シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

その支援はインクルージョンか、分離や排除や透明化か?

 
president.jp
 
リンク先の文章は、前半はほぼ拙著『人間はどこまで家畜か』からの抜き出しで、とにかくも社会や環境が進歩した結果として精神医療のニーズは高まっていて、たとえばSSRIのようなセロトニンを補う薬が必要とさいれたり、ASDやADHDといった神経発達症の人に治療なり支援なりが必要な時代になっているよね、と書いた。
 
いっぽう後半パートは拙著からの抜き出しではまとめきれず、記事におさまるよう書き直した。ここは本当はもっと長い文章にしたかったところで、拙著では編集者さんにお願いして7頁を割いて論じている。それでもまだ、もっと調べてみたい気持ちは残っているし、医療現場と世間のギャップを思い浮かべると、いろんなことを考えずにはいられなくなる。
 
 

「それって本当にインクルーシブなんですか」という疑問

 
この文章では、「その支援って本当にインクルーシブなんですか?」という問題意識をとりあげてみたい。
 
今日、精神医療の領域でも教育の領域でも、障碍者支援はさまざまに整備され、広く浸透している。例を挙げるなら、発達診断の早期診断・早期支援が行われるようになったり、特別支援教育の対象となる児童生徒が増えたり*1したのは、ニーズに合った支援が実践されるようになり、かつてはザル同然だった支援の網の目がそれなり細やかなものになったことを示していると思う。
 
そうした支援の輪が広まることは、原則論としては良いことのはずである。そして発達障碍者支援法の第二条の二には、以下のように記されている。
 

発達障碍者支援法 第二条の二
 発達障害者の支援は、全ての発達障害者が社会参加の機会が確保されること及びどこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないことを旨として、行われなければならない。
 発達障害者の支援は、社会的障壁の除去に資することを旨として、行われなければならない。
 発達障害者の支援は、個々の発達障害者の性別、年齢、障害の状態及び生活の実態に応じて、かつ、医療、保健、福祉、教育、労働等に関する業務を行う関係機関及び民間団体相互の緊密な連携の下に、その意思決定の支援に配慮しつつ、切れ目なく行われなければならない。

 
地域社会の他の人々との共生。社会的障壁の除去。
 
こうした理念に基づいて障碍者支援は行われているはず……なのだけど、そうした支援に向けられる目線が、すべて肯定的なわけではない。
 
 

 建前としては、環境からはみ出してしまう人を障害者差別のようなかたちで排除してはいけないことになっていますし、学校でも職場でもインクルージョン(包摂)が大切とはよく言われるとおりです。しかし実態はどうでしょう? 2022年、障害者権利条約の国連審査が日本に対して行われた際、委員会は日本の特別支援教育を「分離教育」と位置づけ、障害のある子どもがインクルーシブ教育を受ける権利を認識するよう要請しました。
『人間はどこまで家畜か』より

国連の審査員から見た日本の特別支援教育は、インクルーシブなものではないもの、支援を受ける者とそうでない者を分離してしまうものとしてうつっているという。
 
国内の教育学者からも指摘がある。小国喜弘『戦後教育史』には、文部科学省が推し進めるインクルーシブ教育について、こんなくだりがある。
 
 

 文部科学省は、2012年に中央教育審議会「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」により、基本的に従来の特別支援教育制度を延長することで対応しようとした。
 すなわち、まず「同じ場で共に学ぶことを追求するとともに、個別の教育的ニーズのある児童生徒に対して、自立と社会参加を見据えて、その時点で教育的ニーズに最も的確に応える指導を提供できる、多様で柔軟な仕組みを整備することが重要である」とした。そのうえで「小・中学校における通常の学級、通級による指導、特別支援学級、特別支援学校といった、連続性のある『多様な学びの場』を用意」することを要諦とした。だがそれは「連続性のある」といいながら、通常の学級と特別支援学級とは別空間であり、さらに地域の学校と特別支援学校とは地理的にも離れている点で、障がい者制度改革推進会議の批判した「原則分離の教育」の継続だった。
小国喜弘『戦後教育史』より

20世紀には、勉強のできない子どもを普通学級から排除して特殊学級に編入し、にもかかわらず障害者教育という大義名分でそれを正当化するような過去があった、その反省のうえに今日の教育制度もできあがっているはずだが、今日の特別支援教育の現状も、体裁こそインクルーシブだが内実はそうとも言い切れない、と疑問を投げかけている。
 
これと同じ目線で障碍者支援について眺めてみた時にも、大義名分こそインクルーシブでも、実態はそうとも言えない事態に出くわしてしまう。
 
それが甚だしいのは、2023年に共同通信が報じた、障害者雇用代行ビジネスについての報道だ。
 
nordot.app
 
この報道によれば、本来の職場とは別の場所で障害者を雇って働かせる障害者雇用代行ビジネス、本来の職場には障碍者を参加させずに障害者雇用の要件を満たしたことにするためのビジネスが急増しているという。そこで求められているのは、障碍者雇用というインクルーシブな体裁を取りつつ、障碍者を職場から排除し透明化する、そんなニーズだったりしないか?
 
こうした報道を目にするたび、私は考えこんでしまう。体裁の良いインクルージョンという言葉を表向き成り立たせつつ、それを隠れ蓑に排除や分離が行われているとしたら由々しいことではないか、と。ずるいことでもあるだろう。そして支援する側であるはずの私たちは、このような事態にどこまで抵抗できていて、どこまで加担しているのか? と。
 
 

現場が分離・排除・選別を積極的にやろうとしているようにはみえない

 
他方、精神医療の現場を見ている限り──少なくとも私が実体験してきた現場に関する限り──障害者支援・障碍者雇用の支援者たちが、排除や分離や透明化に積極的に加担しているようには見えず、実践面においてもインクルージョンは目指されているようにみえる。
 
たとえば障碍者雇用の対象者がどこでどんな仕事をし、どういう収入を得るのかは、そこまで固定的ではない。はじめはA型事業所で働いていた人が、やがて一般企業の障碍者雇用へと変わり、それから一般雇用に変わっていったケースなどは見かけるものである。逆に、一般企業の障碍者雇用で働いていた人が症状再燃し、リハビリの後、A型事業所やB型事業所から再スタートを切るさまに関わることも多い。
 
こうして職場が変わっていく人をみている限り、もし排除や分離や透明化が結果として存在するとしてもそれは絶対のものではないし、現場の支援者たちが雇用のフレキシビリティや当事者の選択を広げるために払っている努力は相当のものだと言える。
 
 

それでも心配りは必要だろう

 
それでも、インクルーシブであるための諸制度の内側でいつしか分離や排除が行われ、被支援者が透明化されてしまう可能性は、まだなお残る。
 
くだんの障碍者雇用代行ビジネスのように、それでも制度の抜け穴を見つけてタテマエのインクルージョンを保ちつつ、ホンネの排除や分離を行う動きは存在するかもしれない。少なくともそうした動きが存在する可能性はいつも考えておかなければならない。
 
そうでなくても、社会全体の構造や世相、制度の仕組みが結果として排除や分離を生んでしまう可能性はあってもおかしくないだろう。私は、個々の現場で努力している人は、悪意や私利私欲に基づいて排除や分離を企てているわけではないと思う。制度設計する人も、現場で支援にあたる人も、原則として善意にもどついて支援や援助に携わっていることをまずは信じるべきだと思う。しかし、個々人がいくら善意に基づいていても結果として分離や排除を内に含んだ支援になってしまったり、分離や排除を内に含んだ構造ができあがってしまうことは全然あり得る。たとえば障碍者支援に際して、私たちはいくらでも「善意に基づいたパターナリスティックな(家父長制的な)」支援をやってしまうことはあり得るが、その際、いくら善意に基づいているからといってその支援が無批判で済ませられるとは、ちょっと考えられない。
 
支援を行う側の気持ちはさておいて、支援を受ける当事者のなかには、そうした「気が付けば排除や分離を含んだ、けれどもインクルーシブを謳っている諸制度」のなかで前にも後ろにも動けないまま、不承不承、その場に甘んじている人も珍しくあるまい。もちろんそのような当事者の大半は、働く場を変えた時のリスクが大きい、少なくとも一度には変えきれないような諸事情を抱えていることが支援者にも周知されていたりするとは想像しやすいことだ。だからといって、当事者自身の言葉に耳を傾けることをやめてしまい、パターナリスティックな支援に終始しては、結果として排除や分離を含んだ支援に陥ってしまう。
 
あれこれも排除や分離だと決めつけてしまうのもそれはそれで違う。と同時に、あれもこれもインクルーシブになっていると楽観視するのも、やはり違う。制度も現場も、白か黒かで切り分けられるほど単純なものではない。でも、どんな制度にも大抵は功罪があり、盲点もあり、最もきちんとやっている支援から最もおざなりな支援までのグラデーションがあることを思えば、それでもよく見つめて、よく考えて、よく心配りしておくに越したことはない。そういうことを私なりにもう少し言語化してみたいけれども、これも道半ばだ。
 
 

*1:特別支援教育の対象者はH22年の段階で145431人、R2年の段階で302473人となっている

不特定多数に開かれた社会適応メソッドと一子相伝の社会適応メソッド

 
今日の文章も、いずれ詳しくまとめたいけれども下書きしてみたかったものなので、有料記事コーナーを使って練習することにする。ただ、不特定多数に開かれた社会適応メソッドまでは、誰でも読める状態にまとめておく。
 
今も昔も、社会適応のためのメソッドについては色々なことが語られてきた。けれども社会に広く伝播し、実際に参照されやすいのは「陽」の社会適応メソッド、または不特定多数に開かれた社会適応メソッドであることは、みんな自覚しているだろうか。
 

 
昭和時代にヒットした漫画『北斗の拳』には、こんなくだりがあったよう記憶している──「南斗聖拳は陽拳ゆえ広く知られ、流派もさまざまに分派して使い手も増えたが、北斗神拳は一子相伝の陰拳ゆえにそうはならなかった」と。
 
社会適応のためのメソッドも、この南斗聖拳と北斗神拳に似て、広く知られ繁栄し分派していったものと、表に出てくることが少なく、一子相伝になりがちで模倣も困難なものがあるよね、と今日は確認をしておきたい。
 
 

不特定多数に開かれた社会適応メソッドには、ある程度再現性が期待できる

 
 
社会適応のメソッドのうち、不特定多数に開かれ、広く知られ分派していったものを挙げてみよう。
 
代表的なものは、礼儀作法だ。
 

 
エラスムスやクルタンの礼儀作法書が流行した近世ヨーロッパにおいても、『「育ちがいい人」だけが知っていること』等がベストセラーになる現代日本においても、礼儀作法は社会適応のメソッドのなかでも再現性が高く、汎用性が高い。はじめ、礼儀作法書が求められるようになったのはさまざまな人同士がコミュニケーションしなければならない宮廷社会と、それに連なるブルジョワ階級の世界だった。そのコミュニケーションの輪のなかに入っていきたい人は礼儀作法書を読み、メソッドを学んで身に付けたという。現代社会では、そうした礼儀作法の必要性があらゆる領域に及んでいて、仕事でも私生活でもしばしば問われるから、そのニーズはますます高くなっていると言える。それが現れている一端が『「育ちがいい人」だけが知っていること』がベストセラーになる現象であり、その一端はビジネスマナーについての研修や啓発が盛んな現象である。
 
「過去の礼儀作法書の著者も21世紀のマナー講師も、コミュニケーションの規範をますます押しつけ、エスカレートさせている」という批判は、それなり当たっているとは思う。でも、個人単位でみるなら、とにかくも社会で流通しているコミュニケーションのルールや規範をよく理解し、身に付け、それで円滑で効果的なコミュニケーションをやってのけたいニーズはあるだろう。
 
礼儀作法のなかでも、もっとも基礎的なものとして挨拶も挙げておきたい。私が書いてきた個人の社会適応に関する本*1には、挨拶について触れた箇所が必ずある。挨拶は職場でも私生活でもお互いの社会的欲求を充たしあい、社会関係を円滑にする効果がある。挨拶に相当する習慣は地球上のあらゆる民族・部族・共同体にみられるものなので、きわめて汎用性と再現性に優れていると考えられる。にもかかわらず、成人後もこれができていない人は意外に多い。
 
それから生活習慣。
生活習慣はコミュニケーションに直接は貢献しない。だが、毎日のパフォーマンスを高める効果があり、健康リスクを遠ざける効果もある。生活習慣についてのアドバイスや決まり事にはマジョリティ重視な姿勢がないわけではなく、たとえば夜型人間には適さず、そのような人にも現代社会の昼型人間っぽいタイムテーブルを強いる一面がある。とはいえ、大半の学校や会社が昼型人間に合わせて営まれていることを思うと、現代社会にうまく適応したければ昼型人間にあわせた生活習慣を、それも、なるべく健康リスクの少ない生活習慣を身に付けておくにこしたことはない。規則正しい生活、好ましい食生活、タバコも酒もギャンブルもやりすぎるな、睡眠時間を確保しろ、等々。
 
生活習慣という社会適応メソッドの面白いところは、それは、考えて実行する(ゲーム用語でいう)アクティブスキルではなく、考えなくても実行している(これもゲーム用語でいう)パッシブスキルであり、パッシブスキルとして身に付けなければたいして意味がないところだ。生活習慣は知識として読み取っただけでは意味がない。挨拶や礼儀作法もある程度はそうだが、生活習慣の領域ではそれが一層際立っている。そして本当のところ、体質や気質にも大きく左右されるところだろう。
 
社会適応メソッドとして生活習慣は、言語化可能だし、現代社会ではたいてい役立つ汎用性がある。ちゃんと身に付けられた時の実効性にも再現性があるだろう。ところがそれを身に付ける難易度には個人差があり、昼型人間と夜型人間の問題が示しているように、誰もが同程度のコストで身に付けられるとは限らない一面を持ち合わせている。
 
美容やファッションも、TPOのレベルまでは比較的同質のコストで比較的同質のパフォーマンスが獲得できる。だが、TPOのレベルを越えてくると属人性の高い社会適応メソッドになる。たとえば00年代に流行した『脱オタクファッション』のなかで、私は前者の領域について専らしゃべっていたが、少なからぬオタクたちは後者の領域を期待してやまなかった。ところが後者の領域は再現性が乏しい。美容やファッションを社会適応に役立てたいと思い立った人は、なにはともあれ、洗顔やスキンケアや身ぎれいな恰好、場面をわきまえた服装などをマスターするのが先決だろう。そして後者の領域をどこまで期待していいのかは、立ち止まってよく考えなければならない。
 
 

一子相伝の社会適応について考える

 
こんな具合に、不特定多数に開かれ、知識として流通している社会適応メソッドといえども、ある程度までは属人性に左右され、それがしばしば問題になる。万人に適用可能な社会適応メソッドについて考える場合には、属人性はしばしば厄介者扱いされ、再現性の邪魔になるものとみなされがちだ。
 
しかし、属人性を踏まえて社会適応メソッドを考える筋がないわけではない。一子相伝の社会適応メソッドの領域には、むしろ属人性をよく踏まえ、個々人の属人性に寄せたような社会適応を考え、実施する、または身に付けさせる……そういった思考が必要になる。だが属人性に寄せるがために、そうした社会適応は一子相伝の趣をなし、万人に再現可能なものでもなくなるし、広く世間に知られることもない。だけど、本当はそこも重要だったりする。
 
 

*1:例えば『何者かになりたい』や『「推し」で心はみたされる?』など

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限界編集者さんと過ごした日々

 

 
 
これから、ある編集者さんと本づくりをしていた頃のことを書いてみる*1。あらかじめ断っておくと、これは私個人の感想であって客観的な論述ではない。すべての編集者さんがそうだとも、そうであるべきだとも思えない。ただ、私はその編集者さんに引っ張られて、感化されて、凄い経験をさせていただいた。そのことを文章化したものだ。
 
 

「限界さん」という編集者

 
これまで私はさまざまな出版社の編集者さんと本や記事を作ってきたが、編集者という職業のイメージが今でも掴みきれていない。彼らは個性的で、それぞれのポリシーや性質に基づいた、それぞれの仕事の進め方を確立している。
 
これから話す編集者さんのことは、旧twitter(現X)にならって「限界さん」と呼んでおこう。
 
限界さんはとある出版社に勤務し、たくさんの出版物を手掛けている。著者としての私から見た編集者さんは、複数の著者を相手取って同時進行に仕事をしているから、顔や手がたくさんあるように思える。イメージとしては、阿修羅や十一面観音菩薩のような感じだ。
 
そうしたなかでも限界さんの仕事ぶりは際立っていて、限界ギリギリまで働いているように見えた。実際たくさんの書籍が限界さんの介添えのもとで産み出され、そのうえ社内のいろいろな決め事に関与したり気になる書籍をチェックしたり、果てはイベントのお手伝いまでしている風だった。
 
……とはいえ限界さんも人の子。ときどき、働き過ぎて身体がギクシャクしているご様子だった。私は「人生には健康リスクを冒したり加齢リスクを冒したりしてでも戦う場面が存在する」と考えるほうだが、それでも限界をこえて働けば体調が崩れると心配するし、身体がギクシャクする兆候には敏感でなければならないとは思う。限界さん、どうか自分自身の身体兆候には敏感になって末永くご活躍ください。
 
 

限界さん、私を中年危機から引っ張りあげる

 
その限界さんと私がファーストコンタクトを果たしたのは2022年のことだった。
 
その頃の私は「自分の書きたいことを書籍化できる自信が無い」が極まっていて右往左往していた。その結果、いろいろな人に迷惑をかけたり、不慣れな小説を書いてみたりしていた。ある人は、当時の私を「シロクマさんもとうとう中年危機に陥ったみたいだね」「でも、小説を書くぐらいで済んでいるならマシなほうだよ」と評していたけれども、そのとおりだったと思う。
 
そんな私の右往左往をじっと見ている人がいた。限界さんだ。限界さんからメールをもらった頃の私は気力が乏しかったので、「まずはご挨拶を」と返信しつつも気持ちは消極的だった。自分が何を書きたいのかわからなくなっているのに、新たに編集者さんと会って何ができるというのか。
 
打ち合わせにしばしば使われる新宿の某喫茶店で、挨拶もほどほどに雑談をした。人間はどこまで動物か。人間の向かうべき未来は法人格のような「理想気体のごとき存在」なのか。ウェルベック『ある島の可能性 (河出文庫)』の面白がりどころはどのあたりか? 現代人が有性生殖生物の本能に従ってではなく、経済合理性に従って行動するのはなぜか。最終的に、人間はどこに向かおうとしているのか。
 
私の小説にも話題が及んだ。現代社会の延長線上として、妊娠・出産・性行為が国家反逆になる未来はあり得るのか。あり得るとしたら、それはどんな倫理や政治に基づいてなのか。村田沙耶香『消滅世界 (河出文庫)』のような、男性が妊娠する社会がやってくる可能性はあるか。ハラリ『ホモ・デウス 上 テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来 (河出文庫)』の3つの未来予想それぞれに、どのような説得力があり、どのような説得力の無さがあるのか。
 
結局、二時間ほど未来の話をしていたように思う。何を書けば良いのかわからないままだったが、私が未来の話をしたがっているのはよくわかった。限界さんはすべてを聞き終えてから、「熊代さんの未来の色々がひとまとまりの論説になるといいですね」とおっしゃった。まずは意見交換、そして漫画でいうネームのようなものを。結局、2022年のうちは限界さんと文通やオフ会みたいなことを続け、原稿を書くことはなかった。スタートラインよりずっと手前のやりとりが続いたけれども、それは当時の私に必要なリハビリテーションだった。
 
 

限界さんのペースに乗ったら私も限界になった

 
2023年。限界さんとの原稿のやりとりが始まった。去年、さんざん意見交換をしていたので一回目のドラフト原稿はたちまち仕上がった。が、原稿を見つめる限界さんの目は厳しい。限界さんが指摘する問題点はしばしば厄介だった。調べなおしに時間のかかりそうなもの、複数の資料や文献を見比べなければ片付かなそうなものも多い。あちこちの図書館に出向いたり、本を買って読んでは捨てるを繰り返したりして2023年の春は過ぎていった。
 
章構成もどんどん変わっていく。限界さんは、造作もないことのような口ぶりで原稿がひっくり返るような大改造手術を提案した。これ、ほとんど全編書き直しではないか? びびっている私のびびり具合を、限界さんはどのぐらい見透かしていたのだろう? 菩薩のような表情を浮かべる限界さんの胸中はまったくわからない。
 
なにくそ、どうなっても知らないぞ!
半分やけっぱちのような気持ちで、限界さんのアドバイスどおりに原稿をひっくり返し、一から書き直してみた。あれ? なんか凄いのができてきたぞ? やけっぱちで作った仮組み原稿は、元の原稿よりずっとよくできていた。まるで、はじめからこうなるよう計画されていたかのようだった。これが編集の力ってことなのか!?
 
そうやって卓球のラリーのようなやりとりを続けているうちに、私は限界さんのペースに慣れていった。限界さんは、『響け!ユーフォニアム』のなかで北宇治高校吹奏楽部を鍛え上げていく名指揮者*2のようでもあった。痛いところを指摘してくるけれども、それを直すたび、原稿の完成度が高くなっていく。しんどいのだが、ぎりぎり自分もついていける気がした。自分が何かうまいものを作っている気持ちが高まってきて、テンションがあがってきた。
 
本を作るのは、厳しいことでもあるけど楽しいことでもある。
私のなかで何かが爆発した。ひたすら原稿づくりと資料読みに夢中になった。2023年の夏頃からは、限界さんが他の仕事で忙殺されている間に未来の企画の原稿まで書き始めるようになった。books&appsさんに「50歳が近づいてきた中年の人生は、前に進むしかない「香車」のよう。 | Books&Apps」を寄稿した頃はそれが最も甚だしかった時期で、「うぉおおおん、おれは原稿を書く人間発電所だ」などと口走りながら毎日原稿を書いていた。寝るときも仕事の時もチラシの裏などにアイデアを書きまくる。持続可能かどうかはわからないけれども、確かにあの頃私は充実したひとときを過ごせていた。こないだ書いた「40代最後の全力疾走の季節」をもたらしてくれたのも、限界さんだと思う。
 
でも、限界さんのペースに乗っていると私も限界になる。books&appsさんに威勢の良い記事を届けて間もなく、私はインフルエンザにかかり、それからたいして時間を置かず風邪を引き直した。体力や免疫力の低下は明らかで、精神力が尽きる前に体力が尽きてしまった。「世界は限界さんの思うようにはできていない」。限界さんのペースに乗ると楽しい一面もあるけれども危ない一面もある──そんなことを思いながら2024年のお正月を迎えた。
 
 

限界さん、3時間おきに「チェックお願いします」の連絡をよこす

 
2024年初春。限界さんとの本づくりは最終局面を迎えていた。初校ゲラのチェックも終え、さて一安心……と思いかけたけれども、限界さんの場合、そうはいかない。SNSのメッセージやメールをとおして、「ここは変更したほうが良いですか」「こことこことここを再チェックしてください」と矢継ぎ早に連絡が舞い込んできた。1月の中~下旬になると限界さんからの連絡はますます加速し、最終的に3時間に一度ほどのペースになった。修正の期日も短くなっていく。「明日のお昼までになんとかなりませんか」と言われちゃったぞ、どうする?
 
「これが、限界さんの限界編集術か?」
 
矢継ぎ早のチェック要請のおかげで、小さなほころびが次々に修理されていく。しかし楽な作業ではない。初校ゲラが終わってからの仕事は、たぶん著者よりも編集者のほうが多いはずだ。私は自分のタスクの多さにびびってしまうと同時に、限界さんがどんな仕事状況にあるのかを想像して空恐ろしい気持ちになった。
 
 

命を大切にご活躍ください

 
そうして迎えた2月1日。ようやく、「著者サイドの作業はすべて終わりです」というお知らせを私は限界さんから受け取り、私と限界さんの本づくりの日々は終わった。
 
「限界まで働くって、変な脳汁が出るな」
 
限界さんのペースに引き込まれていた私が感じたことはこれに尽きる。アドレナリンやドーパミンをまき散らしながら本を作っている時、あらゆる文献、あらゆる資料が輝きを帯びて、着想と着想、資料と資料を縫い合わせる力が高まる。そのような本づくりを体験できたのは、著者として、いや一人の人間として幸福なことだったと私は思う。
 
ただ、そういう働き方の恐ろしさ・限界労働の深淵を覗いた気にもなった。限界さんのペース、限界さんから伝染したオーラは全身全霊で原稿に取り組むことを可能にしてくれるが、体力や精神力を持っていく。"比喩として"言わせてもらえば、私は限界さんに血を捧げていたのだと思う。あるいは自分自身の寿命を。多かれ少なかれ、創作活動にはそういった一面があると思うけれども、今回のミッションはとりわけそれを意識させるものだった。
 
これは限界さんご自身のお仕事ぶりにも当てはまる。本づくりをそこまで導いてくださったことを私は深く感謝する。と同時に、限界さんに幸多からんことを祈らずにいられない。限界さん、どうかこれからもご活躍を。でも、その限界編集術は命を削る魔術のたぐいではないでしょうか。志半ばで倒れてしまわぬよう、どうかご自愛ください。
 

 
限界さんと限界本づくりをして完成したのがこちらの本になります。よろしければお手にとってみてください。
 

*1:ご本人にも承諾いただきました

*2:滝昇

40代の終わりに、年の取り方について私が考えていること

 
残り時間がどれぐらいかわからないなかで、どう日々を過ごし、年を取っていくか。
 
1975年生まれの私は、今、40代最後の時間を過ごしている。40代のはじめのうちは、中年になったことの驚きがあり、そこに今までに無い面白さを見出していた。その驚きと面白さを言語化したのが『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』だったが、5年以上の歳月が流れ、当時の驚きと面白さは過去のものになった。老年期が始まった時に再び面白さと驚きを発見するかもしれないが、現在の私は中年期のたぶん真ん中にいて、とにかく中年をやっている。
 
そうしたなか、40代最後の時間を全力で駆け抜けてきた。寿命が縮むような橋も渡ってしまっただろう。そのかわり自分がやりたいことをやりたいように・悔いの残らないように挑戦できたのはとても良かったと思う。
 
年を取っていくスタンスには大きな個人差があり、年齢の数字にこだわらず、自然体でやっていくのが良い人もいらっしゃるのではないかと思う。私はその反対だ。学生生活の終わり、思春期の終わり、四十代の終わりといった節目を強く意識する。意識したうえで、節目の区切りまでにやっておいたほうが良さそうなこと・やっておきたいことを全力でやっていくスタイルに馴染んできた。もちろん人生の全区間を全力疾走するのは不可能なので、全力疾走するのは節目を迎える直前の1~3年程度だ。私の場合、その節目の直前にダッシュする1~3年がいつも重要で、それが人生に"革命"や"技術革新"をもたらしてきた。
 
「p_shirokumaは、人生の節目節目を『宿題』をやっつける〆切に使ってきた」、とも言い換えられるかもしれない。今までどおりに生きる数年と、これまでの生活や取り組みを見直し、次の数年を見越して全力疾走する1~3年が交代にやってくるのが私のライフスタイルだったし、それが気に入ってもいた。少なくともこれまではそれで良かった。今回もそれができて本当に良かった。
 
でも、これからはどうだろう?
 
 

全力疾走できるチャンスが次もあるとは限らない

 
繰り返すが、私は40代の終わりまで年を取った。
これは、現代社会では平均寿命よりもずっと若く、したがって、人生がまだまだ残っているようにみえる年頃かもしれない。
 
でも私はそういう風には考えない。なぜなら命は儚く脆いものだからだ。年を取れば取るほど、命の儚さ、脆さ、先の見えなさは深まっていく。命ってそういうものではなかったか?
 
生物学的に考えた場合、人間の寿命はそれほど長く品質保証されているとは思えない。もちろん、たまたま長く生きられた人は江戸時代にも古代ギリシアにもいただろう。だけどそれは幸運と強靭の賜物でしかなかったし、たとえば生殖機能などは三十代後半から急速に落ちていく。「更年期」という言葉もあるが、私にも無関係ではない。加齢によって機能が低下するのは、大脳新皮質より、テストステロンやエストロゲンといった内分泌機能のほうが先ではなかっただろうか。私の場合、更年期障害と呼べるほどの苦しみには直面していないけれども、20代や30代の身体とはだいぶ違っていると感じている。もう、若かった頃と同じように自分の身体を取り扱うことはできない。ちゃんと中年の身体にあわせたマネジメントが必要で、相応に労わらなければこの身体はすぐに壊れてしまう、と思うようになった。
 
それにがん(悪性新生物)などのリスクもある。がんのリスクファクターを回避することは可能だし、健診や人間ドックをとおして早期発見を目指すこともできる。でも、絶対にがんを防止できるわけではないし、早期発見をしたからといって、必ず治るものとも限らない。
 
だとしたら。
60代70代と年を取るにつれ、もっと身体は変わっていくはずで、もっと身体をいたわらなければならなくなるはずだ。実際、年を取るにつれ、人は健康について話題にするようになる。そもそも、いったい何歳まで自分が生きていられるかなんて、本当は誰にもわからないのである。平均寿命という言葉は平均の話でしかなく、自分自身の話ではない。その前提で自分の身体をいたわり、その前提で今を生きている自分自身を使っていかなければならないと思う。
 
だから私は、まず今を生きたいし、実際、今を生きている。
もちろん現代人のたしなみとして老後の備えは意識している。けれどもそれは老後という、実際に到来できるか不透明な事態への備えであって、さしあたって絶対確実なのは「今、私は生きていて、活動ができている」ということのほうだ。だから私は40代最後の時間をしゃにむに駆け抜けてきたし、もうちょっとだけ駆け抜けたいと思う。まだ駆け抜けられるうちに。まだ活動できるうちに。そういう活動が今できていることを幸運にも思う。明日になれば、その活動は中断を余儀なくされるかもしれない。中断を余儀なくされるのは、自分自身の健康状態のためかもしれないし、家族の健康状態、たとえば介護にまつわる諸問題のためかもしれない。そうした活動中断の事態に備えておくのも大切だが、それらを顧慮しなくて構わないうちに活動してしまうのも、同じく大切なことだと私は信じている。
 
 

「自分のために頑張る」から「そうでないどこか」に変わっていけるか

 
それからもうひとつ、いつまで自分のために今を生きるのか・自分のなしたいことに中心軸を置き続けるのか、という問題もある。
 
これは、子育てが始まった時から意識するようになったことだが、自分の成長よりも誰かの成長が喜ばしかったり、地域などへの貢献が喜ばしかったりする、そういう一面が人生にはあるなぁと思うようになってきた。私は欲深だから、自分自身の成長を捨てると割りきったわけではない。だけど、自分の成長だけが人生の楽しみではないことまでは薄々見えてきている。自分の成長・自分の成功だけがうれしいわけじゃない──人生のそういう側面にもっと光を当てられたら、景色はなお一層変わってくるんじゃないだろうか?
 
こういう可能性について見せてくれたのは、5~10歳年上の先輩精神科医の先生がただ。私は彼らを精神医学の師とみると同時に、ライフスタイルのロールモデルとみなしてきた。そうした年上の先生がたはたいてい、50代にもなれば研究の最前線からはやや退き、後進の育成や地域への貢献に多かれ少なかれ軸足を移していた。私は、そういう年上の先生がたのライフスタイルを「そういうもの」として受け取ってきたので、自分もそうであったら好ましいなと想像する。そのように生きられるかはわからないし、案外、欲深な私は自分自身の探求心にとらわれ続けるのかもしれない。だとしても、もし自分の人生の軸足を変えるとしたら、年上の先生がたのライフスタイルを参考にしたいと思う。
 
今を精一杯生きつつ、子育ても含め、少しずつ「自分のために頑張る」ではないどこかへ軸足を移していく──私にとって理想の年の取り方のイメージは、だいたいそんな感じだと思う。繰り返しになるが、それがどこまで自分に可能なのかは本当はよくわからないし、50代を迎えても60代を迎えてもそこは人生の新天地で、私は驚いたり面白がったりするのだろう。苦しむことだってあるに違いない。ただ、人生の先輩がたの足跡のおかげでノーヒントではないので、それらを参考にしながら残りの時間を生きられるだけ生きられたらいいな、と願っています。
 
 

「生だけでなく死まで管理してようやく、生政治は完成する」

 
以下に書く文章は完成度が低い。
もうしばらく調べものをしてから書き直したいと思っているものだ。
なので重要部分は有料記事エリアに格納して、壁打ちモードにしておく。
 
 
命は生誕で始まり、死によって終わる──その命がどうであるべきかは、昔から議論と実践の対象になってきた。特に近代以降は医療や福祉が発展し、その命をより良く生かすこと・より良く生きることにさまざまな努力が積み重ねられた。結果、今日では未曾有の長寿が達成され、100歳を迎えられる人が増えただけでなく、以前なら早逝していたはずの人の命も長くなった。命のマネジメントが達成した成果は決して小さくない。
 
では、その長寿なり、早逝の回避なりは一体どのように成し遂げられたのか?
自然科学的なテクノロジーに注目する人は、医学や生理学や栄養学の進歩に注目するだろうし、工学寄りの人なら公衆衛生のインフラの整備を思うかもしれない。もちろんそれらも重要だが、命を管理し、より良く人を生かすための人文社会科学的テクノロジーの役割も大きかった。
 
ちょっと大げさに言うなら、人文社会科学的な進歩は自然科学を従僕として命が管理される社会をつくりだし、より良く人を生かすための諸制度をつくりあげた。健康について啓蒙を行い、健康診断や健診といった制度をつくりあげたのは、自然科学の知識だけでなく、人文社会科学的なノウハウがあってのことだ。たとえば抗生物質の登場やワクチンの登場も重要だったが、診療録を整え、食生活や血圧をモニタリングし統計的に見据え啓蒙するシステムまわりは人文社会科学のノウハウだったと言える。
 
そうしてゆりかごから墓場までが医療化されると同時にモニタリングされマネジメントされることが当たり前の社会ができあがった。少なくとも2024年現在の日本社会とは、そのような社会である。
 
 

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