シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」が本当ならば

 
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「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」。
 
上掲リンク先は、いくつかのバイト体験を例示しつつ、人手不足のところには何かしらそうなる理由があるから働くな、それは地雷だ、といったことを教訓的に記した文章だ。文章の前のほうに「バイトだろうが正社員だろうが、これはたぶん同じだと思う」と書いてあるので、一般論として読み取るよう書かれているのだろう。
 
では、この文章を一般論として読み取っていった時、どんな展望が開けるだろうか。
 
この文章についたはてなブックマークには、同じ現象があてはまりそうな複数の例が挙げられている。また、いつも人手を募集している業種や企業に対して警戒感を持っている人が少なくないことも伺われる。
 
ところで、人手不足なのは企業だけではないし、仕事上のことだけでもない。
 
世の中を見渡せば、私生活の領域においても人手不足を訴える声が聞こえる。もちろんそうした声は「人手が足りません。うちで働いてください」といった形式をとってはいない。同好会やサークルのメンバーを募集するメッセージ、友達や相互フォロワーを募集するメッセージ、パートナーを求めるメッセージといったかたちをとっている。
 
もし、同好会やサークルのメンバーが満杯なら、もし友達や相互フォロワーが十分なら、もしパートナーが見つかっているなら、それらのメッセージは発せられなかったはずである。それか、不足していた時期にだけ発せられた、一時的な表明に過ぎなかっただろう。だとしたら、ずっとそうしたメッセージを出している側というのは、単に社会関係が不足しているだけでなく、社会関係が続かないような要素があるのではないか……と、読みを働かせる余地が生まれそうである。
 
そして訳あり求人や訳あり不動産が定点観測によって浮かび上がってくるのと同様に、いわば、訳あり個人もまた、定点観測をとおして浮かび上がってくる。少なくともそういう読み筋を働かせる余地がある……ということにならないだろうか。
 
いまどきの社会関係は、私生活の領域でも雇う側と雇われる側の関係に案外似ている:つまり、お互いの自己選択と双方の同意にもとづく限り関係が持続し、双方の同意が維持できないなら関係は持続しない。だから人がなかなか定着しない職場や企業が慢性的な人手不足に悩みやすいのと同じように、人がなかなか定着しないサークルや個人も慢性的な人手不足、言い換えれば社会関係の乏しい状態になってしまう。でもって、人が定着しやすい企業や職場が正社員やバイトを頻繁に募集しないのと同じように、人がよく定着するサークルや個人は社会関係が足りているからあまり新しいメンバーを募集したり探したりしない。
 
上掲リンク先の一般論を少し拡大して娑婆に適用すると、こんな見立てがずんずんと立ち上がってきてしまう。
 
 

なら、どうすべきだろう。

 
ここまで書いたことは、他の人が書いた一般論を借用し私が勝手に拡張してみた、キメラのような思考実験に過ぎない。が、この思考実験的な見立てが娑婆に適用できると想定したうえで、対策を考えてみたい。
 
まず常識的な対策として、いつでも募集のメッセージを出さざるを得ない側は、みずからに人が定着しないこと・離れていくことを顧みて、問題のある箇所を見つけて修正していく……という案がある。
 
表向き、これが正攻法の解決であるようにみえるが、実際にはできない場合も多い。いつも人手不足の職場が困った社員やバイトの存在を簡単にはどうにかできないのと同じように、個人も、みずからの問題を顧みて、問題のある箇所を修正できないことは多かったりする。顧みること自体が困難であることもあれば、修正することが困難な場合もある。そもそも、正攻法の解決ができる職場や土地やサークルや個人はやがて解決をとおして人手不足ではなくなり、人材市場においても、人間関係市場やパートナーシップ市場においても、じきに不可視化されていく──この考え方をそのまま思考実験していった場合、「いつまでも正攻法の解決がはかれない職場・土地・サークル・人物だけが市場で売れ残っているはずだから、ずっと市場で売れ残っているプレイヤーにはなにかしら解決困難な問題がある」という読みができてしまうことになる。
 
常識的な対策とはみられないけれども実際によく行われるのは、人が定着しないこと・離れていくことを前提とした生存戦略だ。どんどん雇用しどんどん退職していく職場などはその好例だろう。ほとんどの人が辞めざるを得ないような過酷な環境でも、たとえば賃金が高めであるとか、そういった好条件を併記すれば少なくとも人は寄ってくる。私生活の人間関係の場合も、人目を惹く長所を持った人は社会関係の維持しにくい性質がいくつかあろうとも、短い社会関係をぐるぐる回すことで一応なんとかなっていることがしばしばある。
 
対策その3。社会関係の不足をあまりにも露骨に示さないこと。社会関係の不足も深刻な問題になり得るし、深刻さの度合いが増すと余力がなくなってしまう危険性があるが、余力があるうちなら、自分の見せ方を工夫する余地があるかもしれない。ここまで書いた読みが娑婆で広く用いられているとするなら、不足を露骨に示し過ぎるのは、うまい手ではない。社会関係を求める声のボリュームやトーン。頻度には注意を払う余地があるだろう。
 
対策その4。いや、これは対策と言えるものではないかもしれないが、本当は、コネクション(コネ)がとても重要なのだと思う。冒頭リンク先についたはてなブックマークのなかに、こう書かれているものがあった。
 

しょっちゅう人手不足になるところでは働くな。

ホワイト職場でなかなか人が辞めないところでは、たまの求人は社員のコネ(悪い意味じゃなく)で埋まるので、ホワイト職場に勤めるのは難しい側面がある。

2021/12/02 10:51

 
これによれば、「人が定着しやすい職場がなかなか募集を出さず、市場において不可視化していくのは、たまの求人も社員のコネ(悪い意味じゃなく)で埋まるから」だという。社会関係においても同じく、たまの求人が当人たちのコネによって埋まっていくと考えるなら、とにもかくにもコネを大切にすること肝心、コネがコネを呼ぶという意識を持っておくべき……と考えざるを得なくなる。
 
そうだとしたら、コネというものを、つまり既存の社会関係というものをどう取り扱うべきか、無碍にして構わないものかが問われるということになる。だとしたら。
 
だとしたらだ、地縁や血縁のしがらみがなくなり、人間関係の切り貼りが意のままのようにみえるこの社会でも、結局、地縁や血縁にかわるしがらみからは自由ではなく、コネをコネたらしめる方法論、しがらみを制御するための方法論の優劣が問われる点は同じと考えざるを得ない。でもってこの社会ですら、地縁や血縁をメリットとして有している人間が若干有利になるわけだから、たとえば田舎から大都市圏に出てきたような根無し草はやや不利といえるのだろう。
 
現代社会の便益により、私たちは独りでも生きていけるような社会的体裁のもとで暮らしている。けれども、その現代社会で有利を取り、不利を避けるには、やはり人の輪に入り、コネと呼べるような社会関係を築いていくための諸力が肝心なのだと思う。もちろん昭和以前と比較すると、そうした社会関係を築く諸力の文法構造には違いがあるのだけれども、ともあれコネは大切だという印象に、「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」からスタートして着地した。
 
 

ウマ娘プリティーダービーに片思いしていた。愛されてはいなかった。つらい

 
『ウマ娘プリティーダービー』というゲームを好きになって、頑張って時間とお金を費やしてきましたが、片思いだったことが最近やっとわかってきましてね。
 

 
(ソーシャル)ゲームの世界では近頃、「環境」だの「人権」だの物騒な言葉が聞こえてくるけれども、『ウマ娘プリティーダービー』にもそのような「環境」や「人権」に位置づけられるサポートカードがある。いわば、かつての『Fate/Grand Order』でいう諸葛孔明やキャスター・アルトリアのような存在、将棋でいえば飛車角に相当する存在だ。
 
そして11月、まさにその飛車角に相当するサポートカードのひとつ、「キタサンブラック」のサポートカードピックアップガチャが到来した。
 

 
まさにこの時のためにひたすらジュエルを貯めていた!よって、これをひたすら回すことにした。回すしかない。今回さずに、いつ回す。
 
ところがジュエルを費やしてもまったく「キタサンブラック」が出ない。本命の「キタサンブラック」はもちろん、選外のSSRカードすら、100連回しても一枚も出ない。結局、このゲームに設定されている「天井」に相当する、200連まで回してもかすりもしなかった。200連を回して出てきたSSRは、セイウンスカイSSRの1枚きり。なんの成果もなかったというしかない。
 
今回に限らず、今までジュエルを溜めてまでガチャを回すたび、本命のサポートカードが出たためしがない。ビコーペガサスやスーパークリークのピックアップガチャでも、それまで忍従を重ね、そこで一気にガチャを回してもカードを引くこと自体はできなかった。実のところ、じかにガチャを回し、目当てのサポートカードを引いた記憶が春頃から無い。ならば、小手先の工夫ではなく、札束で殴る以外に道はないということか。
 
どれほど優れたソーシャルゲームでも、ガチャでSSRを引くことができない限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。然るべき場所にリソースを集中させ、人事を尽くして天命を待ったところに不要なカードの山を築いている限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。そして私とウマ娘の間柄において、ウマ娘プリティーダービーはそのように振舞い続けているのだから、ウマ娘プリティーダービーといえどもクソゲーと名指ししなければならない。
 
今回、このゲームのことが好きになってしまって自分なりに時間とお金を傾けてわかったことがある:それは、このゲームのデザインを知れば知るほど、自分の貢ぐ程度の時間やお金では遊びきれない、ということだ。有力なピックアップガチャのたびに福沢諭吉を何枚も要求せんとするゲームデザインは、私が慣れ親しんできた既知のゲームの感覚を完全に逸脱している。
 
わかってきたぞ、おれはこのゲームのレースに参加できる客ではなかった。サイゲームスの運営さんから、声が聞こえてくる気がするんですよ:「お気の毒ですが旦那様、一流トレーナーになるには、お金と時間の寄付がまるで足りないようです。」
 
それと「天井」のある本格ソーシャルゲームに初めてムキになってみて、「天井」とは、慈悲ではなく租税であるということも理解した。青天井のソーシャルゲームももちろん厄介だが、「天井」があったらあったで、これは厄介だ。
 
なるほど、「天井」があれば数万円を費やすことで必ず目当てのカードなりウマ娘なりを一単位譲り受けることができる(断じてガチャで引いた結果ではなく、譲渡の結果である)。しかし「天井」があって目当てのカードやウマ娘を譲渡され得るということは、「天井」まで回して譲渡されなければならない、ということだったのだ。
 
「天井」が設定されているゲームデザインである以上、それはプレイヤーの救済などではなく「『天井』までおまえはガチャを回すべきである」という神(=運営)のお告げだったのだ。これに気づくのが遅かったのは、大きな失敗だったと思う。
 
「天井」が設定されていて、そこまでガチャを回すことが基本指針、いや、基本単位である以上、ウマ娘というゲームは数万単位で寄進することが基本ムーブになっていると自分は解釈することにした。もちろん、リセマラからやり直すという方法や一か月980円課金+チマチマとジュエルを運営からもらって天井を意識したガチャを回すという方法もなくはない。けれどもそれはお金のかわりに大きな時間的代償を必要とするし、なんやかや言っても豪華にカードを揃えている旦那様に対抗するのは至極困難なのである。
 
かてて加えて、豪華にカードを揃えている旦那様でさえ、チャンピオンズミーティングの前ごとにきめ細かい調整を行わなければならない点では変わらない。だからこのゲームは、お金と時間、双方にゆとりのある旦那様が主な想定顧客なのだろう。
 
ここまで読んだ人のなかには、「どうして、レースに勝つことを前提にウマ娘を語っているのか」「もっと気楽に遊べばいいのに」とおっしゃる人もいるだろう。
 
確かに、そうではある。
 
けれども良くも悪くも、ウマ娘というゲームにはレースというフィーチャーが設定されていて、毎日チームレースが行われ、毎月チャンピオンズミーティングが行われ、勝利は顕彰され、栄誉とみなされているのだ。このゲームデザインで勝敗を意識しないなど、どうしてできよう。できなくもないが、ゲームデザインからいって、勝敗を意識しないほうがこの場合不自然だ。
 
そして自分の陣営のウマ娘たちに対し、どうして「勝負に負けてこい」という態度をとれるだろうか。
 
ウマ娘たちが切磋琢磨し、精一杯トレーニングしている。トレーナー側からみれば、精一杯育てたウマ娘ということでもある。おれたちの愛馬、愛するウマ娘たちがずきゅんどきゅんと走り出すゲームで、どうして負けるに任せていられよう。まして、レースというフィーチャーを敬遠することなどできようか。
 
である以上、ウマ娘というゲームを誠心誠意プレイしようと思ったときにレースを意識から逸らせるのはとても難しい。少なくとも私には難しかった。だからFGOの時よりもアグレッシブにゲームに取り組んだつもりだったけれども、そもそも自分の可処分時間と可処分ゲーム課金では太刀打ちできないのだった。
 
今後、新しい「環境」や「人権」サポートカードが来るたびにこれほど呻吟させられるか、さもなくば「天井」を前提としてシャトー・マルゴーやシャトー・ラフィットロートシルトほどの課金を求められるかするなら、やっぱりついていけない。自分は、もうちょっと時間やお金にやさしいソーシャルゲームをやるしかないのだと思う。それか、レースといった要素を気にしなくて構わないソーシャルゲームか。
 
もう、目当てのSSRの出ないガチャに苦しむのも、うちの陣営のウマ娘たちの俯き顔を見るのも、疲れてしまった。
アンインストールするしかない。
 
 
【それにつけても、ウマ娘の尊さよ】
 
そもそも、こんなことなってしまった一番の原因はウマ娘のかわいらしさ、尊さのためだ。
 
ウマ娘はみんなかわいい。わずかに気に入らないデザインのウマ娘がいないわけでもないが、それでもレース場を走っている時にはたいしたことはない。というか、多分私にとってウマ娘プリティーダービーのキャラクターデザインは至上最高といって良いほど好みなのだと思う。
 

 
特にこの人、マルゼンスキーは特別だ。マルゼンスキーはいい。昭和から平成の古語を喋ることから「まるおば」などと言われているようだが、これほど美しいおばさんはどこにもいない。私服姿がまたいい。完璧だ。固有スキルは格好良く、水着モードもはっちゃけていて良い。
 
このマルゼンスキーを筆頭に、オグリキャップも、メジロマックイーンも、ビワハヤヒデも、ツインターボも、ヒシアマゾンも、みんな格好良くかわいい。そして尊い。
 
自分は「萌え」の世代のオタクだったから、「尊い」という言葉を当てはめることに抵抗感をおぼえる。ところがウマ娘にだけは「尊い」という言葉を当てはめたくなる。決して素手で触れてはいけない宝石のような物語とキャラクターたち。このウマ娘たちにはいつまでも尊い存在であって欲しい、そんな気持ちがふつふつと沸いて来る。こういう気持ちは、たとえばFGOや艦これでは全く無かった感覚だったので、だから自分のなかではウマ娘は尊いことになっている。
 
先日、ウマ娘の運営から二次創作についてのお触れが出て、暴力、グロ、エロを戒める内容だったが、これは、少なくとも自分にはすごくわかる。私にとってウマ娘世界は尊く、その尊さを何者かに脅かされることに怖さをおぼえる。でもって、思うに、ウマ娘世界の想像力というか想像世界というかは、案外脆いような気がするのだ*1
 
ウマ娘の二次創作のお触れの主な狙いは、たくさんの人が言及しているように、サイゲームスと馬主の問題なのかもしれない。大人の世界だから、それは考えられることではある。けれどもウマ娘の想像世界を尊いと感じている自分からみると、それは暴力やグロやエロによって簡単に手折られてしまうウマ娘の尊い想像世界を守るための切なる願いのようにも思える。
 
それなら尚更、ウマ娘という宝石箱をそっと心のなかに閉まっておくべきなのかもしれない。そのほうがきっと、ウマ娘たちが尊いままでいてくれるだろうから。
 

 
それでも私は、このオグリキャップどんぶりを買ってしまうほどにウマ娘たちが好きになってしまったから、ウマ娘というゲームにも愛されたくて、けれども愛してもらえる旦那様にはなれないことに気づいてしまった。ラーメンを食べている時のオグリキャップどんぶりだけが、ぼくを裏切らない!
  
ソーシャルゲームにおいて、人間がゲームを遊戯するのでなくゲームが人間を遊戯し、人間がガチャを回すのでなくガチャが人間を回しているとは周知の事実ではある。ところがこのようにウマ娘プリティーダービーに恋慕してしまった結果、またしてもガチャにいいように回され、レースにいいように走らされてしまった。
 
2021年のゲームで一番思い出に残ったのは、文句なしにこのウマ娘プリティーダービーだ。けれどもプレイヤーとしての自分の馬力が足りず、臥薪嘗胆する強い心も足らず。ついていけなくなってしまいました。
 
 

*1:これが艦これなら、暴力、グロ、エロが混じっても想像世界はたいして揺るがない。はしたない中波絵の艦娘もいるし、彼女たちは戦争しているのだ。だからよそはよそ、うちはうちと割り切るのはたやすい

本当は途上国みたいな地球連邦政府と、その政治風土(を想像してニヤニヤする)

  


 
 
ハサウェイはタクシー運転手と戦うべきだった→ハサウェイが戦うべきはシステムだった、に関して。
 
これに対する模範解答は、『Zガンダム』の作中でハヤト・コバヤシがシャアに言った「10年20年かかっても地球連邦政府の首相になるべきです」ってやつに限る……ように見える。ハサウェイが戦うべき相手はタクシーの運転手ではなく、無制限カードを生むようなシステムで、そのシステムを変えていくには政治しかない、いやあ、確かにそのとおり。現在の議会制民主主義な日本から眺めるとそんな風にみえるし、そう見るのが正しいような気がする。
 
でも『閃光のハサウェイ』のアニメ版を見て以来、そういうアングルをかなぐり捨てて、何か違った目線でガンダムの宇宙世紀世界と地球圏について考えたい気持ちが高まっている。
 
議会制民主主義をとおしてシステムと戦っていく、そういう政治改革の(お行儀良い)姿勢って、じつは、あの宇宙世紀世界では着想困難だったりしないだろうか。Zガンダムの時代のジャミトフ准将やブレックス准将が象徴していたように、ある程度政界に馴染んだ者でも結局は武力による解決を求めてしまう、そういう政治風土が宇宙世紀ガンダムの地球圏にはあるようにみえる。思えば、ジオンダイクンが倒れてジオン公国が戦争を始めた流れもそうだし、宇宙世紀元年の出来事だってその一部だったのかもしれない。アクシズ落としに至ったシャア・アズナブルの短気っぷりと闇落ちっぷりが目立つけれども、宇宙世紀ガンダムに出てくる主要な政治プレイヤーは、だいたい短気で武断的だ。
 
となると、あの地球圏の政治風土が、実は武力や革命が絶えない、現在でいう発展途上国の、そういった政治風土のようにみえてくる。まがりなりにも民主主義に基づいて改革が施行されるアメリカやイギリスや日本ではなく、改革といえばクーデターや革命や戒厳令になってしまう、そういう途上国だ。
 
見栄えとしてはハイテクで、連邦という響きもなんだか先進的にきこえる地球連邦政府が、じつは、すごく途上国寄りの政府だと考えるのは案外楽しい。地球連邦の実現には紆余曲折があったはずで、その紆余曲折のなかで国家のありようが"いわゆる"先進国に似るより途上国に似るというのは、あってもおかしくない気がする。いや、先進国と途上国の悪いところ取りというのまである。『閃光のハサウェイ』の舞台であるダバオを見ていると、とりわけそんな気持ちになってくる。

そういう政治風土に生まれながらに漬かりきったインテリやエリートが、優秀な人物であるほど、歴史に残る人物であるほど、その改革の手段が民主主義よりもクーデター的・革命的になってしまうとしたら。でもって、ブレックスやジャミトフやシャアだけでなく、ハサウェイもおのずとその風土に感化され、その一部になってしまっているとしたら。
 
改革の試みは、その政治風土の様式をなぞらえるようにしか出現せず、政治風土そのものを打破しようとするメタ的な試みは必ず頓挫する──そういう構造のなかにハサウェイとマフティーがあって、あのような改革のようで改革でない、どこかで見たようなテロい運動をやってしまっているとしたら、彼らは泥濘のなかで一歩も進めずにもがいている、ということになる。いいね! シャアが言った「人は同じ過ちを繰り返す」とは、この場合、個人の資質の問題ではなく地球圏の政治風土という問題、まさに無制限のカードを生み出してしまうそのシステムの問題ということになる。確かに、これと闘うことこそが肝要ではある。だが、どうやってこれと戦う?
 
まるでそれは、アメリカの有力者がアメリカの政治風土そのものと闘うということ、日本の有力者が日本の政治風土そのものと闘うということのようだ。転じて、日本が外圧によって政治風土を強制的に変更されてきたように、地球圏もまた、内輪もめではなく外圧によってなら変わり得るのかもしれない。ここでいう外圧とは、もちろん同じ地球圏の者同士では駄目で、つまり宇宙人の襲来、ということになるが。しかし実際には地球圏に宇宙人が襲来することはなく、だんだん地球圏は駄目になっていく。そういう悲しい物語として宇宙世紀ガンダム全体の年表など眺めていると、砂をかむような思いがして、ワクワクしてこないでしょうか。私はします。
 
 

もう一枚メタに構えてみるならば

 
さらにもう一枚メタに構えるなら、ガンダムが活躍するような状況、つまり戦乱を必要としている宇宙世紀の物語構造そのものがハサウェイの戦うべき敵で、行き着く先は、繰り返し戦乱の物語を綴らずにいられないガンダムの版元こそが無制限のカードを生む構造ではある。戦乱を生むような政治風土をなにより必要としているのは、ガンダムの物語にお金とアテンションを支払い続ける我々ファンなのである! ということはだ、ハサウェイが戦うべきは、討つべきは、我々ファンではないだろうか。 「アニメじゃないんだよ!」
 
つまらないものを書いてしまいました。
  
いやしかし、しかし宇宙世紀ガンダムを愛する者の過半数は、ああいった政治風土の泥濘が本当は好きで好きでたまらないと思い、寝不足の頭がつむぎ出したこの文章が誰かに届くようにと祈りつつ投稿した。
 
 

 

子どもがいてもいなくても、世界について考えるのは難しくなってると思う。

  
ta-nishi.hatenablog.com
 
リンク先の文章は、子どもを持たない大人が増えることで自分の代までしか考えない人も増え、世界の持続可能性が危機にさらされるのではないか、といった趣旨だ。「私の死んだ後のことなんかどうでもいい」と皆が考えるようになり、後々の世界に思いを馳せなくなったら、世界の持続可能性は怪しくなるだろう。欧米を中心に若い人たちが世界の持続可能性について大きな声をあげ、その槍玉に挙げられているのがそのような大人たちであることを思い出したりした。
 
 

 
でもって、リンク先の筆者は「セカイ」というサブカルチャーの語彙を使って、そうした大人たちの世界観が自分を中心とした狭い範囲にとどまっていること、ために未来を志向しない自己中心的な死生観を持っていることを指摘している。親になる人が減るぶん、死後の未来について考える人も減るというのは、まあ、そうかもしれない。少なくとも人の親になり、まっとうに親を引き受けている人なら、子どもの代の未来まで考える動機が発生するからだ。
 
他方、それだけでもあるまいと思ったりもする。
 
なぜなら、人の親になるかならないかが世界の捉え方を全部決めてしまうわけではないからだ。たとえば輪廻をベースとした宗教を信じている人や、一族の先祖供養を行っている人、連綿と続く地域の葬祭行事に加わり続けている人などは、人の親になるかならないかに関わらず、自分が死んでも世界が続く世界観・死生観を生きている可能性は高い。自分の子どもという具体性の塊のような未来に比べると、これらは抽象的で、共同幻想に類するものではあるのだけれど、太古の葬祭の痕跡などが示しているように、案外そのようにできあがった世界観で生きていける・生きてしまうのが人間であるように思う。
 
なので、冒頭リンク先の主題であろう「自分の代のことしか考えない大人の増加」とは、(養子縁組も含めた)子育てに参加するしないの問題に加えて、過去から未来へとつらなるような世界を生きていない人が増えていること、死生観や世界観がそのように変わってしまっていることが大きいと私なら思う。で、冒頭リンク先の筆者が「(セカイ系に由来しているらしき)セカイ」という語彙をわざわざ選んでいるのも、そうした死生観や世界観も問題の一端であることを意識してのものだろう。
 
なら、そうした今しかない死生観や世界観が台頭し、過去から未来へと連なるような死生観や世界観が尻すぼみになっているのは何故なのか。
 
ここまでの話から、宗教の衰退や、イエ制度などと深くかかわりを持ってきた盆暮れ正月といった行事の衰退や形骸化を挙げることはたやすいし、実際、既存宗教はすごい勢いで衰退してもいる。それらが死生観や世界観に与える影響は無視できるものではないので、宗教の衰退や形骸化を、生涯未婚率の上昇と並ぶ「自分の代のことしか考えない大人の増加」の理由として挙げるのは簡単ではある。
 
でも私には、その既存宗教の衰退や形骸化も原因ではなく結果であるよう思えてならない。既存宗教が衰退したり形骸化したりしたのは、むしろ、そのような宗教と相性の良い死生観や世界観を持てない環境ができあがってしまったからのようにみえてしまう。
 
既存宗教と相性の良い死生観や世界観が持てない環境とは、どういったものなのか。
ちょっと切り口が異なるかもしれないが、アーカイブで一番これに近いことを書いたのは以下のブログ記事のものだ。 
 
blog.tinect.jp
 
「老害製造装置」というタイトルがついてしまっているが、要旨としては、いまどきの生活環境では他人とコミュニケーションする必要がないし、それは団塊世代あたりから日本人が望んできたことだ、といったことが書いてある。
 
戦後からこのかた、日本人の生活空間はイエ的で集団的なものから、個人的でプライバシーのあるものへと変わってきた。同じく、日本人の生活時間もまた、家族や同郷集団と長い時間を過ごすものから、一人で過ごす時間の長いものへ、個人それぞれのスケジュールに従うものへと変わってきた。これらの変化が日本人の意識を、あるいは社会病理性の内実をも変えていったことは想像にかたくない。
 
日本人の意識も生活実態も、血縁集団や地縁集団といった単位からは離れていき、核家族や個人といった単位に基づいたものに変わっていった。もちろんこれは人々の意識だけが変わっていったのではなく、家屋や街並みといったアーキテクチャも平行して変わっていったこと、働き方や余暇の過ごし方が変わっていったこと、ウォークマンやスマホの普及といったエンタメが変わっていったなどととも、全部つながりあった変化とみるべきなのだろう。
 
なんにせよそうやって個人化が総合的に進んだ結果、いわゆるゲマインシャフト的なものが暮らしの時空間から排斥され、旧来の宗教観がそのままアプライできる状況が珍しくなり、「自分の代のことしか考えない大人の増加」に親和的な死生観や世界観がアプライできる状況が一般的になった。
 
想像してみて欲しい。アパートやマンションの自室で365日を過ごし、親世代や子世代とのコミュニケーションにも煩わされず、自分のやりたい仕事や趣味や人間関係にすべてを費やし、スケジュールも全部自分で決められる──そういう個人生活のなかで、過去から未来へと連なるような死生観や世界観を持つのは結構アクロバティックなことではないだろうか。
 
そういう個人でも、子育てをしているうちはそうした死生観や世界観を持っていられるかもしれない。しかし子育てをしなければそうした死生観や世界観を持つことは難しいし、たかだか20年かそこらの子育て期間を終え、親子が別々に暮らすような核家族的環境(または単身世帯的環境)に戻ってしまえば、やっぱりそのような死生観や世界観を維持するのは難しくなってしまう。
 
冒頭リンク先でid:Ta-nishiさんは、
 

このまま非婚率が天井知らずに上昇を続け、非婚者がマジョリティとなり、「私が死んだ後のことなんかどうでもいい」という「無敵の人」が多数派を占めるようになった未来が訪れたとして、そのときこの世界のサステナビリティはどうなってしまうのだろうか?

と締めくくっておられるが、思うに、少子化がここまで進行してしまう前の段階で(世界の、というより現在の日本国の、と訂正はしておくけど)サステナビリティは維持できなくなっていたように思える。つまり死生観や世界観の変化も、少子化も、全部ひっくるめての話として、ある程度以上にきわまった社会契約的-個人主義的社会はサステナビリティにもともと問題を抱えていて、たとえばアメリカが移民を集めたり、東京が田舎者を集めたりするように、外部からの人口流入をあてにできなければ成立しないもののように思えてならない。
 
最近、この、サステナビリティという言葉がほうぼうで使われているけれども、国や都市によってサステナビリティのための課題は結構違っていて、たとえばニューヨークのような街はどれほど社会契約的-個人主義的社会を突き詰めようとも人口流入があれば街そのもののサステナビリティに問題はない。ニューヨークは、地球温暖化さえ回避できれば持続可能な街にみえる。
 
一方、東京や大阪のような東アジアの街はニューヨークほどには人口流入をあてにできないし、移民制度を正当化するポリティカルコレクトネスも含めた人文科学上の建付けも甘いので、地球温暖化を回避しただけでは持続可能ではない。まして、日本の町村部ともなるとサステナビリティなど午睡の夢、地域社会が丸ごと山林に沈もうとしている。
 
最後に話が脱線した。が、こんな具合に私は、今の日本の生活環境で暮らしている限り、子どもがいてもいなくても世界について考えるのは結構難しいとみているし、自分自身を顧みても、どこまで考えているといえるのか、疑わずにいられなくなる。
 
この、高度に個人化され、他人と深く付き合うことなく暮らせてしまえる社会のなかで、それでも過去や未来に連なる想像力を持てる人というのは、逆にどうやってそういう想像力を涵養しているのだろうか? あるいは、どういう想像力を持ったことをもって過去や未来に連なる想像力が持てていると定義して構わないのだろうか?
 
そのあたりが今の私にはなんだかよくわからない。たとえば地球温暖化についてニュースで見て、再生可能エネルギーを重視する企業の商品を買うよう心がける人がいるとして、それでもって過去や未来に連なる想像力を持てている人だと言って構わないものなのだろうか?
 
地球環境というマクロな視点を除外するなら、お盆や彼岸のたびに先祖の御霊をお迎えしているような、そういう生活環境で暮らしているのと比較すれば、私たちが過去や未来を肌で感じる機会と動機、いや、導線は少なくなっていると私は思わずにいられない。うまくわかってもらえるかわからないけれども、本当は、私は死生観や世界観を規定する第一要因はアーキテクチャとしての社会環境だと思っていて、宗教は、その後ろから追いかけてくるもの(またはアーキテクチャに沿って盛衰するもの)だとか思っている。死生観や世界観が変わるとしたら、それは第一にアーキテクチャが変わる時じゃあないだろうか。
 
長文になってしまったので今日はこのへんで。SNSが世界じゅうを繋ぐようになったからって、世界について考えるのが簡単になっているようには思えない。
 

ブログと過ごした10年で、変わらなかったこと・変わってしまったこと

 
最近ブログを書く気持ちになれなくて、二週間近く放置してしていた。こんな時は誰かが与えてくれるお題に沿ってみるのがいいのかなと思い、【はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」】にかこつけ、この10年で変わらなかったこと・変わってしまったことについて書いてみる。
 
 
こと「書く」という点では、私にとってこの10年は、ブログと書籍を書き続けた10年だった。
 

何者かになりたい

何者かになりたい

Amazon
 
最初の書籍『ロスジェネ心理学』が出版されたのがちょうど10年前の2011年で、最新の書籍『何者かになりたい』が出版されたのが2021年。気が付けば書籍の数は7冊になり、今も書籍づくりに執念を燃やしている。書籍づくりは辛いこともあるけれども楽しいこともあって、そういう点ではブログと共通点もある。ただ、全体のサイズがブログより大がかりなので量産できないし、商業出版上の制約がないわけでもない。
 
だからこの10年の前半には、「書籍づくりは不自由なところが多くて、ブログのほうが自由にものが書ける」という気持ちだった。
 
ところがこの10年の後半、特に2018年頃からは「ブログで自由にものが書けるってのは本当なのか?」と考えてしまうようになった。正確には「ブログで自由にものが書けないわけではないが、その反動・その代償は速やかなので、実際には難しい」と言い直すべきか。
 
今でも自由奔放にブログを書いている人はたくさんいらっしゃる。けれどもこの10年間でネットの風向きは結構変わり、ネット全体でブログが占めているポジションも変わった。そうした変化に加えて、私自身も変わっていった結果、私にとってこのブログこそが一番自由なメディアと言えなくなってしまった。
 
今、私にとって一番自由なメディアは、ぐるっと回って書籍かもしれない。たとえば以下の書籍は限りなく自由に書かせていただいた。
  
もちろん書籍にはさまざまな制約があり、不自由ではある。けれどもその不自由さの多くは構成や、(商業出版としての)企画や、文体に由来した不自由さで、その不自由さをフォーマットとみなしてしまった向こう側には、自分の考えや知見や願望を真っすぐ投げ込める境地が広がっている。文字数もブログよりずっと多い。ひとつのテーマにたくさんの言葉を費やせるし、たくさんの言葉の制御を編集者さんが手伝ってくれる。
 
客観的に考えるなら、依然としてブログのほうが書籍より自由で、もちろんSNSより自由だろう。そのことはわかっている。それでも今の私には、やっぱりブログを書くことに不自由な感覚が伴う。不自由だと感じるから、たとえば書籍づくりの憂さ晴らしの場としてブログが機能していないとも感じる。今の私は、息抜きとして上手にブログを使えていない。
 
……じゃあブログを悪く言えるか、やめられるのかといったら、それも違う。
 
私がこうして書き続けていられる土台には、はてなダイアリー/はてなブログの恩恵がある。ものを書く基礎トレーニングになったのは間違いないし、今の交友関係があるのも、出版までの導火線をいただいたのもブログのおかげだ。それらの土台のうえに今の(ぜいたくな)悩みがあることを忘れるわけにはいかない。それに、なんだかんだ言って1000~6000字の文字数のメディアには、それ独自の取り回しの良さもある。書籍、ブログ、SNSなどを、つべこべ言わずに用途や気分によって使い分けていくのがたぶん最適なのだろうとも思う。
 
 

ただ、体力の低下はどうしようもない。

 
それともうひとつ。
私の場合、この10年間、書くことに対する意欲はあまり変化しなかった。10年前も書くことが好きで、今も書くことが好きだ。たぶん世の中の99.9%ぐらいの人と比較しても、私は文章を書くことそのものが好きなのだと最近やっと認められるようになった。
 
ところが文章を書いていられる時間、文字数には限界がみえるようになってきた。10年前は、一日の総アウトプット量が10000字を越えることも珍しくなかったけれども、今はブログで5000字、商用原稿で3000字を越えることはまずない。そうなった一因は「書きっぱなし」が減って「推敲したり書き直したりすること」が増えたせいもあるけれど、体力の低下が主因だと思う。
 

 
以前、腱鞘炎やってひどい目に遭ったので、職場や自宅のキーボードはREALFORCEに買い替えた。それでもたくさん打ち過ぎないよう、結構気を付けている。それと、真夜中や早朝にガバリと起きて書きまくることも今はない。それをやれば確かに筆が進むのだけど、翌日以降が辛くなってしまうからだ。四十代の書き手にとって、発作的に文章を書く仕草はサステナビリティの面で問題がある。
 
それと、本業が忙しい日に全く文章を打たない……というより打てない日も増えた。10年前は、何がなんでも365日休みなく文章を書いていて、友人の結婚式の往復中もブログを書いているほどだったけれども、最近は、飛行機や新幹線のなかで目をつむっていることが多い。10年前より筋トレやジョギングの量は増えているにもかかわらずだ。このあたりはもう、どうしようもない。
 
自分は、ゆっくりと書けなくなっていくのだろうと思う。
 
「60代になっても活躍している書き手がいる」とおっしゃる人もいるだろう。けれども私が眺めるに、その60代になっても活躍しているとされる書き手のうち、本当の意味で現役と言える人はそれほど多くない。晩節を汚す書き手、時代や世間の変化についていけず厳しい評価に曝されている書き手もたくさんいる。自分より年上の書き手の後姿を見ていると、書けなくなっていくという事態にどう身を処すべきか、真剣に考えたくもなる。躓き、転び、泥だらけになってもなお書き続ける年上の書き手をロールモデルとするのは難しい。
 
こうやって考えると、あと10年足らずかもしれない現役期間中に何を書くのか、真剣に考え、取捨選択しなければならないのだと思う。競走馬が何歳になっても現役でいられるわけでないのと同じ道理で、書き手だって何歳になっても現役でいられるわけがない。だから1年1年にかけがえのない重みがあるとも言える。
 
振り返っている暇はない。
なるべく悔いを残さないよう、ブログも書籍も書きたいことを書きたいようにやっていきたいと思う。