影響を与えることが出来たら、あのサイトにおける私の「コミュニケーション」は成功したと言える。私はこのキチガイじみた“汎適応論”を誰かにちょっとでも届けたいと願っている。僅かな影響しか与えられなくても、娑婆に自分の考えた波紋を落としたい。そして不完全な自分よりも本がいっぱい読める人や、頭がきれる人や、偉い人に、代わりに考えてもらいたい。どのみち自分の思考なんて、メディアやはてなを通して脳を並列化された因果の産物なんだから、こんな自分の考えなんてオリジナルでも何でもなく、誰かが似たことをもっと立派に考えている可能性は高い。だとしても、自分が書いて吐き出すことによって、「汎適応論」に似たような考えを僅かなりとも娑婆においてブーストしたいとは思う。もし、こうしたブーストによって「汎適応論に矛盾しない考え」が娑婆に僅かでも増えれば、自分自身の考察をさらに推進させるだろう。何より私自身の処世術…コミュニケーション…社会適応…を選択する手法をさらに洗練させるだろうから。閉鎖的なサイトに書き殴ることがどの程度の波紋をもたらすのかと言ったら、本当に僅かなものだろうけれど、日記帳に書いて保存しておくよりは、なんぼかマシだと狂ったシロクマは思っているのです。
 
 (いや、ホント、可哀想な奴ですよ、シロクマは!そんな事したって、発信しているふりという自己満足しか得られないかもしれないのに!全く、無茶なことです!)